自分が思うほど人は自分を気にしていない“妄想・反芻思考の矯正”
「もしかしたら作業遅いかな…」
「タイピングうるさすぎたかな…」
「今イライラしていてこちらに対して不快感を持っているのかな…」
話しかけてみると、いつも通りの様子で受け答えが返ってくる。
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大体が考えすぎと思い込みと決めつけ。
(近頃耳にするHSP同士だと、お互いに想像を働かせすぎるところがあってまた対応の塩梅が少し変わるかなと…働きながら感じている。)
そうでなくとも相手が直接こちらに言ってこない限りは、自分が想像を働かせたり感じていないことにすればその事実はない。
事実があったとしてもこちらは受け取っていないことになる。
ただ(相手の中に)事実があったのならば相手の気持ちを考えられていない少し空気の読めない?人?ではあるとも言える。
そのように空気が読めていないというか気遣いが回せないのは考えものかもしれないけど、
回しすぎは関係性と事実をどんどんこじらせていく。というのは間違いない。
(被害)"妄想"や"むやみな想像"
はできるだけなくしたほうが、半分断定的に言えるほどに生きやすい。
鈍感力、ゆるふわ、無心忘却に勝るものはけっこうない。と感じる。
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とはいっても《クセになっている人はどうすればいいのか》
「ひまな時間」が原因と言われると少しひっかかるものがある。
簡単にまとめてしまえばそうなのかもしれないけど、
「ひまな時間をなくす」<「今に集中する」の考え方が行動に落としやすい。
それでも上手く再現できなかったりなんらかの作業中でなかったりする人は、"ある一つの音に集中"すると 無の感覚 を鍛えられる。
身近で実践しやすいのが換気扇の音。
外の車や鳥の音もいいけれど、テンポや音量が安定しないため集中しにくいと感じる。
一定の音を排出してくれる換気扇はやり始めにはうってつけである。
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妄想・反芻の削ぎ落としは
仏教の教え「反応しない練習」にも精通する。
対ひとでなく、自分ひとりの中で将来を悲観したり不快な過去を思い出して苦しむことがある。
これも「妄想」の一つ。
人と関わる中で要らない想像を膨らませたり、相手の脳内へ考えを馳せはじめたらそれも「妄想」。
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人との関係の中で"想像力"は求められる。
道徳の時間でも習ってきた。
けれどある程度培われたなら、場合に応じて手放す力も養いたい。
(というかなぜそれを教えてくれなかったのだろう)
生きとし生ける人すべてに心があるから、気持ちを考えることは協調・調和の取れた日常を送る上でおそらく超大事である。
(気持ちを考えるを第一に置くのではなくて、適時適所に気持ちを考え"られる"が大事なのかなとおもったり…たり)
自分のキャパ ー 人の気持ちを汲むの程度(比率)。
そのバランスが相当にむずかしいのだけれど。
(日によって起こること.各人若干の気分.関わりの人数.等々が違うし…(だからこそ色んな日がありたのしいと面白がれるとイイですね))
『訓練』ですね。
人生は修行(考え方はそれぞれですが)、これも修行のうちですものね。
(*'▽'*)