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庭陽光さんの物語〜「発達障害」と診断された人のための「発達障害」の説明書6〜


一緒につくるマガジン

【「発達障害」と診断された人のための発達障害の説明書】と題して、マガジンの連載をしている。

このマガジンは、『一緒に作るマガジン』という設定。

「受け身ではない、主体的な学びの機会を作りたい」
という思いからの『一緒に作るマガジン』。

マガジンの作成に読者が参加してもらうことで、きっと、受け身ではない、主体的な学びの機会が作れる。

たとえば、もし何か質問が出たら、次回はその質問について取りあげた記事を書きたいし、もし発達障害について書いた記事を紹介していただけたら、次回はそれについて一緒に考えたい。

そんな風に、発達障害のことについて一緒に考え、理解を深めていきたい。

そんな風にして行う皆さんとのやりとりこそ、リアルな「発達障害」の説明書になり得ると考えている。

「発達障害」の説明書、よかったら、一緒に作りましょう。

庭陽光さんの物語

今回は、庭陽光さんが、【「発達障害」と診断された人のための「発達障害」の説明書】マガジン作成に参加いただけるとのこと。

庭陽光さんは、 “レアな道”を進む専業主婦、とご自身のことを表現されている。

noteでは主に読んだ本の感想を投稿されているが、書籍からの情報を、ご自身の体験に引きつけて理解し、自分の言葉で語るという方法をとることで、得た情報を確かに自分のものにされているという感じが伝わってくる。

また、ご自身の体験やご家族との関わりの中で感じたことなどについても書かれている。

庭陽光さんのリアルな体験や実践を紹介させていただき、記事を受けて私が感じたことや考えたことを文章にしてみたいと思う。

庭陽光さんと自閉スペクトラム症(ASD)

庭陽光さんは、自閉スペクトラム症(ASD)の診断を受けているとのこと。

DSM-5の自閉スペクトラム症の診断基準を参考として再掲する。

以下のA、B、C、Dを満たすこと
A:社会的コミュニケーション及び相互関係における持続的障害
B:限定された反復する様式の行動、興味、活動
C:症状は発達早期の段階で必ず出現するが、後になって明らかになる物もある
D:症状は社会や職業その他の重要な機能に重大な障害を引き起こしている

庭陽光さんも、社会的コミュニケーション及び相互関係の部分で、悩みを抱えられていたことがうかがえる。
(以下、庭陽光さんの記事より抜粋)

過去を振り返ることは、今はほとんどありませんが、楽しいことは、全く覚えていません。

暗い思い出しかありませんね…。

“レアな人”で、しかも“女子”にとっては、叱られることが日常茶飯事ですし…。生活に行き詰まりながらの人生でした。

現在、存在している方が奇跡に近いような気がするときもあります。

【起きている間は“見よう見まね・演技・技”】 より

“レアな人”という表現には、様々な想いが含まれているように感じられる。

環境によって変わる発達特性

庭陽光さんの記事を読んで、環境によって発達特性の出方が変わるということに改めて気付かされた。

発達特性は、いつも同じように発現するようなものではなく、環境によって変わってくるものである。

ある環境では、自分でもどうしようもないくらい、発達特性がものすごく目立ってしまう。

一方で、あの人と一緒にいるときは、自分でも発達特性をほとんど意識せずに生活できる。

なんてことはよくある。

「担任が変わって、クラスの雰囲気が変わって、発達特性が目立たなくなった」という話や、
「新しい職場でストレスを感じてミスを連発するようになった」という話を聞くことは多い。

自分を振り返ってみても、余裕がなくなってきたときに忘れ物やなくしものが増えるなど、普段はあまり目立たない不注意傾向が、環境によって顔を出してくることがある。

発達特性が出ていなければ良いとか、出たら悪いとか、そういうものでもないのだけれど、発達特性が固定的でないということを理解しておくのは、自分を理解するうえで大切なことかもしれない。

