分身主義の森を抜けて‥‥
確認事項
今、この前人未踏の分身主義の森に踏み入るのも、ここから引き返すのもあなたの自由です。
でも、一つだけ確認していただきたいことがあります。
、、、
あなたは今、幸福ですか?
この質問に、あなたなら何と答えますか?
、、、
、、、
この愚問に、丁寧に、「今の私は幸福です」とか、あるいは「今の私は不幸です」と答えてくださったあなたは、幸福とは、あなた自身の問題だと感じているわけですよね。
、、、、、
でも本当に、幸福ってあなた自身の問題なんでしょうか?
現代を生きるほとんどの人が、幸福とは個人の価値観によるものだとか、個人的な状況によるものだと考えています。
他の人から見れば不幸そうでも、その人にとってはそうでもなかったり、幸福とか不幸などということはあんまり考えないで生きている人たちもいます。
また、他の人が羨むような生活ができるようになることが幸福になることだと固く信じて、それを目標にしている人たちがいます。
そういう人たちの幸福とは優越感に浸ることであり、他人から注目や羨望を浴びなければ満ち足りた気持ちになれません。
このように幸福にはいろいろな形があり、個人の価値観の問題だから、他人がとやかく言う筋合いのものではない、と現代を生きるほとんどの人が答えるでしょう。
もし、あなたがそのようにあっさりと割り切る脳を持った方ならば、ここから先に、踏み入るのはやめておいた方が無難でしょう。
あなたの脳は、個人主義的と言ってもいい現代の環境から、抜け出すのが難しいかもしれません。
もしかしたら、あなたにとっては、この前人未踏の分身主義の森は歩きづらいだけで得る物があまりないかもしれないし、森の途中で迷子になってしまうかもしれません。
(と言っても、分身主義は決してあなたを突き放しているわけでも、切り捨てたわけでもありませんよ)
「愚かな質問はしないでください! 今も世界のどこかで冷たい戦争があり、今も世界のどこかで人と人が憎み合い、争っているというのに、私の気持ちが幸福でいられるわけがないじゃないですか!?」
そのように答えることができるあなただけに、この森への一歩を踏み出して欲しいのです。
そうです。
あなたがおっしゃるように、世界中の情報がすぐに伝わってくる、こういう時代を生きている僕たちの心は、世界中のみんなが幸福にならなければ、決して幸福にはなれません。
僕たちはみんなどこかでつながっているからです。
そのことに気づいているあなたは、この森を通り抜けたその先の、まだ誰も行ったことのないユートピアへ、人類を導く開拓者になれるでしょう。
でも、あなたは言うかもしれません。
「気休めはやめてください。私は子どもの時から、ずっと、ずーっと考えてきたんですよ。世界中の人が幸せになるにはどうしたらいいのか?って。
でも結局、その答えは出ませんでした。そして、今はっきりしていることは、その答えは千年たっても出ないだろうということです」
それなら、僕と一緒に、この森の中に入ってみてください。
お願いです。
分身主義の森を、僕と一緒に歩いてみてください。結論づけるのは、それからでも遅くはありません。
今、僕はこの世界に奇跡を起こせる人を、急いで探しています。初めは数人で構いません。
あなたこそ、この世界に奇跡を起こせる方かもしれません。
~ あなたの分身より ~
ま え が き
初めに、分身主義( Bunshinism )という名前の由来を書いておこうと思います。
「個人主義」という言葉は聞いたことがあると思いますが、「分身主義」という名前は初めてだと思います。
分身主義という名前は、2003年5月13日に付けられた名前です。
「個人主義」という言葉を意識して付けられたので、「○○主義」などと命名されましたが、これは、何らかの主義・主張のようなものとは全く違います。
だから勘違いしないで欲しいのですが、僕は「分身主義者」でもないし、またそのような集団を作ろうとしているわけでもありません。
「○○主義」などと聞くと、普通は、どこかに特別なある思想を頑なに固持している集団がいるらしい、などと他人事のような反応をして済ましてしまうと思いますが、そういうものとは根本的に違うんです。
分身主義(Bunshinism)とは、科学時代を生きる世界中の全ての人々が持たなければならない、新しい「視点」です。
これからの時代のみんなが、どうしても受け入れなければならない「義務」のようなものなんです。
争いのない平和な世界を作るために、人類が踏み固めなければならないしっかりした「足場」のようなものです。
現代を生きる僕たちを取り巻いている「個人主義という環境」は、自我に目覚めてしまった人類が、歩まざるを得なかった道であり、当然、至るべき場所でした。
そして、その個人主義的環境のおかげで、僕たち人類はここまでめざましく発展(?)してきたのです。
だけど今、個人主義が行き着くところまで行き着いて、ついにはその断崖から落ちてしまう人まで出てきています。
自我に目覚めてしまった人類は、もう自我を捨てることはできないし、後戻りはできないので個人主義をやめることもできません。
自我を捨てることなんて、どんなに修行を積んだ坊さんでもできません。でも、一つだけいい方法があります。
分身主義は、個人主義を否定するものではなく、むしろそれを拡大し、その欠点を乗り越えたものです。
つまり、自我を滅却させるのではなく、自我を拡大させるわけです。
だけど、自我をもっともっと拡大させると、「今までの自我」を、滅却させることができるというパラドックスが起こります。
どんなに修行を積んだ坊さんにもできなかったことが、容易にできてしまうのです。
自我を拡大するにはどうしたらいいのでしょうか? それは簡単です。
本当の自分の姿を知ることです。
これまでの僕たちの自我(これが自分であると信じていたもの)は、本当の自分の姿ではありませんでした。
本当の自分の姿を知るためには、真の科学の視点を持って自然界から学ぶ気持ちが必要です。
その真の科学に導かれて辿り着いたものが分身主義です。
だから分身主義とは、○○主義などと言うけれども、主義・主張やイデオロギーのようなものではなく、物事を見る視点のことなんです。これからの人類が、しっかりした家を建てるための土台のようなものです。
そして、本当は、この「分身主義の森」を抜けたその向こうにこそ、僕たちの幸せはあるんです。
そう、分身主義(Bunshinism)とは単なる通過点です!
人類がその向こうにあるものを手にするために、僕たちはこの「分身主義の森」を通り抜ける必要があるんです。
今、若者たちの間で自分探しが流行っているそうです。
だけどそれらは自分探しと呼ぶよりも、「自分らしさ探し」と言った方が適当なものかもしれません。
彼らの自分探しは、ほんの少しだけ海面に姿を見せている「氷山の一角としての自分」だけを対象にしているからです。
要するに、自分の性格や適性を知って恋人探しや進路決定や職業選択などの拠り所にするための自分探しであり、多分に個人主義的な自分探しです。
本当の自分探しとは、その下に広大に広がる氷の真の姿を探ることです。
そして、その氷と海水との関係を研究したり、海水と空気との関係を究明したり、その氷がどこで生まれ、どのように運ばれてきたかを調査したり、科学的方法論によって、いろいろな原因をどこまでも遡って探っていくことです。
そのようにして、一人一人が科学的方法論で遡って探って行けば、誰もが必ず同じ一つの源泉に辿り着きます。
僕たちが今、この鬱蒼とした迷路のような分身主義の森の中で探そうとしているものは、その自分の源泉です。それこそ自分の本当の姿です。
そして、僕たちが分身主義の森を抜けたその時、そこに見るものは‥‥。
そこに見るものは、人類がまだ一度も経験したことのない風景です。
あなたの力で、その光景を僕にも見せて欲しいんです。
僕はまだその美しい場所を予感しているだけで、まだ見たことがないからです。あなたの力が必要なんです。
あなたの力で、人類を幸福へと導いてください。
予備知識1 分身主義へのアプローチ
分身主義の森に踏み入る前に、今日から10数回に渡って予備知識としていくつか頭に入れておいていただきたいことをお話します。
僕たちが日々の不安や恐怖や悲しみから解放されて、いつも何かに守られているような安心感の中で生き、仲良く助け合い、幸福に死んでいくためには、世界中の人に分身主義を知ってもらわなければなりません。
と言っても、初めは(ちゃんと理解した)数人の人がいれば十分です。
その理由は、分身主義の森の中に落ちている言葉を拾い集めながら突き進んでくだされば、いずれわかっていただけるはずです。
せっかく何かの縁で出会えた僕たちですから、その数人の人の中にあなたが入ってくだされば嬉しいです。
あなたに分身主義を知っていただくためには、どうしても真の科学の視点を持てるようになっていただく必要がありますが、真の科学とはどのようなものだと考えますか?
実は、科学者と言われている人たちが真の科学の視点を持っているかと言ったら、そうでもない部分もたくさんあります。
例えば生物学関係に携わる科学者の方たちは、動・植物の生態を解釈する時に、気づかずに人間的な感情移入を行なってしまっていることが多々あります。
それは自分たち人間を中心とした解釈です。
真の科学とは、自然界を中心に全てを考えるものでなければいけません。
何よりも科学的な視点から遠いところにいる科学者たちは、医学に携わる方たちです。彼らの視点は、さらに人間中心です。
医学は、人間を、ことさら人間の命を何よりも中心にすえて、優先的に扱います。そして、死を遠ざけることばかり考えます。
彼らの視点は、自然界中心というよりも人間界中心の視点です。
つまり現代の医学は、人間中心(=自分中心=個人主義)が作り上げている学問と言えます。
人間中心の大元をたどれば自分中心に辿り着きますし、個人主義とは、その自分中心的な感覚を、社会という大きな枠組みの中でも埋没させられることのないように、よく考え込まれた方便に過ぎません。
自分中心というと、わがまま、自分勝手というニュアンスがあり、それは個人主義の理念(個々人を尊重する)とは根本的に違う、と主張する自称個人主義者たちがいますが、根っこは全く同じです。個人主義の理念ともいえる、「個々人を尊重しよう!」という言葉は、自分の権利や主張が侵害されないための予防線のようなものだからです。
自然界を中心に考えると、この自然界には、「病気」などというものは存在していないことがわかります。
あるのは、全てが自然界に適応している状態だけですから‥‥。
生も死も、病気と呼ばれているものも、その状態こそが自然界に適応している姿です。
人間を中心として考えた時に、病気という疎(うと)ましく思うべき観念が生まれるわけです。
分身主義を知っていただくためには、何よりもまず、「❶真の科学の視点を持っていただくこと」が必要です。
その真の科学の視点で、「❷人間の心(=脳)のメカニズムや習性を理解していただくこと」が必要です。
僕は、精神病と呼ばれる通常とは異なる反応をする脳のことを考えることが、その「❶❷両方」を同時に満たすことになるのではないだろうか、という直感をずっと抱き続けていて、いつかはこの課題に取り組もうと思っていました。
精神病と呼ばれているものが起こる原因を調べることで、人間の心(=脳)の解明にも役立つし、また、それは実は、病気なんかではないということを説明できれば分身主義をわかっていただく近道になるからです。
そのように考えていた矢先、新聞に、萩原玄明(はぎわら・げんみょう)という分身さんが書かれた『精神病は病気ではない』(ハート出版)という本が紹介されていて興味を引かれました。
その本のタイトルを見た時、自然界に病気など存在しないと考える分身主義と一脈通じる部分があると感じて、早速インターネットで調べてみたところ、次のような内容紹介文が見つかりました。
「精神科医が見放した患者を次々と独持の〈霊視〉と〈供養〉で完治させた感動のドキュメント。精神病の真相と死霊憑依(ひょうい)の実態が明らかにされる」
この文章を読んで、一連の超能力まがいの俗悪な本かな、と感じたのですが、実際に読んでみると、それがなかなかの良書でした。
何しろ著者の萩原玄明(げんみょう)分身さん自身、次のように書いています。
他にも、次のように書いています。
まず初めに明言しておきます。
彼(萩原玄明分身さん)は、商業ベースに乗せた金儲け主義の霊能者たちと根本的に違うようです。
精神病は、成仏(じょうぶつ)できない死者の意識が、生者の肉体を借りて具現(ぐげん)している憑依(ひょうい)現象だという信念に基づき、取り憑(つ)いている死者の霊を供養することで多くの精神病者を救っている方です。
その信念は、仏教の教えに端を発し、そして彼を衝き動かしているものは、自分のエネルギーをすり減らしてでも、ひたすら苦しんでいる人を救ってあげたいという善意だけのようです。
萩原玄明分身さんは、八王子市の宗教法人・長江寺福浄院の住職さんです。昭和10年11月8日、東京都八王子市の菅谷不動尊教会の次男として生まれました。
他にも次のような著書があります。
ちなみに、彼(萩原分身さん)の言う「精神病」という言葉ですが、精神病は、精神医学では、精神障害の中でもより重度の、幻覚や妄想などの奇妙?な症状を伴うものを指すようです。
また、精神障害の中には治療しなくとも、それなりに生活可能なものも多いのですが、精神病となると、早期に治療をしないと生活が破綻(はたん)する恐れがあったり、生命に関わることもあると分類されています。
テレビや誌面で、視聴率を取るために、ミステリアスに面白おかしく脚色された多重人格(解離性同一性障害・かいりせいどういつせいしょうがい)というのは、精神病ではなく、ヒステリーなどと同じ神経症に分類されています。
萩原玄明分身さんが用いる「精神病」という言葉は、このような精神医学で分類される「精神病」のようにカッチリと区分されたものではなく、かなり感覚的で曖昧(あいまい)なものです。
場合によっては、狐狗狸(こっくり)さんなどの遊びによる暗示で狐が憑いてしまったり、酒乱(酒に酔って人が変わったような言動を取る人)なんかも一緒くたにしてしまっています。
たぶんそれが幸いだったのでしょう。
細分化することは、そのような現象が起こる原因を究明するためには役立ちますが、現代の精神医学が、あまりにも細部にこだわり過ぎて、「こころ」の全体像が見えなくなっているという悪因にもなっています。
精神医学が求めているものは何でしょうか?
人間の心を明るく健康にすることではないのでしょうか!?
年々希望者が増える精神科医やカウンセラーたちの生活を保証するためとか、ますます細分化して病気を増やし、それらを全て覚えて説明できる専門家が賞賛され、頼りにされ、優越感に浸るためとかではないはずです。
人間の心の健康には、全人類が寄りかかっても倒れない太い一本の柱が必要です。
大げさではありません。
グローバルな現代を生きる僕たちの心の健康には、「全人類」が頼れるたった一本の柱が必要なんです。
しかし、精神医学の世界でやっていることは、その逆に、眉間(みけん)にしわを寄せて、個々の悪いところをほじくり返し、隔離しておいて突っついたり、傷口をぐちゃぐちゃといじくり、ますます悪化させているような感じです。
洞窟の中の迷路に迷い込んで、それでも奥へ奥へと意地になって突き進んでいるかのように見えます。
科学は洞窟の奥へ奥へと突き進んでも、必ずもと来た道を引き返し、初めの気持ち、《人類の幸福のため》に立ち返って、科学全体を俯瞰(ふかん)し、整理する必要があります。
ある若い精神科医が、萩原分身さんに次のように話したそうです。
科学が、薬や電気という細部で留まってしまっているという証拠です。
それでは根本から治すとはどのようなことなのでしょうか?
萩原玄明分身さんの著書『精神病は、病気ではない』は、人間の心の健康には、精神科医が持っていない、あるものが必要であることを教えてくれています。
それは、根本から治すということに限りなく近づいています。
でも、現代を生きる僕たちが根本から救われるためには、まだ乗り越えなければならない課題もあります。
それらのことを、『精神病は病気ではない』という本を取っ掛かりにして考えていくことで、分身主義の真髄(しんずい)に迫っていこうと思います。
僕(徳永分身)がかつて迷路のような分身主義の森を歩いていた時に発見した、ユートピアへの入り口の前に、もう一度、今あなたをお導きするには、この道が最短距離だからです。
僕たちには、あまり多くの時間が残されていません。
◆◇◆ちょっと一言
先日、モンゴルをある女性作家が旅する番組がありました。
遊牧民はある土地に行き着くと、お茶を沸かし飲むそうですが、最初の一杯はその土地?の神様に差し上げなければいけないという風習があるということでした。
もしそれを怠(おこた)ると、年寄りから激しく叱られるということです。
そのような、理屈ではない風習は、神様に守られている気持ちを生み育て、仲間との絆(きずな)を生み育てます。
それが人間の心の健康には必要です。
「人間の心の健康には、全人類が寄りかかっても倒れない太い一本の柱が必要なんです」
そのように言いましたが、あなたは「健康」というものを、どのようにイメージしていますか?
その対極には、暗い形相(ぎょうそう)をした「病気」がのそっと立っていそうです。
でも、僕(徳永分身)の言う健康とは、病気の対極にあるものではなく病気をひっくるめてあるものです。
「本当の健康とは、自分の病弱さを知りつつもそれを明るく笑い飛ばせること」だからです。
人間の身体は弱いものです。
どんな人も病気(と僕たちが呼んでいるもの)と無縁ではいられません。
その弱さを笑い飛ばせること、病気と仲良く生きれるようになることこそが、本当の健康だと考えます。
この言葉を常識的に解釈して、理解したつもりにならないでくださいね。
これは分身主義の真髄にも触れる言葉です。
今、勇気を持ってこの分身主義の森に踏み入ろうと思ってくださっているあなたには、分身主義の真髄を体感していただきたいと思います。
僕たち人類は、今まで、力と健康と富を目指して頑張ってきました。
しかし、それは本当の力、本当の健康、本当の富ではなかったことに、誰もがようやく気づき始めています。
分身主義の森で、本当の幸せを見つけるためにも、この言葉を覚えておいてください。
あなたはそこで、この言葉の向こう側にある真実を知ることでしょう。その時、この言葉に、あなたは二度抱きしめられることでしょう。
予備知識2 精神科医が持っていない「ある必要なもの」
前回の最後の言葉、覚えていますか?
初めに断っておきますが、僕(徳永分身)は、霊の存在を信じてはいません。彼(萩原玄明分身さん)の言動には否定的です。
ただ、「精神病は病気ではない」と考える点は一致しています。
それと、彼の著書からは学ぶべき点がある、と考えていることも事実です。
彼の言動を批判するよりも前に、まず、精神科医が持っていない「ある必要なもの」について話そうと思います。
それは物語です。
彼(萩原分身さん)は、人間の魂・意識体がどのようなものかということを、僕たちに、心を揺さぶる物語にして、きちんと話して聞かせてくれることができる人です。
そして、僕たち人間の生きるべき指針を示してくれます。
精神科医にも科学が作り上げた「物語」はありますが、それはまだ未完成で、彼の物語と比べるとあまりにも視野が狭く貧弱です。
だから、精神科医にも根本的に治すことができない精神病なのに、彼には、根本から治すということに限りなく近づけるわけです。
大昔、子どもは父親に次のように聞いたかもしれません。
あるいは、大昔、子どもは次のように聞いたかもしれません。
大昔、誰もがこういう何らかの物語を信じていたからこそ、彼らは神様や家族に守られている安心感の中で、秩序を保って生きていられたのです。
その物語が描かれた地図を広げて、先人たちに与えられたコンパスを頼りに、この人生の荒波を乗り越えていけたのです。
「物語」が虚構か実話かということは、あまり重要ではありません。
どれだけ信じることができるか、そのことに意味があります。
ちょっと想像してみてください。
あなたは今、ふと気がついたら、見知らぬ土地にぽつんと一人で立っていたとします。
いつもとは違う、のどかな田園風景が広がっています。
途中の記憶が全て抜け落ちてしまったか、あるいは寝ている間に誰かに連れてこられてしまったという設定でもいいです。
あなたならどうしますか?
僕(徳永分身)なら、まず、道行く人に「ここはどこですか?」と聞きます。
日に焼けて土地の人らしいおばちゃんは、強い訛(なま)りで、どうやら青森県のどこどこだと教えてくれているようです。
その言葉を聞いて、とっさに「ひぇーっ、どうして僕は、青森なんかにいるんだよう???」
と混乱すると思います。
次にやることは、コンビニか本屋の場所を聞き、そこで地図を購入します。おばちゃんの教えてくれた聞きなれない地名を探し当て、自分の今いる場所を確認できて、ほんの少しホッとします。
でもまだ釈然としません。
どんな理由で、どのような経緯で、今自分はここにいるか、ということが全く理解できないからです。
抜け落ちた過去を取り戻さない限りは、とても安心できません。
その抜け落ちた過去を説明してくれているのが、萩原玄明分身さんなんです。
彼は、知らないうちに精神病という見知らぬ土地に連れて来られて、毎日が不安でいっぱいの人(あるいは不安でいっぱいのその家族)に、次のような物語を聞かせてくれます。
これは、彼の体験と想像力が作り上げた物語ですが、これが虚構であっても少しも構いません。
それを信じさせることができさえすれば、それだけで十分な力を発揮します。
霊視によって登場する死者(先祖や縁のあった人)は、「酒の中に毒を盛られて殺されてしまった人」とか、「血だらけになった洋服を、泣きながら洗濯している男の人」などといった形で登場します。
あるいは死者にちなんだ場所とか、道具とか、風景などが現われる場合もあります。
霊視された内容を聞いた家族が、自分たちの先祖の誰々であるかを特定させます(あまり古い話だと、特定不能なこともあるでしょうけれど、不思議とピッタリと的中することもあるようです)。
次に萩原玄明分身さんが、生者に乗り移っている死者の話を聞いてあげて説得をし、最後に供養をすることで、死者は成仏していく‥‥ということです。
何しろ、相手が死者ですから、常にこのような筋書き通りにいくわけではありませんが、こんなのが彼の基本的な解決方法だと思ってください。
次に実例を一つ挙げますが、これも筋書きとはちょっと違います。
先祖ではない死者の意識らしきものが、ある子どもに取り憑いたもので、しかも複数の死者(らしきもの)です。
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テレビで紹介された萩原玄明分身さんを頼って、ある日、17歳になる娘さん(Y子分身さん)が、パジャマ姿のまま、叔母と父親に抱えられてきました。母親は自殺で既に他界していたのだそうです。
ほとんど放心状態のY子分身さんに萩原玄明分身さんが話し掛けると、次々と死者と思われる者の声が彼女の身体を使って答えてきました。
初めの人は、お爺さんのような声で乱暴な話し振りでした。
「うるさい! わしは大正15年に死んだ○○だ」
萩原玄明分身さんが、その人を説得して、供養のための念仏をあげると、「わかった、わかったよ」と言って、彼女の身体から出て行きました。
すると今度は、がらりと女の人の声に変わって「私は昭和30年になくなった○○です」と話し出します。
その人の話を聞いてあげて、心を鎮めてあげてから供養をすると、次に現われたのは、昭和51年に神奈川県の相模原で恋人に殺され、井戸の中に投げ込まれたという女性。
お腹の中に子どもを宿したまま殺されてしまったそうです。
見ると、Y子分身さんのお腹もみるみる大きくなりました。
その人にも慰めの言葉をかけて、供養の念仏をあげると、お腹のふくらみも完全に消えてなくなりました。
この少女の場合は、この日はこのようにして合計9人の死者が次々と現れたそうですが、全て供養をすることでおとなしくなり、長いこと食事もできなくて衰弱していた彼女だったのに、出してあげた食事をたくさん食べて帰ったそうです。
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こうした体験を通して、彼は自分が作り上げた物語を、ますます確信を持って語るようになりました。
死者たちが、縁ある子孫の肉体を借りて、怒ったり罵ったり暴れたり嘘をついたり人を欺いたりする理由は、その死者が生きていた時に、物質的視野で生きていて肉体が消滅したら意識も消滅すると信じていたからだと言います。
そして、死んでしまっているのに意識がある、という事実を受け入れることができずに、自分はまだ生きていると錯覚をするからだと言います。
また、よくお墓参りに行った時に憑依(ひょうい)される例があるそうですが、それは、その死者が死んだら暗い墓の中に入るとばかり思っていて、死後も、その想いが墓に来て留まっていて、死んだ後、自分の魂に自由な働きがあることに気づかないからだと説明します。
これらの説明にかなり疑わしいところがあることはすぐにわかります。
また、酒乱(普段おとなしい人が酒が入ると別人のように暴れたりする)という症状も、酒を飲んだ生者に、悪い死者が乗り移っているからだと説明します。
また、病死や自殺などの不幸(彼はこれを不幸と書いています)は、死んでも魂・意識体は存在するのに、それを信じて大切に供養しない子孫に、死者が、その想いを伝えるために、人間を肉体の無い状態に変えてしまう、つまり死なせてしまうのだと言います。
彼に言わせると、死者には、人間の肉体を無い状態にすることぐらい造作もないことだそうです。
想像力という縦糸と横糸を使って、物語はどんどんと編み上げられ、妄想はどこまでも巨大化していきます。
想像上で作り上げた物語には、そのような成長過程をたどる特徴があります。
ちょっとした想像力さえあれば、様々な不幸の要因を、どれもこれも死者のせい(=霊障)で説明することはいとも簡単です。
ただし、彼は、霊障(れいしょう)というものは、本当はこの世の縁者に運んで来てくれた大切な「教え」であると言います。
その教えを素直に受け止め、今の苦しみの本当の原因は、自分自身の毎日の暮らしざま(先祖を大切にしない不信心さ)の中にあると反省するべきだと言っています。
ここまで来ると、妄想も、単なるつじつま合わせの屁理屈ではなく、「仏様の教え」のような域に達しているのかもしれません。
ところで、このY子分身さんの話には重要な後日談があります。
次回はそれをお話しします。
◆◇◆ちょっと一言
父親や祖父に疑問をぶつけた大昔の子どもが、もし、時空を超えて現代に紛れ込んでしまったならどうでしょう。
役に立たない地図やコンパスを持って、山の中で迷子になってしまったようなもので、それは即、遭難を意味します。
孤独と混乱の中で死んでいくしかありません。
物語は実話でなく虚構であっても、信じることができる間は大きな力を与えてくれます。
しかし、逆に言えば、信じることができなくなった途端、それは役に立たないどころか、大きな混乱を招く大元になることも忘れないでください。
予備知識3 科学の必要性
「予備知識2」では、17歳のY子分身さんの肉体を借りて次々に現われた9人の死者(らしきもの)を、供養によって成仏させた話を聞いていただきましたが、その話には後日談があります。
そのことから聞いていただきたいと思います。
その後、しばらくたってから彼女(Y子分身さん)の父親から電話があり、次のように言われます。
「あんたに供養なんかされたので、少しも治らなかった」
話を聞いてみると、その後も症状が回復しないので、今度は、京都のおはらいをする有名な先生のところへ連れて行ったそうです。
すると、「供養なんかしたら治るものも治らなくなる」というようなことを言われたというのです。
有名な先生の名前は萩原分身さんも知っていて、「悪霊はみな祈祷(きとう)で追い払えばよい」と、さかんに書いたり言ったりしている人だそうです。
萩原分身さんの解決法の本質は、決して供養という行為それ自体の中にあるのではありません。おざなりな供養などをしても効果がないどころか、かえって悪化するばかりだそうです。
彼の物語を感動を持って受け入れ、そこから生まれる本当の供養の心によって、自らに命をつないでくださったご先祖様たちに感謝の気持ちで接する心、現在の自分を取り巻き生かしてくださっている周囲のものに、穏やかな愛情を注げる心が育つことに本質はあります。
Y子分身さん自身も、彼の家族も、そのような供養ができる心が育って、それが暗示効果となって、少しずつ彼女の心を支配していた迷いや不安や混乱が取り除かれていくとしても、少しも不思議ではありません。
しかし、この父親は、萩原分身さんの物語(教え)を信じて、思いやりを込めて供養を行なったとはとても思えません。
自分の不信心を懺悔(ざんげ)するどころか、原因は自分にはないと考えるような精神構造を引きずっています。
萩原分身さんの物語が効力を発揮できなかった最大の理由は、Y子分身さんもその家族も、彼の物語を信じきれなかったことにあると思います。
ところで彼(萩原分身さん)は、「おはらい」について次のように批判します。
「おはらい」と「供養」のどちらが優れているかという問題です。
「おはらい」という行為には、人間に害を及ぼす霊を敵とみなし、理由も聞かずに毅然(きぜん)とした態度で一切寄せ付けない感じがあり、それがY子分身さん自身の心に暗示的に働けば、悪霊をはね飛ばす強い精神力が作れそうです。わりと、自己中心的な解決方法と言えます。
一方、「供養」には、人間に害を及ぼす霊を必ずしも敵という見方はせず、話し合いによって解決しようとする感じがあり、それがY子分身さんの心に暗示的に働けば、目に見えるもの、目に見えないもの、全てに対して深い思いやりと愛情を注ぐ生き方ができそうです。
こちらは、自己中心的と言うより、平和共存的と言えそうです。あなたはどちらが優れていると思いますか?
ところで、「おはらい」をする先生も、「供養」をする先生も、どちらにも共通しているものがありますよね。
それは、お二人とも、人間の肉体は消滅しても(死んでも)、魂・意識体というものは消滅せずに生者に乗り移ったりする、という現象は疑う余地のないことであるという前提の元で話しているわけです。
もし、死者の魂・意識体というものなど存在しないとなれば、どちらが優れているかなどと考えること自体、馬鹿げていることになります。
さて、ここまでは、「おはらい」や「供養」をする先生たちが考えるように死者の魂・意識体というものが存在していて、それが生者に乗り移るということが本当の話であるなら‥‥という前提の上で話してきましたが、ここまでで、あなたはどのような感想を抱きましたか?
あなたは、Aの「やっぱり人間は死んでも、魂・意識体は存在しているんだなあ」ですか?
だけど、死者の霊が存在することは、科学的に証明されてはいません。
体験を元にした想像で作り上げたこれらの物語が、しっかりした裏づけを取りながら進まない限りは、完全に危険性を排除させることはできません。
前回も見てきたように、想像が作り上げた物語は、その人の独り善がりの思い込みによってますます確信を深めながら、どこまでも野放図に巨大に妄想化していく特徴があります。
「予備知識1」に、萩原分身さんの言葉を紹介しました。
今、心を鬼にして言わせていただきます。
もし、「霊が存在する」という大前提さえも真実でなかったとしたら、たとえ善意のみから説かれた「教え」であっても、それは、その人の想像力が作る思い込みを元に、口から出まかせを言っていることに変わりありません。
彼(萩原分身さん)の教えには、人々を正しい方向に向かわせるものもありますが、そうとばかりも言えません。
それは彼の教えも、科学的な証明がなされていない限り、単なる想像とか妄想と呼ばれる域を出ていないからです。
想像や妄想というものは、いくらでも肥大してしまう性質を持っています。例えば酒乱や病死や自殺というものも、死者が乗り移ったり死なせたりしていると彼は説明します。
全ての悪運を霊障で説明することは可能ですし、物語はどこまでも加速度的に拡大します。
それらが確信に変わってしまう前に、しっかりした裏づけを取りながら歩まなければいけません。
非科学的な妄想をしてしまう人間の脳の性質が、いわれのない偏見や差別を生み出していることは明白ですし、やがては無自覚の犯罪やひいては戦争の動機にもつながっていきます。
また、その物語が受け継がれ受け継がれされていくうちに、いろいろな人の想像が織り込まれ、その中には欲が強く影響力を持った人も必ずいて、どんなに素晴らしい「教え」でも、その人の都合のいい解釈をされていくというのが、大体の傾向です。
それが裏づけを取りながら進んで来なかったものの宿命だし、また、裏づけを取りながら進むことに慣れていない人は、どこまでが本当で、どこからが嘘か、検証する癖がないので、全部、信じてしまいます。
安易に信じてしまう行為が、たとえ善意に基づく行為であったとしても、実は、それ自体が犯罪行為であるということに気づいているでしょうか?
僕の意見は、もちろんBの「非科学的なでっちあげにもほどがある」です。
ただ、初めから、「そんなものあるわけないだろう!」と否定してかかるのは科学的な態度ではありません。
だから、自分と違う考え方をする人の言葉にもちゃんと耳を傾けるべきだと思い、萩原分身さんの本も丁寧に読ませていただいたわけです。
先程、「死者の霊が存在することは、科学的に証明されてはいません」と書きましたが、その反対に、科学で霊の「非在」を証明することもとても難しいことも事実です。
ただし‥‥これだけは言えます。よく聞いてください。
確かに、科学には、萩原分身さんの体験と想像力によって体系化された「霊の存在」を否定することはできません。
でも、科学で、彼の不思議な体験(霊視)を説明することはできる。そして、次のようにも言えます。
科学では、「精神病」と言われている不思議な現象を、霊の存在を持ち出さなくても説明することはできる。
◆◇◆ちょっと一言
僕(徳永分身)の伝えたいものが、少しずつみなさんに伝わっているでしょうか?
世界を平和にするためには、物事を科学的に考える力(合理的思考力)がどうしても必要です。
僕たち人間は、自らの想像力によって物語を編み上げていくという能力を持っています。
それは確かに人間にしかない素晴らしい能力ですが、同時に、その物語の根拠となる確実な証拠がないにもかかわらず、それを検証しようともせず鵜呑みにしてしまう素晴らしい能力(?)も持ち合わせています。
その素晴らしい能力(?)は、もしも、自分の都合に合わせた解釈をしてしまったとしても、それを客観的に評価する目を曇らせてしまいます。
物事を科学的に考える力(合理的思考力)が育っていない人間は、自らの善意に導かれながらも、結局は間違った方向(世界平和とは逆の方向)に進んでいます。
だから厳しいようですが、それ自体が犯罪行為だと言ったのです。
僕たち人類が、世界を平和にできないのは、一つにはこの能力?のせいだったんです。
安斎育郎という分身さんの書いた『占いってなんだろう』(岩崎書店)という本を是非読んでみてください。
この本は、「おとなになること」というシリーズの中の一つで、子どものために書かれた本ですが、大人の人が読んでも十分勉強になることばかり書かれています。
ノストラダムスの大予言、占い、こっくりさん、超能力、心霊現象、ひとだま、ミステリーサークル(畑や田に一夜にして円環の模様ができる現象。UFOの着陸跡ではないかなどと言われている)や、金縛り‥‥、などを科学的に解明していくお話です。
この分身さんは科学者でありながら、自ら、奇術でスプーン曲げや超能力現象を実践して見せたりする愉快な方でもあります。
彼はこの本で、子どもたちに物事を科学的・合理的に考える癖をつけさせることで、世界を平和にしようと考えています。(大学で「平和学」なるものを講義されているようです)
心霊現象や超能力などと言われるものを、初めから否定してかかるのが科学的・合理的態度ではありません。
そのように簡単に否定したり、その逆にちょっと不可解なことが起こると心霊現象だとか超能力のせいにしたりせずに、根気強く調べて検証していこうとすることが科学的・合理的態度というものです。
予備知識4 科学に対する誤解
「予備知識3」の最後の言葉、覚えていますか?
そのことは、次回、ちゃんとお話することをお約束します。
今回は、この、霊の存在を持ち出さなくても説明することができる《科学》とは何か、ということをちょっと聞いていただきたいんです。
そのためには、宗教と科学の違いというものを考えるのがわかりやすいと思います。
最近、よく、「世界平和には、科学と宗教の融合が必要だ」などと主張する人がいますが、科学と既存の宗教とは相反するもので、決して融合などできません。
本質的に、対立せざるを得ない関係にあるからです。
無理に融合させようとして科学の方にこじつけや屁理屈を施したら、それはもうその時点で科学ではなく「非科学」になってしまいます。
そうなってしまっては、科学と宗教の融合ではなくて非科学と宗教の融合です。だから、科学と宗教の融合を目指すなら、宗教はいつでも科学に歩調を合わせられる用意をしていなければいけません。
だからと言って、今度は宗教の側に、こじつけや屁理屈を施したら、元々の教理を歪(ゆが)めてしまうことにもなりかねません。
科学とは、自然界にお伺いを立てながら歩む学問なので、もし自然界にお伺いを立てた時に以前の説が間違っていたと気づけば、素直に訂正するものです。将来も、ころころと学説が変化することは十分考えられます。
宗教の教えは千年経っても二千年経っても同じでなければ困ってしまうものなので、現在の科学と融合できないどころか、将来の変化にも対応できません。
ころころと教理が変わってしまう宗教なんて、誰も信じてくれません。
と言うことは、宗教と科学とが融合することはあり得ないということになります。
世界平和には、科学(知)と、宗教(心)を融合させる必要があると主張すること自体は間違いではありません。
とても正しいことを言っています。
ただ、既存の宗教とは融合は不可能だということです。
何故かと言うと、既存の宗教は全て、科学的方法論が不十分な時代に、その多くを人間の想像力に委ねて作られたものだからです。
いずれ、科学(知)と、それが生んだ分身主義(新しい信仰心のようなもの)が、「世界平和には、「知」と「心」の融合が必要だ」と主張する人の言葉の正しさを証明してくれることになるでしょう。
分身主義は、いつでも科学に歩調を合わせることができるからです。
何故なら、分身主義は科学の導き出した結論に左右されることなく、科学の方法論だけを頼みにしているからです。
科学とは、導き出された答えではなく、まさに、この「方法論」のことなんです。
これは追々ご説明したいと思います。
分身主義の森への第一歩は、《幻想》と《実体》の理解から始まりますが、その説明はその時にしますので、ここでは取り敢えず、科学は《実体》を扱い、宗教や日常生活などは主に《幻想》を扱っていると覚えておいてください。
科学は《実体》を扱うから、この自然界で機能するモノを作り出すことが得意です。例えば、電気炊飯器、テレビ、携帯電話、パソコン、自動車、高層ビル、人工衛星‥‥etc.
だけど、よく考えてみれば、《幻想》を扱う宗教には何も作り出すことができないかというと、そうでもありません。
神様を祭る祭壇を作ったり、科学にはできない心の問題を、その宗教を「信じる」ことで解決させ、その人の行動を変化させ、その人の手から作られるモノ(=実体)を変化させたりできます。
宗教は、ほんの少しの曇りもなく「丸ごと信じる」ということができるなら、それこそ他の何ものにも負けない効力を発揮してくれます。
問題は、世界中に五万?とある宗教が、一つに統一できないことなんです。
昔々、周囲を高い山々に囲まれた地域に小さな村が生まれ、一生その村から出ることもなく、他の人たちと出会うこともなく、そこで経験することだけが自分たちの世界の全てという環境の中で、一つの宗教が生まれ、それを全員が信じていられた頃、彼らは病や死の恐怖さえも乗り越えて、幸せに平和に生きていたに違いありません。
でも、他の土地で生きる人たちと出会い、その人たちが自分たちの絶対と信じていた宗教と違う宗教を信奉しているとなると、もう幸せではなくなります。
もし絶対と信じていた宗教に、ほんの少しの翳(かげ)りでもあろうものなら、それは宗教を無力にし、幸せも揺らいでしまうからです。
そこで自分の宗教の優位さを証明する必要が起きて、論争が起こり、戦争が起こります。
科学も、宗教にとっては目の上のたんこぶです。だから宗教は、科学に牙をむきます。
僕たちがこの世界で平和に幸福に生きれるとすれば、みんながたった一つの宗教を信じていられる場合だけです。
そんなことは、情報網や交通網によって世界が狭くなった現代を生きる僕たちには不可能ですよね!
