SNSとの付き合い方
私はスマホ依存症である。
何度も脱却しようと試みたが、成功した試しがない。
以下、今まで実践した脱却法である。
①アプリのアンストール
すぐに開かないようにTwitterのアプリをアンストールしてみたが、見たい人のユーザー名を暗記しているためブラウザから検索をかけてしまい失敗。
②毎日履歴を全消去する
履歴からすぐ飛べるようにしていたため手間をかけようという作戦だが、そのひと手間など足元にも及ばず失敗。
③一日の見る回数を制限する
そもそもユーザー名を暗記するようなネトスト紛いの私が何回なんて無謀な作戦であった、失敗。
このようにかなり強い意志を持って挑まない限り、どんな方法を試してSNSをやめられない。
生活にSNSがこびりついていてなかなか脱却できないのだ。
わたしがなぜこんなに依存しているのか?
確信していることが2つある。
1つ目は、嫉妬している対象がはっきりしているから
これは怖い話なのだが、私は好きだった人のTwitterのアカウントを知っている。幸運か、不運か、鍵はかかっていない。
ひどい時はリプ欄をチェックし関わった女の子のアカウントまで飛ぶようなこともあった。
わたしに返信をしない一日中、君はSNSを何度も更新しているな。
今日は誰にご飯を作ってあげたんだろうか、これは女の子の家にあるようなお皿だな。
恋に似た執着は、SNSでその力を存分に発揮する。
引くほどの探偵バリの調査能力である。
2つ目は、嫉妬の対象と自分を比較して向上心煽っているから。
自ら勝手に傷つくことに慣れているのだ。
自分と相手の一部の人生を比較して、こうなれたらな...と憧れる。
しかし、この結果が向上心に繋がるのはごく僅かで、だいたいはそれに対して私の人生は。と傷ついてしまう。
Twitterにあげられている人生はその人のごく一部。
その人の背景や、いま抱えている悩みがあるのかもしれない。それは私たちには見えないもの。
そうは分かっていても、“キラキラする一面が存在している”という事実は変わらない。その過去の事実に嫉妬する。
自分の人生と向き合うことが必要
他人にいくら嫉妬をしても憧れても、自分の生活は続く。
自分の人生にキラキラに相当することが起きることだってある。
自分の幸せは相手と比較するべきではない。
ずっと残っている自己肯定感の低さや、自信のなさはSNSによってそれを加速させる。
こんなことがあったけど、あの人に比べたらまだまだだなー。とか思ったりする。
幸福の定義や、勝ち負けの真偽は他人に影響されるべきではない。
その人も誰かに認められたいからそうやっているのかもしれない、と思うと少しは気が楽になる。
“比較するのは時間の無駄だからやめよう”とか、“自分の人生に目を向けよう”とかよく言われるけど、簡単に言わないでほしい、無理。
意欲はある、がスパッとやめられるわけではない。
だから、少しずつ。まずは自分を認めることにした。
SNSを見て落ち込んでしまう自分
嬉しい時に素直に喜べない自分
悲しい時は深く傷ついてしまう自分
遠回りに生きてきた自分も、全て認めたい。
今までの私も、今の私も、これからの私も全てを肯定する!
そして、嫉妬の対象のあなたも全てを肯定する!
全てを認めて肯定して少しずつ進めば、私はきっともっと自由気ままに生きてゆける!
そう信じることにする。
だからみーんな大丈夫。
一人ぼっちのあなたも、SNSに左右されて今日が悲しい夜になりませんように。