【長編小説】「水槽の魚」
*
七時になろうとしているのに、今朝はまだ薄暗く、青い。庭を見ると、まるで水の中のように静かだ。しんしんと雪が降っている。
そろそろ娘を起こさないとならない。なのに、青い景色が愛梨を神妙な気持ちにさせる。体が思うように動かせない。
いまだ忘れられない思い出を揺り起こした。
こんなだからわたしはダメなのだ。家庭ひとつ守れない。自分を責める。
一度目の結婚も失敗した。あれは若気の至りだと言ってしまえば片付けられるが、今回は子供もいるのだ。
夫は車のダッシュボードに入れてある離婚届に気づいただろうか。
気づいて平静を装っているのなら、彼はかなりの役者だ。
しかし、裏表のない極めて善人な夫が、そう器用に立ち回れるはずがない。まだ気づいていないのだ。
どうしようか、いっそのこと、夫の鼻面に叩きつけようか。
夫は、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をするだろう。そして微笑むだろう。
「話してごらん。君の中に渦巻く思いを」
そう言ってわたしの手を優しく包むだろう。
優しいのが、いやなの。
まかり通る言い分じゃない。かえって彼は笑うだろう。
「愛梨、おいで」
彼はわたしを抱きしめようとするだろう。
「やめて! だからわたしは苦しいの!」
あなたを愛していないの。どう頑張ってもあなたを愛せないの。わたしが愛しているのはあなたじゃないの。
「じゃあ、どこの誰なんだい?」
訊かれても答えに困る。なぜなら、どこに存在しているのかなんて、もうわからなくなってしまったからだ。遠い昔に。
涙を堪えた。静かに涙を流すだけでは済まなさそうだからだ。いったん涙が流れたら、発狂したように泣くだろう。
あの夜のように。
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