中庸の境地へと達するためにー『大学・中庸』、『二コマコス倫理学』を手がかりに



中庸の必要性


幸せに生きていくためには、何事にも適度でなければならない。いくら美味しいものであっても、食べ過ぎては体が悲鳴を上げる。好きなことに打ち込みすぎても、それが度を越して身を酷使すれば元も子もない。過剰なのが適切でないのと同様に、不足しているのもまた適切ではない。アリストテレスの言葉を見てみよう。

中間性〔中庸〕は二つの悪徳の中間、つまり超過による悪徳と不足による悪徳の中間である。さらに、感情と行為において、一部はしかるべき程度を超過し、一部はそれに不足するが、徳(アレテー)は、そのしかるべき中間を発見して選ぶという意味においても、「中間のもの」である

アリストテレス(渡辺邦夫・立花幸司訳)『二コマコス倫理学(上)』148頁

アリストテレスによれば、最高善は「徳に基づく魂の活動」であるという(同前、60頁)。つまり、最高善や幸福を達成するためには、やはり中庸に基づいた行動や姿勢(性格)が必要なのである。
 例えば、臆病な人の場合、恐れるべきでないものを過剰に恐れてしまうという意味で自信が不足している。対して、自信が強すぎる場合も「向こう見ず」な人になってしまう。やはり、この場合も、自信を持つ筒も、適度に懸念や恐れを抱きながら行動するという中間の方が望ましい。
 それでは、その中庸の境地に達するためには、どのようなことが必要なのだろうか。この点について、儒教の経典の一つである『中庸』や、アリストテレスの『二コマコス倫理学』に基づきながら考えてみたい。

己を知るとともに、日々学びを深めながら懸命に取り組む


 アリストテレスによれば、中庸の境地へと達するためには、分別(ロゴス)に従わないといけないという。「分別(ロゴス)は最善の事柄へと我々を向かわせてくれるが、他方で魂の中にも分別に反するものがある」(『二コマコス倫理学』95頁)。ここでいう分別とは理性を指す。中庸をとれている人は、分別に「聴従する力がすぐれている」といい(同前、96頁)、過剰や不足へと走らせがちな欲動に理性が制限をかける必要がある。
 同じことは『中庸』でも指摘されている。人間には欲望に沿った「人の心」と、理性に基づく「道の心」があるが、「それをうまく整理する方法がわからないでいると、危険な『人の心』はいよいよ危ういものになり、微妙な「道の心」はますますわかりにくいものになって」しまうという(『大学・中庸』252頁)。つまり、欲望に忠実な「人の心」が理性に反して過剰や不足を招いてしまうため、「道の心」が「人の心」をうまくコントロールする必要がある。
 では、そのためには何が必要となってくるのか。まず、『中庸』は日々の取り組む姿勢を指摘する。

何事でもひろく学んで知識をひろめ、くわしく綿密に質問し、慎重にわが身について考え、明確に分析して判断し、ていねいにゆきとどいた実行をする。まだ学んでいないことがあれば、それを学んでじゅうぶんになるまで決してやめない。まだ質問していないことがあれば、それを問いただしてよく理解するまで決してやめない。まだよく考えていないことがあれば、それを思索してなっとくするまで決してやめない。まだじっこうしていないことがあれば、それを実行してじゅうぶんにゆきとどくまで決してやめない

金谷治訳『大学・中庸』205頁

理性が力をつけるといっても、その理性が誤った方向を向いていれば、それでは結局中庸の境地には達することができない。自分の世界だけにとどまらず、日々学びを深めていく姿勢が求められる。もう少し説明しなければならないことがあるのだが、少し飛ばして『二コマコス倫理学』を見てみよう。

われわれは、自分がどのような方向に向かってゆく傾向があるのか、考えなければならない。というのも、われわれ一人一人は、生まれつきそもそもの傾向が異なっているからである。そして、それぞれの人のこの生まれつきの傾向は、自分に生じる快楽と苦痛から知ることができる。そこで、自らを〔自分の生まれつきの傾向と〕反対のほうへ引っ張らなければならない。なぜなら、誤りから大きく離れるときに「中間」へと至ることができるだろうからである。

『二コマコス倫理学』154頁

つまり、まず自分がどういう人間かということをよく知らなければならないということである。自分が臆病な傾向を持つ人間なのであれば、それと反対の方(少し自信を持てるように)へと導いてあげなければならない。
 また、そもそも自分を知るためには、何事にも一生懸命取り組む必要がある。しっかりと取り組まなければ、自分がどういう人間かもあいまいな理解にとどまってしまう。一つ前に紹介した『大学・中庸』の引用箇所を見返してもらいたいが、そこでも、何事にも中途半端ではなく「じゅうぶんにゆきとどくまでけっしてやめない」と記されている。全力で物事にぶつかった際に、見えてくるものがあるわけであり、決して中途半端なままでは大したものも得られないのである。全力で取り組むことによって、周囲との間で自分を相対化してとらえることができるようになり、自分というものがどういう傾向をもっているのかということを把握できるようになるといえよう。
 これでも、なぜ考えるだけでなく、実行する必要があるのか疑問に持つ人もいるかもしれない。その答えは、小林秀雄『読書について』の中でうまく表現されているので少し借りてみよう。

或る助言が見事か詰まらぬかは、偏にその実践的意義にかかっている。極言すれば助言を実行したうえでなければ、助言の真価はわからぬ〔中略〕実行をはなれて人間はない

小林秀雄『読書について』26頁

頭ではよいと考えていても、いざ実際にやってみるまではその価値は「実感」できないものであり、しっかりと考えたうえで、実際に全力で取り組んでみる。そうすることによってはじめて、「中庸」などの境地に達することができたり、ある考え方や生き方・姿勢が身につくといえよう。

さいごにー読書のすすめ

 自分がどういう人間なのかを知るためには、当然ながら他者との対話が必要になってくる。自分の心を打ち明けて、友人や他者とお互いに腹を割りながら話す。それはまず第一の方法であるし、そういう人がいるのであれば大変ありがたいことであるし、大事にしなければならない。もう一つは、読書である。読書もまた他者の考えが記されており、書物と対話をすることで、様々な考えに触れることができる。これまた貴重な時間である。

 最近、1か月で本を1冊も読まない人の割合は65%にまで上ったという、衝撃的な調査結果が文化庁より出されている。改めて読書をする意義というものを考え直す必要があるのだろう。今回扱った『大学・中庸』も『二コマコス倫理学』も一部分しか取り上げていないが、読んでいてすごく示唆を得るものが多かった。まだ手に取ったことのない方は、ぜひ手に取ってよんでほしい。


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