「神話的世界」と政治の融合ー政府は「見せ物」をしないと崩壊する!?山口昌男『歴史・祝祭・神話』を読む
今度も古本屋で手に取った本(山口昌男『歴史・祝祭・神話』)について、簡単に記すことにしたい。僕は普段大学院で歴史、とくに政治の歴史を研究しているのだが、その歴史研究の視線からはどうしても漏れてしまう、そんな何かを本書は提示してくれている。歴史研究が描く世界の狭さについては、次に引用する山口の記述がよく物語っている。
それでは、歴史的世界では捉えきれないものとは何になるのだろうか。例えば、本書ではケネス・バークという学者の議論を紹介して、政府の機能が7つ挙げられている。すべて紹介はしないが、①支配、②サービス、③防護、④知識の伝達、とりあえずここまでは驚きもしないし、まあそんなものだろうとなる。
そんな中、5つ目に挙げられているのが「見せ物の提供」である。政府が「見せ物」の提供をする???僕は頭をもたげたし、この記事を読んでくれた人にも、おそらくはなかなか理解しがたいことだろう。後で分かるのだが、これは決して政府がアイドル議員などを使って、人気取りをしているとかそんな話ではない。そこには、われわれの普段の理解や、歴史史料に囚われた世界観のままでは理解できない、そんな世界が広がっているのである。それは、「歴史的世界」とは異なり、「神話的世界」の領域に位置付けられており、山口はそれを排除して世界を把握できないと述べる(56頁)。少しばかりその世界をのぞいてみることにしよう。
その世界は、端的に言えば祝祭的な・演劇的な要素によってあらわされる世界である。山口は、文化人類学の観点から人間の演劇性を指摘する。人間は「単調さ、不変であること、同じリズムで繰り返される生活のパターンに耐えることができない」(91頁)。そんな生活を続けていれば、今度はその日常を打ち壊す「祝祭」的価値を自然と求めるようになり、人間の前に突如としてその価値が姿を現す。その価値を体現するのがカーニバルや演劇などになるのだが、それらは犯罪とかなり親和性が強いという。山口はロシアの演劇理論家のエブレイノフの議論を紹介して、次のように述べる。
日常生活の範疇に入っていないものが、外部から登場することで、だらりとした生活に緊迫感が走り、山口の言葉を借りれば「生感情(バイタリティ)」が最も高ぶるという。これは言われれてみればその通りだと思う。退屈な毎日に、新しい「何か」がやってくれば、とても刺激的な生活を送ることになる。山口は、その外部からの新たな「何か」を、神話の『日本紀』からとってきて「はたもの」と記す(おそらく、「はた」は「端」であり、異端なものを表す。山口はこの概念について、民俗学者の折口信夫を参考にしている)。
カーニバルや演劇、歌舞伎でも、その「はたもの」は最終的に見せしめとされて死に至り、日常へと回帰するわけだが、この部分が「政治」と密接に結びついてくる。山口の言葉を借りれば、政治権力者は「民衆を納得させるために、何らかの意味での『はたもの』を作りださなければならない」という(63頁)。先ほど述べたように、日常的生活のみが繰り返されていれば、人間は満足し得ないのである。そして、「はたもの」を作り出し、それを「生贄」として裁判で裁き、秩序を安定化させるのである(裁判は、「悪魔態惨劇」の要素を持っている)。逆に、権力の側が「はたもの」を作り出すことができなければ、「その時は権力がそのまま有効な『はたもの』の立場に移行」し(同頁)、権力者が生贄としてささげられる。革命の勃発である。
つまり、権力者は自らの秩序や体制に否定的な要素に、「はたもの」として「かたち」を作り出すことで、日常世界の秩序を保証しようとしているのである。
山口は、象徴や記号を研究するケネス・バークの言葉を借り、「生贄」が
人間心理に深く影響を与えているという。
繰り返し述べるように、同じリズムで生活が繰り返されれば、必然的に「中心」が持っていた価値も輝きを失い、今度は「片隅に追いやっていた諸事物が、一つのまとまりを持って「『中心』を脅かしはじめる」(91頁)。そこで、「周辺的」な事物に「はたもの」として「かたち」を与え、それらを排除することによって「中心」の輝きを復活させるのである。なんとまあ、人間というのはこうも醜いものかと辟易としてしまうが、もう少しだけ話を進めよう。
そして、その点でもっとも天才的だったのが、ヒトラーであったと山口は述べる。われわれの内側にはおらず、「なんとなくいけすかない」という条件さえあれば、「はたもの」や国内敵は容易に作り出せてしまう。ヒトラーは「人ははっきり目に見える敵を必要とする」ため、「ユダヤ人をつくり出さねばならない」と述べたする引用を山口は紹介している。
ともかく、何らかの「はたもの」をつくり、「それを暴力的に破壊し、この世のものならぬ情感を喚起することによって、この世界に活力」が導入されるのである。本書で紹介されている例を少し紹介すれば、16世紀のパリでは聖ヨハネの祝日を祝うために、12~24匹の猫を焼きころした。また、ドイツのカーニバルでは、大罪人と見立てられた雄鶏を嬲り殺す。いずれも「はたもの」に動物が見立てられているのだが、大罪人の「はたもの」の死によって共同体は悪の影響力から免れるという「神話的」な現象が繰り広げられており(当然市民も熱狂していた)、これはユダヤ人の例のように「政治的世界」にも見られるものであった。
長々と説明を繰り返してきたが、冒頭で述べた「政府の機能」5つ目の「見せ物の提供」。これは、「はたもの」をつくり出し、それを裁判などを通して破壊するということなのである。そのような「生贄」を提供するという「見せ物」を行わなければ、政府は秩序を保てずに、政府として存在できなくなってしまうということなのである。
本書の後半では、この「はたもの」や「生贄」といった「神話的世界」に基づきながら、ソ連のスターリンとトロツキーの対立や、ソ連の演劇について論じられており、そちらも大変興味深いものになっている(政治史などの観点では捉えられない描き方がなされていて面白かった)。関心があれば、ぜひ手に取って読んでみてもらいたい。
ともかく、本書が描き出す世界というものは、科学やそれに深く影響を受けた近年の歴史学では決してとらえきれないものである。政府の役割なんていうのはまさにその一つだ。ただ、ここまで読んでいただいた方なら、うすうす感じとってもらえているかもしれないが、「はたもの」や「生贄」で描かれる「神話的世界」は、決して空想のようにも思われない(本書ではもっとふんだんに具体例が記される)。むしろ、一定のリアリティを伴っているのである。今回の本も、科学信仰によって狭くなりがちな我々の視野を広げてくれる良著であった。