庭陽光さんも、環境によって自分という像が変わるということを書かれている。

現在の診断書にも、“意思の疎通やコミュニケーションは、できない。”って思いっ切り判定されていますが、できないと言っても、やらざるを得ないことですので、世渡り術として身に付けた技を使いながら、演技をして、いろいろなお方とお話しています。
【私の特性】 より
こちらの嫁ぎ先には、過去の私の姿を実際に見たことがある人が存在しませんので、何故か、エリートのように思われているみたいです。

いろいろなことに対して

『分かります。 できます。』

などと言いながら、プロの話を聞いています

【起きている間は“見よう見まね・演技・技”】 より

庭陽光さんは、医者からはコミュニケーションの難しさを指摘されている。

過去の経験でも、行き詰まりを感じられることがあった。

しかし、現在の生活の中では家族からエリートのように思われており、頼られる存在であり、コミュニケーションの難しさを感じさせるようなところはない。

それは一見矛盾するようで、庭陽光さんという人をやや捉えにくくさせる部分であり、そして庭陽光さん自身も、生活していて、なんだか演技しているような感覚に陥ることがあるとのこと。

コミュニケーションの“お勉強”

なぜ、コミュニケーションの難しさを持つ庭陽光さんが、それを感じさせずエリートのように振る舞うことができるのか。

それは、“お勉強”の成果であったと庭陽光さんは語る。

生まれたときから、“レアな人”のため、家の中だろうが外だろうが、何を言っても、何をやっても、はね返され続けていました。

そんなことが続くと、嫌でも気付く日が来るでしょうね?

(もしかして私って、このままでは世の中を渡り歩いて生き延びることって、できないの?)

という事実に…。

私が、気づいたのは20代半ばでした。

しかし、(どうすれば世の中を渡り歩いて生き延びることができるの?)ということを教えてくれるような人や場所には、心当たりがあるはずがないでしょうね?

それで、私が行ったのは、自己流で、手当たり次第に興味のあることの“お勉強”でした。

【起きている間は“見よう見まね・演技・技”】より

庭陽光さんは、“お勉強”から学び、学んだことを、「演じる」というかたちで実践されている。

“お勉強”をして、その通りに演技することで、社会の中でエリートとして生きていけるということである。

演技するということ〜ASDの治療とは〜

エリートの演技などをしながら過ごすことが必要ですので、そのような日常生活です。

演技しながら過ごすので、キツいですね…。

演技しないで過ごすことができる時間って、一日の中でどれくらいあるの?

ほとんどなさそうなのが、現状でしょうか?

家の中で、本当に一人で静かに過ごすことができる時間のみ。(ネコさんと一緒に、ボーッとして過ごすことができる時間)

そんなことを感じています。

【起きている間は“見よう見まね・演技・技”】より

演技をするということ。

庭陽光さんも書かれているが、それは、ある意味では、本当の自分を認められていないような感覚につながるものなのかもしれない。

けれどもいま、多くのASDの治療で目指されているのはここなのである。

ASDの人たちが感覚的には理解できないような社会のルールを、“お勉強”によって学び、実践し、そして社会に適応していくことが目指されている。

庭陽光さんの記事を読んで、これまで私が支援してきた子どもたちのことが思い出された。

私は彼らにただ、演技の仕方を教えただけだったのではなかろうか。

彼らは、演技について教えてほしかったのではなく、ただ本当の自分を認めてほしいと思っていたのではなかろうか。

そんなことを感じて、なんとも言えない気持ちになった。

前回のアキさんの物語でも、『存在そのものを、無条件で肯定される経験』というキーワードが出てきたが、今回も、そのことを改めて感じさせられた。


環境によって見せる自分が変わる。

それは、別に発達特性があってもなくても、どんな人にもあること。

でも社会に合わせるための“お勉強”を求められるASDの人たちは、「存在そのものを、無条件で肯定される」という実感を得にくく、演技しているという感覚に陥りやすいのかもしれないと思った。

支援としては、『存在そのものを無条件で肯定される』という支援と、『社会で必要な知識、技術を身に着ける』という支援、この両方のバランスを、どうとっていくのかというところに勘所があるような気がした。

発達特性を持ちながら元気に生きるために

発達障害の治療で目指すことは、『発達障害の人を、発達特性を持った元気な人にする』ことであると、これまでも述べてきた。
治療のプロセスは以下のような流れ。
前回アキさんに教えていただいたこともふまえてアップデートしている。

