学んだことは休ませる。でも良い。
わたしが小学校低学年の頃、朝一の授業の終わりに唱えていた詩です。
最近、この「学んだことを休ませる」が、実は考えを深めるうえでも応用できるし、大事かもしれない、と思ったのでいったん記録しておこうと。
考える、とは。
本題に入る前に、考える、という行為について少し書ければと思います。
考える、にも色々な意味がありますが、
ここでは広辞苑より下記について。
わかったような、わからないような気もしますが、思考をめぐらすとは、まずは自分の思い・感情に気づくこと、そして、それらに色々と問いかけてその正体を明らかにしていくことだと思っています。
例えば、なんだか嫌だな、と思うことがあったとき。それはいったい何か、なぜそう思うのか、どうしたら解消・改善できるのか……という具合に、まさに自問自答を丁寧にしていくのです。
余談ですが、いわゆる深く、とか広く考えるには、この問いかけの角度・精度が鍵になってくるかと思います。
必要なタイミングで芽が出る
さて、「休ませる」ことによって、この「考える」ことを避ける・逃げていいと思っているわけではありません。ただ、一見相反する「問いかけ続ける」と「休ませる」は、どちらも実は「考える」行為だし、大事なのでは、と。
意識的に「考える」のが自問自答だとすると、無意識的に「考える」のが、この「休ませる」ことにあたるのかもしれません。
ある考えに至るまでには、今学んだ目の前のことだけではなく、生まれてから今までのさまざまな経験(意識的・無意識的)の積み重ねがあります。なので、今頭で自問自答するだけでは、目的地に瞬時には辿り着けないことも多分にあるかと思います。あるいは、自分のことだからこそ自問自答の精度が上がらない時もあります。
でも、たとえばお散歩中に、ふと考えがまとまって、思考が深まったりすることが結構あったりで。だから、そういうゆとりがあってもいいし、実はそれが結構大事だったりするのかもしれないな、と。
……この考えに至ったのは、休ませた結果なのかこれから休ませる必要があるのかわからないので、いったん休ませようと思います。
ちなみに、またまた余談ですが、当時のわたしは詩を唱えながら、「わたしのなかに目を出して」とはえらい不気味だなぁ……と思っていました。
でも視野が広がるから(物理的に)、それでもみえるなら存外それもいいのかもしれない。
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