「何かになりたい」中村文則さんの本から。
中村文則さんの、「何もかも憂鬱な夜に」という本の中で見つけた言葉。
本を読んでいて、沢山の好きな言葉を見つけてきた。でも、「自分の中に入り込んだ」と感じた言葉は初めてだった。
本を通して出会うのは『言葉』か、『人』か。
読書界隈で『言葉と出会う』という表現をする人がいるけど、私にはあまりその感覚がないみたいで、
どちらかというと、本の中の言葉を通して『人と出会っている』という感覚になる。
『人と出会っている』という、『人』は著者や登場人物のこと。一方的ではあるけれど、本を読む事で、その文章を書いた人と出会っている気がする。
『人』が登場人物を指す場合は、よほどその登場人物に自分を被せているか、感情移入し切っているときかな。
読書してる時は、本当にその登場人物が実在する人だと思っている自分がいて、『その人』と出会った感覚になる。
元々すごく現実的なタイプで、エンターテイメント要素がない人間だから、何かに夢中になっても現実との境目は常にくっきりと分かれているんだけど、なぜか読書中だけはその線が薄くなるみたいで不思議
『何かになりたい』
私がこの文章でしっくりきたのは、『何かになりたい』という部分では無くて、
『そうすれば、自分は自分として、そういう自信の中で、自分を保って生きていける。』
という部分だった。
何か特別なものになりたい訳ではない。
偉い人や、有名人になりたいわけでは無くて、
ただ、自分が自分として、『自分のことを定義できる何か』が欲しい。
そうすれば少なくとも、自分の存在を言語化できるというか、自分の中での肩書きができる気がするのだ。
自分の、世界にとっての存在価値。
人の命を救うとか、ケニアに学校を作るとか、そんな立派なことではなくて、
世界から「存在してくれてありがとう」と思われたいのでは無くて、
ただ、世界から「存在していていいよ」と言われたいだけ。
そんな事言われないのは分かっているんだけど、なんと無く、「何か」として定義された存在になれば、重要じゃ無くても、世界の一員でいられる気がする。
そうすれば、その「何か」としての自分に、自分としての自信を持って生きれる気がする。
今はまだ、仮の姿なだけ。
この中村文則さんの文章、そのあとは
と続くんだけど、実はここも結構重たい文章だと思っていて。
この主人公みたいな人は、結局「何か」になれることは無いんじゃないかな、と思う。
『漠然とした未来の、希望的な自分像』を想像することで、今の不安を打ち消そうしていて、
多分、この種の人間は「何か」になったとしても、いつ「何か」から脱落するか不安になったり、そもそも「何か」がいつまで価値のあるものなのか不安になったりするんだろうな、と思う。
こう思うのは多分、自分を重ねているからなんだけど、中村文則さんの他の作品を読むと、やっぱり彼の作る『不安』は一時的なものじゃなくて、人間的なものなんじゃないかなあ、と思う。