 存在そのものを無条件で受け入れられる体験をする。
 自分の発達特性を理解する。
 自分の発達特性が、生活に活かせそうであれば活かす。
 自分の発達特性が、自分や周囲の困りごとにかかわるものであれば、その対策を考える。
 1~3に取り組む中で、不適応を起こしている状態から抜け出し、発達特性を持った元気な人になる。

自分の発達特性を理解し、それを活かしたり対策を立てたりしながら生活する中で、不適応の状態から抜け出し、元気な人になるという流れである。

上にも挙げたが、庭陽光さんはこれまでの人生をこんな風に綴られている。

過去を振り返ることは、今はほとんどありませんが、楽しいことは、全く覚えていません。

暗い思い出しかありませんね…。

“レアな人”で、しかも“女子”にとっては、叱られることが日常茶飯事ですし…。生活に行き詰まりながらの人生でした。

現在、存在している方が奇跡に近いような気がするときもあります。

【起きている間は“見よう見まね・演技・技”】 より

それでも、庭陽光さんは、これまでの経験が自分の支えとなっていると話される。

今までの経験が、現在の私を作っているのならば、

人生には、無駄なことは起こらない。

って、本当だと思います。

【起きている間は“見よう見まね・演技・技”】より

そう思えるのは何なのだろう。

発達特性を持った人の中には自信が持てず、不適応を引き起こし、発達障害の状態になってしまう人もいる。

違いは何なのだろう。

庭陽光さんの記事の中で、そのヒントとなるようなことが書かれているものを見つけた。

私の人生を振り返ると、決して楽しいとは言えません。暗くて、辛いようなことしか思い出すことができません。

そんな人生ですが、現在の生活を送る上で、自分の人生の経験を通して培ってきた知識や技術が、全て役に立っているのですよね…。

『人生には、無駄なことはおこらない』って、本当だということを身をもって実感しています。

その中で、一番影響が大きいことが、親(主に父親)に教えてもらってきた、いろいろなことです。

目に見えるものではありませんが、大事なものを、充分過ぎるくらいに貰っていたのですよね…。

子どもの頃は、厳しい家庭環境だと思っていたのですが、実は恵まれた家庭環境だったということに、気がつくまでにも、半世紀近くかかるような、トロくて鈍い“クソバカ娘”です。

【大切なものって、目に見えないような気がします】より

発達特性を持ったまま元気に生きるということに関して、親との関わりが大きな影響を与えるということ。

私は決して、子どもが不適応を起こしていることの原因は親にあるということを言いたいわけではない。

不適応を起こすのには様々な要因が重なっているから。

だけど、その不適応の状態から抜け出し、元気に生きられるようになるために、親の関わりは大きなエネルギーとなる。

これは庭陽光さんの物語であり、一般化できるかどうかはわからないが、発達特性を持った人たちが元気に生きていくためのヒントをもらえたような気がする。

愛着の重要性にも改めて気づくことができた。

近いうちに、愛着についてのマガジンの連載を始めてみようと思えた。

庭陽光さん、新しい気づきをありがとうございました。

今回、素敵な気づきが得られたのは、きっと庭陽光さんが、こんなニッチなマガジンにコメントをくれる“レアな人”だったおかげです。

これからも、よろしくお願いします。


次回に向けて

前回と今回、2回にわたって、アキさんと庭陽光さん、2名の方の物語を紹介させていただいた。

私なりに、お二方の人生を想像しながら文章を書く中で、様々な気づきが得られたことは、大きな喜びである。

実際にお二方の生の声を聞いて(文章を読んで)、色々な考えや感情が湧き起こり、私が今まで支援してきた子どもたちのことが思い出されたりもした。

そして、机上で想像しているだけではわからないことや、頭ではわかっているつもりだけど本当には理解できていなかったことが、前よりも少しだけわかったような気がしている。

これこそが、主体的な学びだと、いま、感じている。

もし、私も参加してもいいよという方がいらっしゃいましたら、是非コメント等いただければ嬉しいです。

次回も、よろしくお願いいたします。

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