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【読書感想文】『グランド・フィナーレ』阿部和重

ご機嫌麗しゅう。火中の栗と申します。
今回は好きな作家、阿部和重の代表作の一つ、2005年芥川賞受賞作品『グランド・フィナーレ』を大学時代ぶりに読み直したので読書感想文を書いてみたいと思います。
ちなみに、感想文と言いつつ衝撃の(?)ラストシーンまで言及します。
そのためネタバレされても構わないよ、という気持ちで読んで頂けると幸いです。
嫌な人は小説を読んでみてください。面白いよ。


著者・阿部和重の紹介

阿部和重は1968年生まれの小説家・映画評論家。
2005年『グランド・フィナーレ』で芥川賞受賞。その他文学賞の受賞多数。
小説家としては珍しく(?)日本映画学校卒で、シナリオを書く授業を通して文章を書くようになったとのこと。

山形県東根市の神町という果樹王国出身で、多くの作品の舞台として神町が登場する。特に三部作『シンセミア』(2003年)、『ピストルズ』(2010年)、『Orga(ni)sm』(2019年)は「神町サーガ」と呼ばれ、神町を中心とした物語が繰り広げられる。
その他の作品でも神町を舞台にしたり、「神町サーガ」で起こった出来事や関連人物が登場するなど、著作全体でサーガを描いている。

その点、同じく東北の仙台在住で、作品の多くを仙台を舞台に描く伊坂幸太郎に近いものを感じる。実際『キャプテン・サンダーボルト』(2014年)で両名は合作している。
筆者は伊坂幸太郎が好きで、同作を通じて阿部和重を知ったクチである。

あらすじ(ネタバレ注意!)

2002年10月、東京の百貨店、子供服売場から物語は始まる。
主人公の”わたし”(沢見さん・37歳)は”父親の資格を奪われた”場違いさを感じながら、”ちーちゃん”へ送る「超キュートなメゾピアノのフォーマルドレス」を買い求めていた。

彼はロリコン趣味(教育映画制作者の立場を利用した、たくさんの少女のヌード写真)が妻にバレて、離婚された。あろうことか、対象には娘の”ちーちゃん”も含まれていた。親権を取られ、接近禁止命令も出された”わたし”は、故郷の山形県東根市神町に身を寄せていた。愛する”ちーちゃん”には二度と会えないのだ。

誕生日当日、こっそり上京した”わたし”は、"ちーちゃん”のお誕生日会会場である妻の実家の近くで張り込む。"ちーちゃん"の姿を一目見ることを、そして一人でひょっこり現れてくれることを願いながら。
プレゼントのドレスは友人に託していた。”ちーちゃん”を誘い出すための手紙を添えて。最終的に”わたし”の狙いは不首尾に終わった。”ちーちゃん”を一目見ることもできず、手紙も渡されなかった。誘拐になるんだぞ、馬鹿野郎と叱責されて。

再度地元に戻って燻る”わたし”の元に、地元の友人が現れる。小学校の教師をする彼は、小学校で芸能祭が開かれること、そこで発表する演劇の監督をして欲しいことを伝える。離婚の経緯は地元に伝わっていないものの、経緯が経緯なので断るつもりだったが、二人組の少女、亜美と麻弥からも直に頼み込まれてしまう。彼女達は転校によって離れ離れになることが決まっていて、「これが最後だから」絶対に成功されたいと詰め寄るのだった。
少女の一人は、身内が大きな事件を起こし、地元に居られなくなってしまったのだ(その事件は別作品『ニッポニア・ニッポン』で語られる)。
”わたし”は渋々、しかし徐々に力を入れて演劇の監督を、更には《最後》に向かう彼女達を支えようと動き出す。

読書感想文

『グランド・フィナーレ』はロリコンのような下世話なテーマを中心としているが、物語としては難解でぱっと見よく理解できない作品だ。そこで、純粋な感想ではなく、作品を構成する要素や手法をいくつか拾い上げて考えてみたいと思う。

「信頼できない語り手」という手法

『グランド・フィナーレ』は終始、主人公である”わたし”の一人称視点で進行する。地の文も”わたし”の独白、または回想から成り、全て主人公の目や耳を通して物語が進む。だから現実とずれがあることを念頭に置いて読み進めなければならない。
自分自身、ロリコン小説の祖(!?)であり、信頼できない語り手小説であるナボコフの『ロリータ』が大好きなので楽しく読んだ。