僕たちは、周囲を高い山々に囲まれた昔々に生きているわけではありません。この情報化時代の現代を生きる僕たちは、嫌でもたくさんの宗教と出合ってしまうし、しかも、既に科学とも出合ってしまったからです。
宗教は人々の心を一つにできるどころか、宗教こそが人々をバラバラにし、もめごとの原因を作ったりしています。
その現実に気づかない人は、情報不足か、あるいはどんな情報も、自己中心的に都合よく解釈してしまえる人なのでしょう。
想像力から生まれた宗教では、それを信じない者はその宗教の恩恵に浴することができません。
しかし、自然界で機能するモノを作る「科学」は、科学を信じようと信じまいと、科学を知ろうと知るまいと、誰もがその恩恵に浴することができます。
その仕組みは知らなくても、電気炊飯器、テレビ、携帯電話、パソコン、自動車の恩恵を受け、高層ビルに住んだり、人工衛星から送られてくる情報の恩恵を受けます。
物質的なことだけではありません。
科学は、それを信じようと信じまいと、人間の「心」を変化させることもできます。
例えば薬です。
それを服用すれば、宗教のように「信じる」ことなしに、誰でも心を変化させることができます。
だけど、「予備知識1」に書きましたが、「薬が人間の心を変化させることができても、それが人間の心を根本から救ってくれるわけではない」という意見では、萩原分身さんも精神科医も一致しています。
と言うことは科学にも、人間の心を根本から救うことは無理なのでしょうか? そうではありません!
科学者は、真理を求めるために硬い岩盤をそれぞれの信じる方角に放射状に掘り進み、どこまでも、その先を切り開くために必死です。
だから、もと来た道を引き返し、「人類の幸福」という科学の最初の願いを思い出して、科学全部を俯瞰(ふかん)して整理する余裕がないんです。
だから、精神医学界は薬物で止まってしまっている状況にいます。今の方角をどこまでも掘り進めば進むほど、ますます暗い迷宮に迷い込むだけです。
精神医学界に従事されている科学者が、唯一自然界を師と仰ぐ謙虚な気持ちの真の科学者なら、僕たちの心を救ってくれるのは科学が導いてくれた分身主義しかないことを、いつの日か理解してくださる日が来るでしょう。
それはさておき、萩原分身さんには、この僕(徳永分身)のような理屈っぽい人間が、もしも、「霊魂不滅説は理屈に合わない!」と批判をしたとしたら、その場合にちゃんと用意している言葉があります。
そして、次のように説明します。
どうでしょうか!?
あなたも、本当にこれが「謙虚な姿勢」だと思いますか?
これは科学というものを誤解していることから起こる、科学に対する偏見を伴った憎悪です。
「食わず嫌い」に近い感情です。
彼の言葉をわかりやすく言い換えると、「人間の意識体・魂は、科学という名の理論の組み立てなどでは解明できないほど複雑で高度で崇高である」と言っているのと同じではないでしょうか?
それは謙虚というよりも、むしろ人間を尊大に扱っていると感じるのですが、あなたはいかがですか?
もう一つ、彼が決定的な誤解をしている点は、「科学」とは、コンピューターで数式化したり、理論の組み立てをしたりすることが全てだと信じている点です。
ちょっと古い時代にはこのような偏見が優勢でした。
でも、現代を生きるあなたは気づいているでしょうが、それが科学の全てではありません。
自然界から、謙虚な気持ちでたくさんのことを学ぶことこそ、真の科学です。真の科学とは、どんなことでも人間を中心に考えるのではなく、自然界を中心に考えることを言います。
彼は次のようにも書いています。
この言葉は、人間はもっと謙虚になるべきだと戒めてくださっているのだとはわかります。謙虚になることはもちろん大切です。
でも、科学が人間を傲慢にするのではありません!
傲慢な人間が科学を扱うことで、科学が傲慢になるだけです。
自然界から迷い出て傲慢になってしまった人間たちが、科学を自分たちの欲に利用しているだけで、それらは本当の科学ですらありません。
本当の科学は、自然界様に、「人間とは何ですか?」「この自然界はどのように成り立っているのですか?」「人間はどのように生きたら良いのですか?」と謙虚な気持ちで教えを乞うものです。
それに、彼のように、「人間にはわからない‥‥、科学にはわからない‥‥」といつまでも言っていては、その先に進めません。
現に科学は、かつて人間にはわからないと思われていたようなことを、いくつもいくつも解明してきています。
これからも、人間にはわからないと思われていることを解明していくことでしょう。
だから、古い時代の偏見で、科学に蓋をしてしまうのはもうやめましょう!
もう一度言います。
本当の科学というものは、人間中心ではなくて、自然界中心です。人間中心の似非科学者が、科学を傲慢にしてしまうだけの話です。
本当の科学というものは、自然界に忠実で、実は人間を中心にすえる宗教などよりも、よほど謙虚なものなんです。
今日は、そのことを是非、覚えておいてください。
それでは次回はお約束通り、萩原分身さんの不思議な体験と、「精神病」と言われているもの(つまり霊障と彼が信じているもの)を、科学ではどのように説明しているかということをお話します。楽しみにしていてください。
◆◇◆ちょっと一言
萩原分身さんは仏教徒だから、霊魂不滅説のような発想をする基礎が脳の中に刻まれていると、一般的には思われるかもしれませんが、ちなみに、釈迦分身様は霊魂のことをどのように説いたと思いますか?
「肉体と魂は別のもので、肉体は滅んでも霊魂は不滅である」と説いたのでしょうか?
調べてみたら、なんと釈迦分身様は、このことには「敷衍(ふえん)しなかった」そうなんです。
つまり、一言も語ってない、あるいは語るのを避けたようなのです。
これは意外な事実でした。
釈迦分身様の教えが広まる過程で、各地各国の土着の信仰と結びついて「インド仏教」「中国仏教」「日本仏教」と変遷していくわけですが、日本では祖先崇拝と結びついて祖先の霊に対する《祭り》を仏教で執り行うようになったというのが本当のようです。
予備知識5 霊は存在するか?(1)
さて、今回はいよいよ、考えなければならない二つの課題に取り掛かります。二つの課題とは、「予備知識3・科学の必要性」の最後に書いた二つです。
ここでは、このうちの、❶について考えていきます。
そして、霊は存在するかどうかということにまで言及したいと思いますが、今回はその前半です。
「後づけバイアス」という言葉、聞いたことありますか?
人間は、「こうなって欲しい」とか「こうなるはずだ」という思い(自己成就予言)や、あるいは「こうなって欲しくない」とか「こうなっては困る」という思い(危険回避予言)などを持つと、その思いに合う事実だけを取り入れ、不都合な事実には関心を振り向けないという心理的なバイアス(偏り)の中で生きています。
「虫の知らせ」とか「予知夢」などと言われるものも、これに当たります。
例えば、何年も会っていない友人がふと遊びにきて、楽しかった昔の話などをして帰った夢を見たら、数日後にその友人が死んでしまったとします。こんな時、ほとんどの人間は「あれが虫の知らせだったんだ」と解釈します。
でも、何年も会っていない友人の夢を見ても、その友人が亡くならない場合や、夢を見なかったのに亡くなってしまった場合も、僕たちは、この人生の中で何百倍も経験しているはずです。
でもそういうものは印象に残らず、思いに合う事実だけが心に印象づけられ、「あれこそが虫の知らせだったんだ」となるわけです。
これを「回顧性の予言」とか、「後づけバイアス」と呼んでいます。
人の記憶というのは、かなりいい加減なものです。
例えば道ですれ違った人の洋服が何色だったか、などと後で聞かれて「確か派手な赤色のトレーナーだったと思う」などと答えても、実際に確かめると、派手な青色のセーターだったりします。
これは、派手な色という印象だけが強く残っていて、それで「青色」が、自分の記憶の中では派手なイメージの「赤色」に置き換わってしまっているんです。
また、それほど親しくもない人の話をしていて、「ああ、あのひげを生やした人のことだよね?」とか、「眼鏡をかけた人の話でしょう?」と聞かれると、「いや、ひげは生やしてないよ。あれっ、生やしてたかなあ」とか、「眼鏡はかけてないよ。あれっ、かけてたかなあ」などと、記憶が曖昧なこともあります。
このように人の記憶や意識というものは、かなりいい加減だという経験をしたことはあるはずです。
そこへ来て、人間は、「こうなって欲しい」とか、「こうなって欲しくない」という《思い》の中で生きていますから、いろいろな思い違いがあっても当たり前のことなんです。
もし霊というものが本当は存在していないとしても、人が安易に霊の存在を信じてしまうメカニズムも、容易に理解できます。
後づけバイアスというのは、夢の中でも起こり得ます。
僕(徳永分身)は子供の頃、ある年配の女性芸人の方が、テレビで次のような話をされているのを聞いて、「霊」は本当に存在するのかもしれないと思ってしまったことがあります。
夢というのは、現実の事件の前後関係を入れ替えてしまうこともあります。
昨日は青森と名古屋、今日は北海道と京都と忙しく日本中を飛び回り、分刻みで多忙な生活を強いられている売れっ子芸人がいたとします。彼女は、移動中では寝ていたりして現実なのか夢なのか頭の中はほとんど朦朧としたような状態で過ごしていました。
そんな彼女が、まだ売れなかった頃つき合っていた彼氏のことを時々思い出して、今どうしているのかなあ、などとぼんやりと懐かしく思ったり、時々夢に見たりして暮らしていました。
ある日、元彼の死の連絡を受けた彼女は、疲弊しきって、マネージャーが予約していたホテルに着くと、ベッドに倒れ込むようにして眠りにつきました。そこで、昔の彼が枕もとに立っている夢を見ます。
その時、彼女の頭の中では「彼の死」というものは、「こうなって欲しくない」という「思い」によって忘れ去られていたかもしれませんから、びっくりして「あっ、○○ちゃん、一体どうしたの?」と聞きます。
そして、もし、枕もとに立った夢を見た後に、その同じ夢の中で彼が亡くなったという電話の報告を受けた夢を見たとします。
そうすると、彼女は朦朧とした頭の中で、これらの強烈な印象の方を現実と勘違いしてしまい、この入れ替わってしまった前後関係を信じてしまう、ということになりかねません。
これは、実際に確かめるわけにはいかないので、あくまでも今の僕(徳永分身)の推量です。
このようなことも起こり得る、あるいは、このように考えればつじつまが合うという程度のことです。
でも、最近、自分自身でこれとよく似た体験をしました。ちょっとその話を聞いてください。
僕(徳永分身)には変わった特技があって、夢の中でもこれは夢だなと気づいていて、自分に都合よく脚色したり、これは書いておこうなどと思って意識的に夢から目を覚ますことができます。
最近、メルマガや分身主義の作品を書くために、寝ていても何かいい言葉が思い浮かぶと目を覚まし、枕もとに用意している電気をつけて書き留めるというような不健康な生活をしています。
それは、もちろん起きて何かの行動をしている時でも同じで、いつもポケットにメモ用紙と鉛筆を忍ばせていて、時々、いい言葉が思い浮かべば書き留めます。
ということで、寝ても覚めても、ほとんど頭の中は回転しっぱなしで疲れきっています。
そんな朦朧とした生活の中で「U型便座カバー事件」というものが起こりました。
U型便座カバーとは、あのパイル地でできた便座カバーのことですが、あれは結構付けるのが難しいんです。
初めて付けた時は、どうしてこの口径のモノが装着できるんだろうと、まるで知恵の輪でもやっているようでした。
それが面白いので、それを取り替えるのは僕(徳永分身)の仕事にさせてもらっています。
取り付けて数日すると、腰かけた時に後ろ側になる部分(U字で言えばUの下の部分)がズレてきて、覆っていた便座が露出してしまうということを何度か経験しているうちに、自分が購入するU型便座カバーには上下があるということを発見しました。
腰かけた時に後ろ側になる部分は、上の方が下よりもほんの少し幅が広く作られていたのです。
それなのに幅が狭い方を上にして装着してしまったから、数日したら便座が露出してしまったのでした。
その原因を発見した喜びは強烈でした。
それで、朦朧とした頭の中で、時々その印象が思い出され、「あれは、久々の大発見だったなあ!」などと幸せな気分で過ごしていました。( ⇐ 結構単純)
ところが、ある日、上下を間違えずに装着したはずのU型便座カバーが、やっぱり、ズレてしまって便座が露出してしまったのです。
僕の心は、(そんなはずはない。それは夢に違いない)と激しく否定しました。でも、それはかなり強烈なリアリティーがあり、(夢ではないかもしれない)などと弱気になることもありました。
確認すれば一目瞭然だということはわかりますし、トイレにはもちろん何度も行きますが、今はさっきも書いたように、いろいろな考え事をしながら生活をしているから、トイレに入っている時はそのことを忘れている時の方が多いので、いつも確認することもなく出ていました。
何かをしている折に、また(上下を間違えずに装着したはずのU型便座カバーがズレてしまったのは現実だったんだろうか? それとも夢か?)というハムレットのようなクエスチョンが頭の中に浮かんでは消えたりしながら、それでも確認することもなく数日が過ぎました。
そんなある日、偶然、トイレで「大」をしている最中に、(上下を間違えずに装着したはずのU型便座カバーがズレてしまったのは現実だったんだろうか? それとも夢か?)という疑問が頭の中に浮かんだのです。
それで、(そうだ、今、見てみれば夢だったのか、現実だったのかはっきりする)と思い、ドキドキしながら、ちょっと腰を浮かせてU型便座カバーを覗いて見ました。
その時感じた喜びは、ここ数ヶ月の中で、一番のヒットでした。宝くじで1万円くらいが当たったほどの喜びでした。
なんと、U型便座カバーは、装着した状態をきちんと保っていたのです。
つまり、あの忌まわしい事態は、夢であってくれたんです。
人の脳は、多忙な中で朦朧とした状態で過ごしていると、現実だったのか夢だったのかわからなくなったり、その前後関係もいい加減になるという話でした。
もし、あの年配の女性の売れっ子芸人が、ドキドキしながら確認できる物証があったとすれば、実は、こんなに簡単な脳のトリックだったのかもしれません。
予備知識6 霊は存在するか?(2)
さて、今は、分身主義の森に踏み入る前に予備知識として頭に入れておいていただきたいことをお話ししています。
そのお話のために、萩原玄明という分身さんが書いた『精神病は病気ではない』という本を参考書にさせていただいているわけです。
萩原分身さんが「精神病は病気ではない」と主張する意味は、彼は、精神病と言われているものは全て霊の憑依だと考えているからです。
それでは、どこの国でも昔からある「憑依現象」について、学者さんたちはどのように捉えているのでしょうか?
吉田禎吾(よしだ・ていご)という分身さんは文化人類学的な立場から、『日本の憑きもの‥社会人類学的考察』(中央公論社・中公新書)という著書に、憑依を次の二種類に分けています。
彼は、「社会的に受容される有効な形態」として、新興宗教の教祖、各種の祈祷師、東北のイタコが行なうような、お告げ、予言、占い、病気治療などを挙げています。
しかし、「受容される有効な形態」と「受容されない病的な形態」という場合、社会の文化状況にもよるのではないでしょうか。憑依に対して受容的な社会か、それとも非受容的な社会かによっても評価は違ってきます。
シャーマニズム社会は「憑依に対して受容的」社会で、現代社会は「非受容的」な社会であると考えることもできます。
さしずめ、萩原分身さんを取り巻く社会は、「憑依に対して受容的」な社会というところでしょうか。
諏訪望(すわ・のぞむ)という分身さんは、精神医学的な立場から『最新精神医学』(南江堂)の中で、憑依を次のように定義しています。
また、『憑依と精神病』(北海道大学図書刊行会:高畑 直彦 (著), 内潟 一郎 (著), 七田 博文 (著))という本では、52名の自験例を取り上げてそれぞれを比較検討しています。そんな中で、憑依と言われている現象を次の5つに分類しています。
萩原分身さんは、「精神病は病気ではない」と主張しましたが、彼は、精神病は霊が憑くという憑依現象だと信じているので「病気ではない」と主張したわけです。
でも今見てきたように、科学では、憑依とは精神病(精神分裂病⇒統合失調症)と言われているものの中にも見られるもの‥‥という程度の見方しかしていないようです。
憑依は病気ではなく、身近な生活の中で、遊びや、生理現象や、文化的必要性の中で、生まれている現象でもあったわけです。つまり、精神医学では、憑依現象イコール精神病、とは捉えていないということです。
だけど、それは言い方を換えれば、精神病という病気自体は厳然と存在すると断言しているのと同じです。
しかし、僕(徳永分身)も、萩原分身さんとはまったく違う意味において「精神病は病気ではない」と主張します。
それどころか、僕たちが憎悪や恐怖を込めて呼ぶ「病気」というものすら存在しないと考えています。
僕たちの心の中に強く根づいている、「病気」に対して忌まわしく思う感情は、明らかに人間中心に育ってきてしまった僕たちの偏見ですが、「それ」が消えない限り、世界は決して平和にはならないし、僕たちはこれからも本当の幸福を知ることはないと言えます。
ところで、前回は、「❶科学で、萩原分身さんの不思議な体験(霊視)を説明する」の前半をお話しました。
人間は、「こうなって欲しい」とか、「こうなって欲しくない」という《思い》の中で生きているから、いろいろな思い違いがあっても当たり前のことで、そう考えると、(あるかどうかわからない)霊の存在を「ある」と信じてしまうメカニズムも、容易に理解できる、というようなことを話しました。
今回は、まず、萩原分身さんが見た夢(彼は霊視と呼んで夢と区別していますが)の中で現われた人が、家族の先祖の一人とピッタリと一致する場合について考えてみます。
「血だらけになった洋服を、泣きながら洗濯している男の人が見えます」という霊視があった場合、それを聞かされた家族の一人が、「そう言えば、私の祖母は病弱でよく寝込んでいました。血を吐いたこともあり、祖父が血で染まった彼女の服を洗っていたのを子ども心に悲しく眺めていた記憶があります。間違いありません。それは、たぶん祖父だと思います」と符合させます。
僕たちの脳が何かを想起(再生)させられるメカニズムを考えてみます。五感から入ってきた情報はいったん海馬(かいば)に記憶され、それが必要な記憶ならば、大脳新皮質のそれぞれ違う部位に記憶されますが、それが想起させられる場合には、それぞれが再び統合されて想起させられるわけです。
例えば、今、りんごを思い浮かべてみてください。
あなたの脳の中のりんごは、色や形や味や香りなど、それぞれ違う部位に分けられて記憶されているわけですが、思い浮かべる時は、それらがバラバラではありません。
また同時に、自分の暮らした信州の風景も浮かんでくるかもしれません。それが脳のメカニズムです。
脳にはこのように、異なる部位のものを関連づけるという習性があります。どうしてかと言うと、脳の神経細胞は網の目のように「ネットワークを形成」しているし、同じ神経細胞がいくつもの記憶に「使い回し」されているからです。
連想や想像といったものも、このネットワークや使い回しが作り出すトリックです。
連想や想像が脳の習性である以上、僕たちには、違うもの同士を符合させてしまうことなんて朝飯前なのです。
例えば、あなたは、ご自分の娘さんに何かの霊が取り憑いてしまったと信じ込んでいるとします。それで、娘さんを連れて萩原分身さんのところに行くことにしました。面会した翌朝、彼は次のような霊視をしました。
「たくさんのネズミが黒いものを取り囲んでいるのが見えました。何か心当たりありませんか?」
そう言われたら、あなたの先祖の誰かと結びつきませんか?
必死で娘の異変の原因を探ろうとするあなたの脳の中では、検索機能がフル回転し、ちょっとでも疑わしきものを10も20も引っ掛けてきます。
そのような状態の時、想像力や連想力がたくましい詩人でなくても、ネズミや黒いものを、他の何かに関連づけることはいくらでもできます。
萩原分身さんの霊視(と信じているもの)が、99人の人が先祖の誰ともうまく符合できなかったとしても、1人でもうまく符合できた場合、思いに合う事実だけを取り入れ不都合な事実には関心を振り向けないという心理的なバイアス(偏り)によって、彼は「ほら、やっぱり霊視だ」と結論づけるわけです。
そうなれば、先祖の誰かと符合させることができない99人の人たちも、それは自分の知らないもっと以前の先祖の誰かかもしれないということで、納得することもできるし、いくらでもつじつま合わせはできます。それが非合理性を旨とする、想像力とか連想力とかの特徴です。
こういったことが重なり、ついには多くの人が「霊は存在する」と思い込んでしまうことになるわけです。
しかし、いったん霊は存在すると思い込んでしまった脳を修正することはかなり困難です。何故なら、科学は「霊の非在」を証明することはできないからです。
存在(ある)ものを証明することは簡単ですが、非在(ない)ものを証明することはとても難しい‥‥、と言うより不可能に近いからです。
(つづく)
◆◇◆ちょっと一言
「存在(ある)ものを証明することは簡単ですが、非在(ない)ものを証明することはとても難しい、と言うより不可能に近い」と書きましたが、その弱みを逆手に取ったおもしろいエピソードをいくつかご紹介しておきます。
オウム真理教の教祖が超能力で空中に浮いたという話を、「ただの 《あぐらジャンプ》 だ」と、ある科学者が指摘したら、信者は激怒して「それなら、空中浮遊が超能力ではできないことを科学的に証明せよ」と開き直ったそうです。
ニューヨークの街を砂をまきながら歩いている男がいて、通りがかりの人が、「何をやってるんですか?」と訪ねたら、彼は「いやぁ、ワニを追っ払っているんですよ」と答えます。
「ニューヨークの街にワニなんかいるわけないでしょう!?」と言うと、自分が砂をまいているから出てこないだけだと主張した、という小噺(こばなし)もあります。
「湾岸戦争が早く終結することができたのは、我々信者が手をかざしたからだ」とか、「我々信者が祈ったからだ」などと主張する宗教もあります。
どれもこれも、その虚実を証明することは確かに不可能‥‥なんですが、屁理屈に聞こえてしまいますよね。
何故なら、自分の脳に浮かんだ、自分の思いに合う連想や想像を語っているだけで、どれも客観的な裏づけがないものだからです。
科学的な検証をしてもいない、自分の「思い」を、ただ口にしてしまっているだけなんです。
連想や想像というのは、脳のすばらしい性質には違いありません。詩人になりたかった僕にとっても、とても重要な能力(?)です。でも真実を求めるための議論をしている時に、その手の発言は危険です。
それに頼ってしまうと、極端に言えば、正しいことの基準は人間の数だけ存在してしまうし、どんなものでも白を黒に変えることなんて、人間にとっては朝飯前だからです。
そこに平和はありません。
予備知識7 霊は存在するか?(3)
前回、次のような言葉で締めくくらせていただきました。
そして、非在を証明することの不可能さを逆手にとった面白いエピソードをいくつかご紹介しましたね。
いくら霊の非在を科学的に証明することは不可能であるからと言って、それをもって、霊は存在するという理由にすることは良くない‥‥ということをわかっていただけましたか!? それこそ、まさに非科学的です。
そんなことを大目に見ていたら、世の中、なんでもありのとんでもない事態になってしまいます。
実は、人間の脳が非合理的な考え方をするようにできているので、戦争や争いが起こってしまうのだ、と言ってもいいくらいです。差別に基づく愛や憎しみも、腹の底から煮えたぎるように湧いてくる嫉妬や怒りも、全て非合理的な考え方を旨とする人間の脳が作り出している「感情」です。
感情というものは、僕たちの行為を支配してしまうほど強烈です。
でも、全ての人類が、徹底的に冷静沈着に合理的な思考ができるようにならなければ、決して平和は訪れはしない、などと無理難題を言っているのではありません。
偉そうなことを言う僕(徳永分身)ですら、感情に支配されて非合理的な思考をしてしまい、反省の毎日です。
人間の脳というものは、いかに非合理的な考え方をしてしまうものか、ということを知ることが第一段階なんです。
それを知るということは、自分たちの姿をちょっと上から見下ろす視点を持ちます。
ちょうど、臨死体験をしたという人が、病院のベッドに寝ている自分とそれを囲んで泣いている家族の姿を上の方から眺めているような視点です。
ただし、臨死体験を霊魂不滅説の証拠として取り上げる人がいますから、この比喩は、適切ではなかったかもしれません。
この比喩は誤解を招きかねないので、また最後にちゃんと書こうと思っています。
とにかく、この客観的な視点こそ科学の視点なのですが、その位置でジーッと目を凝らしていると、まるで3Dステレオグラムのように、今まで見えなかったある光景が感動を持って迫ってきます。
「3Dステレオグラム」ってやったことありますか?
下の図で試してみてください。
いかがでしたか? 立体視は成功しましたか?
今日できなくても心配はいりません。焦らず、力み過ぎずに、根気強く続けてみましょう。なかなか見えない人ほど、見えた時の感動は大きいです。
(以下のように見えるはずです)
でも、一度立体画像が見れるようになると、黒い点の助けも借りずに、いつでも簡単に自分の目を立体視の状態に持っていけるようになります。
分身主義も同じです。
その光景を感動を持って眺められるようになるまでは努力と根気が必要ですが、一度見れるようになると、いつでもどこでもその視点が作れるようになります。その視点が世界平和と僕たちの幸福に必要な視点なんです。
安斎育郎という分身さんは、『霊はあるか』という著書の中で、科学者の立場から次のように語っています。
科学者のおっしゃることなのでちょっと難しいですが、実に面白いのでご紹介します。
でも、「霊の存在」を信じて「霊魂不滅説」を受け入れている人たちが、積極的にそのような検証を試みたわけではないことは明白です。
彼は「そのような検証を試みれば、《霊》は実体を持った存在ではなく、人間の脳の働きの一環として生み出した観念にすぎないと考えるのが妥当である」と語っています。
脳科学者の茂木健一郎という分身さんが書かれた『心を生みだす脳のシステム』という本がありますが、これは僕(徳永分身)が読んだ本の中で、心を科学的に解明しようとする試みに最も成功している本だと思います。
彼(茂木分身さん)は先日、NHKの「小柴昌俊博士の楽しむ最先端科学」の中で、「脳科学」を担当してくださった方でもあります。
大概の脳関連の本は、脳の神経細胞の働きなどをこと細かく説明して、「それらが心を生み出しているというのは神秘としか言いようがない」などとお茶を濁して終わるのが普通ですが、この本は、そのように逃げずに真正面から取り組み、たくさんの実験例を取り上げ、哲学的(合理的)考察を加えて、僕(徳永分身)の期待に十二分に応えてくださった力作です。
彼はこの著書の中で、
と言い切っています。
次のようにも言っています。
現代の最先端脳科学に携わる科学者は、誰もがそのように考えています。もし、霊が存在すると考える科学者がいるとすれば、合理的・科学的な思考ができない似非科学者と言えます。
なぜなら、存在も非在も証明することが不可能である霊を、「存在する」と言い切る姿は、とても合理的・科学的な態度とは言えないからです。
それよりも、現代の科学では、様々な臨床結果から、意識が脳のメカニズムによって生み出されているものであるという事実が解明されているわけですから、それに基づいて、人間が「霊が存在している」と考えてしまう脳のメカニズムを解明した方がよほどつじつまが合いそうです。
そして、そのように「思い込んでしまう」人間の脳の習性というものを研究することが、実は、人間社会から争いや戦争をなくすために必要なんです。
安斎育郎分身さんは、「霊は実体を持った存在ではなく、人間の脳の働きの一環として生み出した観念にすぎないと考えるのが妥当である」と言いました。
その言葉と茂木健一郎分身さんの言葉を合成して、次のように言い換えてみます。「霊とは、脳のニューロンのネットワーク全体のシステム論的性質から生み出されている観念にすぎない」
そのように言い換えると、今までいろいろな人に小突かれて、あっちを向いたりこっちを向いたりして座りの悪かったダルマが、スッと起き上がって安定しているような安心感があります。
これが科学の説得力です。
そこで、今回の課題「❶科学で、萩原分身さんの不思議な体験(霊視)を説明する」の結論を次のように言い切ってみます。
霊視を霊視として成立させる根拠となるものは、「こうであって欲しい」とか「こうあって欲しくない」という「思い」が行なう後づけバイアスである。
霊視とは、科学がまだ今のように十分でなかった頃、人間の知恵では理解不能な現象に対して、連想や想像で補って素手で格闘してきた過去の人々の涙ぐましき努力の結晶が作り上げた「おとぎ話」である。
でも、今の科学がその「おとぎ話」を乗り越えた「真実の話」を語り得ているかというと、まだ十分とは言えません。
現代科学は、「真実の話」を語る一歩手前まで来ていますが、どうしてもそこから先に踏み出すことができません。
僕たちの脳に長年に渡って埋め込まれている、ある種の「感覚」が邪魔しているんです。
それこそ、僕たちが「自我」と呼んでいた、脳が作る錯覚のことです。脳が作ってしまった、僕たちの《壁》です。
◆◇◆ちょっと一言
僕たちは今まさに、初めて月面着陸に成功して最初の一歩を踏み出す時のように、人類の歴史的な第一歩を踏み出す瞬間に立ち会おうとしています。
でも分身主義の森に踏み入る前に、現代の科学では、「精神病」と言われている不思議な現象をどのように説明しているか見ておきます。
次回は、二番目の課題、「❷科学で、《精神病》と言われている不思議な現象を、霊の存在を持ち出さずに説明する」に取り組みます。
予備知識8 精神病とは何か?
❶科学で、萩原分身さんの不思議な体験(霊視)を説明する。
❷科学で、「精神病」と言われている不思議な現象を、霊の存在を持ち出さずに説明する。
これまで、この二つの課題のうちの❶について考えてきました。今日は、このうちの、❷について考えます。
今回の参考書は、計見一雄(けんみ・かずお)という分身さんの書かれた、『脳と人間(大人のための精神病理学)』という本です。
彼は、長いこと、精神病の患者と言われる人と自ら向かい合ってきたお医者様です。
この本の主題は、精神分裂病を考察することで脳の機能に迫ろうとするもので、10年近くかけて書き上げられた力作です。(60歳ということなので実は60年かけて書き上げられた力作です)
以下は、徳永分身流に彼の文章を解釈し、難しい専門用語や馴染みのない言葉は全て排除して、とても簡単に要約してみました。
ただし、今回の課題「❷科学で、精神病と言われている不思議な現象を説明する」に正確に答えるためには、彼(計見分身さん)の本に出てくる脳の解剖学的構造の説明に始まって、その一つ一つの役割やメカニズムを答える必要があるので、それについては、彼の本を参照してください。
以下の要約では、最も骨の折れるその大切な作業を割愛させていただきました。
僕たちが何かを認識したり、何かを表現(行為)したりすることは、脳が担っているということを現代人ならほとんどの人が知っています。
精神病と言われている不思議な現象は、どうやらその認識やら表現やらに不具合が生じているもののようです。
僕たちの脳が何かを認識するということは、言い方を換えれば、そのモノと自分との関係や、距離(物理的な距離に限りません)などを知るということです。
そのモノと自分との関係や距離を正確に測るためには、フィードバックという作業が必要になります。
(フィードバック:行動や反応の結果を原因に反映させてより適切なものに調節していくこと)
コウモリが暗い中で障害物や獲物を探し出すのは、超音波を発して跳ね返って来る音でそのモノの形や大きさや、そのモノとの距離などを測っていることは知っていますよね。
そのモノの形や大きさを知る意味は、自分にとっての関係、つまり障害物なのか、それとも餌となるものなのかを知るということでもあります。
僕たちはテーブルの上に置かれたコーヒーを飲むために手を伸ばし、コーヒーカップの取っ手を適切な握力で掴むという行動一つにしても、実は、コウモリと同じようなことを常に行なっているのです。
そんな大げさな! などと言う人は、赤ちゃんにとってマグカップでミルクを飲み遂げることがいかに難しいか考えればわかります。
たくさんの失敗を重ねるうちに、人間はそのモノと自分の関係や距離などを正確に測れるようになっていくわけです。
例えば脳内記憶は、「ここは喫茶店という場所だから、みんながコーヒーなどを飲んで静かに憩う場所で、女の人が運んでくるコーヒーは頭からぶっ掛けられたり、毒を入れられたりしていない」などということを知っているので、いきなりトランペットを取り出して演奏をするのはいけないと判断したり、コーヒーをトレイに乗せてこちらに向かってくる女性を目にしても、慌てて逃げ出す必要はないと判断します。
そのようにして、自分と喫茶店、自分とトランペット、自分とウェイトレス、自分とコーヒー‥‥などとの関係や距離を正確に測りながら生きることで、誰にも違和感を与えない表現(行動)を行えているわけです。
そうして、目の前のテーブルの上に運ばれてきたコーヒーに手を伸ばし、こぼさずに口に運ぶ行動にしても、常に視覚情報や身体情報や記憶にお伺いを立てながら(フィードバックを頼りにしながら)成功させているわけです。
そのフィードバックがうまくいかなければ、正確に距離を測ることもできずに、手に大やけどを負ってしまいます。
僕たちは、そんな難しいことを、日常でいとも簡単にやってしまっているわけです。
もしあなたが、ある日突然、言葉の通じない異国に放りこまれたと想像してみてください。
あなたは、自分がどこにいてどのような状態で、どのような行為をすればいいのかわからず、と言って誰かに聞いてもチンプンカンプンで途方にくれてしまうと思います。
言葉というものは、コウモリにおける超音波のように、自分とモノとの距離や関係をはっきりさせるために必要なものだからです。
もし、目の前にグロテスクな形をしたものを差し出されても、「これは日本でいうパンです。おいしいですよ」と説明されれば、そのグロテスクな形のものと自分との関係がはっきりし、次に空腹を満たすための行為を行なえます。
今、あまり考えずに「空腹」と書いてしまいましたが、それだって「空腹」とか「お腹がすいた」という言葉を知らなければ、何だかわけのわからない気持ち悪い感触となって、突如、自分の身体を襲ってくるものでしかありません。
言葉を持たない赤ちゃんにとっては、空腹も排泄も痛みも区別がつかず、どれも気持ち悪い感触で、それに対して「泣く」という表現しかできません。
さて、精神分裂病と診断される人たちは、ある日、このフィードバックがどうにもうまく作用しなくなってしまう人たちのようです。
心の中に、気がかりや不安や恐怖や強い焦りがあり、それらの感覚は、今までの経験を持ってしても言葉にできなかったり、言葉にしても誰にも理解してもらえなかったりして、何とか自分だけでそれを解消させようとするのですが、そうすればするほど空回りしてしまうような「なんか今までと違うなあ」という感覚が初めに起こります。
そこで試しに、トランペットを取り出して吹いてみると、「ここで吹くな!」と怒鳴られるし、トレイにコーヒーを乗せてこちらに突進してくる女の人には、強い恐怖を感じたりしてしまいます。
テレビで殴り合いの喧嘩をしている場面を見て、その時に自分の身体を襲う気持ち悪い感触が「空腹」であると理解しようとして、冷蔵庫から手当たり次第に食べものを取り出して口に入れたら、お腹が痛くなりました。
今度は、その失敗した経験から、同じような感触が自分の身体を襲った時、笑い出してみることにしましたが、周囲の人は、そんな自分の表現を何か不思議なものでも見るような目で見つめ返します。
やることなすこと何だかチグハグな感じで、うまくいかなくなってしまいます。
今まで普通にできていたことが、空回りして、とてもエネルギーを消費し疲弊しきってしまいます。現実(現在)を理解する手がかりをなくし、頼れる過去(記憶)だけにしがみつくしかなくなります。
ついには、自分が夢の中にいるような、現実が壊れてしまったような感覚に陥り、言葉では表現できない世界に閉じこもって生きることになります。
そうすると、この変化させられた脳の機能が形態を変化(前頭葉や側頭葉の容積減少など)させ、変化させられた形態は機能をますます変化させ、ますます現実とかみ合わない回路に作り替えられていきます。
それは、人間の情動を作り出す脳内化学物質の放出量の変化をもたらすことも当然考えられます。
このように、現実とのフィードバックが正確にできない状態に陥った人が、精神分裂病(⇒統合失調症)と言われる人ですが、彼らが支離滅裂なことを口走ったり、幻聴や幻視に悩まされるのもわかるような気がしませんか。
長いこと、精神病の患者と言われる人と自ら向き合ってきたお医者様である計見一雄分身さんは、そんな時の一番の治療法は「眠る」ことだと言います。
混乱してしまった脳を、元の脳に取り戻すためには、《質の良い眠り》が必要だということです。
現実と関わり合うことにとてもエネルギーを使ってしまう彼らは、現実と接触することを避けるようになりますが、計見一雄分身さんとの関わり(=治療)の最中に、もし彼らがアクビでもしようものなら、彼(計見一雄分身さん)はチャンスと見ます。
彼らが、一瞬でも現実と接触をしてくれて、それでエネルギーを消費して疲れてアクビをした、と解釈するからです。
たとえ一瞬でも、現在が共有されない限りは、治療は一歩も進まないからです。それが、計見一雄分身さんが自らの体験を通して掴み取ったものです。
計見一雄分身さんの書かれた『脳と人間』の最後の方には、萩原分身さんの信じている憑依のことも書かれています。
もし精神科医に、「狐が憑いた」とか「自縛霊がついた」などと言おうものなら、「ア、解離性障害ネ」と軽く片付けられてしまうそうです。
ちなみに、解離性障害とは、何らかの心因を契機に精神・身体的機能が意識から解離して随意的なコントロールが失われた状態であり、旧来、ヒステリーと呼ばれていたものに相当します。
解離性に生じる症状には、次のようなものがあります。
「予備知識2」でご紹介した、パジャマ姿のまま叔母と父親に抱えられて萩原分身さんのところにやってきた17歳になる娘さん(Y子分身さん)は、概ね「❺トランス及び憑依障害」に該当するのかもしれません。
最後の多重人格障害というのは、現在は解離性同一性障害と呼ばれています。
この症状を見せる人は、幼児期に、長期に渡って性的暴力や虐待を受けている可能性が高いと考えられています。
元々子どもは、成人に比べて催眠感受性(解離能力)が高いのですが、幼児期の外傷体験はこの解離能力をさらに高めます。
慢性的に心的外傷にさらされている子供は、「これは自分に起こっている出来事ではない」、「何も起こらなかった」、「痛くない」と自己催眠をかけ、身体的に避けられない苦痛から精神的避難をすることによって事態を乗り切ろうとします。
それによって、数十、あるいは百以上の断片化した人格状態を持つに至ります。
子どもは、どんなに苦痛な仕打ちを受けても、家族や周囲の成人への愛着を断ち切っては生きられないという構造が、解離を促進すると考えられます。
このように見てくると、精神分裂病(⇒統合失調症)も解離性障害も共通するものが見えてきます。
それは、危険と苦しみとストレスに晒(さら)されたこの厳しすぎる日常の中で、その人の脳がその人の脳なりに、自分を取り巻く現実を解釈し説明をしようとしている状態です。
あるいは、厳しすぎる日常を生き延びるために、脳が選択している一種の戦術です。
つまり、それこそが、その状況に置かれたその人の脳の適応の仕方だったんです。
◆◇◆ちょっと一言
これまで、精神病と呼ばれているものの解釈をめぐって、二つの立場をご紹介してきました。
萩原玄明分身さんの信じている霊の世界。
彼は、精神病というのは先祖霊の憑依であると信じきっています。
それに反して、精神病は明らかに脳の異常であり病気であるとする精神医学界の立場。
あなたは、どちらの考え方を採用したいと思いますか?
僕(徳永分身)は、もちろん脳を科学的に理解したいと考えます。でも、科学とは何でしょうか!?
本当の科学を突き詰めると、現代の医学の立場は少し違うなあ、と考えます。
そのところをしっかり理解してからでなければ、せっかく分身主義の森に入っても迷子になってしまいます。
それで、本当の科学とは何かということをもう一度はっきりさせておきたいので、もう少しそのことを聞いていただきたいと思います。
予備知識9 真の科学とは?
