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第6章 『誰が星の王子さまを殺したのか』

『誰が星の王子さまを殺したのか』(明石書店、2014)の書評文


 同書を最初に読んだのはだいたい半年前です。
 同書を読んでから私はかなり日常生活に変化がありました。
 「不安」と云うものは可視化されないと「不安」になりますが、実態がわかるようになると、対処が可能です。半年前も今も体調はあまりよくありませんが、少なくとも精神的な「不安」はだいぶ減りました。
 その意味では、同書はそう云う「不安」の正体を明らかにしたと云えます。
 同書を手に取るまで、私はサン・テグジュペリの『星の王子さま』にあまり興味がありませんでした。もちろん、一度読んだことがあるのですが、内容がイマイチよくわからず、何が名作なのかさっぱりわかりませんでした。主人公の王子は何がしたいのか、なぜバラに執心したのか、羊の絵をなぜ王子はせがんだのか、なぜ支離滅裂な主張を登場人物たちはするのか、「目に見えないものは大切なんだ」と云う陳腐すぎるキツネの言葉がなぜ名言なのか。
 しかし、同書の主要なテーマである「コミュニケーション」と「ハラスメント」の関係でみると、そう云う意味なのかと理解できました。
 同時に、名作は多彩な視点で語れるからこそ、名作なのだなと云うことにも気づかされました。文学とは、かような厚みのあるメッセージを持っているのかと思いました。優れたテキストからは多彩な思想を引き出すことができることを証明したとも云えます。

 私が同書を読んだあと、読む視点を変えたのが、三浦綾子です。私は大学時代に、三浦綾子の文学作品を伝道していると云う人の説教を聞き、大学の先生でも三浦の代表作『塩狩峠』を読んで感動したと語っていました。三浦は昭和を代表する女性の小説家で、戦時中は皇国思想を信奉し、教師を行なっていましたが、敗戦後、ノイローゼになり、自殺未遂を行ない、脊椎カリエスを発症し、人生に自暴自棄になるも、キリスト教に出会い、改心し、作家となり、ヒューマニズムな文学を描いたとされています。

 三浦の代表作『塩狩峠』は明治時代の北海道の鉄道技師の主人公・永野信夫が結婚式を事前に控えているにも関わらず、暴走する列車に我が身を投げ出し、自分の命を犠牲にして乗客を救った話です。主人公の永野はクリスチャンで、周囲の人間に献身的に仕えたことで、いかにも作者である三浦のキリスト教的な思想を体現した人物とされています。
 しかし、いざ三浦の作品を読んでみると、なぜかよくわからない違和感を覚えました。その違和感のせいで、学生時代は読むの途中でやめてしまいました。
 大学を卒業後、改めて三浦の作品を読んでみると、私が感じていた違和感の正体がわかりました。
 『塩狩峠』に描かれているのはキリスト教の世界観ではなく、「軍国美談」ー安冨さん風に云えば、「靖国イデオロギー」ーに極めて近いものが描かれていると云うことに気づきました。
 同作では、主人公の永野の幼少期からその死の瞬間までを描いているのですが、彼の人生は暴力にあふれていました。江戸に住む武士の家に生まれながらも、母がキリスト教徒だったので、父方の祖母から毛嫌いされ、母から引き離され、いざ母と会うと、祖母は発狂して亡くなります。永野は祖母から武士の人間として生きるように仕込まれながらも、父からは福沢諭吉に代表されるような明治の思想を叩き込まれます。永野は近所の商人のこどもとケンカしたさいに、武士のこどもは商人のような身分の低い人間と違うのだと祖母から云われ、そのとおりにしたにも関わらず、父から「天は人の上に人をつくらず」と云う明治の流れに反すると云うことで、暴力を受けます。その後、永野の父は亡くなり、経済的な理由で学業を続けられず、東京から北海道に向かい、鉄道会社の職員になります。
 作中の永野は無私の高潔な人物として描かれていますが、その姿にどこか違和感がありました。彼の言動がどうもマゾヒスティックであり、化け物じみていて、過激で、現実の人間とは思えませんでした。
 鉄道員となった永野は、勤勉にかつ献身的に仕事を行ないます。あるとき、永野の同僚が横領を行ない解雇されそうになります。それを聞いた永野はその同僚とともに、上司宅へ向かい、土下座までして許しを請います。その同僚は永野があまりにもマジメで、性的にも淡白な人物で、なおかつキリスト教徒だったので、不信感を抱きます。
 そんな永野が暴走する列車を命を捨てて止めると、その同僚は改心して、キリスト教徒になります。永野の自己犠牲的な行動は称賛を浴び、彼の周りにいた人たちはキリスト教に改宗するようになります。しかし、友人や家族、結婚相手は永野の死を悲しむところで、物語は終わります。
 三浦がこの作品で描きたかったのは、「自己犠牲の素晴らしさ」ではなく、そう云う「誰かの犠牲に依存しないといけなかった世界」ではないかと思います。実は、「自己犠牲の素晴らしさ」を説いていたのは、戦前の皇国史観や靖国イデオロギーも同様でした。中国思想の研究者・小島毅さんは『靖国史観』で、皇国史観では天皇のために戦死することが「大義」であり、その「大義」のために死んだ人々を「英霊」とよんだことを指摘しています。そんな「英霊」となった人々を称える物語を「軍国美談」と云い、戦前の教科・修身ではそのようなお話を児童に教えていました。他にも、書籍や紙芝居、映画など一般に流布されていました。 