これは作者自身の狙いであり、芥川賞受賞後のインタビューでも以下のように語っている。

まず、語り手が「わたし」であることにつきると思います。これまでの僕の一人称の小説は暴露型の語り手でしたが、今回の「わたし」は隠蔽型の信用できない語り手として登場しています。だから「わたし」の正当性を揺るがすものとして、他者の声が必要で「こいつが語っていることが、すべてとは限らないよ」と読者にほのめかしている。つまり「わたし」が語っていることと現実にはズレがある。そういう語り口で書き上げたのが『グランド・フィナーレ』なんです。

e-hon INTERVIEW 著者との60分 

彼の視点では、現実には起こり得ないことも起こる。
”ちーちゃん”の誕生日プレゼントを買い求めた子供服売場では、「可愛いピンク色のウサギと青色の子グマ」が恐ろしい形相で進路妨害をする。
離婚前、直接手渡した最後のプレゼントである音声学習機能付きのジンジャーマンのぬいぐるみは、孤独な”わたし”の唯一の相棒として挨拶をしたり、助言したりする。

また、登場人物の多くは氏名が登場するのに対し、クラブで知り合った馴染みの友人は”I”や”Y”とイニシャルのみでの登場となる。その謎について、作者は先に挙げたインタビューで以下のように述べる。

僕の作品に関心のある方に読み解いていただきたいと思います。IとYという記号から連想されるものがあると思うので、語りの構造から探っていけば、何か発見できるのではないでしょうか。

e-hon INTERVIEW 著者との60分

不勉強ながら、「IとYという記号から連想されるもの」については答えが出せていない。しかし、彼らとの関係性を読み解くことができるように思う。
クラブの友人は享楽的で、乾杯して肩を組んでしまえば成り立つ間柄として紹介される。10年近くの付き合いではあるが、”わたし”の年齢や職業も覚えていない描写がある。”わたし”自身が彼らの人となりを知らない、関心がないからこそイニシャルでの登場となっているように感じた。

時代性を取り入れる(1999年ー2002年)

阿部和重は、作品の中に時代性を取り入れるのが特徴的な作家だ。
実際の新聞記事やニュース記事を引用するどころか、直近の著作でも2014年のオバマ大統領の来日や、2019年のトランプ大統領と金正恩の会談が物語の大きな軸となる。

物語は2001年から2002年に起こったことを中心に描かれる。作中でも現実世界に実際に起こった事件について触れられ、語られる。
2001年9月11日、”ちーちゃん”と一日遊び疲れて寝てしまった翌朝に9.11事件のニュースを見て呆然としたことが回想される。
クラブでは、2002年10月23日に起こったロシアのテロ事件、モスクワ劇場占拠がセンセーショナルな話題として若者に語られる。そこから派生して2002年10月12日のバリ島爆弾テロ事件、ひいてはアフリカで絶えない紛争や子供達の惨状までが刺激的な話題として語られる。
また、1999年に児童ポルノ禁止法が制定され、ライフワークにしていた少女のヌード撮影も辞めざるを得なくなったことが語られる。そのため”わたし”は変態ロリコン中年ではあるものの、犯罪者ではない(児童ポルノの単純所持は2014年の法改正で加えられたもので、作中の時代では合法だった)。

小道具にも時代性は取り入れられる。
携帯電話は「ムーバN504iS」と機種名で表記され、着信音は”ちーちゃん”が吹くハーモニカの音に設定されている。着信音を好きな音声にする文化も、今となっては懐かしく感じる。
”ちーちゃん”の誕生日プレゼントである「メゾピアノ」のドレスも、自分自身も小学生であった2002年当時、エンジェルブルーと並んで覇権ブランドであったと感じる。今も人気があるのかも知れないが、下記プレスリリースで「平成女児あつまれ!」とある通り、当時の流行だったはずだ。

映像・画像の一方向性

阿部和重は映画学校出身でもあり、映像や画像といったメディアについては相当な考慮をもって描いているはず。今作で筆者が感じたのは、映像と画像の一方向性だった。
当然ながら、映像や画像は”見られる”だけのもので、視聴者に直接の影響を及ぼすことはない(それを破ったのが『リング』の貞子かも知れない)。その一方向性と、超えられない第四の壁が一つのテーマにように感じられた。

見るだけで実感を持って触れられないものの例として一つ、クラブでの若者の会話を抜粋したい。劇中で最近あったロシアのテロ事件から、より悲惨で残酷な例としてアフリカの紛争の惨状に話が飛んだ場面。

「たださ、アフリカのニュースってほんのときどきしかテレビにも出ないし事情が判りにくくて実感があんまり湧かなくないか?」
(中略)
「何なんだかな、この醒めた感覚は。映像でもあるならもっと掴めんのかもしれないけどな。ウガンダかー。ウガンダね。」