今回は、科学者を自認する方たちにも聞いていただきたい話です。真の科学とは何かということを、初心に戻って一緒に考えていただきたいんです。
近代科学は、宗教に支配された長い中世が、ルネッサンスという反中世的文化革新運動によって崩壊させられていく潮流の中で始まったと言われています。
一般的には、そのような歴史のうねりの中に生まれたデカルト分身さんが、幾何学を基礎として打ち立てた方法論によって近代科学の理論的枠組みは確立されたと考えられています。
ただし、デカルト分身さんがそのような方法論を打ち立てることができたのは、彼が、父親の遺産の利子だけで生活ができたという環境だったということも大きく影響しています。
より正確に言うなら、デカルト分身さんが偉かったというより、彼を取り巻く環境や歴史的な流れが、デカルト分身さん(たち)を媒体として近代科学の基礎を築いたということです。
つまり近代科学への重い扉をこじ開けた張本人は、その頃の人々を取り巻く環境だったんです。
その環境にはもちろん、否定される側の教会の権威も含まれています。否定されるものの存在がなければ、近代科学は生まれなかったという意味において、全てのものが荷担して歴史は作られていくと言えます。
今、ちょっと分身主義的な話をしたんですがお気づきですか?
いい機会なので、もう少し聞いていただこうと思います。
ヒトラー分身さんは、ユダヤ人大虐殺などを行なったせいで、20世紀最大の犯罪者などと言われたりしますが、それは間違いで、彼は、彼を取り巻く環境や歴史的な流れの媒体でしかなかったんです。
彼を取り巻く環境には、他の多くの党員や、国民や、それに世界中の人たち、世界中の社会情勢、それに被害者となったユダヤ人など、全ての人や、それに全ての物が含まれます。
‥‥と言うことは、ユダヤ人は、ユダヤ人大虐殺の被害者であると共に加害者でもあったと言えるんです。
それは、ヒトラー分身さんにしても同じです。
彼はユダヤ人大虐殺の加害者であると共に、その渦中に置かれた被害者でもあったと言えます。
こんなことを言うと、正義感の強い方や平和愛好家の方たちから、ごうごうたる非難を浴びそうですが、本当はその方たちの感情や思考も、その方たちを取り巻く現在の環境(一言で言えば「個人主義的な環境」)に、浮かび上がらせ・られているだけのものです。
それに、実は、その方たちの意識が変わらない限り、つまり、その方たちが「ユダヤ人も加害者だった。そしてヒトラーも被害者だった」ということに気づかない限り、世界は決して平和にはならないんです。
そのことに気づくためには、分身主義の森の中で自分の本当の姿に出会わなければなりません。
そして、その方たちがヒトラー分身さんたちに向ける怒りの矛先を、自分に向けられるようにならなければ、いつまでたっても人類は同じ過ちを繰り返します。これは本当のことです。
あなたが今はそれを理解されなくても、これは厳然たる事実なんです。
取り敢えず、この話は分身主義の森の中でたっぷりしますので、先に進みます。
1000年にも渡って続いた中世というのは、「教会が絶対的権威を握っていた暗黒の時代」と形容されることがよくあります。
「人間を暗愚(あんぐ)なままにしておいた時代」とか、「人間を未成年状態に留めておいた時代」と説明している書物もあります。
しかし、好意的に解釈すれば、「神様の救済を無邪気に確信していた時代」であったと言えるかもしれません。
それに対して、近代とは、「中世の闇から精霊を追放し、世界を理性の光によって明晰に照らし出した時代」であると言えます。
デカルト分身さんは、「物体とは、タテ、ヨコ、高さという空間的な拡がりを持って、その空間を排他的に占有しているただのモノに過ぎない」と定義しました。
ニュートン分身さんを初めとする近代の物理学は、このように、物体を単純な《モノ》として考えるところから出発しています。
物体がそういう属性を持ったものなら、そういう属性を持たない全くの別個のものはカテゴリーを別にしなければならない。それが、《精神》でした。
こうして、《精神》が《物体》と画然と分けられることになり、それでデカルト分身さんは、この世界を物体と精神とに分ける「二元論」で説明しました。
彼は幾何学を模範とした演繹(えんえき)的方法(わかっている一般的法則や前提事項から出発して、特殊ないちいちの事実について推論する仕方)によってこの世界を認識しようとしたのです。
ちなみに、数学は純粋な演繹法で、近代科学は、法則が演繹法(えんえきほう)、実験や観測が帰納法(きのうほう)に当たります。
帰納法とは、演繹法の反対の方法論で、一つ一つの具体的な事柄から一般的な法則や原理を引き出すことです。
このように、科学とは、因習や迷信や偏見や感情にとらわれず、演繹法(合理的手法)や帰納法(経験的手法)を用いて論理的に考えていく「方法論」のことです。
真偽(しんぎ)を確認しながら進めていく方法論のことなので、科学的かどうかという意味は、証明できるかどうかを問うのではなく、証明させようという「方法論」が妥当であるかどうか、ということです。
この点を間違えないでください。
例えば「霊」は存在するかどうか?
これは証明できないことかもしれません。
でも、それを証明しようと論理的に考えたり実験や観測をするのは科学です。霊を証明しようとせず「霊は実在する」で終わってしまうのが宗教(?)です。
また、電気炊飯器や携帯電話やパソコンやロケットは科学の方法論によって生まれたものですが、電気炊飯器や携帯電話やパソコンやロケット自体が科学なのではありません。
だから、次のように言うことができます。
「霊」は、脳の神経細胞の働きが生みだす《幻想》であり実体を伴った物質ではない、と現代科学では考えられているが、実際に「ほ~ら、私が霊だよ~」と出現してしまって、しかもそれが「確かに人間とは違う属性を持ったモノである」と証明されてしまった時には、新たな科学の体系を組み立て直せばいいだけの話である‥‥と。
また、今までの物理の理論で作られたロケットがうまく作動しない宇宙空間が発見されれば、新たにそれに見合う宇宙理論の組み換えをすればいいだけの話である‥‥と。
科学は今までもそのように歩んできました。
科学とは、真理を求める飽くなき欲求をモチベーションとして、自然界を師と仰ぎ、常に自然界に間違いを修正してもらいながら、焦らずに忍耐強く歩む「方法論」のことです。
逆に言えば、そのように間違いを修正できる柔軟性と謙虚さを持つものが科学なので、科学(=方法論)そのものにはどこにも間違いがなく、たとえ世界や人の心が将来どのように変化しようとも十分その変化に対応できるものです。科学こそ、僕たちが心から信頼していい唯一の学問と言えます。
ところで、先日、NHK人間講座の『だます心、だまされる心』が終わりました。
講師は、今までにも度々ご紹介させていただいている、我らが誇るべき、安斎育郎分身さんです。
見てくださった方いらっしゃいますか?
という願いを込めて開設された講座ということでした。
科学的方法論だけに信頼を置いて、じっくりと真理を究明していこうとする安斎分身さんの態度はとても共感でき、とても好感を持てます。
それに彼は、大学で「平和学」というのを教えている教授でもあります。同じような願いを持っているという意味からも、僕(徳永分身)は、彼にとても興味がありますし、彼(安斎分身さん)を、我々の代わりに我々とは違う環境で生きてくださっている分身さんとして、とても誇りに思っています。
今回の彼の講義からは、たくさんのことを学ばせていただきました。
でも彼から学ばせていただいたという意味は、彼の言葉が絶対だと感じたという意味ではありません。「これはちょっと違うと思うな」と感じる部分もありました。
だけど、「これはちょっと違うと思うな」と感じさせてくれる彼の言葉と出合えたからこそ、そこから何かを学ばせていただけたわけです。
「これはちょっと違うと思うな」と感じた部分は、NHK人間講座『だます心、だまされる心』の「第6回・自然界の《だまし》名人」の中で、科学者である彼が口にしてはいけない言葉をたくさん口にしてしまっている部分です。
そのことを、明日、聞いていただこう思うのです。
真の科学とは何か? ということを考えるためには、どうしても知っておいていただきたいことなんです。
それが、「科学とは何か」ということをちゃんと考えることにもつながります。
◆◇◆ちょっと一言
「コギト・エルゴ・スム」
中世の悪魔払いの呪文のような不気味な言葉ですが、ちょっと教養がある方ならこれを聞いて何のことかすぐにわかるはずです。
デカルト分身さんの「われ思う、ゆえにわれ在り」のラテン語訳(原語はフランス語)です。
コギト=(私は)思う
エルゴ=故に
スム=(私は)在り
だけど、それを知っているからって自慢気なあなた、ちょ、ちょっと待ってください。この言葉は論理的に矛盾があるんです。
この言葉を簡単に説明すると次のようになります。
‥‥という意味です。
彼(デカルト分身さん)は、疑い得るものをどこまでも疑っていった先に、決して疑い得ない「考えている私」というものがあることを発見し、それを全ての出発点にしました。
ところで、彼は、世界には「精神」と「物体」しかなく、それはまったく別個のものだと言いましたよね。彼は、それらは互いに独立した「実体」であるとしました。
彼は、「実体とは、説明するのに他の何物も要しないものである」と定義していました。
つまり、物体を説明する時に、精神を持ち出す必要はないし、関連性がないので持ち出してはいけないということです。
いいですか?
「われ思う」時に存在するのは、「考えている自分という物体」ではなく「考えていること(内容)」です。
つまり、存在するのはそれを行なっている「精神」のはずです。
彼の立場からすると、「精神」が確実に存在しているという証明を持って、「私という物体」が存在しているという証明にしてはならないはずです。精神と物体は別個のものだとしているからです。
彼は、精神の存在を通して、物体としての「わたし」の存在までも直観推論してしまったのです。
過去の哲学には、現代から考えればこのような論理的な矛盾がたくさんあります。
デカルト分身さんは、精神と物体とは別個のものとしていながら、精神が悲しむと身体という物体に影響を与えたりする現象を説明するために、解剖の経験から、脳の松果腺(しょうかせん)において精神と身体が関わり合っているに違いない、などという科学的根拠の乏しい仮説まで立ててしまいました。
それに、「動物精気」なるものを創作して、身体の中をきわめて微妙な気流が流れているに違いないなどと考えていました。
仕方のないことです。
そのころは、現代ほど科学が十分ではなかったからです。
今の科学では、精神が悲しむと身体が病気になったりする理由なども、中枢神経や自律神経のメカニズムなどを通してちゃんと説明ができます。
さて、二元論を主張するデカルト分身さんの何が間違っていたのでしょうか? 元々分けられないものを、画然と分けてしまった点が間違いの元でした。
現代科学を整理して生まれた分身主義では、この宇宙のあらゆるものは《実体》と《幻想》に分けるところから始めました。
それはデカルト分身さんの言う「物体」と「精神」とに、それぞれ重なる部分もあるように思われるかもしれませんが、出発点においてそれとは全く違います。
分身主義は二元論ではありません。どちらかというと、むしろ一元論です。このことをちょっと頭の隅にでも入れておいてください。
予備知識10 科学者が使ってはいけない言葉
前回、最後に次のように言いました。
彼(安斎分身さん)は、その講義の冒頭で、「《だまし》と言うとどうしても悪いイメージがつきまとうけれど、生物は進化の過程で『生きるための、だましのテクニック』を豊かに獲得してきました」と言っています。
「擬態(ぎたい)」と呼ばれるテクニックのことです。
擬態とは、彼の言葉を借りれば、「外敵に見つからないように景色になりすまして身を守ること」であります。
「木の葉」に擬態するコノハチョウ。
「幹の模様」に擬態するキノカワガ。
「木の枝」に擬態するシャクトリムシやナナフシ。
「海底の砂」に擬態するハゼやヒラメ。
「枯葉」そっくりに擬態するカレハカマキリ。
あなたも、生物の擬態の不思議さを、かつて、テレビや本などで驚きと感動を持って見つめたことがあるはずです。
だけど、彼(安斎分身さん)の説明をサラッと聞き流さずに、ちょっとこだわってみましょう。
彼の言葉をそのまま素直に受け取ると、ある種の動物たちは、敵の捕食から逃れるために、まるで忍者のように、自分の形態やふるまいを周囲の色や形や動きに似せて身を守る術を、長い年月をかけて獲得してきたということになります。
人間は毎日鏡を眺めて化粧をしたり、服装や声色を変えたりして、相手に受け取られる印象を操作しようとします。
これこそ、人間だけにある「だまし」のテクニックですが、まるで彼ら(動・植物)も、長い年月をかけてそのようなテクニックを獲得してしまったかのような言い方です。
鏡も持たず、自分の姿を客観的に眺めることもできない彼らが、どうしてそのような術を体得できるのでしょうか!?
もっとも、彼(安斎分身さん)だけでなく、動物を扱ったテレビ番組や本などでも、嫌になる程そういった説明であふれています。
それも、嘆かわしいことに科学者と言われる著名な学者先生連中が、そのような発想をしてしまうのです。
現在、生物学界を覆っている、幼稚な(無邪気な)風潮なのかもしれません。
事実を脚色せずに見つめたり、自分の頭で考えたりすることに十分な経験を積んでいるはずの科学者たちでさえ、ちょっと油断をしてしまうと、この結果です。
擬態をしている動物たちは「外敵に見つからないように景色になりすまして身を守っている」わけでもなく、それらが彼らの生きるための「戦略」でもなく、そのような形態や行動様式を努力をして「獲得した」のでもなく、たまたま彼らの形態と行動様式が、「外敵に見つかりにくい」だけであり、そのことによって敵の捕食から免れて、その種の遺伝子を持ったものが繁栄しているだけの話なんです。
極端に言えば、人間以外の動物は、他の動物に捕食されることを嫌がっているわけでも恐怖しているわけでもありません。
動物が動物を捕食することは、少しも残酷なことでも惨(むご)たらしいことでもありません。人間が感じる「嫌悪」や「恐怖」や「残酷さ」とは、明らかに違う性質のものです。
彼らはただ、刺激に対して本能的に反応をしているだけです。
人間以外の動物たちの形態や行動が、我々人間の目から見れば、捕食者から逃れる方向に働いているように見えるのは、そのような形態を持ち、そのような反応をする遺伝子情報を持ったものが、極力、捕食されずにいたので、結果として現在、繁栄しているだけです。
人間の感情も何らかの刺激に対する反応に過ぎないのですが、人間が「言葉」を用いることになった時点で、人間の脳内に自分の脳の中を見る「第二の脳」のようなものが生まれ、彼らとは全く性質の異なった反応の仕方が形成され、それによって感情と呼ばれるものを経験することになったわけです。
この、人間だけが持つ感情や、人間だけが持つ敵や味方という概念を、言葉を持たない彼らに投影してしまうのは明らかに間違いです。
言葉を持つ動物もいるじゃないか、と反論される方もいらっしゃるかもしれませんが、それは人間の用いる言葉と同じような意味で用いられる言葉ではありません。
まず初めに、真の科学を知るために、三つのことを覚えておいてください。
まず、[❶進化という言葉は不適切である]についてです。
なぜ「進化」という言葉が不適切かというと、進化という言葉の中には「より良く変化した」という意味合いが感じられます。
例えば、人間は、胎児の時に「進化」の過程をなぞると言われています。僕たちが魚であった時代や、両生類や猿であった時代の身体の作りが遺伝子に記憶されていて、エラとか指の間の水かきとか尻尾なんかが胎児の時に現われては消えていきます。
これを「個体発生(人の命が生まれてくる過程)は系統発生(人類が発生してくる進化の変化過程)をくり返す」と表現します。あるいは、再演性変態(さいえんせいへんたい)とも言います。
その事実からも、人間は次のように考えます。
魚よりも両生類、両生類よりも爬虫類、爬虫類よりも哺乳類、そしてその哺乳類の中でも人間こそ最も進化した生き物である。
この「進化」という言葉の中に、「より上等なもの」という意味合いが含まれていることは否定できません。
もちろん、科学者の方々は、科学的概念である「進化」は、社会的概念である「進歩」とは全く別物である、と主張すると思います。「生物進化は環境に応じたランダムな変化であって、価値が高まっていくとか、目標に向かうというような意味は一切含まない」と。
そうだとしたら、なおさらそのような誤解を生みやすい言葉は使用するべきではないんです。一々、そのような弁解をして回らなくても、「生物変化」で十分言い尽くせていますし、むしろ適切に表現しています。
だから、『サルの進化をたどる』という本のタイトルや番組などがあるとすれば、それが科学雑誌か科学番組なら『サルの生物変化をたどる』と訂正すべきだし、「ダーウィンの進化論」は「ダーウィンの生物変化論」と言うべきなんです。
えっ、それでは何だか格好悪いし、明るい希望的な感じが損なわれる、ですって?
ほらね!
やっぱり、そのような特殊な感情を混入しようとしているじゃないですか。
下等動物、高等動物という言葉も同じです。
少し考えれば、下等、高等は、人間の持つ価値観に根差した偏見を持った非科学的な言葉だということがわかります。
この宇宙には、上とか下とか、良いとか悪いとかいう判断基準はありません。その基準を作っているのは、人間の感情的な観念です。
また、年を取ると老眼になったり骨がもろくなったりしますが、その現象を身体の衰えと捉えるのも、実は非科学的な根強い偏見であって、自然界の客観的事実のみに着目すれば、それは単なる「変化の過程」に過ぎないんです。
だから、人間中心主義である「医療」というものは、その多くの部分を科学的ではない部分が占めています。
科学が人間の感情に支配されてしまっては、客観的事実は見えなくなります。しかし、科学者と言えども人間です。
感情から全く無縁では生きられません。
客観的な事実のみに目を向ける真の科学者たろうとするならば、その落とし穴にはまらないためにも、「進化」という麻薬のような言葉の使用を、あらかじめ避けておくべきだったのです。
次に、[❷生物の多様性に満ちた形態や、特有のふるまいの原因は、遺伝子の突然変異と環境とが作り出す偶然性である]について書きます。
現代科学では、生物の進化(⇒ 変化)の起こる原因を「遺伝子が時たま作り出す突然変異が、その時の環境に適応して種を変化させている」と考えています。遺伝子は何万分の1かどうかは知りませんが、時々突然変異を起こします。突然変異は、異常でも失敗作でもありません。
この宇宙には異常という判断基準もありません。
養老孟司分身さんも、「確率的に生じうる事象を異常ということは、本来できないはずである。地震も台風もべつに異常な現象ではない」とおっしゃっています。
僕たちは、安易に異常という言葉を使ってしまいますが、自然界で起こる全ての現象は、全てが自然法則に則(のっと)った「正常」な反応の結果です。
そのようにしてたまたま起こった突然変異が、その時の環境で、より多くの子孫を残すことになれば、結果として、その種の遺伝子を持ったものが繁栄し、その逆に、その時の環境で滅びる変異であれば絶滅するだけです。
要するに、どちらも環境に適応した結果ということです。
ちなみに、血液病理学、生命倫理などを専門とされている難波紘二(なんば・こうじ)分身さんは、
とおっしゃっています。
「正常と異常という概念それ自体には、良いとか悪いという価値判断は含まれていなくて、その基準は、医学や生物学の中にあるのではなく、社会にあるのである」ということです。
だったら、そのような誤解を生みやすい言葉を使用してしまって、そのつど弁解して回るよりも、科学では、初めから「正常・異常」という言葉を使用せずに、「多数・少数」という言葉だけにしておかなければいけません。
人間は感情で目が曇りやすいものなので、そのようにしておかないと、間違った判断をしてしまいやすいものだからです。
最後に、[❸人間以外の生物に、人間のふるまいをなぞった擬人法を用いてはいけない]についてです。
人間は、自分の肉体を自分の望むものに改造させることができる動物である、と一般的に考えられています。
例えば、貧弱な身体をトレーニングと食生活の改善により筋骨隆々な身体に変身させたり、肥満した身体をダイエットして見栄えをすっきりさせたり‥‥。
人間には何かを成し遂げようという「意志」があり、それを可能にすることができる、と一般的に考えられているからです。
それを他の生物にも当てはめると、童話などで用いる擬人法というテクニックと似たような、子供だましの非科学的な感情移入が起こります。
それを分身主義では「意志(意思)的解釈」と命名して批判します。
例えばキリンの首が長くなったのは、より高い所の食物を食べるためであるなどという解釈のことです。
キリンの首が長くなったのは、彼らがそれを望んだのでも努力したのでもなく、突然変異が、長い首の種を作り、以後、その種のキリンが環境に適応したため、その遺伝子を持ったものが繁栄しているだけの話です。
彼らの首が長くなった変化を、より良く変化した(=進化)と見て取るのは人間の身勝手な想像に過ぎません。
カメレオンが身体の色を変えて、周りの色にまぎれて獲物を捕獲したり、敵に見つかりにくくしているのは、彼らが意識的に(頭で考えて)やっているわけではありません。
彼らの身体の表面には、メラノサイトという色素細胞(白、赤、黄、黒などの色の粒を持ったもの)があり、その色の粒の大きさの組み合わせがいろいろ変わると、色が変わるのです。
色の粒の大きさを変化させる引き金となるものは、彼らの念じる意思の力などではなく、外からの光の波長や熱などの刺激です。
光や熱の刺激(情報)が中枢神経系に伝えられ、それによって交感神経やホルモンが働き、細胞の粒の大きさを変化させられるのではないかと考えられています。
そしてまさに、偶然、環境の変化に伴って体表にそのような化学変化を起こす種が、獲物の捕獲に有利だったし、敵からの捕獲を逃れることに成功し、長く生き延びて、その遺伝子を持ったものが今も繁栄しているというだけの話です。
それは決して、彼らが命を守る工夫として獲得したものではありません。自然の中に生きる彼らに、自らの命を守る気持ちなどありません。
彼らは生きるも死ぬも自然に任せているだけです。
人間だけが「命」を特別扱いし、それを彼らにも投影してしまうのです。
動物が敵から逃げる行動も、そのような行動を取る遺伝子を持った種がたまたま敵の捕獲から逃れて、現在、繁栄しているからに過ぎません。
彼らの行動は自分の命を守ろうとしているものではなく、結果的にその行動が自分の命を守っているのである‥‥これが科学的な視点ですが、人間中心の視点(=命を特別視する視点)で見れば、彼らが自分の命を守ろうとしていると解釈してしまうのですね。
科学的な視点で観察をするような訓練を積んでいる生物学者の方たちでも、なかなかこの人間中心の視点から自由になれないようです。
それでは、先ほどの三つの立場をしっかりと踏まえて、先に進みましょう。
安斎分身さんの紹介してくださった擬態は、先程、冒頭に挙げた動物(昆虫も動物に含めます)だけでなく、まだまだあります。
シマキンチャクフグとノコギリハギはそっくりですが、シマキンチャクフグには毒があり、ノコギリハギには毒がありません。
彼はこれを、「ノコギリハギがシマキンチャクフグに擬態して、つまり、敵の嫌がる他の生物になりすまして身を守っている」と説明しています。
でも、ノコギリハギが、そのような知恵を持っていて、特別な努力家であったとも思えません。
たまたま、シマキンチャクフグとそっくりな形態を作る遺伝子を持っていたノコギリハギが、他の生物から捕食されずにすんだので、その種の遺伝子が引き継がれているだけの話です。
もし本当に、「ノコギリハギがシマキンチャクフグに模様を似せることで、敵の嫌がる他の生物になりすまして身を守っている」としたら、人間の知能を超えたスーパー詐欺師です。だとしたら、彼らの元々の身体はどのようなものなのでしょう!?
また、「目玉模様」をつけた体で、敵を威嚇するアケビコノハの幼虫やヤマネコなどの擬態も紹介してくださっています。
例えば目を閉じてアクビをしているヤマネコですが、目玉模様があることで、鋭い眼つきで敵を見すえ大きく口を開けて敵を威嚇しているように見えます。
彼(安斎分身さん)は「眼を閉じている時でも、常に身を守れるような工夫をしている」と語っています。
これも、科学的な考え方としては、「そのような模様をつける遺伝子を持ったものが、たまたま他の生物からの捕食を逃れて、以後も、繁栄している」というのが正しい言い方でしょう。別に彼らは、毎日毎日、鏡を覗いて、威嚇する顔を工夫して身につけたわけではありません。
他にもたくさん紹介してくださっていますが、最後に一つだけ植物の擬態の例を取り上げて終わりにします。
オーストラリアのハンマー・オーキッド(ランの一種)の話です。
これは、「雌バチ」そっくりに擬態した唇弁を持ち、それに飛びつく雄バチによって受粉を成功させます。
彼(安斎分身さん)は、このことを、「種子植物が確実に受粉し安定して子孫を残せるように工夫をした結果である」と考えていますが、他の生物学者たちも、どうしてハンマー・オーキッドがこんなに手の込んだ「だましのテクニック」を身につけたのかと考え抜いたすえ、いくつかの仮説を考え出しています。
ここではそのうちの一つ、「低密度仮説」をご紹介しておきます。
この仮説は、「ランは、通常、受粉係りのハチのために報酬として蜜を用意しておくが、ランの分布がまばらで、蜜を用意するくらいではハチが確実に訪れてくれないような状況のもとで、こうした進化が促進されたのではないか」と考えるものです。
しかし、この仮説には疑問点が残ります。
それならハチなどの手を借りずにセルフサービスで受粉する方式(自家受粉方式)が発達してもよかったはずだ、ということです。
他にもいくつか仮説が提出されていますが、そのどれも素晴らしい想像力を働かせて考え出してはいるものの、それぞれにいくつかの疑問点も残り、現在のところ、これといった特定はできていないそうです。
当たり前のことです!
自然界の現象に、何らかの意味づけや理由づけをしようとする、元々の発想自体が間違っていたんです。
どうやら、科学者と言えども、自然界の作り出す多彩な偶然性の中に、何らかの「意味や理由や目的」を見つけ出さなければいられないようです。
これでは、萩原玄明分身さんが、精神病という不思議な現象に対して何らかの「意味や理由や目的」を見つけ出そうとして、ついには、精神病は先祖の浮遊霊の乗り移りだというこじつけをしたのと、動機の面からは大した変わりがないようです。
いいですか!?
ハンマー・オーキッドがあんなに手の込んだ「だましのテクニック」を身につけた答えは、いたって簡単です!!
その答えは、「そんなものに意味も理由もありません!!」です。
科学は、ハンマー・オーキッドがどうしてハチを引きつけるのか、という《原因》は限りなく突き止めることができます。
でも、科学には、ハンマー・オーキッドがハチを引きつける「意味や理由や目的」は永遠に探り当てることはできません。
自然界には、「意味も理由も目的」もないからです。
自然界における生物の多彩な形態やふるまいは、単なる遺伝子の突然変異と環境との作り出す偶然性の結果に過ぎません。
そこに「意味や理由や目的」はありません!
そこに「意味や理由や目的」をこじつけるのは、人間の側の都合です!
これが現代科学の到達した結論です。
いえ、言い直します。
自然界から迷い出て傲慢になってしまった人間たちが、自分たちの欲を満たすために利用しているだけの科学ではなく、自然界様に謙虚に問い続ける「真の科学」が到達した結論です。
下のYouTubeは僕(徳永分身)が作ってみたものですが、8分31秒なので時間があれば見てください。
本当は、現代科学はこんなに素晴らしい結論に到達しているのに、似非科学者たちが未だに「おとぎ話」を作ろうと必死になっているんです。
自然界は、「意味も理由も目的」もなく、一定の決まりの範囲内で適合する隙さえあれば何でも試す、実にバラエティーに富んだ世界です。
僕たちが知らないだけで、この地球という惑星の、その高々数十億年の間だけでも、膨大な試みを、自然界は繰り返しています。
もしそこに何らかの「意味や理由や目的」があったのなら、手当たり次第に試みを繰り返すようなことをするでしょうか?
インターネットの「学研キッズネット」には、現在、地球上の生物は500万種以上と書かれていました。
その中身は、まずは、鳥類が9000種、魚類は2万3000種、哺乳類が、5000種、両生類が2000種、爬虫類が5000種で、今あげた動物は全て脊椎動物で、これらを全部合わせると4万4000種です。
このほかにも、節足動物80万種、軟体動物11万種、原生動物3万種、腔腸(こうちょう)動物1万種。
それに、ウイルス、細菌、菌類まで含めた、地球上のすべての生物は、植物の30万種を含むと合計500万種以上になると考えられています。(「学研キッズネット」より)
だけど、これらの数字はまったく控えめだと思います。
まだ見つかっていない種も含めればもっともっと膨大な数になるはずです。
深海の生物などはほとんど知られていませんし、また昆虫は、この解説によると節足動物の80万種の中に含まれるはずですが、毎年何千もの種類が世界中から新種として発表されていて、未発表・未発見の種を加えるとその実数は、2000万種とも1億種とも考えている学者もいるようです。
また、イギリスの生物学者ノーマン・マイヤース分身さんは、『沈みゆく箱舟』という著書の中で、この地球上では、現在、たった13分に1種が絶滅していると推定しています。(これは恐竜時代の約1000年に1種の絶滅という速度からみると、驚異的なスピードだと彼は言っています)
つまり、僕たち人類が気づかないうちに、たくさんの種類の動植物がこの地球上に現れたり消えたりしているのです。
自然界はこれ程までに、生まれたり絶滅したりを繰り返す、バラエティーに富んだ世界であったという客観的事実をあなたはどのように受け止めますか?
僕たちは、宇宙的な時間で見たら、ほんの一瞬の、ほんの一部の生物の姿を見て理解しているに過ぎなかったんです。
例えば、僕たちはオタマジャクシは必ずカエルになると信じています。
だけどそれは、宇宙のほんの片隅のこの地球という惑星の、宇宙年齢から見ればほんの一瞬の間に起こっている、遺伝子と環境との作り出す偶然性の結果に過ぎません。
もしオタマジャクシを地球以外の惑星に連れて行ったり、あるいは100億年前に連れて行ったり、100億年後に連れて行けば、それは全く違う変化を遂げる生き物となるでしょう。
えっ、地球以外の惑星で生存できる確率は極めて低く、恐らく死滅するだろうって? ですから、「全く違う変化を遂げる」と言ったのです。死滅も変化の一つですよね。
その姿が、そのオタマジャクシが環境に適応して変化をしている一つの現象です。
オタマジャクシは必ずカエルになるなんて信じていることは、僕たちの生きるこの地球という惑星の、その高々数千年の間の体験に基づいて、僕たちが推測しているだけだったということなんです。
首が長かったり、ひれがあったり、胴が長かったり、目がたくさんあったり、指が五本だったり三本だったり、羽が生えていたり、体表の模様がまだらだったり、赤かったり、青かったり、毛で覆われていたり、つるつるだったり、水の中で窒息しなかったり、大気中で窒息しなかったり、高温の場所でも生きていたり、綺麗な花を咲かせたり、何かに反応して発光したり、奇妙な花をつけたり‥‥、手当たり次第なんでも試してみるのが自然界なんです。
刺激に対する反応の仕方でも、それこそ何万種類と試した中で、たまたま今の環境に生存する方向で反応をするものだけが生き残って、その遺伝子を持った種が繁栄しているに過ぎないんです。
と言うか、今も変化の途上で、これから先もどんどん変化することでしょう。
もし自然界に、「意味や理由や目的」があるならば、このような偶発的とも言える多様性は考えられないはずです。
生物は、最適な「意味や理由や目的」をもったものに向かって収斂(しゅうれん)していき、ついには一種類になってもおかしくないはずです。
でも、自然界の実際は、昆虫だけを取ってみても2000万種とも1億種とも言われるほど多種多様ではないですか。
それ故に、生物の形態や行動様式の進化( ⇒ 変化)は、単なる遺伝子の突然変異と環境との作り出す偶然性の結果であると考える現代科学の仮説は有力であるわけです。
人間にはあるとされる「意思(あるいは意志)」を、動植物に当てはめる方法を「擬人法」と言いますが、これは、童話などによく使われる子供だまし?のテクニックです。
これがどんどん発展して、擬人法を宇宙にまで拡大させてしまった愚かな(無邪気な)科学者の言葉を、最後にご紹介しておきます。
彼(宇宙学専門のある分身さん)は、宇宙の生成過程や生命の誕生過程を丹念に科学的な目で研究を続けた結果、ある結論に辿り着きます。
その理由は、
‥‥と言います。
我々はどうしても、自分や人間を中心に物事を見てしまいます。そのような視点が、この宇宙に起こる様々な現象に対して、自分たちの生命誕生を希少で素晴らしいことだと特別視してしまうから、このような妄言(もうげん)を吐いてしまうのでしょう。
この宇宙で起こることは、どんなに小さなことでも、その人の思い入れが込められれば、「あまりの確率の低さをくぐり抜け」たものばかりです。
ねえ、だって偶然とはそういうものでしょう!?
彼もまた、自然界よりも人間を中心に物事を考えてしまう似非(えせ)科学者なのです。
あげくの果て、彼は、「宇宙は人間を必要とした」などと言い出します。
その理由は驚くべきものです。
これは、れっきとした科学者の言葉です。ここまできたら何も言えません‥‥(^_^;
さて、今回のお話を読んでいただいた方の中で、科学に対して、寒々しい荒涼としたイメージを抱いてしまった方はいらっしゃいませんか?
「何でもかんでも暴かないで、少しは嘘も信じさせてよ!」
「そうだよ、少しはロマンがあってもいいんじゃないのか?」
「あ~あ、だから科学って好きになれないのよ」
「徳永分身さんって、冷たい人なのね。キライ!」
そんな感想も聞こえてきそうです。
僕が嫌われるのは、その方の「感情」なので仕方ないことですが、せめて科学には「感情」を持ち込まないようにお願いしたいのです。それらは、詩や童話などの芸術の世界でいくらでもできるじゃないですか。
科学に関しては、事実を脚色せずにとことん客観的に見つめる気持ちを持ってください。
世界を平和にするためには、どうしても必要なことだからです。
でも、心配しないでくださいね。
その人たちのイメージは、「真の科学」というものをまだ良くわかっていないことから来る単なる誤解です。
次回、そのことをはっきりさせます。
◆◇◆ちょっと一言
「人間にはあるとされる意思」‥‥という表現を使いましたが、どういう意味だと思いますか?
どうして「人間にはある」とはっきり断言せずに「あるとされる」と言ったのかというと、これこそ分身主義の視点だからなんです。
人間には確かに「意思」のようなものがあります。
例えば、ダイエットをして、もう少しボディラインをスッキリさせたいとか、大通りを渡るのに困っているおばあさんの手を引いて渡してあげようとか、一流校を卒業して将来は政治家になるぞ、‥‥とか。
その「意思」、あるいは「意志」と呼んでいるものは、今までは、他の何ものの助けも借りずに、自分の内部から自発的に生まれてくるものだと信じていました。
「人間にはそういうものがある」と信じられてきたのです。
しかし、科学は、今まで言われていたような、他の何ものの助けも借りずに自発的に生まれてくるという意味での「意思」など、どこにもないことを解明しています。
僕たち人間は、その取り巻く環境に、意思を浮かび上がらせ・られて、それによって行動を取らせ・られていただけの、いわば環境の媒体に過ぎなかったのです。
分身主義を体感するということは、まさにそのことを理解し、自分の意思と呼んでいたものが宇宙との関係性の中から生まれていたことを感じることなのです。
その時こそ、僕たちが宇宙と一体となる瞬間なんです。
今までの僕たちには馴染みのない感覚ですが、順序を踏んで勉強していけば、この感覚を自分のものにすることは、そんなに難しいことでもありません。
分身主義の森を、ゆっくりと確実に一つ一つをクリアーしながら歩いていけば、必ず身につくはずです。
ところで、人間の心が、胎児期・幼児期・青年期などの発達段階によってどのように変化していくのかを研究する学問に「発達心理学」というものがあります。
発達という言葉を聞くと、誰もが、「成長する」というプラスのイメージが浮かぶはずです。
それで、比較的最近までは「発達心理学」においても、発達とは胎児から成人に至る前までの過程を指していました。
人間は成人で「完成」し、その後は成長が止まり、停滞・衰退するだけという理解がありました。
しかし、近年の著しい平均寿命の延びは、「発達」の捉え方を大きく変えなければならなくなります。
「発達心理学」は一生に渡り「成長」と捉え、中年期や老年期までにも研究対象を拡大せざるを得なくなります。
当然と言えば、当然のことなのです。
元々、「発達」という概念自体が、人間寄りの偏見で、科学用語としては間違っていたからです。人間はその一生に渡って「変化」し続ける存在でしかありません。
もっと長期的に言えば、僕たち個々の肉体は、この宇宙の中の素粒子の変化過程の一時期に見せる仮の姿に過ぎません。
高齢化社会は、発達心理学を少しばかり科学的な学問にしてくれることに役立ったようです。
だけど「母親の胎内に命を宿した瞬間から、この世を旅立つ最後の一瞬まで、人間は成長し続ける存在である」と考え直そうとしている発達心理学も、まだ真に科学的な学問になったとは言えません。
あるのは、発達でも成長でもなく、「変化」のみ‥‥です。
「発達」という言葉も、「成長」という言葉も、自然界の客観的事実のみに目を向ける謙虚な気持ちを持った場合、科学用語としては素直に捨て去るべき言葉なんです。
今、科学は、真に科学的であるとはどういうことなのかを、問われる必要があると感じています。
もし、あらゆる学問が真に科学的であろうとするならば、進化、発達、成長、あるいは退化、衰退、このような人間の価値観に根差した偏見を持った言葉を廃して、全ての段階を自然界の中で「変化」している過程と捉え直す時期に差し掛かっています。
「どうして、そんなことをしなくちゃいけないの?」ですって!? そこから見えてくる世界があるからです。
そこからしか見えてこない世界があるからです。
一緒に、目を凝らして、その素晴らしい世界を発見しませんか!!
僕たちは、今、それを発見する旅に出ようとしているんです。
予備知識11 科学の限界と可能性
前回、科学者、特に生物学者と言われる人たちが迷路に迷い込んでしまう原因を見てきました。
僕が言いたかったことは、どの程度伝わったでしょうか?
自然界にある全ての現象には、意味も理由も目的もありません。例えば、目は物を見るために進化( ⇒ 変化)したのではありません。
常に変化し続けている宇宙の中で、僕たちの目という部分も変化の過程を辿っている一時的な姿に過ぎないのですが、それがたまたま、モノに反射する光の粒子に対して特定の反応をして、それがフィードバックを得意とする脳によって解釈された方法に対して、人間だけが「モノを見ている」と意味づけているだけです。
科学は、目がどうしてモノを見ることができるのか、という「原因」は限りなく突き止めることができます。
でも、科学には、目がモノを見る「意味や理由や目的」は永遠に探り当てることはできません。そもそも自然界に「意味や理由や目的」はないからです。
それは、詩やおとぎ話などの文学や、宗教などの分野です。
最初から意味も理由も目的もないものに、意味や理由や目的を見出そうとするから、どんどん迷路にはまり込んで、何も理解できなくなってしまうんです。
意味や理由や目的を見出したいとするのは、人間の側の都合に過ぎません。
自分の「生」を、何らかの意味や理由や目的で飾り立てて、いい気持ちになりたがるのが人間の特徴ですが、でも、それを人間以外の動物や植物、あるいは宇宙に投影しては科学的真理は永遠に見えてきません。
科学的真理が見えないということは、科学が導いてくれた分身主義の真髄も永遠に理解できないということになります。
それで、分身主義の森に踏み入る前に、真の科学とは何かを考えていただく必要があったのです。
安斎分身さんは、何かを判断しようとする時、
はっきりさせておく必要があると言っています。
「科学的命題」とは、その命題が正しいか正しくないかを客観的に決めることができるもののことです。
つまり、命題の真偽(しんぎ)が価値観に依存しないような命題のことです。
例を挙げると、「昨日、栃木県の北部では雪が降っていた」という命題があるとします。
それは、実際に調べれば正しいか正しくないかすぐにわかります。「気象庁に問い合わせたらカンカンに晴れていたと言うけど、僕は雪が降っていたと信じたい」などと言っても駄目です。
このように、誰が見ても客観的に真偽を決定できる命題を「科学的命題」と言います。
それに対して、「価値的命題」とは、命題の真偽が価値観に依存するため、客観的に決定できない種類の命題のことです。
つまり、好き嫌いとか、賛否の数とか、主張者の声の大きさなどに決定されてしまう命題のことです。
「ピカソの絵は素晴らしい」とか、「女の幸せは結婚である」などという命題がこれに当たります。
これは、それを主張する人の好き嫌いや価値観に根差しているので、客観的にどちらが正しいという決定ができません。
では、あなたに質問します。
「霊は存在する」
これ ⇧⇧ は、科学的命題でしょうか?