 作家の佐藤優さんは「思想的な自己犠牲」を受け入れると、他人の命を奪うことに抵抗がなくなると指摘しています。佐藤さんは戦前の京大の哲学者・田辺辺が戦前に行なった講義録『歴史的現実』がそう云う「思想的な自己犠牲」を正当化する理論を学生に吹き込み、学生たちを戦地へ向かわせたと述べています。


 三浦は大正生まれの人間で、当然戦前の皇国史観に基づいた教育を受け、戦時中は教師として日本の勝利を疑わなかったぐらいのめり込みながらも、敗戦で裏切られたと感じ、辞職して自殺未遂をするまで追い詰められています。そんな人物が単純に「自己犠牲が素晴らしい」と云う話を書くとは思えません。むしろ、そう云う「犠牲」とはどのように生まれるのかを描いている、と云えます。ある意味では、非常にねじれた構造を持った作品と云えます。
 永野は一歩間違えると、とんでもない人間になる可能性があったと云えます。ある意味では、自己犠牲的な死を自ら選んだことで、英雄になったと云えます。永野は極めてハラスメント的な環境で育ちながらも、それをキリスト教の信仰や愛ーあるいは日本人にもっとも馴染みがある表現で云うなら「根性」でー乗り越えようとしたと云えます。それはある面ではキリスト教の自己犠牲的な悲劇にもみえて、侍の切腹のようなアナクロニズム的な喜劇にもみえます。

 安冨さんはサン・テグジュペリは意識の面では「こどもの魂を守ること」をつかみそこなったが、無意識の面ではそれを文学で表現することができた、と述べ、『星の王子さま』の持っている二面的な構造を指摘しています。
 優れた文学作品は内部に矛盾を抱えているとも云えます。いろいろな解釈を読者ができるからこそ、「名作」と云えるのかもしれません。
 安冨さんは『星の王子さま』を「バラと王子のいびつな関係に基づいたモラル・ハラスメントの世界」と解釈しました。そんなモラル・ハラスメント的な世界から抜け出すための象徴としての「羊」について解釈しましたが、さらにその先を進んで思索をしたのが社会学者の宮台真司さんかもしれません。



 宮台さんが批判している男性はなんとなく、安冨さんが分析した王子の成長した姿のようにも思えます。

 宮台さんもやはり「羊」のような「外力」が必要だと述べています。


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吉成学人(よしなりがくじん)
最近、熱いですね。

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