『グランド・フィナーレ』

ロシアのテロ事件は映像付きで大々的に報道されていただろうから、彼は関心を持って「プーチンはやばいよ」と語っていた。しかしアフリカの話になった途端、関心を失ってしまう。
ニュースで見た出来事は一定の関心を持つものの、あまり見ないものには関心が向かない。いずれにしてもニュースで伝え聞く遠い国の出来事で、身に及ぶような実感は持たない。一方的にニュースを見る、しかしそれが身に及ぶことはない、その絶対的な距離感が表されているように感じた。

一方、”わたし”はその話を聞くでもなく携帯電話(ムーバN504iS)で”ちーちゃん”の画像を見つめ、嗚咽する。

ちっぽけでぼやけたデジタルの像を見つめることによって感受されるのは、やはりどうにも埋め難い、被写体との間の距離だった。

『グランド・フィナーレ』

映像や画像が映しだした被写体は実像ではない。
その超えられない距離があることの功罪が描かれているのだと感じる。功の例はロシアやアフリカ、罪は”ちーちゃん”だ。

”わたし”はこれまで、超えられない距離の外側にいることを喜びにしてきた。少女たちのいかがわしい映像や写真を撮影し、一方的に見つめることを喜びにしてきた。
しかし唯一、最初にスカウトした少女とは「二、三回セックスをして、それから関係がぎくしゃくしてしまったんだ」と語る。以降は「俺は極力、モデルの子たちとは一線を超えないように気を付けたんだ」とも。
あくまで距離の外側にいることを良しとした”わたし”は、結局愛娘の”ちーちゃん”も被写体として、決して超えられない、触れられない場所にたどり着いてしまった。

”グランド・フィナーレ”とは

被写体と一方通行な関係をとっていた”わたし”は、再び少女と生身の関係を結ぶことになる。それが地元、神町の芸術祭での演劇成功を願う二人の少女だ。彼女たちは「最後だから」と”わたし”に演劇の監督を望み、定期的に公民館でレッスンを行うことになる。
しかし、”わたし”は少女達を「二人の女優」と呼び、あくまで舞台上の人間、舞台と客席の間の第四の壁を隔てた存在と捉えていたように取れる。

その壁に綻びが生まれる。きっかけは、少女達が公民館の「インターネット体験コーナー」で「自殺マニュアル」なるタイトルのウェブサイトを開いているところを目撃してしまったことだった。
単に好奇心で開いていたのかも知れない。そのことを願いながらも、演劇の機会を「最後だから」と必死に訴えてきた姿が浮かぶ。二人が選んだ演劇の題材も、恋人のうち男性が激流に飲まれる際、「わたしを忘れないで」と叫んだことが由来とされる勿忘草の伝説だった。

”わたし”は当初、勿忘草の物語を聞いて以下のような感想を持った。

わたしが当の説話から感じ取ったことのうち、もっとも強く響いたのは、運命の恐ろしさだった ーー なぜならベルタは一生、勿忘草の呪縛から逃れられないのである。

『グランド・フィナーレ』

互いに呪縛し合うことになってしまうのを心配していたのだった。

しかし、「自殺マニュアル」の件以降、別の意味合いに感じられてしまう。二人が命を落とし、「あたしたちを忘れないで」と遺言を残すつもりではないか、と。

”わたし”は考え抜いた末、以下のように決意する。

いずれにせよわたしは、亜美と麻弥に向けて語りかけ続けるだろうーーためらいもなく最後へと向かう二人の幻影が消え失せてくれるまで。

『グランド・フィナーレ』

そして、その決意のもとに公民館でのレッスンに赴いたところで物語は唐突に終わる。その後の物語が描かれずに小説自体が終了してしまうのだ。

二人の少女は自殺という悲劇的な最後を迎えてしまうのか。
それとも、”わたし”が第四の壁を乗り越えて少女達の心に触れ、演劇は無事に終了し、舞台と観客の間の壁が取り払われた「グランド・フィナーレ」を迎えることができるのか。
筆者は後者であることを願っている。

あとがき

くぅ~疲れましたw これにて完結です!
実は、文学部卒なのでレポートみたいなものを書きたいなと思ったのが始まりでした。
本当は話がよく分からなかったのですが←

と、ネットミームをもじったふざけた書き出しになってしまいましたが、頑張って再読してみたら色々な読み方ができて楽しかったです。
『グランド・フィナーレ』は唐突なところで物語が終わるし、信頼できない語り手小説だし、なんかよく分からんというのが正直なところです。
でも描写の繊細さであったり、小説だからこそできる技巧のようなところに惹かれてずっとこの小説が好きでした。だからこそしっかり再読して、文学部のレポート風にまとめることで理解に近づきたいなと思ったのでした。

もし阿部和重に興味を持った方がいらっしゃったらぜひ読んでみてください。
大抵よくわからない話が多いので、一緒にあーでもないこーでもないと語り合いましょう。

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