それとも、価値的命題でしょうか?
実は、「科学的命題」なんです。
霊が存在するかどうかという命題は、「自分は存在すると思いたい」という好き嫌いや、「存在するとしたら人生が楽しくなるから、その方がいい」などという価値観で決められることではないからです。
そのようにして決めてしまってはいけない種類のものなんです。
安斎分身さんは、次のように言います。
「科学的命題に対しては、徹底的に合理的精神を貫き通すべきだ」
つまり、「霊は存在するか」という命題があった場合、それが本当かどうか徹底的に調べて、確証がつかめた段階で「確かに存在した」と言うべき種類のものである、ということなのです。
科学は、今すぐに結論を急ぐような短気なマネはしません。
その真偽を確かめるまで、何年でも、場合によっては自分の代で結論が出なくても地道に研究を続けるものです。
「霊は存在するか」という命題は、その時まで真偽を保留すべき命題であって、決して結論を焦ってはいけない命題なのです。
この「科学的命題に対しては合理的精神を貫く」という態度は、とても大切なことです。
「霊」や「死後の世界」や「占い」などを確証もないのに安易に信じてしまうということは、実は、無邪気だなどと笑っていられないとても危険なことなんですよ。
紹介者の肩書きを安易に信じて、高価な健康食品を買わされてしまったり、金取り主義の宗教を信じてしまうのも、この「合理的精神の欠如」です。
「合理的精神の欠如」は、被害者になる危険性だけでなく、自分では気づかずに加害者になってしまうこともあります。
根拠もない民族間の差別意識に多くの人々が踊らされてしまった、あのヒトラーに象徴される悲惨な時代の例を挙げるまでもなく、今も日常茶飯事に、この大人げのない行為は、そこここで行なわれています。
差別や偏見というものは、みんなこの「合理的精神の欠如」から来るものです。
被害者や加害者にならないためには、科学的命題に対しては、個人的な感情である好き嫌いや、多数の人に引きずられた価値観を、一端、白紙に戻して、科学的・合理的に決定していく態度を訓練する必要があります。
そして、その時に一番大切な心構えは、人間を中心に考えずに、自然界を中心に考えるということです。
つまり、科学的命題の真偽を議論する際には、前回書いたように、進化、発達、成長、退化、衰退などという、人間の価値観に根差した偏見を持った言葉を、最初から使ってはいけないということです。
もっと言うなら、「愛」などという言葉も人間の価値観に根差した偏見を持ちやすい言葉なので、科学的命題には使ってはいけません。
哺乳類の行動を観察している動物学者が、「母・哺乳類」が「子・哺乳類」を抱くスキンシップを、「愛情」などという言葉を使ってしまうことがよくありますが、こういう言葉を安易に使ってはいけないということです。
そのような言葉を使ってしまっては、客観的事実を見る目が曇ってしまうからです。
比較社会学の教授、真木悠介(まき・ゆうすけ)分身さんは、その名著『自我の起源』の中で、次のように書かれています。
科学には、主観的好き嫌いや、主観的な夢や希望のようなものを盛り込んではいけません。
科学は、自然界の現象に対して、人間の都合である「意味」や「目的」で粉飾してはいけません。
科学は、僕たちが慣れ親しんでいるぬくもりのある言葉を使ってはいけません。
科学は、血の通わない無機質の言葉を使わなければいけません。
そのように言われると、寒々しい荒涼とした世界を感じて馴染めない人がいるかもしれません。だけど、それは本当の科学というものを、よくわかっていないことから来る誤解です。
確かに、科学は主観的好みや人間の価値観に根差した言葉を使ってはいけませんが、だけど、科学がどのようにして生まれたかということを考えてみてください。
科学者とは、彼らが子供の頃、きっと「この空をどこまでも行くとどこへ行くの? 」「人間は死んだらどうなるの?」「世界の始まりの始まりはどんなだったの? 」「お兄ちゃんにはおちんちんがあるのに、どうしてわたしにはないの?」と、たくさんの「?」の中で生きていたと思います。
そして、科学者とは、それらをおじいさんの話を信じ込むことなく、自分自身で解決させないことには安心して生きていけないタイプの人たちなんです。
彼らは、全ての謎を解いて、安心して生きるためにこそ科学を必要としたのです。
その安心感が唯一、彼らが「幸せ」に生きる道だからです。
言い換えれば、科学では締め出さなければいけないはずの感情である「幸せを希求する《こころ》」が大元になって、科学は生まれたのです。
科学は、もし人々の心の中に「幸せを希求する《こころ》」がないなら、存在する意味もありません!
存在する意味もないどころか、その感情がなかったなら、決して生まれ得なかったものなんです!
このことを忘れないでくださいね。
科学は、血の通った人間の「こころ」から生まれたものであるけれども、あくまでも自然界を師と仰ぎ、人間の感情を介入してはいけないというものが科学の扱い方です。
そのことで、科学を冷血で無機質なものと結論づけてはいけません。むしろ、人間の感情を介入しないという約束事を暗黙のうちに了解し合っている科学だからこそ、世界平和と人類の幸福に貢献できるんです。
科学は、この自然界を支配している法則のもとでは、万物は平等であるということを、何よりも強く教えてくれています。差別や不平等を生むのは、人間の感情です。
真の科学は、人間の感情から生まれる社会の歪みを整えてくれます。
いいですか!?
科学が「冷血」なのでも、「無機質」なのでもありません。科学には一切罪はありません!
冷血な人が科学を冷血にするだけです。
無機質な人(?)が科学を無機質にするだけです。そして‥‥。
傲慢な人間が科学を扱うことで、科学が傲慢になるだけです。
物欲の強い人間が科学を扱うことで、自然界にゴミを撒き散らすだけです。
金銭欲の強い人間が科学を扱うことで、科学が金にまみれるだけです。
恐怖心が強い人間が科学を扱うことで、科学が殺戮兵器を作るだけです。
人類の平和と幸福を願う人が科学を扱うなら、これほど素晴らしいものはありません!
科学という方法論において、感情を廃し、無機質な言葉を使っていても、僕たち人間は、決して感情から無縁では生きられません。
この僕(徳永分身)に最初にあったのは、世界平和を願う気持ちや、人類の幸福を願う気持ちで、それが科学を必要としたのです。
科学は人間の幸福のために必要とされたものであって、科学のための科学になってしまってはいけません。
だけど、科学者と言われる人ほど科学のための科学、例えば名声や栄誉のために研究を続ける‥‥というような本末転倒な事態に陥りやすいのです。
そして、本来の目的や約束事を忘れて、迷路に迷い込んでしまうんです。
科学が必要とされた最初の理由さえ忘れなければ、僕たちはどんなに科学に身を捧げても、決して寒々しい荒涼とした世界で迷子になるようなことはありません。
いっときの辛抱です。
その先へ進めば、人類が今まで味わったこともないような「何者かに強く守られてあるような感覚」「しっかり支えられてあるような安心感」が待っています。
感覚だけ取り上げれば、それは宗教に身を委ねた信者の感覚に近いものかもしれませんが、科学が導く点においてそれは全く違うものです。
絵に描いた餅と実際の餅の違いで、誰の目の前にもその餅はそこにあるんです。
たとえその人には見ることも感じることもできなくても、それはそこにあるんです。
科学が対象にするのは、実際に「そこにある」ものだけだからです。
だけど、人類が今まで味わったこともないような、その場所に行き着くためには、人類は「真の科学」を体験して、敗北と挫折を味わう必要があります。
最後にもう一度言います。
科学には罪はありません!
表情のない冷たい顔はしていても、その体内には熱き血が流れ、自然界を常に師として仰ぎ見るその目は、まるで純粋無垢な少年の目の輝き‥‥それが科学です。
どうか、あなたも科学を好きになってください。
今日から、「科学的命題に対しては、徹底的に合理的精神を貫き通すぞ!」と決意してください。
そして、科学が導いてくださった分身主義の見ている光景を《体感》しに、これから僕と同行してください。
それではそろそろ、分身主義の深い森に入っていきますよ。足元に注意して着いてきてくださいね。
僕(徳永分身)が、何故「精神病は病気ではない」と主張するのか、わかっていただけると思います。
もちろん、萩原分身さんの主張される「精神病は霊の祟りだから」という理由ではありません。
深い森を体験した後、あなたに何かが起こります。それは世界に何かが起こったことを意味しています。
でも、しつこいようですが、その前に、次回はもう一度、真の科学の視点を確認しておきたいと思います。
分身主義の森の中は、真の科学の視点を持って歩かなければ、間違いなく迷子になってしまうからです。
◆◇◆ちょっと一言
「だけど、その場所に行き着くためには、人類は真の科学を体験して、敗北と挫折を味わう必要があります」と言いました。
もしあなたが真の科学を経験するなら、どうしても敗北と挫折を味わうことになります。
その一つが、これまで見てきたことです。
「科学は、その現象が起こった「原因」を必ず突き止めることはできるが、だけど科学には、その現象の「意味や理由や目的」を突き止めることは永遠にできない」
つまり、人類は、この宇宙のあらゆる物事には意味も理由も目的もないということを、ここに来て(科学によって)気づかされてしまったということです。
いいですか!?
それは、あなたがこの世に生まれてきたことに対しても、意味も理由も目的もなかったということです!!
(生きることに意味も理由も目的もないと言っているのではありませんよ。それは後づけでいいのですから)
科学によって気づかされた敗北と挫折のもう一つは、これから話していきますが、「僕たちは自分の意志で行動をしていたのではない!」ということです。
あなたが、これらのことを敗北と挫折を持って体験できる人であることを願っています。
人類が今まで願っても決して得られなかった世界平和や幸福を手にすることができるかどうかは、最終的には、人類が、この敗北と挫折を体験することができるかどうかにかかっています。
僕の言っていることを、表面的に捉えないでくださいね。簡単に聞き流さないでくださいね。
これは、あなたが、目指す大学に入れなかったり、目指していた歌手や俳優や弁護士になれなかったり、あるいは余命半年だと宣告されたり、事故で右足を失ったり、視力を奪われてしまったり、大好きな歌を歌うための声を奪われてしまったり、自分の子供を殺されてしまったりした時などに味わう敗北や挫折よりも、ずっとずっと深く大きな敗北と挫折なんですよ。
言い換えれば、世界平和や人類の幸福は、人類がこの敗北と挫折を、それ程の大きな敗北と挫折として体験できるかどうかにかかっているんです。
でも、より大きなものを手に入れるために、どうして僕たちはその大きな敗北と挫折を味わうことをためらう必要があるでしょうか?
そのことから目をそむけることを、これ以上続ける必要があるでしょうか?
たとえどんなに弱虫でも、顔を上げたそのはるか彼方に、希望の灯りが確実に灯っているなら、いっときの苦痛など恐れるに足りません。
どんな敗北でも、どんな挫折でも、受けて立とうではありませんか!?
予備知識12 科学と非科学
宇宙に散らばっている分身さーん、いかがお過ごしですか!?
地球から、33億光年(光の速度で旅して33億年かかる)も離れている《うみへび座》さーん、元気に宇宙を泳いでいますか!?
こんにちは徳永真亜基分身でーす。
あなたたちは、今この瞬間にも、なんと秒速60.600kmの猛スピードで僕たちから遠ざかっているんですってね。
そんなに僕たちを嫌わないでくださーい。分身同士仲良くしましょうよー!
す、すいません‥‥。
決して頭がおかしくなったわけではありません。
ちょっと、僕たちの仲間に挨拶をしたんですが、この意味は後でわかっていただけると思います。
前回、安斎分身さんの、「科学的命題」と「価値的命題」の話をさせていただきました。
「科学的命題に対しては、徹底的に合理的精神を貫き通すべきだ」とおっしゃる彼の言葉は、科学時代を生きている僕たちが肝に銘じなければいけない言葉です。
僕たちだって、時代の変化に対応して良い方向(=世界平和の方向)に変化しなければ‥‥(^_^;
非科学とは、言い換えると「嘘」で塗り固められた世界のことです。しかし、「嘘」も信じる人がたくさんいれば真実になります。
神様を作り上げて、神様の下で平等を誓い合えば、平和な世界ができあがるかもしれません。
だけど、それが人間の想像力から生まれた「嘘」である以上、想像力豊かな人の数だけいくらでも作り出せるし、いくらでも都合のよい解釈や言い訳も考えつけます。
それは平和よりもむしろ、こじれにこじれる対立を生みます。
また、それを信じていない人たちと接触することのない時代であればともかく、現代は他の価値観の人たちとも接触せざるを得ない情報化時代です。
この時代に、一つの真実の下、僕たちの心を一つにしてくれるものには、科学しかありません。
科学的命題の答えは一つだからです。
ところが、科学的命題に対して、合理的思考を貫くことに慣れていない僕たちはどうでしょう?
無批判に、霊の存在や占いを信じてしまったり、超能力、心霊現象、UFO、予言といった「超常現象」を受け入れてしまうような社会では、いつまでたっても対立をなくすことはできません。
いろいろな噂に翻弄(ほんろう)されて、いつまでたっても心を一つにすることができません。
テレビなどでも、視聴率アップのためにそのようなこと(霊や占いや超能力やUFOや予言など)を、あたかも本当のように見せる番組がたくさんあります。でも番組というものは、各自の得意の技術を持ち寄ったプロ集団が、総力を結集して、「楽しませる」ものを用意周到に作るものであることを忘れないでください。
むしろ、超一流のマジックと同じ、「やらせ」や、「仕掛け」や、「仕込み」などがなければ、番組の体(てい)をなさないものになってしまいます。
前後を逆さまに切り張りしたり、都合の悪い部分をカットしたり、関連性のないものを意図的につなげたりする編集作業は不可欠です。
いたるところに嘘を本当らしく見せる工夫が施され、音響効果で感動を盛り上げ、余計に嘘に気づきにくくさせられます。
番組制作者の意図は一切なく、事実だけを忠実に撮影しただけのドキュメントです、などと言われても、撮影という行為自体が既に作為的です。
何かを撮影するということは、多かれ少なかれ、必ず、カメラマンの意図が含まれてしまいます。
しかし、そういう番組の制作スタッフの中には、「自分たちは視聴者に良い生き方を示唆するための番組作りをしている」というような自負心に裏打ちされて、意地と誇りを持って仕事を楽しんでいる人も多いはずです。
むしろ彼らを衝き動かしているものは、そのような善意かもしれません。
企業的な価値観のための善意、いわゆる視聴率アップという善意の場合もあるかもしれませんが。
集団意識というものは、赤信号をみんなで渡るようなことをしていても、ほんの少しの罪の意識もなく、むしろ良心的な意識の中でそれを成し遂げてしまうという恐いところがあります。
だけど、僕たちは騙されてはいけませんよ!!
と言っても、彼らプロ集団の作り上げた番組の「嘘」を見抜ける目を持て、などと無理なことを言っているのではありません。
そんなことは不可能です。
タレントも含めて、彼ら制作に携わる人たちの信じている「良い生き方」というものが、本物ではないと言いたいんです。
僕たちに感動を与えてくれるような番組は、生きる勇気や生き甲斐を与えてくれて、場合によっては愛や命の大切さを再確認させてくれます。
しかし、そのような番組を作る方たちの脳は「個人主義的な環境」にどっぷりと浸かっているため、彼らの考える良い生き方とは、個人的成功や個人的幸福でしかない場合が多く、個人的成功や個人的幸福は、結局は個人的不成功、個人的不幸に帰着します。
「個人主義的な環境」から、僕たちの脳に浮かび上がってくる「良い生き方」というのは、決して本物ではありません。
その嘘だけは見抜ける目を持って欲しいんです。
いいですか!?
声を大にして言っておきます。
これからの時代を生きる僕たちを、平和と幸福に導くことができるものは、科学だけです!!
どんな善意から生まれた愛すべき物語も、それが嘘から生まれているものである以上、世界を平和と幸福に導けません!!
今まで人間はみんな、非科学を信じてしまう傾向の脳を持っていました。非科学を信じてしまう傾向の脳とは、幼稚な脳のことです。
幼稚な脳は、独断や偏見や差別を抱きやすい脳であることは容易に理解できます。
それによって仲間意識が生まれ、社会を安定させることもできましたが、いいことばかりではなく、それがイジメや争いや犯罪につながっていることも理解できます。
僕たちの幼稚な脳が独断や偏見や差別を生み、それがイジメや争いや犯罪を導くべくして導いてしまっていたんです。
イジメや争いや犯罪は生まれるべくして生まれていたんです。その意味から言えば、僕たちはみんな加害者だったんです。
知らず知らずのうちに加害者にさせられてしまっていたわけだから、哀れな被害者だったとも言えますけどね。
大人である僕たちは、サンタクロースを本気で信じている子どもたちを可愛いなあと思いますが、大人たちがやっていることもそれと少しも変わりません。サンタクロースが、他のものに置き換わっただけの話です。
僕たち大人は、自分が子どもだった頃を回顧して「あんなもの信じていて可愛いかったなあ」と笑うように、自分たち大人を「あの頃は、あんなもの信じてたんだなあ」と笑えるような、《大人の大人》という段階に入らなければいけません。
大人とは、子供の頃の自分を客観的に眺める目を持った人のことであるように、「大人の大人」とは、客観的に大人の自分を眺める目を持った人たちです。そして、独断や偏見や差別を持ってしまう脳の習性を理解し、加害者になってしまっていた自分たちの姿に気づくことができる人たちです。
ところで、科学的命題に対しては合理的思考を徹底させることが必要だと言っても、それさえできるようになれば、争いも犯罪もなくなると言っているのではなく、それが出発点だということです。
また、非科学的な占いや、詩やおとぎ話などの文学や、宗教などを廃止すべきだなどと言っているのでもありません。
非科学の世界とは、言い換えれば「嘘」の世界という意味です。でも、それらは、科学とはまた違う意味での豊かな世界でもあります。
科学時代を生きる僕たちは、今までのように妄信的にそれらを受け入れるのではなく、それらの嘘は嘘と知った上で、その豊かさを存分に享受すべきだということです。
その点に誤解がないように、もう一度書いておくことにしました。
33億光年離れた《うみへび座》を発見したのは科学ですが、それを文学に取り入れて、例えば今回の冒頭のような用い方をしてみたり、宗教に比喩として取り入れてみたりすることまでも排除しようとしているわけではありません。
ただ、文学と科学、宗教と科学をくっつけて出来上がったものは、あくまでも科学ではなく非科学であることを承知していなければいけないということです。非科学を科学であると思い込んだり、非科学を丸々信じてしまう行為に問題があるわけです。
その逆に、科学には、文学も宗教も取り入れてはいけません。
科学的命題に対して科学的な結論を導き出そうとするなら、擬人法を用いたり、自分の感情や願望を投影させてはいけません。
つまり、決して自分たち人間を中心にして、自然界を眺めてはいけないということです。
そんなことをすると、科学的真実が見えなくなるからです。
擬人法を用いたり、自分の感情や願望を投影させて導かれたものは、たとえどのような結論であっても、科学ではなく非科学です。
それは文学や宗教などの「豊かなる嘘の世界」の分野です。
それなのに、僕たちは、「霊は存在するか」とか、「スプーンは超能力で曲がるか」とか、「宇宙人はいるか」とかいう《科学的命題》に対しても、科学的に検証しようともせずに安易に誰かの言葉を信じ込んでしまったり、好き嫌いの価値観などで決めてしまうところがあります。
そのような習慣から卒業しなければ、僕たちはいつまでたっても加害者のままです。
そして、そのような習慣から卒業できなければ、現代科学が導いてくれた分身主義の真髄さえも理解できないことになります。
この10数回に渡る予備知識では、そんなことを言いたかったのです。
安斎分身さんは次のように仰っています。
彼の言う「目の前のスプーン」とは、1974年を皮切りに何度か来日して、当時のテレビの人気番組などに出演し、日本中に超能力ブームを巻き起こした自称超能力者ユリ・ゲラー分身さんの「スプーン曲げ」というパフォーマンスのことを指しています。
僕たちは、科学者たちが蓄積してきた人類の財産を、そんな安易なことでポイ捨てするような愚かなまねをしてはいけません!
それでは、これまでの予備知識を携えて、いよいよ分身主義の森への第一歩です。
さあ、大きく深呼吸をしてください。
迷子にならないように、しっかり目を見開いて着いてきてくださいね。それっ!
◆◇◆ちょっと一言
大人の大人になる出発点として、まずやらなければいけないことは、「人間とは何か?」「自分とは何か?」を考えることです。
いわゆる、昨今はやりの「自分探し」です。
でも、ほとんどの「自分探し」は、自分の個性を見つけようとする、いわゆる「自分らしさ探し」です。
自分の個性を見つけたら、今度はそれを伸ばそうとします。
あるいは、自分の性格や欲望や弱点を知って、そんな自分でいいんだよ、と自分で自分に言ってあげたり、自分の殻を打ち破って、個人的成功や個人的幸福を手にするにはどうしたらいいか、ということを発見するための自分探しです。
だけど、本当の自分探しとは、そんな表面的・個人的なものではありません。
自分の性格や欲望の源泉を科学的に探究し、その源泉は宇宙とどのようにつながっているかを解明させることです。
もしその終着点が、自分を誉めてあげることとは何の関わりがなくても、僕たちは本当の自分探しをやらなければ、大人の大人になれません。そうしなければ、永遠にイジメや争いや犯罪の加害者から卒業できません。
真の科学の視点で、「人間とは何か?」「自分とは何か?」と探っていくと、誰もが、分身主義に行き着きます。行き着くしかありません。
この宇宙に漂う分身の一人であることに気づいた僕は、はっきりとそう断言できます。
それでは、僕がかつて彷徨(さまよ)ってきた分身主義の森の中へ、あなたをご招待するために再び突入します。
1日目 分身主義の森‥‥最初の一歩
いよいよ、今回から分身主義の森に踏み入って行きます。
その前に、僕たちの分身仲間さんたちに挨拶しておきましょう。
宇宙に散らばっている分身さ~ん、いかがお過ごしですか!? こんにちは、こちらは地球に住むあなた方の分身仲間、徳永真亜基で~す。
生きとし生けるものと深い関係の太陽分身さん、今日も元気そうですね! でも僕たちは決してあなたに触れることができません。それに、僕たちが見るあなたはいつも8分19秒前のあなたの姿です。
僕たちがあなたのことを話していても、決してあなたそのものの話をすることはできません。
僕たちは、お互いの記憶の中の太陽のイメージの話をしているだけです。
だけど、あなたも分身として確かに存在していることには間違いありません。これからもよろしくお願いしますね。
さて、予備知識9の「ちょっと一言」の中の、デカルト分身さんの話を覚えていますか?
彼は、この世界に存在するものを「物体」と「精神」に分けたのでしたね。分身主義もこの宇宙の全てのものを《実体》と《幻想》に分けます。
まず、分身主義の森の入り口に落ちているこの二つの言葉を手に取ってください。
でも、分身主義は彼(デカルト分身さん)の二元論とは、考え方においても、その出発点においても全く違います。
今から、分身主義を理解していただくために、分身主義の言う《実体》と《幻想》とは何かということをお話します。そして、それはデカルト分身さんの考える二元論と、出発点においてどのように違うのかということを説明します。
物質(あるいは物体)同士が何らかの作用をし合うことで引き起こされる、一時的に現われては消えていくもののことを「現象」と呼びます。
現代科学は、「この宇宙に存在する現象は全て物質に還元できる」と考えます。
つまり、「現象」さえも、物質で説明できると考えるわけです。それは、唯物論という一元論の世界です。
この「全ての現象は物質に還元できる」という信念に基づいて、自然界の諸現象に人間が当てはめてきた法則や解釈が、正しいか正しくないかということを判定する基準は、その法則や解釈に基づいて人間の作り出したモノが、自然界で正しく機能するかどうかでわかります。
例えば、冬、セーターを脱いだ時、パチパチッと音がして髪の毛がセーターに引っ張られたりする「現象」があります。
それは、セーターに乗り移っていた霊が離れがたく思って、後ろ髪を引っ張っているわけです。
‥‥と言うのは、真っ赤な嘘です。
これは、セーターがこすられた摩擦によって、セーターから電子という物質が飛び出し、それによって一方にプラスの電気の性質が現われ、一方にマイナスの電気の性質が現われることによって、お互いに引き合おうとする「現象」です。
それは静電気と呼ばれますが、もちろん僕たちが家庭のコンセントから取り出して利用している電気と同じものです。この電気というものの発見や解釈が正しくなかったとしたら、僕たちが作り出して日常使っている電化製品は正常に働かないことになります。
電化製品が世界中の市場にあふれているということは、その発見や解釈が正しかったことを証明しているわけです。
また科学は、古来、最も恐ろしい病気とされていた天然痘(てんねんとう)の原因まで調べつくし、ついには1980年にそれを根絶させました。その原因は悪魔の仕業でも神の祟りでもなく、目にも見えないウイルスという物質でした。
根絶させることができたということは、その発見が正しかったということを証明しています。
もし、「全ての現象は物質に還元できる」という信念を諦め、相変らず悪魔の仕業か神の祟りと考えていれば、未だに根絶させることはできなかったでしょう。
竜は想像上の生き物ですが、素粒子はもはや想像上の物質ではありません。僕たちには、万物の最小の単位とされている素粒子を単独に取り出したり、それらを光の速さギリギリまでに加速させる技術まであります。
また、人類は失敗を繰り返し、2004年1月3日、火星探査ロボットの着陸を成功させました。
オッキーフ長官の言葉を借りると、この「東京から打ってパリでホールインワンしたような快挙」を成し遂げるためには、自然界に向けて、どれ程たくさんの問い掛けを繰り返し、そこから返ってくる答えに合わせて何度も何度も修正を加えながら、どこまでも謙虚に根気強く学び続けなければならなかったかと考えると、目の前のスプーンごときに、これまでの科学の蓄積をポイ捨てしてしまうことなんて、とてもできないと思います。
このように、この宇宙で機能するモノを作れるということは、科学が発見したものや、科学が到達した解釈が間違いではなかったことを証明しています。
両手を力強く打てば「パーン」と音がしますが、その「音」という現象は目に見えないので物質以外のものだと感じます。だけど、科学的に言えば、空気という物質の振動が人間の耳に伝わり、それが電気信号に変換されて脳で音として認知されているのです。
だから、音という現象の本体は「空気」やら「電気」などという物質です。
音という現象は、耳の聞こえない人には起こりませんし、目には見えませんが、確かに物質としてそこに存在しているということです。
色だって物質です。
光源から発せられる光の粒子(=物質)が物体にぶつかり、その物体表面の性質により、一部は吸収され一部は反射されて、その反射された粒子が我々の目の中に飛び込み、電気に変換されて脳の中でその物体の色として認識されるわけです。
ちなみに、僕たちが匂いとして感じているものも、それは全て空気中を漂う物質です。
遺伝という現象や、脳の働きという現象も、また、雷や地震や竜巻や台風といった自然現象も、科学は、全て物質で説明しようとし、またそれを可能にしてきました。
科学とはこのように、「この宇宙に存在する現象は全て物質に還元できる」と考えるものです。
ここまではいいでしょうか?
この物質(あるいは物体)のことを、分身主義では《実体》と呼ぶことにしています。
何故かと言うと、分身主義は物質同士が作り出す現象のうち、人間の脳の作用が作り出すものだけを特別扱いして《幻想》と呼ぶことにしたからです。
それだけを違う名称で呼ぶからには、科学で用いる物質(あるいは物体)という言葉を当てるのは不自然なので、《実体》と呼ぶことにしたのです。
もちろん、《幻想》もまた、脳の神経細胞という物質が他の物質と作用し合って見せる現象の一つに過ぎません。
それは、身体内・外からの刺激が電気信号に置き換わり、脳内に到達し、環境によって作られている脳内の「記憶や言葉」との相互作用によって生み出される現象です。その際に使われる物質は、脳内の神経細胞と、その中を移動して電気を発生させるカリウムイオンやナトリウムイオンや、そして情動や筋肉の動きにも影響を与えるたくさんの神経伝達物質‥‥などです。
科学的に考えれば、物質同士が作り出す現象という意味では、手を叩けば響く音という現象も、脳内で起こる感情や意思という現象も同価値なのに、分身主義が脳の場合だけ特別扱いして、それでそれだけを《幻想》と名づけるには、それなりの理由があるからです。
宇宙は約140億年前のビッグバンによって生まれ、その時に散らばっていた素材を使って地球ができたのは約45億年前で、それからホモサピエンスが出現するのはずっとずっと後の、約20万年前です。
宇宙の140億年を一年のカレンダーにすると、地球ができたのは約4ヶ月前だけど、ホモサピエンスが出現するのは、12月31日の日付が変わる7~8分前です。
彼らは言葉を話したそうですが、現代の僕たちの脳と比べるとその情報量の違いから言っても、今よりずっと単純な反応しかしなくて、複雑な思考をしたり、複雑な感情表現をしたりしたとは到底想像できません。
人類の歴史を記録したり、複雑な反応をしたりする脳ができたのは、年も変わろうとするほんの数秒前ではないでしょうか?
このように、宇宙の長い歴史から見れば、新参者(しんざんもの)に過ぎない人間の脳の現象ですが、今ではそれだけがあまりにも力を持ってしまいました。
分(ぶん)をわきまえずに、まるで釈迦如来分身さんに出会う前の、己を知らなかった頃の孫悟空分身のように、我が物顔に暴れまわっている状態です。
自然界に背を向けて人間界に降り立った人類は、まるで自分の力でこの世界に生まれてきたかのように傲慢になり、自分たちに似せて神を作ってみたり、なんだかんだと自画自賛したり、まるで釈迦如来分身さんに出会う前の、己を知らなかった頃の孫悟空分身のようです。
傲慢な人類ですが、それはむしろ中世の暗愚で無邪気な人々(予備知識9参照)のようです。
その状態から抜け出して、人類が今まで願っても決して得られなかった世界平和や本当の幸福をつかみ取るためにも、人間の脳の現象に対してだけ名前をつけて、まずはその正体を科学的にはっきりさせる必要がありました。
だから、人間の脳という《実体》が、他の《実体》との相互作用をした時に生じる現象に対してだけ、《幻想》と名づけたということです。
これでデカルト分身さんの二元論とは、出発点からして根本的に違うという意味をわかっていただけましたか?
本当は分身主義は科学にならって一元論だけど、仕方なく人間の脳の現象だけを特別に扱ったという経緯を理解していただけたでしょうか?
ところで、人間の脳の現象をはっきりさせるために、それだけを特別扱いして、《幻想》と名づけてみたら、早速、はっきりしたことがありました。
それは、次の点です。
「《実体》とは、人間が意識しなくても存在する全ての物質、あるいは物体」のことだと説明しましたが、実はこの「人間が意識しなくても」という部分が大事だったんです。
というのも、その物質やら物体は、人間が意識した途端、もはや《実体》の範疇(はんちゅう)から《幻想》の範疇に移行させられてしまいます。
目の前にりんごが置かれているとして、そのりんごは《実体》ですが、あなたが「りんごがある」と認識した場合、その認識されたりんごは《実体》ではなく《幻想》の領域に移行します。
ちょっと難しいですね。
あなたが「ここに、りんごがある」と言う場合、あなたは、りんごを認識したということです。何物も、その物を認識せずには、そこにあるとは言えませんからね。
ということは、人間はどんなことをしても物の存在を認識する場合、《実体》として認識することはできない存在であるということです。
認識とは、人間の脳の作用によって作り出される現象のことだからです。もう一つ、たとえを挙げます。
僕たちは空に燦々(さんさん)と輝く太陽を認識しますが、その認識したものは、決して太陽そのものではないですよね。
僕たちが見る太陽は、いつも8分19秒前の姿だし、僕たちが太陽の話をしていても、それは、お互いの記憶の中の太陽のイメージの話をしているだけです。
太陽という《実体》そのものを扱おうとしたなら、僕たちは瞬時にその灼熱に融けています。
もう一つはっきりしてきたことがありました。
人間の脳の作用によって作り出される現象には、錯覚と言われる面白い現象もありますが、この錯覚というもの、今までのイメージで考えてもらっては困ります。
今までは、「そんなの錯覚だよ。気にすんなよ」などと使われて、軽んじられてきましたが、実はそんなことでは済ますことができないものだったんです。
何故かと言うと、それは現象である以上、今まで見てきたように必ず《実体》を伴い、そして他の《実体》に十分影響を与え得る力を持ったものだったからです。
例えば、アパートの天井の節目模様が無気味な顔のようなものに見えてきて、それを見るたびに嫌な気持ちになり、引越しという行動を余儀なくされたりすることもあるわけですよね。
嫌な気持ちという感情が発生する限り、その人の脳の中に、ある種の模様を見たらそのような感情を起こす物質を発生させる回路が作られてしまっていると言うことだし、そのことにより、「実体」であるあなたの体に荷造りをさせる影響力さえ持っています。
と、定義をしましたよね。
だけど、人間は決して《実体》をありのままに認識することができないという点から言うと、彼の脳を取り巻く環境によって彼の脳内に作られていた「記憶や言葉」に、彼の脳を取り巻く環境から入力された刺激(情報)に対して個別の反応したもの、つまり、認識、連想、想像、思考、感情、意思‥‥などといったものは、全て「錯覚」である、とも言えるわけです。
だから、《幻想》は、「錯覚」と同じ意味で使っています。
「なに~!? 貴様は、この俺様が、確かに見たり聞いたり触ったりして、何かを感じたり考えたりしていることが、ぜーんぶ錯覚だって一言で片付けるつもりかよ~!?」
‥‥なんて怒らないでくださいね。
これは哲学でも宗教でも禅問答でもなく、科学が発見した事実です。そのことを、この分身主義の森の中で、必ずはっきりさせます。
◆◇◆ちょっと一言
僕たちは今、こういう時代に生きているんです。
こんな科学時代に生きて、パソコンや携帯電話などを上手に使いこなしているくせに、科学の粋(すい)を結集して作り上げたパソコンや携帯電話のインターネット情報で、人類は月に着陸したというのは嘘だったとか、霊は存在するなどという非科学的な情報がたくさん流されているのは、とても不思議なことだと思うのですが、あなたはどう思いますか。
科学が産み落としたものを使って、「科学は信じられない」と言っているような矛盾を感じます。
利用するだけ利用させてもらって、それってちょっとズルイ気がするのは、この僕(徳永分身)だけでしょうか?
2日目 分身主義の森は仮想空間か?
さて、やっと分身主義の森の中に入ったというのに、我々の心を乱すかのような大きな事件や事故などが頻発しています。
テレビ等で報道される暗い事件やニュース、それにその報道のされ方や、視聴率重視の劣悪な非科学番組などを見る度に、分身主義の必要性を強く感じます。
最近の話題で言えば、北朝鮮に関する問題、ライブドアとフジサンケイグループの対立、中国の反日デモなどは、どうして分身主義が必要なのかを知っていただくためには、取り上げたい話題でした。
分身主義は、決して非日常的な絵空事の世界の話をしているのではありません。
それどころか、現実の中の現実の話です。「地に足をつけて生きる」という言葉がありますが、僕たちが生きるために無意識で踏んでいる「地面」に当たるものにならなければいけないものです。
ここ分身主義の森は、現実から切り離された異次元の仮想空間なんかではなく、現実としっかりつながっている空間だということを覚えておいてください。
そのためにも、今日は、先日(4月25日)、尼崎市で起きてしまったJR福知山線の尼崎脱線事故について考えていただくことで、「分身主義の概観」を眺めていただきたいと考えました。
取り敢えず、外観だけ先に眺めていただくことは、後の理解の助けにもつながると考えたからです。
ただしここではあくまでも感情を抜きで、科学的に冷静に考えて行きます。
あの列車脱線事故については、連日、様々なメディアで報道されていたので、みなさんも詳細をよくご存知のことと思います。
ここで考えてみたいのは、以下の3点です。
❶どうしてあのような事故が起こったのか?
結論から言えば、あの事故が起こった原因は「ビッグバンがあったから」です。
分身主義は、現代科学に導かれて生まれてきたものですが、現代科学が僕たちにもたらしてくれた最も大きな功績は、「全ての物事には必ず原因がある」ということをわからせてくれたことです。
現代科学は、実験や観察という行為によって、今もその言葉の正しさを示し続けてくれています。
あのような事故が起こったということは、必ずその原因が存在します。
そして、その原因には原因があり、その原因にはまた原因があるというように、途切れることなくどこまでも遡って行けます。
今、「その原因には原因があり、その原因にはまた原因があるというように、途切れることなくどこまでも遡って行けます」と言いましたが、それをどこまでも遡ると、《ビッグバン》に行き着くと現代科学では考えています。
僕たちのいるこの宇宙は、今もものすごい勢いで膨張を続けていますが、それを超高速で巻き戻しして、約140億年前に時間を止めると、超高温・高密度の小さな火の玉状態だったということがいろいろなデータにより証明されています。
それがビッグバンの初期状態です。
(ちなみに、ビッグバン以前の宇宙の状態についてはまだ証拠不十分のため、科学では仮説の段階です)
その小さな火の玉状態の時に、ギューッと圧縮されていた素粒子が、宇宙がものすごい勢いで膨張する過程でくっついたり相手を替えたりしながら、この宇宙に存在する全てのものは作られているんです。
遠くで瞬く星々も、月も太陽も地球も、そして地球の上に生まれた僕たち生き物も‥‥。
これが、全ての物事の原因を追究する現代科学が到達した自然観です。
今、あの事故が起こった原因をどこまでも遡りましたが、今度はそれをまた現代に戻って来ると、この宇宙の歴史140億年間に起こった全ての現象が、その原因として関わり合っていた、ということに気づかされます。
この宇宙で起こることは、全てが《ビッグバン》からつながって起こっていて、関わりのないものは一つとして存在しないと気づきます。
それで、分身主義では、全ての現象は「ビッグバンの風」に吹かれて起こっているなどと表現したりします。
この「ビッグバンの風」という言葉は、これからも何度も140億年間の宇宙の時空を行ったり来たりすると思いますが、その時にイメージするのに便利な言葉なので、是非覚えておいてください。
あの事故は、宇宙的時間から言えば、ごく最近の出来事でもある銀河系ができたことも原因だし、地球の上に生物が生まれたことも原因だし、もっともっと最近の出来事で言えば、JRの方針やそれを利用する人たちも原因だし、運転士の高見隆二郎分身さんや車掌の松下正俊分身さんはもちろんのこと、僕やあなたも原因だったんです。
もちろん地球の裏側に住む人も、アリもキリギリスも芋焼酎もです。
この宇宙に存在するものは、みんなつながっているからです。僕たちには「そのつながり」が実感できないというだけです。人間の感覚というのは他の動物と比べてもあまりにも鈍感だからです。
それだけでなく、個人主義的な環境にいる僕たちにとっては、自分にとって利益や被害として感じられないものは、その人にとっては何も起こっていない、ゼロだからです。
でも、僕たちにはそれを感じ取る《想像力》というものがあります。
また、現代科学が教えてくれた「全ての物事には必ず原因がある」を言い換えると、「全ての物事は結果から見れば必然である」ということと同じ意味です。
どういうことかと言うと、あの列車事故は起こってしまった以上、約140億年前にビッグバンが起こったことによって「必然的」に起こったと言えるわけです。
だから最初に、「❶どうしてあのような事故が起こったのか?」に対する答えとして、その原因は「ビッグバンがあったから」と答えたわけです。
だけど、ここで一つ注意していただきたいことがあります。
これは「運命論(この世の現象はあらかじめ決められていたと考えるもの)」とは、全く違います。
決められていたと言っているわけではありません!
