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戦線はすぐそこに〜映画「西部戦線異常なし」

日本はもう戦争なんかしないだろう。
みんながそう思っている。
少なくとも、こちらから戦いを始めることなどはありえないのだと。
何でも言えて、何でも買えて、どこにでも行ける、こんなに素晴らしい日常が奪われることなど考えられない。
この国が、全体主義や軍国主義に陥ることなどはもう2度とないのだ。

恐らく、そうなのだろう。
しかし、果たしてそうなのだろうかと考えることは無駄ではないはずだ。
先日の国葬に集まった多くの人たち。
ただ何らかの状況が重なり在任期間が長くなっただけかもしれない元首相が、あたかもこの国を一から作り上げた英雄であるかのように祭り上げられた。
それは、政府がそのように設定しただけではなくて、多くの人が賛同を示した。
そして、この国の象徴でもなく、ましてや親でもない人の葬儀に、あれだけの人が集まり涙したのだ。

犯人の動機は、民主主義への挑戦でも、言論の弾圧でもなかった。
ただ、いち宗教団体の広告等に利用された政治家を、個人的な恨みから襲ったに過ぎない。
にもかかわらずだ。
もちろん、誰であれ人の死に涙することを否定はしないが。

もしも、あれが本当に政治的なテロだったとしたらどうなっていただろうか。
しかも、犯人が他国から来た人間だとしたならば。
あるいは、他国で発生していたならば。
あの国葬に集まった人たちの気持ちは、その後どこに向かっただろうか。
それが、その他国への恨みに変わらなかったという保証はない。
わずか数行のつぶやきひとつで、人がどこにでも集まってしまう世の中だ。
情報は、その真偽よりも、いかに真実らしさを装っているかで拡散してしまう世の中だ。
みんなが一斉に同じ方向に進むことを、つながりだと思っている人たち。
つながりとは、それぞれの場所から、同じ月を見て、それぞれの感想を伝え合えることであるはずなのに。
僕たちの戦線は、案外すぐそこまで近づいているのかもしれない。

もちろん、あまりにも単純で短絡的な考えだ。
しかし、歴史は、時に単純で短絡的な判断から、多くの犠牲者を生み出してきた。
しかも、一度ではなく、二度も、あるいは三度も。

「西部戦線異常なし」はその悲しいほどに愚かな判断と、犠牲を描いた戦争映画だ。
冒頭で全てが語られる。

パウルは、ドイツ北部の小さな町の若者。
まるで遠足にでも行くように、戦線に行くことを志願する。
彼は、意気揚々と軍服一式を受け取る。
しかし、そこには、ハインリッヒという別の兵士の名前が。
「これは別の人のです」
担当者は、
「彼には小さすぎたのだろう」
そして、ハインリッヒの名札を剥ぎ取ってパウルに渡す。
あらためて、嬉しそうに受け取るパウル。
しかし、ハインリッヒとは、少し前に戦死した兵士の名前であり、この軍服はその時にハインリッヒが着ていたものだった。
それが、再利用されてパウルの元に届いた。
映画では、亡くなった兵士の制服が回収され、流れ作業のように再生されていくところが描かれている。
そこには、死者に対する感情などはない。
兵士とは、軍服を着せて何度でも繰り返し撃ち込める弾丸にすぎない。

さて、ここから先は、戦場のリアルな映像に、目をそらすことなく没入して欲しい。
映画は、あくまでも娯楽であり、時に芸術なのだから。

ただ、もしもこの映画から、学ぶものがあるとするならば、それは、国が戦争をしても、それに参加するなど、国のために命を捨てるなど無意味なことだ、戦線で人ひとりの死など、異常として報告するにも足らない、そこには英雄などいない、そういうことだ。

同タイトルの映画は、1930年にアメリカで製作され、アカデミー賞作品賞を受賞している。
今回は、舞台となっているドイツで製作された。

「西部戦線異常なし」はNetflixで配信中。


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