母の日に三好達治「乳母車」
今日は母の日。
母の日にちなんで、母の詩。
母の詩はたくさんあるだろうが、僕がすぐに思い出すのは、三好達治の「乳母車」
母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり
時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
轔々と私の乳母車を押せ
赤い総ある天鵞絨の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり
淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道
作者が赤ん坊になりきって母に呼びかけている、そんな解釈もあるが、僕は少し違う。
この乳母車の中にいるのは作者ではない。
乳母車に乗るような幼児がこんな詩を読めるわけはない。
この詩の視点はもう少し高いところにある。
恐らくこの乳母車の中には誰もいないのだ。
「時はたそがれ」
これは一日のその時間でもあり、人生の時の流れでもある。
その長い時間を生きてきた母。
それでも、母に「私の乳母車を押せ」と作者は言っている。
かつて、本当にそこに自分を乗せて押した時のように、いつまでも「私の乳母車を押せ」、母よ。
そうだ、もしその時に、乳母車の中に私の姿とともに希望のようなものを見ていたのなら、同じように、いつまでも、その「乳母車」を押せ。
「泣きぬれる夕陽」に向かう「遠く遠くはてしない道」、それが人生ならば、その人生をいつまでも「乳母車」を押して欲しい、かつて私があなたの希望であったように。
そんな願い。
これが、僕の勝手な解釈。
母と子、そこには様々な関係性があるだろう。
しかし、父と子ではない、何か。
切っても切れないもの。
血とかではない。
へその緒でもない。
むしろ感情に近い何かがある。
そんな気がしている。