全ての物事は偶然性の結果から生まれているわけですが、現在(結果)から、過去(原因)を見ると、原因が特定できるわけですから、必然的に起こったと言えるので、決められていたように見えるというだけです。
「決められていた」と断言するには、それを決める者の存在が必要ですが、そんな人はどこにもいないことはわかり切っています。
ただ、ある結果が出てしまった瞬間、それ以外の結果が出るかもしれなかった可能性はゼロになると言うだけのことです。
❷あの事故は未然に防ぐことができたのか? できたとしたらその方法は?
今見てきたように、あの事故は必然的に起こってしまった以上、未然に防ぐことはできなかったからこそ起きたのですが、今後このような事故が起きないようにすることは可能です。
それは、JRの責任を追及することや、事故の直接の原因を究明することだと多くの人は考えると思いますが、それはほとんど役に立ちません。
事故の直接の原因が科学的に究明されることは、もちろん意義があることですが、それは単なる間に合わせの応急処置で、対症療法に過ぎません。だから人間は同じ轍(てつ)を何度も踏んでしまうのです。
今見てきたように、原因はそれだけではなかったからです。
「この140億年分の全てが原因で、たった一つの事故は起きた」と言いましたが、その「140億年分の全て」という言葉を違う言葉で言い換えると、それは「その事故を取り巻く環境の全て」と言うことができます。
つまり、運転士の高見隆二郎分身さんにオーバーラン(停止位置を走り越すこと)をさせたのも、その後、スピードを出させたのも、彼を取り巻く環境の全てが、彼にやらせたことだ、ということが理解できます。
つまり、僕たち一人一人の行動は、自分の意思などでやっていたと思うのが大間違いだったわけで、自分を取り巻く環境に「浮かび上がらせ・られていた意思」によって、その人は行動を取らせ・られていたわけです。
つまり、僕たちを取り巻く環境が(高見分身さんを媒体として)事故を起こしてしまった、と言えます。
事故を起こした張本人は「彼を取り巻く環境」で、高見分身さんは可哀相な《媒体》であり、むしろ渦中に置かれた被害者なんです。
そして、あの事故に対してテレビで偉そうにコメントする有識者と言われる人たちも、現在の環境がその人たちを媒体として語っているだけである、と言えます。
語っているのは、その人を取り巻く環境で、その人たちは単なる《媒体》です。(そして本当は有識者と言われる人も媒体であると同時に、その事故を起こす「環境」を作ってもいたのですけどね‥‥)
僕たちはみんなみんな、この取り巻く環境の《媒体》なんです!
大きく見れば宇宙という環境の《媒体》です。
小さく見れば、「個人主義的な意識の作る環境の《媒体》」です。
星も太陽も地球も、海も山も、草も木も虫も動物も、あなたも僕も‥‥。ねえ、そうでしょう!?
あの事故が、今の環境が起こしたというなら、今の環境が変化しない限り、形を変えていつまでも同じような事故は繰り返されます。たとえJRの責任を追及したり、事故の直接の原因を究明してもなくなりはしません。
僕たちは、事故が起きるたびにそういう反省を繰り返してきましたが、未だにあの手の事故はなくなりませんよね。
あのような事故を二度と起こさない方法は、たった一つしかありません。本当の原因を究明することです。
それは、僕たちはこの環境の《媒体》に過ぎなかったということを、まずは理解することです。
そして僕たちはこの環境の媒体であると共に、環境を作っているものでもあったということを理解することです。
僕たちは、この環境の媒体に過ぎなかったと理解した瞬間、僕たちはこの環境を外側から眺めることになり、その時ほんの少し今までの環境の外に顔を出すことになります。
今までの環境の外にほんの少し顔を出した僕たちの作る環境は、もちろん「ほんの少し今までの環境から顔を出した僕たちの作る環境」に変化します。つまり、僕たちの環境が変化するということです。
今の環境が変化するということは、あのような事故を起こす「媒体」となった人たちが変化するわけですから、あのような事故も起こらなくなるということです。
では、今の僕たちの環境とは、どんな姿なのでしょうか? 外側にちょっと顔を出して見てみましょう。
僕たち人類の歴史は、宇宙の140億年を一年のカレンダーにすると、12月31日の日付が変わる7~8分前くらいから始まります。
まさに新参者です。そのひよっ子が、よりによって「自我」という錯覚に取り憑かれてしまったのです。
そのことで、この宇宙の中で唯一、自然界から迷い出てしまった人類は、自分たちの力で自分たちの生きる環境を耕さなければならなくなりました。
「自我」という錯覚に取り憑(つ)かれてしまった人類にとっては、全ての基準が「自分」を中心にして作られ、あらゆるものが、中心である自分に必要なものかそうでないものかで差別化されます。
そして差別化によって、愛が生まれ、憎しみが生まれ、恋人ができて、夫婦ができて、家族ができて、村ができて、国ができて、対立が生まれ、競争が生まれ、奪い合いが生まれ、戦争が生まれ‥‥てきました。
つまり、「自我」という錯覚に取り憑かれてしまった、現在の僕たち人類の耕した環境は「個人主義的な環境」と言い換えることができます。
運転士の高見分身さんにあのような行動を取らせた環境(原因)には、個人主義的な環境にどっぷりと浸かっている僕たちも含まれています。
つまり、僕たちが、彼にあのような行動を取らせたということも言えます。
JRの利益や効率重視の方針も、また、数分でも到着が遅ければ抗議してしまうような乗客たちの行為も、みんな個人主義的な環境が僕たちに取らせている行動です。
彼(高見分身さん)にあのような慌てた行動を取らせたものは、そういうものとも関係があるということを想像できない人はいないでしょう。
今の僕たちは、みんなみんな、個人主義的な環境の媒体なんです。そのことに気づいた時、初めて僕たちは、この環境から少し顔を出すことができます。
分身主義とは、僕たちの生きる環境を二度とあのような事故を起こさない環境に整備してくれるものです。
何故なら、「個人主義的な環境」から「分身主義的な環境」に変化した環境に置かれた僕たちは、必然的に、今の自分中心の意識や価値観とは違う意識や価値観に支配されることになるからです。
すると、自分の利益ばかりを追求する今の貨幣経済とは違う形態の社会や政治のシステムが生まれます。(もちろんお金は役に立たなくなるので無くなります)
すると「タイムイズマネー」とは全く正反対の環境に変化します。
つまり、せかせかした通勤やほんの少しのミスも厳しく追及される社会でなくなり、二度とあのような事故を起こさないために、「JRの責任を追及したり、法的強制力を強化したり、事故の直接の原因を究明したり」することでは防げなかった環境から外に出れるからです。
逆に言えば、「JRの責任を追及したり、法的強制力を強化したり、事故の直接の原因にしか目が行かない」ような行動を取らせてしまう「個人主義的な環境」が、むしろあのような事故を引き寄せてしまったとも言えるくらいだったのです。
❸あの事故によって、心や身体に傷を負ったまま生きていかなければならない方や、遺族となった方々の心はどのようにしたら癒すことができるか?
さて、この最後の課題に答えることこそ、僕たちが前人未踏の分身主義の森に踏み入らなければならなかった一番の理由、と言ってもいいかもしれません。
あなたは、あの事故によって心身に傷を負った方は、当事者や家族の方や遺族となってしまった方だけだとお思いですか?
それこそがまさに「個人主義的環境」から浮かび上がる発想なのです。
実は、傷を負ったのはその方たちばかりではありません。JRの方々も傷ついています。もちろん、あなたも僕も傷ついています。
この「個人主義的環境」を作っている世界中の人たちが、あの事故を引き起こした加害者であると言いましたが、同時に、この世界中のすべての人があの事故の被害者だったのです。
みんなが傷ついたのです。
それを理解することが分身主義です。
そして、自然にそのような気持ちが浮かび上がるのです。
大きな災害で傷ついた人たちは、心を一つにして助け合うしかありません。それは、人類にとってこの世の中で何よりも大切な「共感」を産んでくれます。
僕(徳永分身)は「共感」は死の恐怖よりも強いと言ってきました。
全ての人類が共感で一つにさえなれば、この世界に恐いものは一つもありません。
どんな不安も恐れも吹っ飛びます。
だけど、「個人主義的な環境」にいる僕たちが、この世の中で何よりも大切なものは、「経済」だと思っている人が何と多いことでしょう。
そんなものでは人類の傷を癒すどころか、互いにもっと深く傷つけ合うだけです。
下の絵が分身主義のイメージです。
世界中の人の心を一つにできるものは、もはや宗教でも、政治力でも、組織力でも、法律でも、もちろん経済でもなく、科学が導いてくださった分身主義しかありません。
それが、これから証明しようとしているものであり、それこそが分身主義の真髄なんです。
◆◇◆ちょっと一言
「分身主義を生んだのはあなたです!!」
⇧ この意味がおわかりいただけますか!?
分身主義の森を最後まで歩いてくださったなら、この意味をわかっていただけると思います。
この言葉を語っている僕(徳永分身)は、僕を取り巻く140億年分全ての原因によって動かされている媒体に過ぎません。
あなたや、あなたや、あなたによって、語らせ・られている媒体に過ぎません。
僕は、あなた方によって、この分身主義をより多くの方にわかっていただくために努力させられ続けるでしょう。
死ぬまでずっと‥‥。
やれやれ‥‥、とんだ媒体を引き受け・させられてしまったものです。あなたのせいです。😠
い、いえ、あなたのお陰です。💦
3日目 人間には実感できないけれど‥‥
たった今、地球のどこかで不安と恐怖に脅えている分身さ~ん。地球のどこかで絶望や悲嘆に暮れている分身さ~ん。
あるいは、お金を儲けることに成功してニヤリとしている分身さ~ん。いつか世界中のみんなが「分身」の意味を理解する日が来ます。
その時、彼は彼だけの彼ではなく、あなたはあなただけのあなたではなく、僕は僕だけの僕ではありません。
彼は‥‥、あなたは‥‥、そして僕は‥‥、一つになります。僕たちは部分であると同時に全体だったからです。
僕たちの脳はまだ、自己中心的なので、それが「理解」も「想像」もできないでいるんです。
世界中のみんながそれを「理解」した日、この世界に奇跡は起こります!!
* * * * *
大変な事故が起こりましたね。
昨日は、この分身主義の森の中で、「尼崎脱線事故」についていろいろ考えてみました。
当事者ではない僕たちだからといって、他人事のように済ますのではなく、僕たちは、そこから学ばなければいけないことがたくさんあります。
5月9日のニュースには次のようにありました。
対策本部で話し合っている分身さんたちは、あのような事故を二度と起こさないように一生懸命に話し合っているのだと思いますが、ある意味、自分以外のどこかに責任の原因を見つけ出すことで早くこの事故にケリをつけて、早く解放されたいのかもしれません。
だけど、根本的には何一つ解決がつくわけではありません!!
本当にあのような事故を二度と起こさないためなら、彼らもまた、「自分たちがあの事故を引き起こしました」と、真っ先に反省すべきなのです。
彼らは、責任の原因を探し出し、自分以外の人たちにたくさんの要求をしていますが、自分には何一つ要求していません。
あなたはどうでしょう!?
あの事故を教訓にして、自分自身を見つめ、自分に何かを要求しましたか?
僕たちはみんな、今の僕たちを取り巻く個人主義的(=自己中心的)環境の、媒体です。
対策本部の人たちもまた、例外ではありません。
「個人主義的環境」が、対策本部の人たちを媒体にしてあのような決定を下したとも言えるわけです。
つまり‥‥、
「個人主義的環境」に置かれた僕たち媒体が取らされる行動の特徴は、自分は常に正しい側であるというスタンスに立つことです。自分中心に全ての判定は下されるわけですから‥‥。
だから、誰もが自分を棚の上に上げて、あたかも自分はいつも被害者のような顔をして物を言います。
5月10日のニュースでは、次のようにありました。
これも同じです。
利用客もまた、自分たちは常に正しい側で、被害者側であるというスタンスに立っています。
先日、中国国内の反日デモで暴動を起こして、日本人経営者の建物を破壊した人たちも、自分は悪いことをしているなんて意識はありません。
彼らはむしろ、自分たちは正しい側だし被害者側であるというスタンスに立って行動して(させられて)います。
個人主義的環境が、僕たちの脳内にそのような思考回路を作っているわけです。
事故が起きた約3時間後に、その事故を知りつつも懇親目的のボーリングをしていたJR西日本大阪支社天王寺車掌区の区長分身さんや職員分身さんたちも、そして、それを知ってここぞとばかりにJR西日本を叩き、視聴率稼ぎの報道をするマスコミの分身さんたちも、みんなみんな「個人主義的環境」にその行動を取ら・されている媒体たちなんです。
そのような「個人主義的環境」が作る様々な偶然(結果から見れば必然でしたね)が、複合的に重なり合って、あの脱線事故は引き起こされたと言っても過言ではありません。
職員分身さんたちが非常時にボーリングをしてしまう行動も、マスコミの分身さんたちがそれを叩く行動も、そしてあなたや僕の日常の物の考え方や行動も、僕たちを取り巻く「環境」に彼らやあなたや僕が取ら・されているものですが、その彼らやあなたや僕という媒体を操っている「環境」こそが、あの尼崎の事故を起こした張本人なんです!!
僕たちは、自分たちを取り巻く「環境」に目をやって、自分たちがどのようにして行動というものを取らされているのかということを科学的に理解しない限り、永遠に自分を棚に上げて相手を責め合うだけです。
昨日のこの言葉を、噛み締めてみてください!!
「個人主義的環境」が「分身主義的な環境」に変わらない限り、どんなに立派なことを話し合おうと、どんなに鉄道事業者たちに厳しい要求を突きつけようと、僕たち媒体は、同じような失敗を何度でも繰り返してしまいます。
それはある時には違う形の事故となって現れ、ある時にはモラルの欠如した行為や傍若無人な振る舞いとなって現れ、ある時には不正行為や犯罪や争いとなって現れます。
先日、僕(徳永分身)が歩道を歩いていたら、向こうから自転車に乗ってやってきた20代後半くらいの分身さん(男性)が、コンビニの袋に入ったゴミを、ポーンと植え込みの中に投げていきました。
僕には、理性的規制が働いて、紙切れ一枚でも道に投げ捨てることはできないのに、どうして彼にはそんなことが、いとも簡単にできるのでしょう?
それは、僕を取り巻く環境と、彼を取り巻く環境がほんの少し違うからです。僕の脳内には、高校の山岳部の時に、ゴミは紙切れ一枚でも捨ててはいけないことを厳しく埋め込まれています。そして、それを実践すると(=規制が働くと)脳内に幸福感の神経伝達物質が流れるような回路が出来上がっているからです。
彼の行為も、僕たちを取り巻く環境が「分身主義」的になれば、次第になくなることです。‥‥と言うより、僕たちを取り巻く環境が「分身主義」的にならなければ、永久になくならないものです。
いくら彼一人を追及しても、彼のような人を何人注意しようとも、あるいは町中に「ポイ捨て禁止」なる立派なスローガンのポスターをベタベタと貼っても無駄なんです。
何故かと言えば、彼を注意する人の行動も、町中にスローガンを貼る人の行動も、みんな自分だけは正しいというスタンスに立つ「個人主義的環境」に、取らされている行動に過ぎないからです。
自分の行動が環境にやらされているということに気づかない限り、いつまでもやらされているだけの状態であり、そこから飛び出せないでいるからです。
同じ穴の狢(むじな)に過ぎません。
昨日歩いていただいた分身主義の森では、目には見えない環境とのそのような関係性を発見していただきたかったわけです。
今日は、早速、分身主義の森を突き進もうと思ったのですが、だけど、もしかしたら、森に突入したばかりでつまずいてしまった方もいるのではないかと心配しています。
「一つの事故の背景には、140億年間の全ての現象が、その原因として関わり合っている」
‥‥というようなことを言いましたが、それは決して「大雑把」なことを言っているのではありませんよ。
むしろ、緻密過ぎるくらいに緻密に、事故の原因を辿って行った先に到達した結論なんです。
その誤解を解いておくために、いくつかの例を挙げて説明しておきます。
むしろ自分には関係ないと考えていたものこそ、大雑把な感覚だったんです。
もう一つ、例を挙げます。
僕(徳永分身)は、将棋は駒の動かし方くらいしか知らないのであまり好きではないんですが、囲碁は大好きです。
みんなみんな自己中心的な環境から、浮かび上がっている思考形態ですよね。
福知山線事故対策本部の分身さんたちや、利用客の分身さんたちが、四隅の死活にばかりに目が行って、この宇宙全体を見渡せないのも同じです。
僕たちは、ビッグバン宇宙という一つにつながった碁盤上で、その一手を打つわけです。
最適な一手を打つためには、地球どころか、宇宙全体を見渡せなくてはいけません。
そのためには、自己中心的観念に取り憑かれている自分に気づくことが第一です。
そして、僕たちをそこから救い出してくれる「科学」に注目することです。自然界中心の科学こそ、僕たちを自己中心の固着観念から解放してくれます。
そして‥‥、その科学が導いてくれた「分身主義」こそ、人類に、ユートピアへと通じる入り口を指し示してくれていたんです!
もう一度、ここまでのことを復習してみましょう。
世界中の海は全部つながっているから、たとえあなたがそれを実感し理解できなくても、あなたの人差し指で確実に海面は変化する。
これはいいですか?
では、次の言葉はどうですか?
囲碁は一つの盤上で行われるゲームだから、配置される石一つ一つは全部関係し合っていて、あなたの一手は確実にその後の局面に影響を与える。
これもいいですよね。
キーワードはどちらも「一つのつながったステージ」です。
では、ステージをこのビッグバン宇宙に移してみたらどうでしょう。
あなたがこの宇宙の片隅に存在するということは、あなたの体積分、確実に空気を押し広げています。
つまり、今のこの宇宙は、あなたの体積分押し広げられた形の宇宙です。そうですよね!?
だから、あなたは今のこの宇宙の部分であり、全体なんです。
そしてまた、100年前に100万光年離れた所で起きたことは、確実にその後の局面に影響を与え、それが原因の一つとなって、その100年後の今、あなたが生まれてきた。
これも理解できるし、想像もできますよね。
何故なら、今考えたように、この宇宙というたった一つのステージ上では、全部関係し合っているからです。
この言葉が、決していい加減でアバウトで大雑把なことではないことがわかっていただけましたか?
僕たち人間は、自己中心的観念に取り憑かれているせいで、自分や、自分たち人間に関係あることや、実感できることしか理解できません。
でも、僕たちに実感できることなんて宇宙のごくわずかのことなんです。
僕たちはこの140億歳の宇宙に住んでいながら、時間の感覚はと言えば、せいぜい一時間、一日、一週間、一年‥‥といった単位から、あるいは長くても人生設計に必要な70年や80年くらいしかイメージせずに日常を暮らしています。
でも、例えば犬の嗅覚は、人間の嗅覚の1.000倍から10.000倍も優れていて、残されたニオイを嗅いだだけで、そのニオイの主が「いつ頃、どちらの方角から来て、どちらの方角に去って行ったか」といった情報を得ることができます。
だけど、実感ができないからといって、ニオイもそのニオイの主も存在しないわけではありませんよね。
僕たち人間に実感できることなんて、宇宙のごくわずかのことです。
でも人間は、それを理解力と想像力と感受性でカバーすることができます!
この言葉の意味は、自分中心に物事を「理解」したり、「想像」したり、「感受」したりすることを指しているのでは決してありません!!
まったく、その正反対です。
そのような人が何万人、何億人いようと、環境は今まで通りです。
ここで言う《理解》とは、人差し指を海に入れたら、世界中の海の水位が人差し指の体積分だけ上昇することを理解するというような意味の理解です。
これは、自分中心に物事を捉えようとする今の僕たちには実感できないものですから、論理的に考えて「理解」するしかありません。それができる人のことを「理解力がある人」と書いたわけです。
また、ここで言う《想像力》とは、自分を取り巻く日常の利害関係を基にして何かを想像する力ではありません。
大っ嫌いな上司との関係をこのまま維持していた方が、自分の将来にとっては得になるかどうか、などというちっぽけなことに働かせる想像力ではなく、140億年の旅をしてきた宇宙と自分との関係を想像できる力です。
《感受性》の意味も、自己中心的な感受性のことを言っているのではありません。自己中心的に感受性が強い人はたくさんいます。ちょっとした悪口を言われて傷つく人は、確かに感受性が強い人に違いありませんが、ここではそんな自己中心的な感受性のことを言っているのではありません。
傷ついてしまった他人の心を、自分のことのように感じることができる感受性を持った人のことです。
その感受性は、人によってかなり違いがあるようです。
他人の傷も自分の傷のように感じる人は、先程の「実感できない水位の上昇」を想像し、論理的に考えて理解し、「体験」することができる感受性の持ち主です。
そのことを、「分身主義を知っていただくためには、理解力と想像力と感受性が必要」と言ったわけです。
その後に続く「分身主義を知った方が数人の人がいればこの環境は変化する」という言葉の意味は、今、具体的に言ってしまえば、その人たちがブログを作ってくださることを指しています。
世界を平和にするためには、何らかの組織を作って抗議活動をしたり、法律を改正したり、政治を改革‥‥することなんかでは絶対に無理です。
そんなことで世界を平和にできるなどと思い上がっている人がいること自体、無理な証拠です。
彼らは相変わらず自己中心的な檻(=環境)の中で、その檻(=環境)にも気づかずに、そのような考え方を浮かび上がらせ・られ、行動を取らせ・られているだけだからです。
世界が平和になり僕たちが本当の幸福を手にするための近道は、「理解力と想像力と感受性の優れた」数人の人が、インターネットを通して、自分自身が、分身主義者を目指すことを公言することだけです。
世界を平和にするのは、そのような方法しかありません!!
僕(徳永分身)が分身主義を叫んでいる間は、決して分身主義は広まりません。僕が分身主義を叫ぶ声は、自己中心的なかごの中で守られている人々には、決して届きません。
分身主義は、その檻(おり)に気づき、その檻の中から解放されたいと願うあなたの口から語られた時、初めて説得力を持ち、人は耳を傾けてくれるでしょう。
あなたこそ、人類の本当の英雄になる方です。あなたこそ、僕たち分身みんなの誇りです。
あなたこそ、僕たち分身みんなの自画自賛です!
◆◇◆ちょっと一言
あなたがこの宇宙の片隅に存在するということは、あなたの体積分、確実に空気を押し広げています。
それがこの広大な宇宙に対して、どのように影響を与えているのかを、僕たち人間が、その「利益」や「被害」という形で実感できないからといって、それを理解しないのはあまりにも大雑把で、あまりにも自己中心的過ぎるという意味をわかっていただけましたか。
むしろ、今のこの宇宙の小さな小さな一部分に過ぎないあなたが、広大な宇宙に与えている影響を知ることこそ、科学的な緻密な真実だったのです。
その影響を想像し理解する力と、それを感じる力を持ったあなたであれば、分身主義はあなたの中に、それ程、抵抗なく入り込むことができるはずです。
地球の裏側にいるA分身さんが死んだ時、彼の家族や友達は悲しむことでしょう。
あなたはどうですか?
今のあなたは、自分に影響がなくても、自分が実感できなくても、会ったこともないし見たこともないA分身さんの存在を理解できるし、彼の死を悲しむ想像力を持っていますよね。
広大な宇宙に散らばっている、まだ見ぬあなたの分身さんたちの存在を、常に理解し、想像できますよね。
それができたら、次は「死」について一緒に考えてみましょう。
僕たちは、彼(A分身さん)の家族や友達と同じように、泣くことでしか悲しみを乗り越えられないのでしょうか?
みんなで悲しみ合うことでしか、死の恐怖を乗り越えられないのでしょうか? そもそも、死とは、悲しんだり恐怖したりしなければならないものなんでしょうか?
安斎育郎分身さんが、人間が死んだらどうなるかということを科学的・数量的に記述するという画期的な試みをしてみせました。
それによってわかった驚くべき事実を、あなたに知っていただきたいと思っています。
でも、その前に、あなたの理解を助けるためにも、まだまだこの鬱蒼とした分身主義の森で経験してもらわなければならないことがあります。だから、その話は後のお楽しみにとっておきます。
4日目 みんな錯覚の中を生きている
しばらく、「尼崎脱線事故」を考えることで、分身主義の概観を眺めていただきました。
僕たち人類が経験したこの悲しみから立ち上がるためにも、また、憎しみや怒りや不公平感のない世界を作るためにも、もたもたしてはいられません。
早速、分身主義の森を進みます。
えっ、今、こんな声が聞こえました。
「泣いたり、憎み合ったり、怒ったり、たまには喧嘩したり、それが人間じゃないの。それを排除して、いつも仲良く微笑み合ったり笑い合っているだけの人間なんて逆に気持ち悪いよー。それに人は生まれつき平等でも公平でもないよね」
では、その人に質問します。
あなたが(現時点でのあなたが)今おっしゃった言葉は、「人と人が殺し合う戦争や殺人事件がたまにはあるのが人生だもの。それがまた人間らしくていいんじゃないの?」
という言葉と同じだということを理解しているのですか?
あなただって、戦争や犯罪となると否定すると思いますが、それなのに「戦争や犯罪は否定するけど、戦争や犯罪の芽は大切に育てましょう」などという矛盾したことを言っているんですよ。
でも、その気持ちもわかります。
喜怒哀楽があるのが人間だから、人間からある種の感情を排除するということは、人間の脳に感情を制御するようなチップなどを埋め込んでロボット化するしかありません。
だから、その人には、先ほどの僕の言葉が「人間を非人間化しよう!」などという言葉に聞こえてしまったのかもしれません。
もちろん、僕はそんなことは一切言っていないので安心してください。
僕は、『人類が今まで経験してきたような憎しみや怒りや不公平感のない世界を作るため』と言うべきでした。
つまり、たとえ憎しみや怒りや不公平感はあったとしても、分身主義的な環境の中では、それは今までと同じ憎しみや怒りや不公平感ではないということです。この言葉の意味は今わからなくても、分身主義の森を突き進み、出口付近にまで到達した頃にはきっとわかっていただけるので、覚えておいてくださいね。
戦争や犯罪を肯定している人は、この世には一人もいないと信じています。たとえ武器を製造している人たちも、戦争や凶悪犯罪の映画が大好きな人たちも、それに、実際に犯罪を犯してしまった人たちも、現在、戦争に参加している人たちも、やっぱり戦争や犯罪は否定していると思います。
だから考えて欲しいと思います。
どうしたら、戦争や犯罪をなくせるかを‥‥。
自分たちは戦争や犯罪を否定していながら、実際は「戦争や犯罪の芽を大切に育ててしまっている」わけだから、どうしたら自分をロボット化せずに戦争や犯罪をなくせるかを‥‥。
あなたも、分身主義の森を抜けるまで、この答えを考えて考えて考え抜いておいてください。
それでは、出発しましょう。
でもその前に、今日もちょっとこの場をお借りして、僕たちの分身仲間さんたちに挨拶だけしておきます。
宇宙に散らばっている分身さ~ん、いかがお過ごしですか~!?
こちらは、平均時速10万7280kmという猛スピードで太陽の周りを公転している地球に、落っこちないように必死でへばりついている分身仲間の徳永分身で~す。
この宇宙に存在している僕たちは、みんなみんな、約140億年前に突如生まれたビッグバンという小さな火の玉が、ものすごい勢いで膨張し、それによって温度が下がると共に、内部の素粒子が様々に反応し合う過程で作り出されてきた分身同士ですよね~。
この科学的真実を確実に記憶した僕たちは、この先も、美しく歪められた現実を見ていけそうです。
分身主義という現実です~。
さて、この分身主義の森に入った1日目に、分身主義がこの宇宙の全てのものを《実体》と《幻想》に分ける理由を聞いていただきました。
覚えていますか?
科学は、この宇宙の全てのものを、例えば病気や遺伝と呼ばれている現象も、また、雨や雪や地震や竜巻や台風といった自然現象も、物質に還元して理解しようとするものでした。
つまり、科学とは唯物論という一元論なのです。
科学は、人間の脳の現象もまた物質に還元して理解しようとします。
しかし、分身主義はその人間の脳内の物質が作り出す現象に対してだけ《幻想》という名前をつけたということです。
それは、名前をつけることで、その正体を科学的にはっきり解明させる必要があったからです。
ここまではいいですね。
また、《幻想》は、「錯覚」と言い換えても差し支えない、とも言いました。
つまり、僕たちの脳は、《実体》をありのままに認識することはできない、という観点から、認識、連想、想像、思考、感情、意思‥‥、といった脳の作用によって作り出されるあらゆる現象は、全てその人の「錯覚」(事実とは異なるが、そうであるかのように思うこと)である、と言っているわけです。
1日目に検討したように、僕たちは、《実体》をありのままに認識することは決してできません。
誰一人として素粒子を見た人はいませんが、どうしてそれが「存在しているとわかる」かと言うと、実験上の数値として検出されるから、存在しているに違いないと「推測」できるだけなのです。
太陽を認識する場合でも同じです。
僕たちは、「確かに太陽は空に存在している」と信じていますが、正しくは、「いろいろな経験から総合的に見て、太陽は空に存在していると推測できる」と言うべきなのです。
僕たちは、目に見えているからその形のモノはその形のまま存在している、などと安易に考えますが、ではスクリーンに映った映像などはどうでしょうか? スクリーンのどこを探しても高倉健分身さんはいません。
映画という娯楽は、人間の目の錯覚を利用しているわけです。
その反対に、僕たちは目をつぶっても太陽の存在を感じます。それはどのような方法で認識しているのでしょうか?
まさに、五感から得られる情報(目をつぶっても強い光や暖かさは感じる)を総合的に分析した結果、今日は太陽が顔を出しているに違いないと推測できるわけですよね。
もちろん、総合的な分析は瞬時に「無意識」に行なわれているわけですが。
いいですか!?
重要なことなのでもう一度繰り返しますね。
僕たちは《実体》をありのままに認識することは決してできず、僕たちにできることは《実体》の存在や特徴を、経験によって《推測》することだけなんです!!
では、この「経験」とは何でしょうか? 経験とは記憶を積み重ねることですよね。
だとすれば、《実体》を見たり触れたりした時に脳内に浮かび上がるあらゆる現象(認識、連想、想像、思考、感情、意思‥‥など)は、‥‥つまりこれらのあらゆる錯覚は‥‥、脳がその人の「記憶や言葉」に基づいて(=経験を通して)見ている錯覚である、としか言いようがないというわけです。
だからと言って、素粒子や太陽は、僕たちの単なる錯覚で、本当は存在していないなどと言っているわけではありません。
僕たちが認識している素粒子や太陽は、決して素粒子や太陽そのものではない、と言っているだけです。
身近な例でもう一度説明します。
例えば、僕たちは目の前にりんごが置かれたら、それをりんごと認識します。
それは誰が見てもりんごだし、確かにそこに存在していて、手を伸ばせば掴むことさえできるので、それは決して錯覚なんかではない、と僕たちは考えます。
また、そのりんごを齧って甘いとかすっぱいとか認識するのは、錯覚なんかではなく、誰が齧っても甘いとかすっぱいとか認識する確実なものだ、と思います。
でも、味覚というものは、本当に誰でも同じでしょうか?
違いますよね!?
りんごという《実体》は、認識された時点で、その人の《幻想(錯覚)》の領域の物になります。
では、口の中に入れられたりんごは《実体》でしょうか? それとも《幻想(錯覚)》でしょうか?
りんごは口の中に入ると無意識で咀嚼(そしゃく)され、消化され、化学変化によって栄養として取り込まれ、やがて余分なものは排泄(はいせつ)されます。
その一連のふるまいは、《実体》の領域で起こった出来事ですが、もし、りんごを脳が認識しようとして、「ああ、おいしい!」と感じたり、あるいは、今のように咀嚼・消化・栄養・排泄などの用語を用いて、その出来事を「理解」しようとした場合、《幻想(錯覚)》の領域に入ります。
この僕(徳永分身)とあなたが同一のりんごを見て認識したりんごは、それぞれお互いの記憶によって歪められた「りんご」を認識しているわけで、その時点で、決して同じ物ではなくなっています。
りんごが嫌いな人と、りんごが大好きな人と、りんごによって初恋を想い出す人が同一の「りんご」を見た場合、みんな違う記憶によって歪められたそれぞれの「りんご」を見ているわけです。
僕があなたに、「昨日おいしいりんごを食べたよ」と言った時、「そう言えば、私はここ十年くらいおいしいりんごにめぐり合ってないわ」などと話が通じるのは、それは「りんご」という言葉に対して描くお互いのイメージが、近似(きんじ)しているからです。
人はそれぞれ、言葉に対するお互いのイメージが近似しているので会話を可能にしている、‥‥と言えます。
今、「認識」が錯覚であることを説明してきましたが、「認識」以外のもの、想像、連想、感情、思考、意思などについても、それが錯覚かどうか、一つ一つ検証してみましょう。
例えば、フランスの旅行記などを読んでいて、あたかも自分がフランスを歩いているように想像することがあります。
「想像」が錯覚(事実とは異なるが、そうであるかのように思うこと)であることは、容易に理解できます。
また、その際に表記されていたフランス料理の名前から、似たような名前のフランスの文豪を「連想」して、そこから今度は彼の小説内に出てきた船旅の様子などを「連想」したりすることもあります。
どこにも表記されていない船旅のことを考えてしまう「連想」も、また錯覚であることはわかります。
その旅行記に書かれていたベルサイユ宮殿の歴史の部分を読んでいて、悲しい気持ちになったり、華やかな気持ちになるのは「感情」ですが、どこにも悲しいとか華やかなどとは書いていないのに、その人固有の反応をしてしまう「感情」というものが錯覚であることもわかります。
「思考」はどうでしょうか?
それも錯覚だと言うのなら、分身主義の考えたこともまた錯覚の産物であり、それ自体も単なる錯覚であるということになります。
分身主義はそんな程度のものだったんですか? ということになります。でもそうだったんです。
分身主義なんてその程度のものだったんです。
分身主義に限らず、仏教だってキリスト教だってイスラム教だって、錯覚の産物です。
錯覚だから、僕(徳永分身)がアルツハイマーにでもなれば、僕には分身主義は理解できないものになりますし、分身主義はまだ誰にも受け継がれていませんので、分身主義という錯覚は、この宇宙から消滅します。
でも、錯覚には《実体》を変えるほどの力が潜んでいたことは、既に述べましたよね。
それこそが、宗教の力の源でもあります。
「意思」だって、僕たちは自分の行動は確実に自分の意思で行なっていると信じていて、それは決して錯覚なんかではない、と思っています。
だけど、実は、人間の意思というのは、自分で作り出しているものなんて何一つないことは考えればわかります。
例えばあなたが「よーし、明日からダイエットをするぞー!」とか、「被災者に義捐金(ぎえんきん)を送ろう!」などという意思を持ったとします。
それは、何にも影響されずに唐突にあなたの頭に浮かんだことでしょうか?
あなたの脳を取り巻くたくさんの情報(=刺激)によって、あなたは、あなたの脳内に、それらの「意思」を浮かび上がらせ・られてしまっただけだということは容易に理解できます。
ダイエットという言葉や義捐金という言葉さえも、あなたが作り出したものではないし、あなたが考える時に使用する言語(日本語)でさえ、あなたが作ったものではなく、植え付けられたものです。
あなたの脳に植え付けられた日本語は、あなたの脳を日本語によって何かを考えてしまうような脳にしてしまっているんです!!
その証拠に、あなたはドイツ語で何かを考えることは決してしません。(もしあなたがドイツ語が堪能でしたらゴメンナサイ)
言葉がインプットされていることによって、あなたの脳は、何かを考える脳になってしまったとも言えます。
それによって、あなたがご飯を一膳に減らしたり、テレビ局に義捐金を送ったりしたら、それはやはり、あなたの脳を取り巻く環境に、あなたは行動をさせられたということになるわけです。
(だから、僕が書いているこの文章は、僕を取り巻く環境に僕が書かされているわけです)
やっぱり、「意思」もまた脳に浮かび上がる錯覚であり、行動はその意思という錯覚によって作られていたんです。
ということで、僕たち人間の脳に浮かび上がる「認識」以外の「連想、想像、思考、感情、意思‥‥など」も、全て錯覚であるということは理解していただけましたでしょうか!?
でも、僕たち人間の脳に浮かび上がる《幻想(=錯覚)》は、1日目に見たように、火星探査ロボットを作ったり、その着陸を成功させたり、また、目に見えない素粒子の存在を「推測」したりすることができます。
これはどう理解したらいいのでしょうか?
その答えは、「予備知識8・精神病とは何か」に書いています。
僕たちはテーブルの上に置かれたコーヒーを飲むために手を伸ばし、コーヒーカップの取っ手を適切な握力で掴むという行動一つにしても、とても難しいことを成功させていたんですよね。
忘れている方は、もう一度、「予備知識8・精神病とは何か」を参照してみてください。
僕たちは一瞬たりとも休まずに、フィードバック作業をしながら生きているのです。
何故フィードバック作業をしてしまうのかと言えば、それは、脳内に記憶という「流れ作業のベルトコンベアー」ができているからなんです。
記憶については、いずれお話しすることになるので、この話はこれ以上踏み込みません。
僕たち人間が、記憶という「流れ作業のベルトコンベアー」によって、何度もフィードバックという「錯覚と実体とのやり取り」を繰り返させられているうちに、この自然界で正確に機能するモノ(実体)が、自ずと生み出されていたというわけです。
ちなみに、科学とは、人間の脳が、自然界とのフィードバックを成功させながら学んでいく学問のことです。
(正確に言えば、人間の脳が自然界とのフィードバックをさせ・られながら、学ばさせ・られるものに対して、「科学」と命名しているわけです)
科学が一つの法則を発見するまでは、普通、フィードバック作業(=実験)を何百、何千回、あるいは何万回と繰り返します。
ちなみに、迷信や占いなどを信じてしまうような人たちの現実把握も、彼らなりのフィードバック作業によって行なわれます。
例えば○○をしたら○○が起きたので、今度はその○○を○○にしたら、その現象がなくなった、といったようなものです。
しかしこれは、偶然の一致や、「こうであって欲しい」という「思い」が行なう「後づけバイアス」がほとんどでしたね。(「予備知識5・霊は存在するか(1)」参照)
そしてそれはまた、真偽(しんぎ)を確かめるために、何百、何千回と実験を繰り返すわけではなく、自分の「思い」に合致しない場合は数に入れない、というとても自分の都合に合わせたフィードバック作業です。
それらは、科学的に見たらかなり不正確なフィードバック(現実把握)なので、つじつまの合わない現象もたくさん起こるはずですが、そのような不都合な現象は、もちろん、その人なりの「バイアス(偏り、重みづけ)」によって取り消されます。
ここで少し不思議なことに気づきませんか?
精神病と言われる人たちは、正常と言われる僕たちから見れば、現実から掛け離れた「錯覚」の中で生きていると思われていますが、僕たちだって「錯覚」の中で生きている限り、精神病と言われている人たちと、全く変わりなかったということです。
長年、神経症などの治療に携わってきた黒川昭登(くろかわ・あきと)という分身さんが書かれた(科学的に正確に言うと、彼を取り巻く環境の媒体となって彼が書かされた、となりますが)、『うつと神経症の心理治療』という本に、名言を見つけました。ここでは、その中の二つをご紹介します。
精神病と言われる人たちは、現実とのフィードバックが正確にできなくなった人のことだと言えますが、ここで言う「正確」とは、単に、その社会における大多数の人に共通する認識という意味に過ぎません。
ここまで一緒に歩んできてくださった方には、そのことは理解していただけると思います。
大多数の人と同じ現実認識のフィードバックが正確にできなくなった原因は、二つのことが考えられます。
一つは《器質的な原因》。
つまり、薬物中毒や、脳障害などの身体的原因が明確な場合。
もう一つは、《心因的な原因》で、心に強いストレスや、強い不安や恐怖などを抱えてしまった場合です。
同じ環境に置かれても、その時受けるストレスや不安の度合いは、人によって違います。
感受性が強い人、肉体的・精神的に弱っている人、そういう人にはちょっとしたことでも強いストレスになってしまうのは当然のことです。
僕たちは日常生活においても、心に何かこだわりがある場合、現実とのフィードバックが正確にできなくなり、通常の行動が破綻(はたん)してしまう場合をいくつも経験しています。
例えば、車の運転をしていて助手席の人に「大丈夫?」などと言われると、普段は慎重に走っている狭い道でも何故かスピードを出してしまい、壁にぶつけてしまったりします。
これは、過小評価という一種のストレスを受けて、大きな自分を見せようとして、距離感をつかさどる視覚情報を無視する(壁をちゃんと見ない)ような大雑把な行動をとってしまう例です。
つまり、ストレスを回避しようとすることが、かえって現実とのフィードバックを正確にできなくなる状態を作り出してしまい、余計に悪い方向へ突き進んでしまうわけです。
精神病と呼ばれている現象は、ストレスや不安などを介して、このように現実との誤差がどんどん開いて行き、それがますます悪循環となり、ついには現実の中で生きること(現実とのフィードバック)をやめてしまう状態だと考えれば、つじつまの合う理解ができそうです。
ここに、僕(徳永分身)が「精神病は病気ではない」と主張する根拠があります!!
僕たちはみんな錯覚の中を生きているのに、一方を異常(病気)、一方を正常(健康)と決め付けるのは、あまりにも非科学的だからです。
そのいい例が、オウム真理教や統一教会という特別の錯覚の中を生きていた人たちに対して、僕たちは彼らを異常とみなしました。
あなたは、「だって、彼らは洗脳されていたのよ」と言うかもしれません。
そう、あなたがお考えのように彼らは洗脳されてしまっていたんです。でも、あなたはご自分が洗脳されていることにお気づきでしょうか?
僕たちもまた、何物かの洗脳と無縁では生きれない存在ではないでしょうか? 彼ら(オウム真理教や統一教会の人たち)には、僕たちの異常さや、この社会にたっぷりと洗脳されている僕たちの姿が、はっきりと見えているはずです。
戦時中などは、国を挙げて大いなる錯覚の中に生きていました。今から考えれば人殺しを奨励する異常な社会かもしれませんが、当時はそれが正常な状態で、戦争に反対したりするような人は異常(=非国民)扱いされました。
と言っても、人殺しを奨励する社会が異常で、現在が正常と言っているのではありません。
戦時中ではない現在の人々が、人殺しを否定する錯覚の中で生きているというだけのことです。
だけど僕は、人殺しを奨励する錯覚を生むような社会で生きるよりも、人殺しを否定する錯覚を生むような社会の中で生きたいと思うんです。
それは当たり前のことですよね。
人殺しを奨励する社会では、僕たちはいつ殺されるかわからない恐怖の中で生きなければならないんですから。
何を言いたいかというと、僕たちは誰もが錯覚の中で生きているという大前提から始めない限りは、オウム真理教の犯してしまった事件の原因や、戦争の原因や、犯罪が起きる原因や、先日の尼崎脱線事故や、精神病と呼ばれる現象を起こす原因を正確に理解することはできないということです。
そして、正確に理解できない限り、それらの悲劇をいつまでも繰り返すことになるということです。
オウム真理教のような悲劇や、戦争の悲劇や、悲惨な犯罪や、悲惨な事故などがあるたびに、人々が必ず口にする言葉がありますが、あなたもその言葉を思い浮かべることができると思います。
‥‥二度と繰り返してはならない。
‥‥決してこの事実を忘れてはならない。
でも、やっぱり繰り返してしまいます。
人々はどうしてもっと根本の原因を知ろうとしないのでしょうか?
あなたはどうですか!?
その原因を自分の中に探ろうとしますか?
事実を表面的に捉え、自分以外の誰かや何かに責任を探したり、感情的に嘆(なげ)いているだけでは、そこから何一つ学んでいないのと同じです。
科学的な自己探究を深めることによって、誰もが必ず分身主義に辿り着きます。
分身主義は、僕たちの錯覚を生むこの土壌をきちんと耕してくれて、悲劇を二度と繰り返さないような錯覚を生む土地(環境)にしてくれるものです。
僕たちは誰かに責任をなすりつけて嘆いてばかりいないで、土壌を耕すために自ら鍬(くわ)を取るべきだったんです。
どうですか?
分身主義の森の中に踏み入った気分は? 歩きづらいですか? 心地よいですか?
この悲劇や悲惨の話は重要ですが、まだ森の中に踏み入ったばかりですから、しばらく置いておくことにして、さあ、もっと先に進みましょう。
この分身主義の森の中は鬱蒼としていますが、あなたの頭の中もまるで靄(もや)がかかったかのように釈然としない感じではないでしょうか?
靄を晴らすために、一つ一つ片付けて行こうと思います。
まずは、どうして僕たち人間の脳に、《幻想》(認識、連想、想像、思考、感情、意思‥‥など)という現象が起きるのかということです。
それには、人間の脳の「記憶」というメカニズムをはっきりさせなければなりません。
あなたに考えておいていただきたいことがあります。
僕たちの記憶とは、一体何を記憶しているのでしょうか?
ヒントは「人間の記憶とは静的(固定的)なものではなく、動的なものである」ということです。
◆◇◆ちょっと一言
人はそれぞれ、言葉に対するお互いのイメージが近似しているので会話を可能にしている、と言えます。
小澤 勲(おざわ・いさお)さんという、僕たち人類の誇るべき分身さんがいます。彼は長年、痴呆と呼ばれる方たちと共に歩いてきたお医者様です。
そんな彼を媒体として、この地球上に産み落とされた『痴呆を生きるということ』(岩波新書)という素晴らしい本がありますので、是非、機会があったら読んでみてください。
その本に、面白い会話の例がありましたのでご紹介します。
ある痴呆の分身さん(女性)が、突然、「穂高に帰る!」と言い出したそうです。
穂高は彼女の生まれ故郷です。
小澤分身さんが、「穂高は遠いよ。特急券を手に入れて、明日にでも行ってみよう」とごまかそうとすると、彼女は「いえ、穂高はついそこの角を曲がったところですよ」と主張します。それで付き添って近所を歩いてあげたら、彼女は気が済んでそうです。
このように、穂高に対するお互いのイメージが違う場合は会話が成り立ちません。
でも、彼女は決して嘘や冗談を言っているわけではないのです。
痴呆とは、脳の神経細胞の減少(萎縮)による記憶の障害であると言えます。
僕たちと同じように、彼女もまた彼女の錯覚の中を生きていて、その錯覚に基づくフィードバックが、記憶の障害により、僕たちの現実と掛け離れてしまっているだけなのです。
僕たちの現実という言い方をしてしまったけれども、それだって、それぞれの記憶によって歪められた現実なのですが、その現実が、彼女の「穂高」ほどには掛け離れてはいないので、会話が大きくすれ違うということはあまり起こらないだけの話です。
もう一つ、この本に出てきた面白い会話の例を紹介しておきます。
痴呆の女性たちが数人集まって、楽しそうに肩を叩き合ったりしながら談笑していたので、小澤分身さんはそっと後ろに立って何を話しているのかと聞き耳を立てました。
はたから聞いていると会話が成り立っていません。
でも、小澤分身さんは、彼女たちの笑顔に「理と言葉の世界を越えた直接的な関わり」を見て取っています。
「人と人との関係性が原初的な姿で、いっさいの虚飾を脱ぎ捨ててそこにある」
と彼は感じたそうです。
うーん、これこそ分身主義の目指す世界観だなと感じ入ります。
徳永分身は難しいことばかり言って時々みなさんを困らせてしまいますが、本当は、難しいことを言うのが分身主義なのではなく、「理と言葉の世界を越えたところ」にこそ、分身主義の求めているものはあるのです。
そのためにも、「理と言葉の世界」であるこの「分身主義の森」を早く抜け出させてください。
それは僕だけの力ではできないのです。
くれぐれも、非科学に足元を取られないように十分注意して、先に進みましょう。
5日目 私たちはひたすら環境を耕します
尼崎脱線事故という大変な事故に引き続き、またしても、大変な事故が起こってしまいました。
5月22日早朝(4時15分ごろ)、宮城県多賀城市の国道45号交差点で、ウォークラリーに参加中の仙台育英高1年生の列に、酒を飲んで運転していた佐藤光分身さん(26)の車が突っ込んで、3人が死亡、22人が重軽傷を負ったという事故です。
今日は6月7日。事故から16日経過しています。何で今頃こんな話題を持ち出してくるの? あなたには、そう感じられるかもしれません。
日々、新しい情報が忙しく飛び交う時代です。
あなたの中では、もうこの衝撃的な事故はとっくに過去のものになってしまっているかもしれません。
でも、学校関係者や同級生や親族の方々にとっては、一生忘れることのできない出来事です。
特に、後遺症を負ってしまった方や、遺族の方にとっては、これからの人生でずっと背負っていかなければならない苦しみとなるのに、あなたや僕にとっては、今日の夕飯に何を食べるかということよりも興味のないことになってしまっています。
どうしてこのような個人差が生まれてしまうのでしょうか?
それは、僕たちが個人主義的(自己中心的)に生きているからなんです。
僕たちの頭の中はいつも、自分、自分、自分‥‥。関心事は自分と関係することだけで、それ以外は即座に切って捨てます。
あんな事故が起きても、その時だけは、「酒を飲んで運転するなんてとんでもない話だ」、「これからの希望に満ちた人生が断ち切られて可哀想だわ」などと憤慨してみせるけど、自分には直接関わりがないから、すぐに忘れてしまうし、酒を飲んで運転する人が少しもなくなりません。
でも、このような一時的な反応で終わらせてしまうことができる「あなた」や「僕」や「世界中のみんな」が、あの事故を起こしたとも言えるんです。
このような、一時的な反応で終わらせることができる個人主義的(自己中心的)環境の中に取り込まれている僕たちが、みんなであの事故を起こしたんです!!
尼崎脱線事故を考えることで分身主義の概観を眺めていただいたように、今回も、この多賀城市の飲酒運転事故を考えることで、分身主義を外側から眺めていただきたいと思います。
その前に、ちょっと今、あなたの想像力をお借りします。宇宙を、「今」というこの瞬間で時間を止めたとします。
約140億年前に始まって、今もものすごいスピードで膨張している宇宙が、今動きを止めてあなたの目の前にあるとします。
あなたの身体は、この宇宙を外側から一望できるくらいに巨大化したり、素粒子の一つ一つが見えるくらいに縮小化したりできると考えてみてください。
あなたの視界に入る全てのものが静止しているので、あなたはその全てを自由に、そして仔細(しさい)に眺めることができる状態だとします。
今まさに、爆発した瞬間の星(超新星)が静止しています。
風にそよいでいた洗濯物も、時計の針も静止しています。
つまずいて転ぶ瞬間の子供が見えます。
車の中であくびをした瞬間の人がいます。
誰かが誰かを刺そうと振り上げたナイフが光っています。
鳥の声も車の騒音も聞こえません。
今、あなたの目の前にあるものは、ビッグバンから始まって140億年の中で起こった全てのものが、一つ残らず関係して、その目の前にあるということは、理解していただけますか?
この宇宙という一つのステージ上で起こることは、全てが関係しています。もう、あなたには、この意味をわかっていただけると思います。
以前、囲碁を例に説明しましたね。
一つのステージ(盤面)上に配置された石は、右上隅だろうが左下隅だろうが、中央だろうが、その一手を打ったのが有段者であろうが、初心者であろうが、その後の全てに関係して来るんでした。
同じように、このビッグバン宇宙という一つのステージ上でも、たとえ一万光年離れたところで起きたどんな些細なことでも、それがもしなかったなら、今あなたの目の前に見えている宇宙は、今とはまったく違うものとなっていました。
と言うより、過去に起こった全ての現象は、現在から振り返るとそれしか起こり得ない確率で進行していて、「もし‥‥だったなら」などということは、一切起こり得ないわけでしたね。
何故なら、「この宇宙の全てのものは、一定の方向性(=法則)によって動いている」ということや、「全ての物事には必ず原因がある」ということを科学は突き止めています。
つまり、あなたの目の前に今見えている宇宙は、過去のどんな些細な現象もおろそかできないくらいに緊密な関係で成り立っているわけです。
それを言い換えると、どんな些細なことも今の宇宙を作っている部分であり全体である、と言えますよね。
あなたの目の前に今見えている宇宙は、過去のどんな些細な現象もそれを取り去ってしまったなら、今の宇宙とは違うもの(つまり違う全体の姿)になっていた、と言えるからです。
あなたは、10年前に地球の裏側であくびをした人なんて、自分と何の関係もないと思っているかもしれませんが、本当は、自分にとって被害や利益といった形で実感できないだけの話なんです。人間に実感できるものなんて、宇宙のほんのわずかなことだけです。
でも、あなたには実感できなくても、確実にそれが「今」の宇宙を作っていることは、論理的に「理解」することはできますよね。
それができるあなたなら、もう、多賀城市の飲酒運転事故は自分の関係ない過去の出来事ではないことが「理解」できるはずです。
あなたは、この宇宙で起こる全ての事を、同じ大きさ、同じ重要さで受け止めることができると思います。
学校関係者や同級生や親族でなくても、その方たちと同じくらいの大きさと重要さで、あの事故を受け止めることができるはずです。
それは、その方たちと同じように、あの事故を一生忘れることなく、苦しみを背負って生きるべきだと言っているのではありませんよ。
その方たちにしても、それを一生忘れることなく、苦しみを背負ったような人生を生きなければいけない理由が、どこにあるでしょうか!?
子供を死傷させてしまった原因に対して、いつまでも憎しみや怒りを引きずりながら、苦しみの中を生きなければならない理由などどこにもないのと一緒で、その方たちに、そのような生き方を強いる理由などないはずです。
彼らも、そして僕たちもやらなければいけないことは、それは、この宇宙で起こったことはどんな些細なことでも必然であり、どんな些細なことでもこの宇宙を作っている部分であり全体である、ということを「理解」することです。
例えば、人類に甚大(じんだい)な被害を与えた原発事故も、特定の人に被害を与えた飲酒運転事故も、あるいは誰かが地球の裏側であくびしたことも、誰かが地球の裏側で瞬(まばた)きをしたことも、みんなみんな、今あなたが時間を止めて見ている宇宙を形作っている、どれもまったく同じ重要さの一つ一つの「パーツ(部分)」であり、またそれが、今見ている「全体」であるということです。
それを「理解」したあなたには、あなたの目の前を覆っていた靄(もや)が、今、少し晴れて、向こう側の景色が見えたような感じがしませんか? それこそ、分身主義の見ている景色です。
それでは、多賀城市の飲酒運転事故を考えることで、分身主義というものを外側から眺めてみましょう。
この事故は回避できたのでしょうか?
今見てきたように、起こってしまった現在から考えると、この事故は、この宇宙創成以来140億年間に起こった現象の全てが複合的に絡み合って起きた「必然」でした。
約140億前に起こったビッグバンに端を発し、2005年5月22日に11回目を迎えるウォークラリーを実行したことも、今年は大学進学を目指す「特別進学コース」などの1年生568人が参加したことも、前日は教室に泊まり、翌朝4時に第1陣327人(その中の25人が死傷した)が同校舎を出発したことも、15分遅れで第2陣が校舎を出た直後、約1キロ先の交差点で事故は起きたことも、それと平行して、その時刻にその場所で信号待ちをしていた男の人の乗用車がそこにいたことや、その乗用車に、友人ら5人と共に、約7時間もはしごして飲み続けた佐藤光分身さんの車が突っ込んで、特定の3人が死亡したことも、全て原因を遡れば、ビッグバンからつながる一筋の線が存在します。
この宇宙で起こる現象は、全て必然です!!
あなたの指の上げ下げ一つ、瞬き一つにしても、それはビッグバンに端を発し、それが起こってしまった現在から振り返ってみれば、そうするしかない必然の中で起こったことです。
「加害者の犯した罪は論外だが、あんな交通量の多い危険なコースを歩かせなければ、子どもが事故に遭うことはなかった」
「学校は被害者に対して責任ある説明をしてほしい」
と、被害に遭った子供の親が、やり場のない無念の気持ちを怒りに変えて、その矛先を学校に向けてしまうのもよくわかります。
でも残念ながらそれは結果論で、この事故は避けられない必然だったんです。
だけど、今後、飲酒運転による事故をなくすことは可能です。誰もが、一滴でも酒を飲んだら運転をしない世の中になればいいんですが、それにはどうしたらいいのでしょうか?
テレビを見ていたら、有識者と呼ばれているような方が出演していて、「もっと飲酒運転の罰則を強化するしかない」などと言っていました。
でも、どんなに罰則を強化しようと、実は、そんなことでは、あのような事故はいつまで経ってもなくせはしません。そんな「取り引き」でごまかすのではなく、自分自身の心に、酒を飲んだら運転ができないような枷(かせ)が作られなければいけません。
実は、有識者などと言われるくらいの人が分身主義を理解して、「自分があの事故を起こしました」くらいのことを言ってくれるような世の中にならなければ、あのような事故はなくならないんです。
尼崎脱線事故の話の時も言ったように、この事故を起こしたのは佐藤光分身さんではなく、彼を取り巻く環境です。佐藤光分身さんは、彼を取り巻く環境に行動をさせられている媒体に過ぎません。
彼は自分の意思でこの世に生まれたわけではないし、酒や車を作ったのも彼ではありません。彼もある意味、この環境の被害者だったんです。
彼に行動を取らせている環境の一つには、僕たち一人一人も含まれます。僕たち一人一人は、環境の媒体であると同時に、環境を作っている一つ一つでもあります。
もちろん視点を変えれば、彼(佐藤光分身さん)も、僕たちの環境を作っている一つです。
僕たちが、そのことに気づかない限り、同じような事故は繰り返されます!!
有識者と呼ばれているような人が語っている言葉も、実は、彼が彼を取り巻く環境に「語ら・されている」だけなんです。
それどころか、彼らは、彼を取り巻く環境に猛勉強をさせられ、有識者などと呼ばれる立場の人間に作られてしまっているだけなんです。
しかも彼は現在の人間たちに「有識者」と錯覚されているだけなんです。なぜなら、彼を犬や猫の前に連れて行ったら「有識者」ではありません。
(そんなことすら気づいていない人が、現在、有識者などと言われているのが実情なんです)
そのことに気づかない限り、僕たちは永遠にこの環境の中で、この環境の中から混ぜ返されて、その都度浮かび上がってきたものを拾い上げるだけの話です。
僕たちは、たまたま被害者になってしまった人もたまたま加害者になってしまった人も、たまたま善人になってしまった人もたまたま悪人になってしまった人も、たまたま有識者になってしまった人もたまたま無学な人も、みんな同じ環境から出てきた「同じ穴の狢(むじな)」(=分身)同士です。
同じ穴の分身同士が、被害者面して責任を追及したり、加害者の面持ちで頭を下げたり、第三者が良識あるような顔をして偉そうな意見を述べたり、そんなことをしているだけの、その現実に、あなたはまだ気がつきませんか?
僕たちは、独占的に映画を作ることを許されている「個人主義(自己中心)株式会社」という名の映画会社が、手を変え品を変え作る映像を、見せられているだけなんです。
あるいは、役を演じさせられているだけの役者なんです。
僕たちを取り巻く環境は今、個人主義的(自己中心的)な環境です!!
(個人主義と言っているのではなく、個人主義的と言っている点に注意。人間は自我に目覚めた動物であるから、自己中心は当たり前で、それを個人主義的と呼んでいるだけです‥‥その意味で、たとえ共産主義の国であっても、その中の一人一人は個人主義的であると言えます)
個人主義的(自己中心的)な環境は、「多賀城市・飲酒運転事故」を知った僕たちの脳に、自分を棚に上げて、「酒を飲んで運転するなんてひどい奴だ」といった言葉や、「ああ、自分じゃなくてよかった」という言葉や、「自分は金輪際、酒を飲んだら運転はしないぞ」などという言葉を浮かび上がらせます。
このように、自分と他人のはっきりした境界線があるのが、個人主義的(自己中心的)な環境の特徴です。
でも何日かすると、個人主義的(自己中心的)な環境は、当事者ではなかった僕たちにそんなことはすっかり忘れさせて、次のような言葉を浮かび上がらせるに違いありません。
「自分は酒を飲んでも、ハンドルを握るとシャキッとするので、事故を起こすようなヘマはしないさ」
「うるさいなあ、今日はビール2杯くらいだから、酔っ払ったうちに入らないよ。えっ、取締りをやってるって、それを早く言えよ。それじゃあ駄目だ、タクシーで帰ろう。何でこんな日に取締りをやるんだ。ふざけたやつらだ!!」
「ああ、悔しい。昨夜はつかまってしまって運が悪かったな。警察は汚ねえなあ。やつらには本当に腹が立つ」
「しまった。今日は車で来てしまった。でも、ちょっとくらい飲んでも大丈夫だろう。もし、おれに轢かれるようなやつがいたら、そいつがドジなんだ」
「あいつは、車で帰ったけど、知ったこっちゃねえや。酒を飲むというのに車で来たあいつが悪いんだ。なんかあっても自業自得さ」
やっぱり、自分と他人のはっきりした境界線がある個人主義(自己中心)的な環境から浮かび上がる「思い」の特徴は変わりません。
僕たちは罰則を強化されても、この個人主義的(自己中心的)体質自体が変わるわけではありません。
では、自己中心の反対は何でしょうか?
そのようなイメージが浮かぶと思いますが、でも分身主義は、そのどれとも違います!!
その理由を、この3点をもっと踏み込んで考えることで説明します。
❶他人のために自分を犠牲にするとか、自分を他人に捧げる。
貧しい人や動けない人に手を差し伸べたマザー・テレサの尊い行為や、ボランティアの方々の尊い行為は、他人のために自分を犠牲にした行為、と言えます。だけど、そこには、この身を捧げるための「他人」とか、犠牲にする「自分」の存在が前提としてなければなりません。
自分の中に、自・他の境界線がある限り、彼らの行為は、自分のための行為に過ぎません。
ちょっと厳しい言い方をして申し訳ありませんが、自分の喜びのために、彼らには他人が必要だったんです。
分身主義には他人は存在しません。貧しい人も動けない人も自分です。
そこにあるのは、貧しい自分や動けない自分に手を差し伸べる自分があるだけです。
❷自分のことよりも他人の気持ちを真っ先に考える。
徳永分身は、まだ分身主義に出合う前、つまり個人主義的な環境にこの脳が浸かっていた頃、飲酒運転事故に巻き込まれて自分の子供を亡くしてしまったという人のドキュメンタリー番組を見て、飲酒運転をする人を激しく憎みました。
「飲酒運転は犯罪行為だ」と思うようになりました。
自分も、その親の悲しみを考えると、絶対に飲酒運転はしないぞと誓いました。それは、自分のことよりも他人(自分の子供を亡くした親)の気持ちを真っ先に考えるからそう思うわけですが、でも分身主義はそれとも違います!!
分身主義は、他人の気持ちを思いやることで飲酒運転をなくそうとするような低い次元ではありません。
分身主義が思いやるのは「他人」ではなく「自分」です!!
ちょっと知っておいていただきたいのですが、「思いやり」の気持ちは確かに大切ですが、個人主義的(自己中心的)な環境から浮かび上がってくる「思いやり」の感情は、敵を作る感情を同時に連れているはずです。
誰かを思いやった時の自分の感情に照らし合わせて、考えてみてください。その時、その人を特別視して、差別化して、その人を守ろうとしていませんか? 誰かを、何かや誰かから守ろうとした瞬間、敵を作っています。
個人主義的(自己中心的)な環境から浮かび上がってくる「思いやり」の感情は、敵を作り、争いを招く元ともなるとわかるはずです。
もう一つ、知っておいていただきたいことがあります。
思いやりと似たような言葉に、共感という言葉がありますよね。
分身主義の到着点は、世界中の人の心が「共感」でつながることです。
分身主義とは、子供を亡くした親も、亡くなってしまった子供も、事故を起こした人も、みんな自分だったと「知る」ことです。みんな自分だったと知った時、心から共感の気持ちが生まれます。
その、本当の共感の心から生まれた愛だけが、世界を平和にできる愛です。それ以外の愛は、世界に争いを招く愛です。
分身主義とは、「世界を平和にする自己愛」に目覚めることです!!
❸自己を滅却する
高名な禅僧や、舞台俳優や、演奏家などは、自分が今まさに行っている「行為」に没頭することで、一時的に自己を滅却させることはできるかもしれません。
でもそれは一時的なことで、生きている限りは、自己を滅却したまま生きることはできません。それができる人間がいるとすれば、その人の脳に意思も欲望も浮上させることのない脳を持つ「植物人間」と呼ばれる人間だけです。
分身主義は自己を滅却するような無理難題は押し付けたりしません。分身主義は自己の滅却ではなく、自己の宇宙大への拡大です。科学が示してくださっている宇宙大の自己を知ることです。
さて、僕(徳永分身)はこのごろ、分身主義を説明するために「個人主義(的)」という言葉を引き合いに出しますが、分身主義は個人主義(自己中心)の否定ではありません!!
自我に目覚めてしまった人類の歴史は、個人主義への道をひた走ってきた歴史である、と言い換えることもできます。これも必然の成り行きでした。
自我に目覚めてしまった人類は、目覚める前の動物に戻ることはできません。でも、分身主義は奇跡を起こせます!!
自我をこの宇宙にまで拡大させることによって、今まで取り憑かれていた錯覚の「自我」が滅却される、というパラドックスが起こります。
事実上、今まで言われていた意味での「自我」がなくなるということです。
つまり、分身主義とは、個人主義の否定ではなく、むしろ個人主義の拡大、あるいは自我の拡大です。
個人主義とは自分勝手ということではなくて個人を尊重するという思想である、と主張する人たちがいます。
でも、自分が個人として尊重されたいための方便に過ぎません。要するに、やっぱり「個人主義=自分中心」でしかないのです。
自分を尊重されたいための嘘や方便ではなく、本当の意味で個人を尊重することは、分身主義にしかできません。
にもかかわらず、自・他の境界線がない分身主義こそプライバシーを完全に無視したもので、個人を踏みにじるものである‥‥と勘違いし、恐怖する方もいらっしゃるかもしれません。
でも、よく考えてみてください!!
本当にそうでしょうか!?
例えば、僕たちの身体感覚で考えてみましょう。
僕たちは手も足も自分の身体の一部だと認識しています。
だけど、手には手の役割があり、足には足の役割があることを知っています。手に歩かせたり、足にパソコンのキーボードを打たせたりしませんよね。
手は足を、足は手を、それぞれ尊重しているわけです。
分身主義とは、科学が教えてくれた諸々の事実によって、自分の周りの一人一人が、元々は一つの皮(宇宙)でくるまれていた一房一房の夏ミカンだと理解したものです。
みんなみんな大切な、あなたの分身です。
だからこそ、嘘や方便でなく、一人一人の「自分」の分身を尊重できるんです。
人間は環境に踊らされている媒体に過ぎないのですが、でも一人の人間が全ての環境にその身を置くことはできません。
だから、あなたの目の前のその英雄は、あなたの代わりにその環境に身を置いて英雄を演じさせられてくださっている分身なのです!!
あなたに代わってそれをやってくださっているので、彼に対して感謝の念が湧いてきます。あなたはその英雄を妬むことも羨むこともなく、自分の分身として誇りに思います。
また、あなたの目の前のその犯罪者は、あなたの代わりにその不幸な環境に身を置いて犯罪を演じさせられてくださった分身なのです!!
あなたは犯罪者を憎むことも怒ることもなく、むしろ自分の代わりに汚れ役を引き受けてくださり、自分を救ってくださった分身として感謝します。彼に怒りを覚えたり、憎んだり恨んだりするのではなく、彼を救おうと手を差し伸べます。それは自分を救うためです。
最後にもう一度、質問を投げかけます。
多賀城市で起こったような事故が、二度と起こらないためには本当はどうしたらいいのでしょうか?
「もっと罰則を強化するべきだ」などと発言する有識者と呼ばれる方々や、子供を事故で亡くした親のドキュメンタリー番組を作るテレビ局の方々にも、このような事故をなくすためにはどうしたらいいか、もう少し踏み込んで考えてみていただきたいと思います。
さあ、あなたにも、質問させてください。
このような事故が二度と起こらないためには、本当はどうしたらいいのでしょうか?
「二度とあのような事故を起こさないために、今日から私は分身主義者を目指します」
そのように世界中の人が公言する時代が、早く来てほしいと心から願います。
◆◇◆ちょっと一言
「事故は人類を取り巻く環境が起こしたもので、自分がしっかりしていなかったから起きたのでも、誰か一人が悪いから起きたのでもない。すなわち、人為的事故などというものは存在しない」
冒頭のこの『今日の一言』の意味を曲解しないでくださいね。
「じゃあ、誰もしっかりしなくてもいいのか?」
「全て環境のせいにして、責任逃れをするのか?」
「分身主義とは、成り行き任せのことなのか?」
などと「無理解」なことを言わないでくださいね。
本当にあのような事故をなくすには、「自分のしっかりした行動」は、しっかりした環境に取らされる、ということを理解し、誰かを責めるのではなく、ひとえに「私は、分身主義者を目指します」とだけ言うべきだということです。
それは、「私は、環境を耕します」という言葉と同じ意味です。
自分の良い行動は、耕された良い環境に取らされる‥‥だけのものだからです。
6日目 記憶という反応の道
今日は、この分身主義の森で、「記憶」とはどのようなメカニズムなのかということを考えていきます。
この前の質問、考えていただけましたか?
「人間の記憶とは、一体何を記憶しているのでしょうか?」という変な質問ですが、実はとても重要な質問です。
もったいぶらずに答えを先に言います。
「記憶とは、刺激に対する一連の反応を記憶している」
どうですか、実にシンプルでしょう。
でも、このシンプルな答えには、ちょっと普通の本やテキストには書かれていないような、普通の人が見落としているようなある発見があることに、今日は気づいて欲しいんです。
記憶というと、「歴史の年表を記憶する」とか、「彼女の誕生日を記憶する」というような固定的なものをイメージするかもしれませんが、実は、あなたが中学の時に記憶させられた1492年とか、誰かの誕生日2月15日とかは、単なる数字ではなくそれにまつわる一連の反応を記憶したということなんです。
年表や誕生日に対して一連の反応をする回路を、脳内に作ったということなんです。
僕たちの脳の記憶は、紙に文字を記録したり、キャンバスに絵を定着させたり、磁気やレーザー光線を使って記憶媒体にデータを記録したりするのとは根本的に違います。
記憶とは、起伏のある土地に雨が降って川ができるように、ある刺激を受けて脳内細胞が反応した後に「反応の道」ができることです。言い換えると、思考をしたり言葉を作るための「流れ作業のベルトコンベアー」のようなものです。
僕たちの脳は、顕微鏡でしか見えない小さな神経細胞(ニューロン)というものがぎっしりとつまってできていることは、現代人ならほとんどの人が知っています。
神経細胞からは長い手のような枝がのびて、お互いに手をつなぎ合う網の目を作っていて、上手に信号を受け渡すことで、ものを認識したり、判断したり、考えたり、あるいは手足を動かしたりしていることも、ほとんどの人が知っています。(この『分身主義の森を抜けて‥‥』の表紙絵です)
実は、ものを認識したり、判断したり、考えたり、手足を動かしたり‥‥するための、全ての源となるものこそが「記憶」なんです。
脳の神経細胞は、ある閾値(いきち・しきいち:神経細胞に興奮を生じさせるために必要な刺激の最小値)を超えた刺激を受けた場合、その生理的な構造から、電気を発生する仕組みになっています。
その電気信号は次の神経細胞へ次の神経細胞へと引き渡される構造になっていますが、その接続部分(=シナプスと言います)にはわずかな隙間があり、そこでは電気信号が化学物質に一時的に変換されながら伝達されて行きます。
この化学物質は神経伝達物質と呼ばれていて、現在100種類以上発見されているそうですが、それぞれに特徴があり、運動機能や情動などに影響を与えます。
ノルアドレナリン、セロトニン、アセチルコリン、ドーパミン、などは有名ですよね。
このように、神経伝達物質というものをバトンにして、次々に隣の神経細胞に電気信号をバトンタッチしていく中で、その接続部分が増えたり、面積が広くなったりします。それによって、反応の流れやすい通路が作られるわけです。
この形成された「反応の道」こそ、記憶と呼ばれるものの正体です。
それは決して、1492年とか、2月15日とかいう固定的なものなんかではありません。
しかもその「一連の反応」は、他のたくさんの回路とも網の目のようにつながっていて、もっともっと複雑な反応まで誘発させられます。
この誘発させられる「複雑な反応」こそが、分身主義で言うところの《幻想》です。
《幻想》の意味はわかりますね。
分身主義はこの宇宙の全てのものを《実体》と《幻想》に分けるんでしたね。そして《幻想》とは、人間の脳の「記憶や言葉」と外部からの刺激との相互作用によって作り出される全ての現象。
つまり、認識、連想、想像、思考、感情、意思‥‥などのことでした。具体的に、りんごを例にとって考えてみましょう。
生まれて初めてりんごを見た時、触った時、嗅いだ時、齧った時に刺激を受けた感覚器では、それぞれその刺激が電気信号に変換され、脳内の神経細胞の中を電気や神経伝達物質が走り、色や質感、味や食感、あるいは情感などを伴った一連の反応の回路が形成されます。
一つの神経細胞では、一種類の神経伝達物質しか作られないので、後日、目の前にりんごを差し出されれば、以前と同じ回路を流れる電気信号は、同じ神経伝達物質を放出させながら進行するので、最終的に、ごくりとつばを飲み込むなどの一連の反応をしてしまうわけです。
同じものを見る(同じ刺激を受ける)と、同じ気分が湧き上がるのも、これで理解できます。
僕たちの記憶とは、このような神経伝達物質などの反応をひっくるめ、その時に反応した「一連の反応のこと」であることに注意してください。
つまり、紙に1492年とか、2月15日とか記録したりするのと違って、とても《動的》なものなんです!
さてここからが大事です。
いつしか人間は、この一連の反応をする回路を一括(くく)りにして、音を貼り付けるようになりました。
それがモノの名前です。
名前とは、元来、聴覚刺激が元になって作られたものと考えられます。
「赤い」「硬い」「甘い」「すっぱい」などという感覚を指し示す名前の他に、それらの反応をするものを一括(いっかつ)して「りんご」と名づけたわけです。
いつの間にか、人類はあらゆるものに名前を付けていました。
名前とは「反応の仕方を一括りにしたもの」につけられたものですから、いつの間にか人類の脳内は、様々な《反応の仕方》で一杯になりました。
ある名前を聞くことで、様々な反応の仕方が、互いに反応をしてしまうわけですが、それらの反応に対して、その人の脳に形成された言葉を伴った記憶の回路は、一定の方向性や決まり(文法)が持たされているので、接続詞などを伴った言葉となり、言葉はその人なりの思考というものを完成させます。
僕たちは、自分の意思のようなもので思考をしているのではなく、その人の脳内に作られている「記憶のネットワーク」が思考を生じさせている、というのが正しい言い方なのです。
その証拠に、僕たちは記憶にないものは思考することすらできません!
あなたが思考することができるのは、あなたの記憶の範囲でしかありません!
「歴史の年表を記憶する」とか、「彼女の誕生日を記憶する」などという、一見、自発的で能動的に思えるものも、実は、記憶のネットワークの中から浮かび上がってきた受動的なものだったわけです。
だから正確に記述するなら、「あなたの脳を取り巻く環境が、あなたの脳の中の反応の道と反応をしたことで、あなたの脳内に、ある人の誕生日を記憶しようという意志が浮かび上がり、それをあなたの脳が解読させられ、あなたは、ある人の誕生日を記憶しようという行動を取らされた」となります。
ところで、あなたが今、一切の記憶がなくなったと想像してみてください。
過去の記憶も現在の記憶もなくなったと想像してみてください。どんなことが起こるでしょうか?
その時、もしあなたの目が何かを見ていても何も見えず、あなたの耳が何かを聞いていても何も聞こえず、何かを理解することも何かを感じることもないのではないでしょうか。
反応の道が形成されない脳(つまり記憶の回路が形成されない脳)は、木魚(もくぎょ)を叩けばポンと鳴るだけの反応と同じです。
あらゆるものが自分の前をただ通り過ぎていくだけです。
何も理解することも感じることもできないあなたの脳には、何らかの意思が浮かび上がることもなければ、それによって何らかの行動を取らされることもなくなるでしょう。
もし、あなたの目の前に、お箸とホカホカのご飯とお刺身を出されても、何をするものかわからず、食べることすらできないでしょう。
それどころか、口から食物を摂取するという遺伝子に刻まれている本能レベルの記憶すらなければ、生まれてきてもすぐに死に絶えてしまうことでしょう。
記憶がなくなるとは、道端に動かないでいる石ころのような存在になることを意味するのかもしれません。
記憶とは、あらゆる生命現象の源であると言えます。
心理学の分野に「認知科学」というものがあります。
これは、どのようにして僕たちは世界を認知しているかというメカニズムを研究する学問ですが、アメリカの心理学者ジェームズ・ギブソン分身さんが提案した「アフォーダンス理論」というものを聞いたことはありませんか?
これは現在、人工知能の設計原理や、都市環境デザインなどの分野にも応用されようとしているものだそうです。
アフォーダンスとは、「afford(‥‥ができる、‥‥を与える)」に「-ance」をつなげた造語です。
人間は、モノを認識する時、それが自分に対して「‥‥を与える」という行為の可能性によって認識しているということです。
例えば、椅子は自分に対して「座る」ことをアフォードしているし、床はそこに「立つ」ことや「歩く」ことをアフォードしているわけで、そのような「椅子」や「床」を、僕たちは「椅子」や「床」として認識しているということです。
「○○理論」などと命名すると難しいことを言っているように感じてしまいますが、考えてみれば当たり前のことを言っているだけです。
僕たちが目の前に出されたお箸とホカホカのご飯とお刺身を認識するためには、それらが僕たちに「アフォードする(与える)」ものを知らなければなりません。
しかし、もし人間に「記憶」という作用がなければ、目の前のモノは何の情報も僕たちに「アフォード」してくれません。
僕たちに「アフォード」してくれる情報とは、アフォードしてくれるものに備わっていた情報ではなく、まさに、僕たちの脳の記憶が作っていたものだったのです。
僕たちがお箸を認識する時、その二本の棒は僕たちに、「物をつまんで口に入れる」ことをアフォードしているわけですが、もしその二本の棒に対して、かつて作られた「記憶」がなければ、似たような記憶を当てはめて類推することで、その二本の棒から違う「アフォード」を受け取る(認識する)はずです。
「アフォーダンス理論」とは、何のことはない、今見てきた「記憶」の重要性を述べているに過ぎません。
ところが、アフォーダンス理論は、この、人間(や動物)の「記憶」という重要な働きをないがしろにして、モノ自体がアフォードする何らかの情報を持って宇宙に存在しているかのような捉え方をするようです。
それは飛躍し過ぎた考え方です。
「世界からのデーターは十分にある」とギブソン分身さんは言っていますが、もしギブソン分身さんと言えども、彼の脳に「記憶」という作用がなければ、世界にはまったく何一つデーターがないのと同じです。
何故なら、この自然界に存在する全てのモノは、元々、何らかの「目的や意図」があって存在しているわけではないからです。そこに「目的や意図」を見出そうとするのは、人間の勝手な都合です。
例えば、人間は、遺伝子に自分のコピーを作る情報が書き込まれていることを知ると、「遺伝子は自分が生き残りや自分のコピーを増やす目的を持って存在している」という物語を作ってしまう癖があります。
でも、遺伝子がそのような目的を持って存在しているのではなく、様々な分子が長い年月をかけてくっついたり離れたりを繰り返しているうちに、遺伝子のような塊がたまたま作られ、たまたまコピーを増やすような作用をしているだけなんです。
そこに「意味」も「目的」もありません。
人間だけが、そこに意味や目的を見出そうとしてしまうだけです。
人間の都合によって自然界を解釈をしてしまう態度は、真に科学的態度とは言えません!
このような態度を自己中心的な考え方と言います!
だから、この自然界に存在する全てのモノは、アフォードを持って存在しているわけではありません。
僕たちの記憶が、モノの中にアフォードを見出しているんです。
つまり、モノがあなたに語りかける《アフォードの声》に、じっくりと耳を傾けるということは、あなたが自分自身の記憶に耳を傾けるということだったのです!
データーとは、まさに、人間(たち)の都合に合わせた「解釈」の仕方、あるいは解釈を取り決めた約束事のことです!!
認識と言えども、それは人間の脳の中に、源となる記憶を通して浮かび上がる《幻想》に過ぎません。
「認識」とは脳の中の閉じたプロセスではなく、環境と脳、そして身体との一連の相互作用の中で作られた「記憶」が、再び、環境や身体との相互作用をすることによって作られるプロセスである、とでも言ったらいいのでしょうか。
さて、話を最初に戻しますが、僕たちの記憶とは、CDやMDやDVDなどの記憶媒体の記録とは違い、神経伝達物質などの反応をひっくるめた、その時に反応した「一連の反応」であるということでした。
人間の記憶とは、何かを固定的(静的)に記憶するのではなく、複数のニューロンの一連の反応(動的な現象)に対して、我々が記憶と名づけているだけだということです。
記憶の過程には、記銘、保持、想起の三段階があるとされています。
これは、「一連の反応を記銘」し、「一連の反応を保持」し、「一連の反応を想起」していると考えた方がより適切です。
僕たちは、何かを思い出した時に、愛着や安心感や恐怖というような情動を伴うことを経験しています。
これが動的なもの(=反応を記憶している)であるということの証拠です。
記憶が動的なものだからこそ、連想や想像や思考といった《幻想》が生じるわけです。人間の作った記憶媒体は静的なので、人間が手を加えない限り変化しません。
情報が勝手に変化したり、勝手に想像や連想をしてもらっては困ります。
これに対して、人間の記憶は、強調や単純化などによって常に変容します。
僕たちは、決して過去に生きることはできません。昨日の昼飯を作ることはできません。ということは、過去の歴史を書き換えることもできないのです。
それなのにどうして僕たちは変えることのできない過去(歴史)にこだわるのでしょうか?
それは、明日のために必要だからです。
明日のために必要な歴史である限り、歴史という記憶は、未来のビジョンによって変容してしまうものである、と言えます。
僕たちの記憶の中の歴史は、強調や単純化などによって常に変容させられることを忘れないでください。
先日、反日感情を持った一部の中国人たちが、日本人経営者の建物を破壊したという暴動が報道されましたが、彼らの行動は、彼らの脳に記憶させられた歴史(=自分たちのビジョンに都合よく解釈されたもの)によって取らされている行動なのです。
世界中の人がどんなに力を合わせても開かなかった、平和へ通じる重たい扉は、僕たち人間とはそのように行動を「させられる」媒体である、ということを世界中の人が本当の意味で理解した時、きっと、子供の手でも押し開けることができることでしょう。
(⇧ 少しずつ分身主義を小出ししています)
今日は歩き過ぎてちょっと疲れたのではないでしょうか?
頭の中を整理してゆっくり休養してください。
明日は、この「記憶」が作っている「自我」とは何か? ということを考えていきます。
デカルト分身さんの話をもう一度思い出してください。彼は、「われ思う、故にわれあり」と言ったんでしたね。
それは、彼が二元論を主張する以上、「われ思う、故に精神は存在する」と言うべきだったということは、既に書きましたね。
では、彼が疑い得るものをどこまでも疑っていき、その最後にどうしても疑い切れなかった「われ」とは何だったんでしょうか?
これこそ、どんなに否定しようとしても否定し切れない「自我」の高らかな存在表明です。
でも、自我(これが自分と信じているもの)とは、一体なんだったんでしょうか?
分身主義の森に踏み入った僕たちが、どうしても向かい合わなければならない高い壁です。
それを乗り越えるのためには、やはり科学が必要です。
◆◇◆ちょっと一言
脳には神経細胞が網の目のように張り巡らされていて、それがどのような働きをしているかなどということは、昔の哲学者などはもちろんのこと、解剖を体験したデカルト分身さんですら知りませんでした。
それがわかったのはつい昨日のことです。
つい昨日まで、そんなことを言う人は一人もいませんでした。
脳の仕組みをとてもわかりやすく詳しく書いた本をご紹介します。ナツメ社の『図解雑学・脳のしくみ』です。
図解入りで素人にもとてもわかりやすく書かれていて、自己中心的観念に取り憑かれている僕たちが、自分探しをする上で最低限知らなければいけない自分の脳の働きのことが、もれなく書かれている本です。
僕たちは幸運なことに、自分を知るために最も近い時代に生きているんです。
なんと、釈迦分身様やキリスト分身様よりも、科学的真理に近い場所にいるのです。その恩恵を受けようではありませんか。
宗教も一つの立場から見た真理には違いないのですが、宗教のような非科学的真理では、現代を生きる僕たちは決して一つになれません。科学の真理は世界にたった一つですが、宗教の真理は教祖の数だけあるからです。
場合によっては、宗教の真理は、教理を解釈する人の都合によっていくつも存在してしまいます。
現代人である僕たちは、そのことを嫌と言うほど知らされているはずです。
確かに宗教は、かつて僕たちに喜びや救済を与えてくださいましたが、それは個人的喜びであり個人的救済でした。
世界が(情報網や交通網によって)狭くなった今、個人的喜びも個人的救済も、意味を成さないものになりました。
もはや、世界中の人が救済されなければ、個人の救済もあり得ない時代になっているんです。
ところで、脳には神経細胞が網の目のように張り巡らされているという科学的事実ですが、今でもそれを知らない人や、そんなことは知りたがらない人はたくさんいます。
それは何故かと言うと、そんな面倒なことを知らなくても、そんな難しいことを考えなくても生きられるからです。でも、本当にそうでしょうか?
よく考えてみてください。
最近のニュースを見ていたら、いつ戦争が起きるかわからない不穏な時代です。戦争が起きたら一発で何万人も殺戮できる兵器を持ってしまった時代です。いつ隣人から殺されるかわからない時代です。いつ自分が犯罪を犯す立場になってしまうかわからない時代です。
不安を煽って申し訳ありませんが、もう少し言わせていただきます。
いつ地震が起こって自分が被災者になるかわからない時代です。公害や不慮の事故で、いつ半身不随になるかわからない時代です。いつ科学技術や医療ミスの犠牲になってしまうかわからない時代です。
こんな時代に生きている僕たちが、のほほーんと「そんな面倒なことを知らなくったって、そんな難しいことを考えなくったって、生きられるもーん」なんて言っていられるのでしょうか?
関心事は自分の健康や損得のことばかり、あるいは恋愛や遊びや収入のことばかり‥‥、そんな狭い視野で、本当に僕たちは、この時代を不安もなく生きられるんでしょうか!?
よく考えてみてください。
気づいた人から一緒に、脳の神経細胞のことを勉強しましょう。それをできるあなたなら、世界と自分を救う分身主義の開拓者になれます。
7日目 若・貴兄弟が仲良くなるには?
連日のようにテレビや週刊誌で報道された、若乃花・貴乃花兄弟分身さんたちの確執ですが、自分のことのように心を痛めています。
それで今日はどうしても聞いていただきたいことがあるので、森の中を歩くのはやめます。
ちょっと、その辺の草の上に腰を下ろしてください。
横綱まで昇り詰めた若・貴兄弟という英雄は、僕たち一人ひとりの人間が全ての環境を経験できないので、僕たちの代わに、その環境に置かれて英雄をやってくださっている、僕たちみんなの分身さんたちです。
もしあなたがその環境に置かれたなら、あなたが若・貴兄弟のどちらかの英雄になってくださっていたわけです。
(英雄や天才はみんなに作られているものなので、分身主義は、そういう人たちに対して、僕たちの代わりに英雄をやってくださっている誇るべき僕たちの分身さんだ、という考え方をします)
それは兄弟であっても同じです、貴乃花にとってお兄ちゃんの若乃花は、彼のできないことを代わりにやってくれている分身さんだし、若乃花にとって弟の貴乃花は、彼のできないことを代わにやってくれている分身さんです。
でも、分身主義の「ぶ」の字も知らない個人主義者(と言っても別に主義主張をしているわけではありませんが)の彼らにとっては、お互いが同じ小さなフィールドで闘っているライバル同士なんです。
そして宇宙というフィールドの大局を見ることができず、右下隅やら左上隅の自分の一手先の死活のことしか考えられないでいます。
どうして僕には、彼らの喧嘩が他人事とは思えないのかと言うと、この徳永分身の姉弟(きょうだい)も、数十億という莫大な親の遺産をめぐって同じような喧嘩をしているから‥‥、というわけでは全然ありません。(笑)
僕が完全無欠の分身主義者を目指しているからです。
もしあなたも分身主義の「ぶ」の字も知らない個人主義者(と言っても別に主義主張をしているわけではなくてもいいのですが)なら、彼らに関する報道に心を痛めることもなく、あるいはちょっと心を痛める振りをして、興味深く眺めてどちらかを批判したり応援したりしている一人かもしれません。
ある意味、彼らはとても恵まれた環境に生まれました。
しかし、ある意味、とても可哀想な環境に生まれたとも言えます。
いずれにしても、彼らの環境は自分が選んだものではないし、彼らは、彼らを取り巻くその環境に相撲をやらされてしまった媒体に過ぎません。
そして彼らの喧嘩は、彼らを取り巻く環境の一部である僕たちみんなが、彼らにやらせているとも言えます!
僕たちは約140億年の歴史を持つこの環境によって作られ、その環境によって作られた僕たちが、彼らを取り巻く環境の一部となって、彼らという媒体に喧嘩をさせてしまっているんです!
よーく考えてみてください。
彼らが、いわゆる自分の意思でもって相撲というものを始めたのでしょうか? 彼らも、彼らのお父さんも、そして彼らのお父さんのお父さんも、みんなみんな最初から自分の意思で相撲をやったわけではありません。
ちなみに、貴乃花分身さんが現役引退後、70キロもダイエットしたのだって、彼の意思ではありません。
今まで言われていた意味での自由意思などというものは、本当はどこにも存在しません。
意思とは、その人の脳を取り巻く環境によって、その人の脳に浮かび上がらせ・られた《幻想》のことです。
相撲という日本の国技だって、それは日本に最初からあったわけではなく、このビッグバン宇宙が140億年かけて作ったものであるということをあなたは理解できるはずです。
彼らが喧嘩をしているのも、家父長制や、長男や次男、あるいは長女や次女などと呼ぶ家族制度や、法律や経済システムや、その経済システムの中で生き残りをかけて闘っているマスコミや、この日本という国に生まれ日本の文化に育(はぐく)まれた僕たちが関わっているのはもちろんのこと、いろいろな文化の違う人々のものの考え方や生き方も全部関わっています。
もちろん、ものの考え方や生き方などという大層なものでなく、あなたの指の上げ下げや瞬(まばた)きも同じ重要さで関わっています。重要さにランク付けするのは、人間の経験や感情に基づく評価に過ぎません。
誰かの指の上げ下げや瞬きより、法律や経済システムの方が重要だと考えるのは、人間の自己中心的な価値観に過ぎません。
この宇宙で起こった現象はどんなに些細なことであっても、その背後には、140億年分の原因が平等の重要さで隠れています。
その140億年分の原因のことを、分身主義では、「ビッグバンの風」と呼んでいるのでしたね。
真の科学とは、この宇宙のありのままの姿を教えてくれるものです。
でも、残念なことに科学者と言われている人たちが、本当の意味で真の科学を行なっているとは言えません。
この分身主義の森では、真の科学の視点を身につけていただきたいと思っています。
ところで、先日、『世界平和への扉(分身主義への誘い)』という徳永分身のホームページのURLを下記のとおり変更しました。
http://www.bunshinism.net/
(* 現在は閉鎖してこのnoteに移動中です)
bunshinism という独自ドメインを取得したのは、分身主義(bunshinism)に、自分の残された命の全てを捧げる新たなる意思の表明です。
もちろん、「意思」とは、この僕の自発的な意思などではなく、僕(徳永分身)を取り巻く環境に浮かび上がらせられた「意思」です。
僕は媒体なのですから。
将来的に、あなたにもお願いしたいことがあります。
ホームページ(ブログ)を開設して、その場所で、自分自身が「完全無欠の分身主義者を目指す」ことを宣言していただきたいのです。
ホームページを作るなんて、この僕でもできるので、そんなに難しくありません。ちょっと勉強すればすぐできます。
僕たちが世界を平和にするために必要なものは、NPOなどの組織力でも政治力でも経済力でも権力でも、評論家やコメンテーターや有識者と言われる人の自分を棚に上げた社会批判でもありません。
組織力も政治力も経済力‥‥も、もはやあなたを幸福にはしてくれません。それは古き時代の、泥でできた舟のようなものです。
この世界を変えるのは、あなたの「自分を知ろうとする力」です!
あなたの脳に浮かび上がらせ・られた、自分を知りたいという「意志」の力です!
あなたや僕が、真の科学によってこの宇宙の成り立ちをしっかりと理解し、そして、この宇宙の中で生きるあなたや僕が、どのように動かされている媒体であるかを理解したら、そのことをホームページ(ブログ)で公言することです。
そこから生まれたあなたが作るホームページこそ、世界を平和にすることができる唯一のものです。
インターネットには、未知の力が秘められています。
「完全無欠の分身主義者を目指す」ということは、あなたの頭のてっぺんから足の爪の先まで覆っていた重たい鎧(よろい)を脱ぎ捨てると言うことです。眼を有害な光から守っていたサングラスも、はずすと言うことです。
そして、ピカピカの裸の心を無防備にさらすことを宣言することと同じです。
現実社会では、まだ武器や鎧やサングラスが必要ですが、仮想現実(インターネット)の中ではそれができます。
だけど、インターネットは、いずれ僕たちが生きている現実を、武器や鎧やサングラスが不要な現実に変化させることができます。
あなたは、《幻想》が《実体》を変化させることを無数に体験済みなはずですから。
例えば、あなたは、自分の部屋に悪霊が住みついてしまったという《幻想》を持ってしまったとします。その《幻想》は、間違いなくあなたの身体(=実体)を変調させますし、行動を変化させます。
そして、あなたの部屋の本棚には、数十冊もの「心霊」に関する本が並ぶ、といったように、《実体》が変化させられるということが考えられます。
もしかしたら、その後あなたは心霊研究家になり、この世界に数十冊もの「研究結果」の本を残し、新たに生まれる《実体》(人類の子孫たち)に多大な影響を与えるかもしれません。
このように、《幻想》と《実体》は切っても切れない関係にあります。仮想現実(インターネット)だって同じように現実を変化させます。
僕たちが、自分は環境の媒体に過ぎないと理解した瞬間、僕たちは宇宙とつながります。
世界中の人たちがそのことを理解した瞬間、世界中の人が一つになります。その時、この環境がガラリと変化するということを、あなたにははっきりと想像できるはずです。
今僕たちの生きている環境は、まるで、これまで生きてきた人たちの捨ててきたゴミの山です。
芸術作品を作る作業すらも、実は綺麗な作業なんかではなく、その人一人では抱えきれない荷物を捨てることなんです。
だけど、その捨てられた個人的なゴミも、見た人の心につながれば花に変化します。
僕たち人類は自我に目覚め、その自然の成り行きとして、個人主義的な道をひた走ってきました。
でも、僕たちが自分の鎧を脱ぎ捨てて(脱皮して)新しい自分をさらけ出せるようになった時、この環境がガラリと一変するはずです。
だから、あなたの「自分を知ろうとする力」が世界に奇跡を起こします!
あなたの脳に浮かび上がらせ・られた、自分を知りたいという「意志」の力が世界に奇跡を起こします!
桜の花が一気に開花するように、あなたの力で、世界がゴミの山から桜が満開のゴミ一つない楽園に変わります。
僕たち人類が、武器も鎧も捨てて、満開の桜の下で手をつないで生きる時代が来ます。
その時です!
僕たちの誇るべき分身さんたち、若・貴兄弟が仲直りしてくれるのは。
その時、彼らは同じ小さなフィールドで闘うライバル同士でも兄弟でもなく、この宇宙というフィールドで、お互いのできないことを代わりにやってくださっている誇るべき分身さん同士になるからです。
その時同時に、世界の平和と、僕たちの幸福も向こうからやってきます。だって、彼らの姿は、僕たち人類の姿そのものですから。
◆◇◆ちょっと一言
分身主義の森を一緒に歩いてくださっているあなたが、いつか、「完全無欠の分身主義者を目指すぞー!」というホームページ(ブログ)を作ってくださる日が来ることを願っています。
その時の参考として、脱皮した新しいサイト『世界平和への扉(分身主義への誘い)』を是非ご覧になってみてください。
http://www.bunshinism.net/
(* 現在は閉鎖してnoteに移動中です)
8日目 「自我」とは何か?
今日は、この森の中で「自我」とは何か? ということを考えていきます。
まずは「自我」という難しい言葉の定義ですが、ここでは、これを「自意識」と同じ意味で用います。
「自我」は、辞書によると「意識や行為をつかさどる主体としての私」とありますから、「自意識」と置き換えても意味は通ります。
カブトムシにも自我はあるか?
カブトムシにも自意識はあるか?
これは同じ質問であると言えます。
噛み砕いて言えば、重度のアルツハイマーにでもならない限り、誰の心の中にもある「自分、自分、自分‥‥」という、決して消し去ることのできない意識のことです。
我々現代人が、病的なまでにその存在を主張し、必死で守ろうとしているもののことです。
デカルト分身さんは、「われ思う、故にわれあり」と言ったんでしたね。
疑い深い哲学者の彼でさえも、疑い得るものをどこまでも疑っていった最後に、どうしても疑い切れなかった「われ」とは何だったんでしょうか?
それこそ、どんなに否定しようとしても否定し切れない「自我」の高らかな存在表明です。
次のような言葉、聞いたことありますよね。
「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」
釈迦分身様が誕生した時、四方に七歩ずつ歩み、右手で天を、左手で地を指差して唱えたという言葉です。
人間は馬などとは違って、生まれてすぐに立てないし、まして歩くことなどできないはずなので、もちろん作り話です。
直訳すると「この宇宙の中で、唯、我だけが尊い」という意味になります。徳永分身は中学生の時にこれを聞いて、イヤァな感じがしたのを覚えています。
なんて高慢ちきなことを言う人なんだろう、と少しガッカリしました。
でも、先日、あるお坊さんが、この「唯我独尊」の中の「我」は、釈迦分身様が自分のことを言っているのではなくて、みんな一人ひとりの「我」のことだ、と話していました。
つまり、これは自我の尊厳を言い表わしたものだということです。
なんだか少し手前味噌な解釈のような気もしますが、それならほんの少しだけ許せます。
先ごろ流行った、スマップの「世界に一つだけの花」という歌も、これも自我を賞賛した歌と言えます。
さて、デカルト分身さんも、釈迦分身様も、スマップの分身さんたちも、こぞって絶賛する「自我」とは一体何でしょうか?
そして僕たちが、「Only one」などと賞賛されると嬉しくなってしまう「自我」とは、一体何者なんでしょうか?
何だかとても大切な、現代人にとっては、片時も側にいてもらわなくては困ってしまうもののようです。
先日、「NHK人間講座」で『人間性の進化史(サル学で見るヒトの未来)』という講座をやっていました。
講師は、京都大学霊長類研究所教授の正高信男(まさたか・のぶお)分身さんです。
これは彼の専門である霊長類学の見地から、ヒト、家族、社会、文化‥‥といったものを考察したものです。
その中の最終回で、彼は、「サルには自意識はありません! 自意識は人間だけにしかありません!」と言い切っています。
そして、先程のデカルト分身さんの「われ思う、故にわれあり」という言葉を引き合いに出し、「最近の研究ではどうやらそれは正しくないのではないかと言われるようになってきました」と言っています。
どういう意味かというと、確固とした「自分」などというものが、外界から独立した形で存在しているわけではなく、自分(自意識)とは、環境によって脳の中に作られていく感覚である、ということが徐々にわかってきたということです。
つまり、人間はサルとは違って、言語活動などを通して周囲とコミュニケーションを行いますが、「自分」という感覚は、その時の他人からのフィードバックによって作られるものなんです。
他人という鏡に映っている虚像を、自分の姿だと思い込むことで「自意識」も作られていきます。
サルは他人の鏡に映っている自分を見るどころか、実際の鏡に映っている自分の姿を見ても自分であると認識できずに、本能のおもむくままに威嚇(いかく)したりします。訓練しても、自分と鏡の中の像との等価関係を結べるようになるだけのようです。
彼らにあるのは「自意識」ではなく、本能的な「自分」だけです。自意識がないということは他者の意識もなく、つまり、徳永分身の言い方だと「この自然界と地続き」だということです。
ちなみに、重度の認知症の人(記憶に障害?の起きた人)も、鏡に映る自分の姿を自分であると認識できずに、鏡の中に写った自分の姿に向かって話しかけたり怒ったりするそうです。これを鏡現象と言います。
自我というものが、「環境によって作られる脳の記憶」と密接な関係にあり、記憶が作っている《幻想》に過ぎないことがよくわかります。
「自我(=自意識)」とは、このように、確固としたものではなく「環境によって作られるもので、そして僕たちの脳が、それが自分であると信じて執着させられているもの」といった程度のものだと考えればいいと思います。
と言うことは、偉大なるデカルト分身さんも、釈迦分身様も、スマップの分身さんたちも、単なる「脳の錯覚」をこぞって絶賛していたことになります。
それを聞いても、「なあんだあ、自我なんてものは、環境に作られているだけのものだったのかあ。じゃあ、今まで信じていた《自分》という感覚は、結構あいまいな他人任せ的なものだったんだなあ。本当の自分なんてなかったんだあ」などと納得する人は少ないと思います。
だって、外界とはっきりと境界線で区切られた自分の肉体が、目の前に‥‥というか、目と連続して存在しているのは否定できないからです。
そこであなたは言うかもしれません。
「じゃあ、もし百歩譲って《われ》という意識は環境から作られているものに過ぎないとしても、でもこの肉体という《われ》は疑う余地はないんじゃないのかしら!?
この肉体の感じる痛みや快感は他の誰のものでもなく、まぎれもなく《われ》の傷みや快感ですわよっ!」
ちょ、ちょっと怒らないで冷静に冷静に‥‥。
ここで一つサルを使った面白い実験を紹介します。
東京医科歯科大学の入来篤史(いりき・あつし)分身さんたちの行なった実験です。
まず、檻(おり)の中のサルの手の届かないところに餌を置きます。
近くには熊手が置いてあります。
サルは頭がいいので、すぐに熊手を使って遠くの餌を引き寄せて食欲を満たすことに成功します。
この時、サルの脳の神経細胞の活動を特殊な装置を使って観測してみると、熊手を手に取って眺めている時には、その反応は起こらなかったんですが、熊手を使用した際、彼の脳は熊手を自分の手の一部であると認識しているようだということがわかりました。
つまり、その瞬間、熊手は彼の手の「延長」になったのです。
僕たちが、人ごみの中を長いスキー板を担(かつ)いで歩く時は、スキー板は僕たちの身体の一部(延長)になっているので、誰にもぶつからずに歩けるのです。僕たちの認識している「自分の身体」などというものは、実はカッチリとしたものなんかではなく、このようにダイナミックに変化するものだったんです。
僕たちの誇るべき分身さん、養老孟司さんが次のように言っています。「人間は自分の延長として、特に身体の延長として機械を作る」
徳永分身は、それを受けてかつて次のように言ったことがあります。
確固とした「自我」などは存在しないということは、逆に言えば、「自我」はどこまでも拡大させることが可能だ、ということも言えます。
実は、分身主義とは、「自我」を宇宙にまで拡大することだったのです!!
科学が、この宇宙の万物を一つにつなげてくれたという意味です。
話を戻しますが、実は、先程あなたが主張の根拠に挙げた、人間の痛みや快感さえも、他人からのフィードバックによって作られるものなんです。
「サルには痛みはありません!」
‥‥と、先ほどご紹介させていただいた、京都大学霊長類研究所教授の正高信男分身さんは言います。
そこで今日は次のように結論づけようと思います。
もし僕たち人間に言語というものがなくて、他人とのコミュニケーションが不十分な環境であったなら、僕たちは肉体に感じる痛みや快感さえもサルのレベルのままで、自分という意識(自我)も希薄なままであったに違いない。
言い換えれば、僕たちの肉体も心も、まさに環境に作られているものであり、僕たちの存在それ自体が環境の媒体であると言える。
今日、聞いていただいた、サルに関する二つの実験(鏡の実験と、熊手の実験)は、茂木健一郎分身さんの『心を生みだす脳のシステム』という本に詳しいです。
説明が足りなかった分は、そちらでご確認ください。とても面白い本です。
ところで彼(正高信男分身さん)は、講座の最終回で、「近年、若者は自意識を喪失しようとしています」と言っています。
携帯電話などのコミュニケーション手段の発達が、逆に僕たちの心のつながりを希薄にし、他人からの生(なま)のフィードバックが得られない関係性の中で、僕たちは自意識を見失いつつあり、その点で、サルに逆戻りしつつあると警告しています。
次の言葉が、この講座『人間性の進化史(サル学で見るヒトの未来)』を通して、彼の一番言いたかったことなのかもしれません。
と言っています。
本当に、そうでしょうか!?
確かに、ここだけ聞けば、おっしゃる通りで筋の通った推論ですが、先程の結論と合わせてみると、矛盾していることに気づきます。
自我は初めから個人個人の持ち物として存在しているものではなく、周囲の環境によって作られるものだということでした。
初めから自分のものでもなかったものに対して、「喪失」もクソもないではないですか?
彼(正高分身さん)の矛盾は、若者の不安や焦りや空虚さは、自我の喪失のせいだと感じている点です。
そもそも、それが間違いでした。
実は、自我を持たなければいけないという強迫観念こそが、若者に不安や焦りや空虚さをもたらしている原因だったのではないでしょうか!?
そのことを、明日、この森の中でお話します。
◆◇◆ちょっと一言
「《私》の時代の幕切れは近い」
これは、世界8ヶ国で翻訳・出版された『ユーザー・イリュージョン』という本の著者であるトール・ノーレットランダーシュ分身さんの言葉です。
ユーザー・イリュージョンとは、この本の中で、次のように説明されています。
行動の主体として経験される《私》が錯覚なのはもちろん、僕たちが見たり、注意したり、感じたり、経験したりする全ての世界は錯覚である、という意味です。
彼は、コペンハーゲンで1955年に生まれ、ロスキレ大学で環境計画と科学社会学の分野で修士号を取得し、デンマーク工科大学に勤めた後、科学ジャーナリストとして、新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどで幅広く活躍する科学評論家として知られている分身さんです。
この『ユーザー・イリュージョン』は、500ページを超える大著にもかかわらず、デンマークでは13万部もの空前の売り上げを記録した本だそうです。人口比で換算すると、日本では250万部に相当します。
彼はこの「《私》の時代の幕切れは近い」という名言の前に、次のような言葉を置いています。
なんという心強い言葉でしょう!
徳永分身には、この言葉が、「世界に平和の訪れは近い!」という言葉に響いてきます。
最後にこの本に寄せられた賛辞の中の二つだけをご紹介して終わります。
僕たちは今、「それよりはるかに大いなるもの」を、もう目前にしているというのに、どうしてこれ以上、まやかしである「自我」にこだわる必要があるのでしょうか!?
一体、僕たちは何に恐怖しているのでしょうか!?
9日目 本当の自分探しとは?
昨日は、京都大学霊長類研究所教授の正高信男分身さんからの警告をご紹介して時間切れとなりました。
「近年、携帯電話などのコミュニケーション手段の発達が、広く浅くという人間関係を生じさせ、かえってコミュニケーションは希薄化し、他人からのフィードバックが得られにくい環境の中で、若者は自意識を喪失しつつあり、その意味で、サルに逆戻りしつつある」‥‥というような警告でした。
「そのせいで、多くの若者が、自分がわからなくなり、不安になり、満たされない気持ちを抱き、すっぽりと空いた心の空間を満たしてくれる何かを探して、自分探しという行動に駆り立てられるのではないだろうか」ということです。
確かに、これらの推論は論理的には筋が通っているのですが、その前の彼の主張と合わせてみると、矛盾していることに気づきます。
彼(正高信男分身さん)は、自我は初めから個人個人の持ち物として備わっているものではなく、周囲の環境によって築き上げられるものだと言っていました。
簡単に言えば、自我とは自分の持ち物ではなく、消費者金融などが貸してくれる「他人のお金」に過ぎません。
僕たちはいくらでも貸してくれる消費者金融から金を受け取って、それをまるで自分の金であるかのように錯覚して、湯水のごとく使い込んでいるようなものです。
その金は、初めから自分の金ではないから、ある日、消費者金融が金を貸してくれなくなったからといって、誰も「喪失した」などとは言わないですよね。初めから自分のお金でもないものに、「喪失」もクソもありません。
だから、僕たち若者の不安や焦りは、そんな理由ではないと考えられます。(って、どさくさにまぎれて自分も若者の仲間に入ってみました)
それを知るには、もう少し過去に遡って、順序だてて考えてみる必要があります。
まず最初に、自我(自意識)に目覚めたことで我々はサルから人間になった、というのはいいですよね。
つまり、簡単に金(=自我)を貸してくれる便利な消費者金融ができたので、その金(=自我)を利用して、人間には、たくさんのことができるようになったというわけです。
(⇧もう、消費者金融の比喩はいいっちゅうの😃)
そのことで、特に西欧の人たちの「自分、自分、自分‥‥」という意識はますます研ぎ澄まされ、個人と個人の競争や争奪が激化されていきます。
激化される競争は、生活を豊かにする道具をたくさん作り出すことに貢献し、他の人が住んでいた土地まで取り上げて、華やかな文明を開化させ、文化や経済をまたたく間に発展させました。( ⇐ あっ、ちなみに「真の科学」である分身主義の視点では、「発展」という言葉はなく、あるのは「変化」だけでしたね)
今まさに、その恩恵にあずかっているのが、世界中の金持ちたちです。何故なら、強烈な自我に目覚めた彼らは、自分の損得に非常に敏感だからです。
自我という錯覚によって、僕たち人類が突き進んできた道は‥‥、それは、個人主義へ至る道でした。言い換えれば、今の僕たちは、「自分、自分、自分‥‥」という意識が作り上げた環境(=個人主義的環境)の中に投げ込まれて生きています。
ところが、日本の場合は、前段階がありました。
日本人は自我に目覚めたサルであっても、西欧の人たちほど強烈な自我には目覚めず、そのため個人を主張し合う文化は育たず、長いこと共同体的社会だったと言えます。
日本人は、「控えめ」で「利他的」を尊いとする文化の中で生きていたので、江戸幕府が武士以外は名字を公称することを禁止したことに対して、抗議するという考えすらも浮かばないほどでした。
明治3年に平民にも名字を許すという御布令(おふれい)が出て、多くの人は公称するようになったけれども、僻遠(へきえん)の人たちはまだ名字を名乗ろうともしませんでした。
というのは、集落の構成員が一つの共同体を作っていた辺地では、自分の家と他の家とを区別する発想すらも生じなかったためです。だから、明治8年には「苗字必称令(みょうじひっしょうれい)」なるものを出して、強制的に名字をつけさせたほどです。
そのような共同体的で、控えめで、利他的で、のんびりとした日本にも、やがて個人主義の嵐が襲いかかります。
その嵐は僕たちを叱咤激励します。
「お前ら、そんなにのほほーんとしてていいのか! 西欧諸国に置いてきぼりを食らうぞ!」
「さあ、競争だ! やれ、戦争だ! それ、略奪だ! 他国に負けるんじゃないぞ! 追いつけ、追い越せ!」
「自立だ! 独立だ! 自由を勝ち取れ! 自分の意志で人生を切り開け!」
「人と違った自分を見つけて、人と違ったことをやって一旗上げろ! 大切なのは自分、自分、自分だ! 自分の人生をしっかり生きろ!」
今では、僕たちは個性重視の教育を押し付けられ、何やら難しい横文字の「アイデンテテー」とやらを早急に確立せねばならないような強迫観念を持たされて生きています。
今、そのように育てられた僕たちが、その子供たちをどのように育てるかは、推して知るべしです。
実は、僕たちを無言で縛り付けているこの強迫観念こそ曲者なんです!
欧米の人たちが、どうしてあれ程までにアイデンティティーを云々(うんぬん)するのかというと、それは彼らが、かつてののんびりとした日本人には想像できない程の「強烈な自我」に目覚めてしまっていたからです。
その強烈な自我は、同じ迫害を受けても、日本人が体験する迫害の何倍も大きな迫害として一人ひとりに体験されます。
日本人が体験する何倍もの大きさで迫害を体験してしまう彼らにとっては、一つの自己を貫く(アイデンティティーを保つ)ということは、まさに死活問題でした。
例えば、名字を公称することを禁止されても、のんびりした日本人には痛くも痒くもなかったのに、強烈な自我に目覚めてしまった彼らだったら大きな迫害に感じてしまい、激しく抗議したり戦ったりするに違いありません。
しかし、共同体的社会でおっとりと生きてきた日本人も、西欧の波が押し寄せてきてほっぺたをひっぱたかれたんでは、無理やり目を覚まさないわけにはいきません。
「アイデンテテー」とやらを早急に確立せねばならないというような強迫観念や、個性的でなければ生きている価値もないというような強迫観念を持たされることになりました。
もしあなたが、教育とは個性を伸ばすことだとか、個性を開花させることだなどと思い込んでいるとしたら、そのような教育(洗脳)を受けてきた一人であり、この強迫観念に縛られている可能性があります。
考えてもみてください。
僕たちにこの「強迫観念」さえなければ、古き良き時代(?)の日本のように、別に自分探しに躍起になることもなく、正高信男分身さんから「サルに逆戻りだ」などと脅かされても、「サルってかわいいよね」って喜んでいればいいんです。
ねえ、そうでしょう!?
僕たちが、「自分がわからなくなり、不安になり、何か満たされない気持ち」になってしまうのは、正高分身さんのおっしゃるように自意識を喪失したからではなく、「自分というものをしっかり持たなくてはいけない」という強迫観念に脅(おびや)かされているにもかかわらず、個性的で特別な自意識を持てないでいるからだったんです。
ちなみに、誤解のないように言っておきますが、僕は、個性を伸ばす教育を否定していて、個性を殺す教育をしろと言っているのではありません。
僕たちを取り巻く環境が分身主義的な環境になれば、個性を伸ばす教育をしようなどと気張らずとも、自ずと個性を殺すような教育はしなくなります。
分身主義とは、科学的な意味で僕たちは環境に動かされていた媒体だったと知ったものです。だけど一人でいろいろな環境に身を置いて、そのそれぞれの環境での個性や適性を持ち、いろいろな職業につくわけにはいきません。
一人の人間が全ての環境に身を投じることはできないので、その人たちを、自分の代わりにその環境に身を置いて、やってくださっている分身さんである、という考え方をするのが分身主義です。
だから、自ずと他人の個性を殺すような行動は取らなくなるわけです。
ところで、村上春樹分身さんと河合隼雄分身さんの対談集『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』という本を読んでいて、面白い言葉にぶつかりました。それは河合隼雄分身さんの次の言葉です。
この言葉は、個人主義のアメリカの国民性をよく言い表していると思います。日本にも、そのような考え方をする人がたくさん増えていますね。
ただし、河合隼雄という分身さんは、このアメリカ人の持つ個人主義的な感覚に対して肯定的な方のようで、言葉の端々(はしばし)に、日本人ももっと見習わなければいけないなどという言葉が出てきます。
でも、僕たち日本人が、事あるごとに、「アメリカ人だったらこう考える、アメリカ人だったらこう行動する、アメリカ人を見習おう」というような発想をしてしまう脳には、ちょっと古臭さを感じます。
では、この辺で、僕(徳永分身)の考えを述べます。
「自分探し」は不要だと言っているのではありません。
僕が過去に著した著作物は全て、一言で言えば「自分探し」そのものです。
文章を書くことで「自分探し」をしていたのです。
「自分探し」は、必要なことだと考えています。
ただ、今の僕たちの「自分探し」は、往々にして、「自分が生まれてきた理由は何なのか?」「自分には生きる意味があるのか?」「自分には何ができるか?」「自分は何に向いているか?」「自分の個性は何か?」「社会は、自分の何を必要としてくれるか?」などという「自分、自分、自分‥‥」ばかりで、それではあまりにも近視眼的(自己中心的)な自分探しです。
その程度のものは「自分探し」とも言えない、と断言できます。
そんな自分探しは、ほんの少しだけ海面に姿を見せている「氷山の一角としての自分」だけを問題にしているようなものです。
本当の自分探しとは、その下に広大に広がる氷の真の姿を探ることです。
そして、その氷と海水との関係を研究したり、海水と空気との関係を研究したり、その氷がどこで生まれ、どのように運ばれてきたかを調査したり、科学的方法論によって、いろいろな原因をどこまでも遡って探っていくことです。
科学者たちの、気の遠くなるような長い年月の努力と情熱が実って、今、科学は僕たちに一つの結論を提示しています。
「自我」とは、「神経系の錯覚」が作り出していた意識である。ということだったのです。(神経系とは、脳と脊髄からなる中枢神経系と、脳および脊髄から出て全身に分布する末梢神経系の総称です)
そしてその「錯覚の意識」はまた、約140億年をかけて、素粒子たちが作り上げたものだったということです。
氷山の一角だけしか見ない近視眼的な自分探しは、うまくすれば一時的に、ごきげんな結論を導き出せるかもしれません。
「私は、多くの人の愛によってこの世に誕生したんだわ。ああ、大切な私の命」
「そうだ。僕は自分の声を活かして、人々に喜びを与えてあげることのできる歌手になろう!」
「私は人間が好き。困っている人を救う仕事をしたい!」
「私はお金が大好き。世界一のお金持ちになりたいわ」
「俺は、誰にも文句を言わせない権力を手にしたい」
これらは「自分探し」というよりも、「自分らしさ探し」をしているだけと言えます。
そのような結論を導き出し、なんとなく、幸せな気分に辿り着いたとしても、それは一時しのぎの単なるごまかしでしかありません。
それと正反対に、科学に基づいた本当の「自分探し」が辿り着いた結論は、とんでもないものでした。
それはまさに、自我を信奉して個人主義への道をひた走ってきた僕たち人類にとって青天の霹靂(へきれき)でした。
人類の「敗北」でした。
あなたは、科学的方法論による真の自分探しが導いたこの結論を、受け入れることができますか?
それでもまだあなたは頑(かたく)なに言い張りますか?
「《自分》という意識は、単なる神経系が作り出す錯覚に過ぎなかったというのは百歩譲って認めたとしても、尚、厳然として《自分》は、他との境界を持ったこの身体の内部に存在してる。その証拠に、僕たちが意識しようが意識しまいが、僕たちの身体には、自・他を明確に認識する仕組みが出来上がっていたんだ」
あなたは、「免疫系」のことを仰っているのですね。
それでは、明日は、「免疫系」の話をさせていただくことにします。
免疫とは、体内に侵入するウイルスや病原菌などを、「自分ではないもの」として認識し、体内から排除しようとする僕たちの身体に備わっている仕組みだと言われています。
つまり、僕たちが意識しようが意識しまいが、僕たちの身体には、自・他を明確に認識する仕組みが出来上がっていたということになります。
果たして、それは科学的な理解なのでしょうか?
明日は、その他にも、科学が導いた結論を受け入れることができない人たちの意見や理論をご紹介します。
彼らの意見は、とても参考になることと思います。
◆◇◆ちょっと一言
「自我」は僕たち人類に、様々な発展(?)をもたらしてくれました。
それは、個人主義的社会と共同体的社会の発展(?)の違いを考えてみれば一目瞭然です。
僕たち日本人だって、その恩恵に浴して、バブル時代と言われるおいしい時期を、かつて経験してきました。
しかし、同時にその「自我」信奉が撒いてきたツケが、今となって現代社会に様々な問題を生む原因にもなってしまったのです。
決してなくなる様子を見せない犯罪や戦争も、「自我信奉」が引き起こす社会問題です。
若者たちが「自分がわからなくなり、不安になり、何か満たされない気持ち」になってしまうのも、「自我信奉」のツケでしたよね。
そして、人々が「精神病」と命名したものも、実はこの、「自我信奉」から生まれてきたものだったんです。
いくらでも貸してくれた消費者金融のお金( ⇐ 自我の比喩です)に甘えて、他人が羨むようなきらびやかな物を放埒(ほうらつ)に買い漁り、この物質文明の中で存分に甘い汁を吸ってきた僕たちですが、その利子がいつの間にか膨大に膨らんでいて、今では、首がどうにも回らなくなってしまった状態です。( ⇐ おい、おい、最後にまた消費者金融の比喩かい!?)でも、もう少しこの比喩を使わせていただきます。
こんなにお金を借りすぎて、その膨らみ過ぎた利子によって追い詰められてしまっている僕たちにできる最後の手段は‥‥そう、アレしかありません。
自己破産宣告!
つまり、今までの自我から解放されて、自由の身になることです。
10日目 免疫系とは?
今日は、免疫系についてでしたね。
僕たちの身体は、それぞれ専門の(約200種類の)役割を持った細胞でできていますが、その総数は数十兆個とも言われています。
その細胞の表面には、赤血球など一部の例外を除いて、一つ一つに「自分の一部である印」がついています。専門用語で言えば、主要組織適合抗原(MHC:Major Histcompatibility Complex)というものです。
これは、父親由来の3種と母親由来の3種の、合計6種の分子からできています。
いわば、生まれながらにして6桁のID番号が刻み込まれていると理解すればわかりやすいと思います。
父親3種+母親3種=6桁のID番号
そして僕たちの生体内では、このID番号が一致しないものは自分以外のものと認識され、排除(拒絶)されるという仕組みがあると言われています。
その仕組みを免疫系と呼びます。
ヤケドを例にとって考えてみましょう。
ひどいヤケドをして皮膚を移植しなければならなくなった場合に、自分の皮膚の一部を自分に移植したとします。
この場合には、「わたし」を示す印がついた皮膚なので移植は成功します。
しかし、他人の皮膚を移植した場合には、異なる印がついているので、もし皮膚移植がうまくいったかのように見えても、やがては体内の免疫活動によって、拒絶反応が起こり、移植された皮膚はかさぶたのようになってはがれ落ちてしまいます。
ちなみに、このMHCは一卵性双生児では完全に一致しますが、赤の他人で完全に一致することはほとんどなく、兄弟姉妹でも4分の1の確率なので、臓器移植などのドナー(提供者)探しを難しくしています。
また、僕たちの身体を、ウイルスや細菌や目に見えない有害な物質などの抗原から守って、健康を維持してくれているのも、この免疫系という防衛システムのおかげだと考えられています。
しかし、このような説明は、本当に科学的と言えるでしょうか?
免疫系は、「自己」と「非自己」を区別して《わたし》の身体を、危険な外界の攻撃から守るために存在している、と一般的な本には説明されています。
つまり、前回、あなたが主張されたように「僕たちが意識しようが意識しまいが、僕たちの身体には、自・他を明確に認識する仕組みが出来上がっている」ということの証明です。
(でも、このような説明は、本当に科学的と言えるのでしょうか?)
もし、この生体内で、自分を守るために外部からの異物を排除(拒絶)するような何か(人間で言えば意志のようなもの)が存在するというなら、アレルギーはどうでしょう。
守らなければならない自分を攻撃してしまう現象がアレルギーです。
そのことから考えれば、実は、生体内には、守らなければならない自分などという概念のような何かがあるわけではなく、自然界の法則に則った単なる化学反応に対して、人間が勝手に感情移入してしまって、守っているとか攻撃しているとか、みなしているだけなのではないでしょうか?
でも、「アレルギー」に対しては、次のような巧妙な理由づけが、既に用意されています。
アレルギーとは、生体(自己)内に入り込む異物(非自己)に対しての過剰防衛が引き起こした結果である。
これは実にうまく考え出された理由づけでもあります。
何に対しても、何とか自分を納得させて喜ばせる理由を見つけたいのが人間ですが、それにしても人間は、実に頭が良くできていると感心します。
だけど、もし、真の科学者であったなら、免疫を「自己を守る仕組み」だとか、アレルギーを「過剰防衛」などと考えないはずです。
真の科学者なら、「生体内には、ひたすらそのような反応があるだけだ」と答えるはずです。
そのような単なる反応に対して、人間が感情移入した場合のみ、「自己を守って」いるように見えたり、「過剰防衛して」いるように見えるだけです。
彼ら(真の科学者たち)は、ただ、僕たち素人にもわかりやすく説明するために、あるいは自分でも理解しやすく整理するために、感情移入してみたり、人間界の営みに置き換えたりする言い回しをしてしまうだけなんです。
『身体を守る免疫の仕組み』(かんき出版)という本は、僕たち素人が免疫のことを勉強するには、とても詳しく、かつわかりやすく書かれた本です。
せっかく分身主義の森で自分探しを始めたからには、是非とも読んでいただきたい本の一つです。
これは才園哲人(さいえん・てつと)という分身さんが書いた(環境の媒体となって書かされた)本です。
彼は、1946年生まれの農学博士の方です。
分身主義的に言い直せば、1946年に生まれ・させられて、その後、彼を取り巻くもろもろの環境によって、現在、農学博士をやら・されている方‥‥となります。
彼の文章をちょっと抜き書きしてみます。
どうですか?
確かにわかりやすいでしょう!?
だけど、彼のわかりやすい説明はさらに過熱します。
このT(Thymus)細胞やB(Bone marrow)細胞というのが、「侵入した敵に合わせて訓練された特殊部隊」のことです。
彼の記述は、ついにはテロリストやらアルカイダやらが登場して、まるでこの体内は悲惨極まりない戦場であるかのような危機感まで抱かされてしまいます。それは確かに彼の文章の力ですが、ここまできたら悪ノリに感じます。
この本を読んで免疫系のことを勉強するのはお薦めしますが、だけど注意していただきたいことがあります。
彼(才園哲人分身さん)は、僕たちの理解を助けるために、わかりやすい比喩を用いているだけだということを忘れないでほしいのです。
そして、免疫のことを「自・他を認識する仕組み」と説明するのも、実は「自我」という《幻想》を持っている僕たち人間に置き換えて、わかりやすく説明しているだけなんです。
「ヌードマウス」というのがいます。
免疫の実験で使われるマウスですが、どうして彼がこんな恥ずかしい名前をつけられてしまったかというと、その名が示すとおり、毛がない真っ裸のマウスだからです。最初は、突然変異として見つかりました。
彼が免疫の実験で使われる最大の理由は、裸だからではありません。先天的に「胸腺(きょうせん)」を欠損しているからです。
胸腺とは、人間では胸骨(きょうこつ)上部の後ろ側にあり、木の葉の形をしていて、免疫機能で中枢的な役割を担っている器官です。具体的に言えば、この身体をウイルスや細菌などから守ってくれるリンパ球の一種である「T細胞」が作られる器官です。
ちなみに、T細胞のTは、Thymus(胸腺)のTです。
ヌードマウスにはこの胸腺がないので、T細胞が作られず、免疫機能がきちんと働きません。
それで、別のマウスから皮膚などの移植をした時でも、その組織は拒絶反応などの問題を起こさずちゃんとついてしまうし、また、マウス以外の動物の組織すら移植できてしまいます。
もし、あなたが免疫系を持ち出してきて「我々が意識しようが意識しまいが、人間の体内には自己と非自己とを明確に認識する仕組みが備わっている。すなわち《自分》は確実に存在する」と主張するとしたら、極端なことを言えば、「自分」とは「胸腺」のことである、ということになります。
そのこと(免疫系の仕組み)をもって、「自分」は在る、と主張するなら、自分とは胸腺のことであるという理屈になってしまうということです。
どうして、こんな変てこな結論に至ってしまうかわかりますか!?
それは、あなたの初めの主張からして、科学的ではなかったからです。
それは、僕たち素人にわかりやすく説明してくださった才園哲人分身さんのように、人間の営みに置き換えた文学的なたとえ話であって、自然界中心に考える「真の科学」ではなかったからです。
体内で行われている単なる生体反応に対して、人間が勝手に意味づけをしてしまっているだけなんです。
体内で行われていることは、単なる化学反応が起こっているだけです。
胸腺があるマウスはあるなりに、胸腺がないマウスはないなりに反応しているだけです。
ただ単に、自然界の法則に則ったしかるべき反応が起こっているだけです。何故そのような反応が起こるかというと、それには理由も目的もありません。自分を守るためでも敵をやっつけるためでもありません。
自然界には理由も目的もありません。理由や目的は人間が後から、自分たちの都合に合わせてつけるものです。
長い年月の自然淘汰(とうた)の中で、そのような反応をするタンパク質を作り出す遺伝子が絶滅せずに繁栄しているから、と言えるだけの話です。
だけど人間は想像力が豊かなので、この「絶滅せずに繁栄して」いる状態を、「生き延びようとする力が働いている」とか「生かそうとする目に見えない力が働いている」というような詩的な解釈をしてしまう癖があります。
それはどこか宗教の考え方と似ています。
宗教とは、自然界を詩的に解釈したもの‥‥つまり、人類の作った究極の「詩」なのかもしれませんね。
自然界には、決して、攻撃も防衛も存在しません。
単なる化学反応を、人間がそのように見てしまうだけなのです。まして、過剰防衛などあり得ません。
アレルギーも、人間中心に見なければ過剰防衛でもなんでもなく、単なる自然界の物質同士の化学反応に過ぎません。
防衛している意識すらない自然界の物質にとって、過剰などという言葉は当てはまりません!
それらはみんな、科学者が我々素人にわかりやすくするために、人間界の営みに置き換えたり、人間の思考形態に合わせて説明しているだけなんです。
いいですか!?
この体内は、悲惨な戦場などではありません。
ただ静かに、とても穏やかに、ひたすら与えられた任務(化学反応)を繰り返しているだけです。
それぞれがそれぞれの役割を、ひたすら忠実に遂行しているだけです。
とても静かにゆったりと平和的に時間は流れています。
実は、「真の科学」が教えてくれていることは、このことだったんです。決して、これ以上でもこれ以下でもありません!
もし、そこに何らかの意味づけをするなら、それは人間の側の都合であることを忘れずに行うことです。
そのようにして意味づけされたものは、あくまでも詩や文学などの範疇(はんちゅう)で、もはや科学ではなく、非科学の話であることを忘れずに行うことです。
何故なら、自分たちの中でそれを明確に区分していなければ、せっかく辿り着いた「科学的真理」が歪められてしまうからです!
最後に、『身体を守る免疫の仕組み』という本の中で、それを書かされた媒体である才園哲人分身さんが語って(語らされて)いる、次のような言葉をご紹介します。
なかなかすばらしい発想ですし、仰りたいことはよくわかります。ほとんどの方が、このような意見を聞いてうなずかれることと思います。
だけど、ちょっと考えれば、でたらめな論理であることに気づきます。
まず、「生物から自衛システムを学ぶ」と言っていますが、彼のやっていることは実はその逆で、人間社会にある自衛システムを生物に当てはめて見ているだけなんです。
自分の描く平和という見取り図を、生物の営みに押し付けているだけなんです。
自然界にあるのは、自衛システムでも、テロ行為でも、戦争でもありません。人間界に住む彼が、自然界にそのようなものを見て取ってしまっているだけです。
そして、彼の描く平和という見取り図は、どうやら、専守防衛に徹する完璧な「自衛システム」によって実現することのようです。
それさえできあがれば、テロ行為も戦争もない社会が来ると言っているかのように聞こえませんか。
だけど、専守防衛に徹しているはずだった免疫界を説明するのに、そこにはいないはずのテロリストや戦争のたとえを持ち出してきて説明していたのは彼自身だったではないですか!?
せっかく、世界平和のために、生物の営みから文学的な教訓を引き出すとすれば、完全無欠の分身主義者を目指す僕(徳永分身)なら、次のように考えます。
世の中にはアレルギーで悩んでいる人とそうでない人がいます。アレルギーを起こしやすい体質を「アトピー素因」と言います。
ちょっと専門的な用語を使って説明すると、アトピー素因とは、IgE(アイジーイー)抗体を産生しやすい体質のことです。この IgE 抗体はB細胞から作られる抗体ですが、その際にヘルパーT細胞が重要な役割を果たします。
ヘルパーT細胞には、Th1 細胞と Th2 細胞があって、Th2 細胞からインターロイキン4という物質が放出されると、B細胞では IgE 抗体の産生が促進されます。
その反対に、Th1 細胞からインターフェロン γ (ガンマ)という物質が放出されるとB細胞では IgE 抗体の産生が抑制されます。つまり、次のような図式になります。
そしてまた、Th1 細胞は、体内の細菌を貪食(どんしょく)したマクロファージから分泌(ぶんぴ)されるインターロイキン12という物質の作用から作られます。
そのため、幼少時(3歳ぐらいまでの間)に細菌感染を繰り返すことで、Th1細胞が多い非アトピー素因になると言われています。
ちょっと専門用語を使い過ぎましたが、何が言いたいかというと、非アトピー素因とは、物心つく前から、外部の敵(細菌)を敵とも思わずに仲良くやっていくことで作られる体質だということです。
そのことで大きくなっても敵を作らずに、外部のみんなと仲良くやっていけることになったんです。
細菌を敵として隔離してしまった僕たちの環境が、細菌を本物の敵にしてしまっていただけなのかもしれません。
非アトピー素因のように周囲に敵がいなければ、防備という概念も不要になります。
いいですか?
敵とは、僕たちの脳の《幻想》が作り上げているモンスターに過ぎません。
「自我」という観念も、僕たちの脳が作り上げている《幻想》に過ぎませんでした。僕たちのこの境界線を持った一時的な身体は、自分の持ち物ではなく、また、この身体は外部の敵と闘っているのではなく、ただ反応し、どんな場合も「自然界に適合」しているだけだったのです。
科学から文学的な教訓を引き出すという同じ作業でも、このように、分身主義の方がずっと穏やかで平和であることを理解していただけますか?
それは何よりも、自然界の現象を人間の都合、あるいは自分の都合に合わせて理解しようとするのではなく、どこまでも自然界中心に「謙虚」に理解しようとするからです。
真の科学とは、およそこの地球上に存在するどんな謙虚よりも「謙虚」なものだったのです。
僕たちの世界が平和になる時は、防備という概念もなくなり、武器も不必要になった時だけです。たとえ専守防衛に徹したとしても、「自衛システム」が存在する限り、世界は平和ではありません。
もしあったとしても、それは戦争を回避する状態が存在しているだけです。
平和とは、決して「戦争を回避したり抑止したりしている状態」のことではありません!
さて、今日は森の中をずいぶんと連れ回してしまって疲れたことと思います。何だか、戦争で爆弾が飛び交う中を逃げ回ってきたような疲れが残りました。
前回お約束した、「人間には自由意志などない」という結論に到達してしまった科学に対して寄せられた反論のご紹介は、明日に持ち越しです。
今日は頭を整理してゆっくり休んでください。
◆◇◆ちょっと一言
真の科学とは何かということを理解していただけましたか?
真の科学とは、あくまでも自然界中心に物事を理解しようとすることです。
そうしないと、せっかく辿り着いた科学的真理は歪められてしまいます。
「科学者でもないお前が、生意気なことを言うな!」なんておっしゃらないでくださいね。
いつも言うように、科学者と言われる人たちが、いつも科学的だとは言い切れません。
傍目八目(おかめはちもく)という言葉があるように、傍(はた)から見ている僕たちの方が、近視眼的に自分の研究に没頭してしまっている科学者よりも大局を俯瞰(ふかん)して見ることができる場合があるんです。
免疫系の話で言えば、現在、科学はものすごいところに辿り着いています。
今回の話に出てきた、抗体(=抗原という敵に対して発射させるミサイルと比喩されていましたが)のことですが、今では必要な抗体だけを純粋培養させていくらでも増やす技術や、抗体の遺伝子を操作する抗体工学により、より強力な、使い勝手のよいものをデザインし、作り出せるまでになっています。
それは、空を見上げることも忘れて、トンネルの内部をどこまでも掘り進む科学者だから成し遂げられたことです。
もし科学者が、僕たちのように傍(かたわ)らから大局を見ているだけだったなら、とてもここまでは辿り着けなかったでしょう。
お互いに、お互いの得手・不得手を補い合うべきです。
血のにじむような努力の末に、たくさんの発見や発明をしてくださった科学者の方たちに、僕たちからできるお返しは、自分の目先のことに夢中になって「真の科学」を忘れそうになっている彼らに、時々「真の科学」を思い出させてあげることです。
分身主義は、あくまでも「真の科学」から導かれたものです。
繰り返しますが、「真の科学」とは、自然界中心に物事をありのままに理解しようとするものです。
もし、人間中心になってしまったら、同じ言葉も違う意味になってしまいますので、十分に注意してください!
例えば、分身主義は、科学の「全ての物事には必ず原因がある」という基本原理から、「この世界で起こる全ての現象は、(結果から見れば)それ以外には起こり得ない必然であると言える」という真理を導き出しましたが、この言葉を人間中心に捉えるとどうなるでしょう!?
「この世界で起こる全ての現象は必然である」という言葉は、人間中心に解釈すると、「この世界で起こる全ての現象には、必ず何らかの意味や目的がある」という意味になってしまい、占い師や霊能者たちの、あるいは運命論者たちの論証の根拠にされてしまいそうです。
同じ言葉でも立場を変えると、まったく逆の解釈になってしまいます。
くれぐれも言っておきます。
どんなに綺麗に聞こえる言葉でも、それが人間中心である限り、個人的な救済はできても決して世界を救済できません!
そして、情報化時代の現代を生きる僕たちは、世界が救済されなければ、決して個人の救済もあり得ません!!
これを声を大にして言っておきます。
どんなに綺麗に聞こえる言葉でも‥‥です。
人間中心の解釈をしている限り、どんな言葉にも思い違いが潜んでいます。
騙されないでくださいね。
11日目 トゲは身を守るためにあるのか?
先日、妻と近くの公園をウォーキング散歩(ちょっと早足の散歩といった程度のもの)をしていたら、大きなアザミを見つけました。
僕(徳永分身)は花の名前は少しも覚える気がなくて、彼女に教えてもらってもその都度忘れますが、アザミくらいは知っています。
「うわあ、アザミだ。恐いねえ」
子供の頃、姉が購読していた少女雑誌に連載されていた、確か「紅(べに)アザミ」とかいう題名の恐怖漫画が脳裏に浮かびました。
連続殺人が起こり、事件現場にはいつも、何かを象徴するかのように紅アザミが刺さっている、というような内容だったと思います。
夢にまで見たり、夜には一人でトイレにも行けなくなったりしたほど印象強く恐い漫画でした。
「アザミ」という言葉を聞くと、そのせいで、今でも条件反射的に鳥肌が立ちそうになってしまうのです。
「すごい、よく知ってるわね。ずいぶん大きくて立派なアザミね」
「紅アザミだね。ヒュー恐い恐い」
口からでまかせの名前を言ってみたけれど、妻はちょっと首をかしげたまま否定はしなかったので当たっていたのかもしれません。僕は恐いものから遠ざかるように、少し足早に歩くと、彼女は後を追いながらポツリと言いました。
「アザミのトゲは何から身を守っているのかしら?」
最近、毎日、分身主義の森の中を歩いている僕は、即座に次のような言葉が口をついて出てしまいました。
「普通は誰もがそう考えるけど、実は、その考え方は間違ってるんだよ。奴らは何かから身を守ってるんじゃないんだ。そのように解釈するのは科学的とは言えないよ。アザミはただ‥‥」
「そんな話、どうでもいいのよ!」
妻は僕の話をさえぎって声を荒げました。
「あたしは、そんな理屈なんか聞きたいんじゃなくて、トゲは何かから身を守るためにあるんだから、何から守ってるのかなって思っただけで‥‥」
「いやっ! だから、トゲは別に何かから身を守るためにあるんじゃあないんだ! 前後関係をよく確認してみなよ。遺伝子が突然変異を繰り返しているうちに、そのような形態を持ったものがたまたま出現したのかもしれない。そして、その形態がたまたま他のものからの捕食や採集などから免れる働きをしているので、そのせいで、そのような形態を作る遺伝子を持ったものが今も絶滅せずに残っていて繁栄しているというだけの話なんだ。
その結果だけを見てトゲが何かから身を守るためにある、と考えるのは文学や宗教の話で、人間が感情移入してそのように感じてしまうだけなんだ」
隣を歩いている妻が、不満そうな顔をしているのがわかりました。
「そのように感じていけないわけ!?」
「うん、それがいけないんだ。文学的な話をするならば‥‥、という前提でそのように話すのは一向に構わないけど、それが自然界の真の姿だと思ってしまったら、とんでもないことになる。
トゲは身を守るためにあるのではなく、たまたま、結果的に身を守る働きをしているだけなんだ。
少なくとも科学者は、トゲは何かから身を守るためにあるなどという嘘を使って自然界を説明してはいけないんだよ。
だって、そのような考え方をしてしまうことが、自分の周りに作らなくていい敵を作ってしまったりしてるんだから。
本当の科学は、少しもそんなことは教えてない! 僕たちに守るべきものなんてないって科学は教えてくれている!」
次の瞬間、脳内に浮かんだ言葉を、僕はそのまま口に出していました。
「この宇宙には敵など一つも存在しないんだ!」
その言葉は、僕の心の中に神の啓示のように響き渡りました。
妻にも時々は、分身主義の話を聞いてもらおうと試みてはいるのですが、僕が分身主義の話をすると、理屈っぽすぎるせいか、彼女はまだ拒絶反応を示すので、あなたに聞いていただいている100分の1も話してはいません。
でも、最後の言葉に対して、何も言い返してこなかったということは、少しは分身主義の優しい肌触りくらいは感じてもらえたかなと思いました。
黙ってしまった妻は、何かを考えてくれていたのかもしれません。あるいは、それ以上、何も考えまいとしていたのかもしれないけど。
いずれにしても、僕は今はこの話はここで打ち切るべきだなと感じました。
「あっ、そろそろ、湖が見えてくるよね」
「うん、ほら、もう見えてるじゃない。そこよ。そこっ!」
この広大な公園の敷地内には池がいくつかあるのですが、木立に囲まれたその場所から垣間見える池は、遠くに湖があるような感じに見えることを、以前、彼女が発見したんです。
「幻想的だね。霧の摩周湖だね」
霧なんてどこにもないけど、彼女は「うん」と答えました。
否定されなかったことに気を良くして、僕がもう一度「ね、まるで霧の摩周湖だ」と繰り返すと、彼女は再び「うん」と答えて、『霧の摩周湖』を歌い出しました。
完璧症とでもいうようなハンデを抱えて48年間生きてきた偏屈な僕に、ちょうどその半分に当たる24年間も付き添ってきてくれた分身さんです。彼女の払った犠牲は相当なものだったと感じています。
今、仮に名づけたこの完璧症というハンデは、石橋を叩いて渡るどころか、石橋を叩きすぎて壊してしまい、自分自身で石橋の構造を研究してもう一度作り直し、その上でやっと向こう岸に渡るというようなやっかいな歩み方をする僕の人生でした。
僕は、この宇宙の真の姿をギューッと凝縮して、手のひらに乗せて眺めることができるまで安心できなかったのです。
そんなハンデを抱えて生きてきた僕だからこそやっと手にできた分身主義という輝く宝石を、彼女も共に享受し、恵みを受ける権利は十分あります。
そのためには、一時の喧嘩もやむを得ません。
彼女には、まだまだ時間はかかるかもしれないけど、きっといつか分身主義を理解してもらおう、と僕は考えています。
そのためには、少しくらいの喧嘩も仕方ないなと思います。それは世界中の人が仲良く生きるようになるための喧嘩です。
世界中の人が仲良くなるんだったら、僕たちがもっと仲良くなるに決まっています。
何より、今の僕にとって二番目に親しい分身さんだからです。ちなみに、一番親しい分身は自分という分身です。(もちろん自分だって分身です。その客観的な視点が大事です)
あなたという分身さんだって、とっても大切な分身さんです。僕はあなたとだって、喜んで喧嘩をしようと思います。
その喧嘩は、あなたを負かすための喧嘩ではなく、あなたともっと仲良くなるためにする喧嘩だからです。世界中の人が仲良く生きるために、今だけ我慢してやらなければいけない喧嘩です。
こんなに友好的な楽しい喧嘩はありません。
できれば冗談を交えて、笑いながら喧嘩をしましょう。
「トゲは何かから身を守るためにある」そんな非科学的な言葉を、科学者までもが素人に説明する時に使ったりします。
おかげで僕たちは、それが本当の自然界の姿だとすっかり思い込んでしまっています。だけど、花には、もちろん人間のような意思などありません。
それどころか、人間にだって「今まで考えられていたような意思」などなかったのです!
他人がいくらでも貸してくれる自我というお金を、まるで自分の物であるかのように自由気ままに使い、自我を浪費していい気になっています。
何でも自分の意思でやっていると思い上がるようになっています。
「自分、自分、自分‥‥」という意識が強くなり、自分を守る気持ちが強くなり、自分の周りや自然界に敵を作ってしまっています。
真の科学は、そんなことは一つも教えていません!
この宇宙には敵など一つも存在しないと教えてくれています。
科学時代を生きる僕たちは、もっと科学の声に耳を貸すべきです。
昨日、分身主義の森を一緒に歩いてくださったあなたには、そのことを見つけていただきたかったのですが、どうでしょうか。
さて今日は、「人間には自由意志はない」という結論に到達した真の科学に対しての反論のご紹介をする予定でしたが、またしても時間切れで、明日に持ち越しになりました。
今日もぐっすりとお休みください。
分身主義の森は、普段使わない筋肉を使って歩くので、とても疲れますから。
◆◇◆ちょっと一言
僕は自分のことを話すのが苦手です。
個人主義的な環境で生きている僕たちは、基本的には自分以外のもの(あるいは自分と関係が浅いもの)には興味がないし、自分と相手を比較して優越感や劣等感を抱き、激しい嫉妬や羨望に胸を焦がしたり、自分と違う価値観を押し付けられることに対して怒りや恨みを抱いてしまう傾向があります。
こんな環境の中で自分のことを話すと、大概は、いらぬ嫉妬や羨望、いらぬ怒りや恨みを買ってしまうことになりかねません。
だから、極力、自分のことは話すのはよそうと考えているのですが、今日はちょっとだけ自分のことをしゃべってしまいました。
分身主義が行き渡れば、こんな心配もせずにみんなが自分のことを話せるようになります。嫉妬や羨望、怒りや恨みとはまったく無縁に‥‥。
分身主義が行き渡れば、今まで嫉妬や羨望の対象だった天才や英雄に対しては、自分自身を誇りに思う感情しか抱かなくなります。
人は自分の意思で考え行動をしているのではなく、その人の脳を取り巻く環境に考えさせられ行動を取らされていたことを知ったのが分身主義です。
一人の人が全ての環境に自分の身を置くことはできません。だから天才も英雄も、僕たちの代わりにその環境に身を置いて天才や英雄の配役を担ってくださっている誇るべき僕たちの分身さんなのです。
誰かが悪いことをしたとしても、それも僕たちの代わりにその環境の被害者となって悪いことをしてしまった分身さんです。だから、その人一人に怒りや恨みをぶつけて責めることはしません。責めなければいけないのは彼の環境だからです。それを作っている僕たちだからです。だから自分が救われるために彼に救いの手を差し伸べます。
本当の意味で個人を尊重することは、個人主義にはできません。本当の意味で個人を尊重するのは、個人主義の欠点を乗り越えた分身主義にしかできません。
その時が来るまで、僕は極力、自分のことを話さずにおこうと考えています。でも、最後にもう一つだけ、自分のことを書かせてください。
先日、僕のマンションにも、ついに監視カメラが取り付けられました。それで僕は毎日悲しい気持ちで外出し、重い気持ちで帰宅します。外に敵を作る個人主義的な環境から生まれてしまった悲しい道具です。
こんな悲しいモノが不要になる環境が、早く来てほしいと願います。みなさんも、監視カメラが置かれて安心するよりも、悲しい気持ちが湧き起こる感受性を忘れないで欲しいと思います。
こんなモノを必要とし、こんなモノに頼らなければ安心できない僕たちの社会は、あまりにもおかしな方向に向かい過ぎていないでしょうか。
監視カメラは確かに科学が作ったものですが、でも、科学に罪はありません。科学が人間を間違った方向に進ませているのではありません。
錯覚の自我にがんじがらめに縛られて、個人主義という間違った方向に突き進んできてしまった我々人間が、科学を利用してしまっているだけです。
12日目 人間に自由意志はあるか?
さて、分身主義の森もずいぶんと深く入り込んでしまって、今さら帰ろうとしても難しいと思います。
こうなったら、行くところまで行ってしまった方が楽ですよ。(⇐ おどし?)
今日は、「人間には《自由意志》はない」という結論に到達してしまった真の科学に対しての反論のご紹介です。
取り敢えず、7つを抜粋してご紹介します。
どうですか?
あなた自身も同調できる意見があったのではないかと思います。
しかし、「人間には《自由意志》などない」というのは、よく考えれば当然のことで、よく考えないから「ある」と思い込んでいたり、そのようには考えたくないから、「ある」と思い込みたいだけのことなんです。
まず、《自由意志》と表記している本と、《自由意思》と表記している本がありますが、意志と意思は、意味的に重なり合っているところもあって紛らわしいので、確認しておくことにします。
要するに「その気持ちが強い」かどうかの違いです。「強い気持ち」の場合は「意志」のようなので、ここでは《自由意志》という字を当てることにします。
それでは、《自由意志》とは何かということから考えてみましょう。
僕たちは、耳が痒(かゆ)い時や蚊に刺されて痒い時、無意識で掻いていることがあります。眠っている時に掻いていて、朝見ると傷になっていることもあります。
また、太陽が眩しく感じた時、即座に手で光を遮っています。
熱いものに触れた時、「アチッ」と言って、無意識で手を引っ込めています。
僕たちの行動は、どちらかというと、大半がこのような無意識の行動で占められているように感じます。
これらを、《自由意志》と呼ぶ人はいません。
《自由意志》とは、無意識に行動を取らされている時には働いていなくて、何かを意識的に行おうと思うことに対して使われる言葉のようです。
つまり、本人の「意識」が関わってくる言葉です。
でも、意識して行動をしているとしても次の場合はどうでしょう。
母親に、部屋の中を掃除しなさいと言われて、しぶしぶ掃除をするような場合です。
自分が掃除をしているのは意識しています。面倒臭いなあと思っているくらいですから。だけど、親に命令されてする行動は、《自由意志》でやった行動とは言えません。
何かの影響(指図や制約)を受けて行動を起こした場合、それは自分の《自由意志》で行動したとは言えないですよね。
つまり、《自由意志》とは、何からも影響(指図や制約)を受けずに、自発的な決定に基づく「思い」のことのようです。
では、あなたの人生の中で、「何からも影響を受けずに、自発的な決定に基づく思い」のようなものが一度でもあったかどうか、考えてみてください。
「お小遣いを2000円ためて、ガンダムのプラモデルを買うぞ!」ある日、あなたがそのように思い立ったとしたら、それはあなたの《自由意志》でしょうか?
確かに、誰かに「プラモデルを買え」などと命令されてはいません。自分のお小遣いをためようが、どうしようが、自分の勝手です。
でも、何にも影響されていないと言えるでしょうか?
第一なんであなたは、ガンダムやプラモデルを知っているのですか? テレビでガンダムを見たり、コマーシャルで精巧にできたプラモデルを紹介していたりしていませんでしたか?
また、お小遣いにしたって、あなたのズボンのポケットから自然に湧いてくるものではなく、誰かがくれるものですよね。
お小遣いというありがたい風習だって、あなたが作ったものではありません。あなたは、知らず知らずのうちに、たくさんのものに影響を受けていたのです。
それは、「よーし、今日からダイエットをするぞ!」などというのも、たくさんのものに影響を受けて浮かび上がってきたものであるという点で同じです。
「私があの人を好きになったのだけは、まぎれもなく自分の《自由意志》です。私って少しみんなと変わっていて、太った人が好きなんです」などと言ってみても駄目です。
太った人が好きになるような影響を、あなたは知らず知らずのうちに、自分が生きている環境から受けていたんです。
それに、その男の人が、あなたに対して何らかの影響を与えていて、それであなたは彼を好きになったのは明白です。
このように考えていくと、僕たちには「何からも影響(指図や制約)を受けない、自発的な決定に基づく思い」などというものは一つもないと言い切れます。
1983年、アメリカの神経生理学者ベンジャミン・リベット分身さんたちが、《自由意志》をめぐる興味深い実験をしています。
被験者は頭皮に電極をつけ、自分が好きな時に指を曲げるか手を動かすことにします。
動作を行うということは、脳内に電気が発生しているわけで、それを捉える脳波計は、動作が行われる時点を正確に記録するはずです。同時に、被験者は自分がいつ指を動かそうと思ったのか記録しておくことにします。
その結果、面白いことがわかりました。
まず、被験者がそのような動作を行おうと意識してから、実際にその動作が起こるまでには、0.2秒かかりました。
これは別に不思議でも何でもありません。
意識と動作の間には、わずかな時間差があって当然のことだからです。
しかし、不思議なことは、被験者が指を曲げるか手を動かそうと決める「前」、その約0.3秒前に神経系の動きが観測されることを発見したのです。
この実験は、「決意の意識(=意志)」が発生する前にまず神経回路網が活動を開始し、その後で「決意の意識(=意志)」が発生することを示しています。
「意志」が発生する前に活動を開始するこの奇妙な脳波は、「準備電位」と名づけられました。
この実験結果は、人によっていろいろな解釈がなされるかもしれません。しかし、この実験が示している事実は唯一つです。
「決意の意識(=意志)」を《自由意志》と呼ぶとしても、その《自由意志》と呼ばれるものは、0.3秒前の神経系の働きによってもたらされていた、という動かしがたい事実です。
言い方を換えると、僕たちは、神経系の働きによって浮上させられた意志によって行動をさせられていたにもかかわらず、脳は、さも自発的に行動を起こしたかのように後づけで認識していたということです。
指は曲げようと思ったから曲がったのではなく、脳が無意識のうちに指を動かす準備を始め、それにつられて指を曲げようとする決意(意志)のようなものが生まれていただけだったのです。
この実験は、他の科学者によっても追試され、同じ結果が出ています。
リベット分身さんたちの実験に冷めた目を向ける科学者がやってみても、結果は同じでした。
ガンダムのプラモデルを買おうと決意することや、ダイエットをするぞと決意することや、誰かを好きになるような大それたことだけでなく、指を曲げるというちょっとした動作一つにしても、僕たちは自分の《自由意志》では行えない不自由?な存在だったんです。
いつも言いますが、現代科学の最も大きな功績は、「全ての物事には原因がある」ということを、僕たちに証明してみせてくれたことです。これは科学の大原則と言ってもいいと思います。
もしこの原則にほんの少しでも疑問が生じるようなことが起これば、今まで築き上げてきた科学の方法論や発見は疑わなければならなくなり、また、科学が発明してきたものまで、危なっかしくて使えなくなります。
「何物の影響も受けない、自発的な決定に基づく思い」のことを《自由意志》と呼ぶと規定したわけですが、「意志」だけは何物の影響も受けないとすれば、意志に関しては原因となるものが存在しない、ということになります。
そんなことは、科学の大原則に照らし合わせても考えられないことです。
「何物の影響をも受けない、自発的な決定に基づく思い」というものがあると考えるのは、何だか「生物自然発生説」を信じていた昔の科学者たちのような感じです。
今では、誰もが、生物は自然発生などしないと知っていますが、1861年に、パスツールが生物は自然発生しないことを実験によって証明するまでは、多くの科学者たちが「自然発生説」を信じていました。
生物は、「うじが湧く」という言葉のように、自然に、自発的に湧いてくるものかもしれないと考えられていたのです。その間違いをパスツールが上のような実験で証明しました。詳しくはインターネットで検索して見てください。
科学時代に生きている僕たちは、いい加減、「自発的に湧き上がる自由意志はある」などという過去の錯誤から卒業しませんか!?
さて、「全ての物事には原因がある」という科学の大原則を使って、あなたも何かを考えてみてください。
例えば、あなたが今、パソコンに向かっている原因を考えてみてください。
ではその原因の原因を考えてみてください。
その原因の原因の原因を‥‥と、どこまでも遡(さかのぼ)ってみてください。どこかで途切れてしまうでしょうか?
あなたが生まれる100年前も越えて、どこまでも遡れます。そして最後に行き着くところはどこでしょうか?
現代科学は、それはビッグバンに行き着くと考えています。ビッグバンは想像上の仮説ではありません。
いろいろな観測によって、ビッグバンの正当性を裏付ける証拠がいくつも発見されているからです。
そこで、分身主義では、この宇宙で起こる全ての現象(人間の精神現象も含めて)は、「ビッグバンの風」が作り出していると表現します。
僕たちは、この宇宙という広大なビリヤードテーブルの上で、ビッグバンという最初の球が突かれてから、延々とその中の素粒子がぶつかりながら何かを形成したり分解したりしている、まさにその劇場の中にいるわけです。
‥‥と言うより、僕たちのこの身体も、その劇場の中で素粒子という役者が演じて見せている一時的な姿なんです。
分身主義では、延々と、ビッグバンの影響を引きずっているその姿を、「ビッグバンの風」と形容しましたね。便利な言葉です。
この言葉を使えば、ベンジャミン・リベット分身さんたちの実験によって確認された、約0.3秒前の準備電位の正体は、「ビッグバンの風である」と簡単に表現できるので本当に便利です。
それでは、冒頭にご紹介させていただきました7つの意見に対して、分身主義的に回答させていただきます。
初めに断っておきたいと思いますが、安斎分身さんは、何かを判断しようとする時、
をはっきりさせておく必要があると言っていましたね。(『予備知識11 科学の限界と可能性』)
「科学的命題」とは、その命題が正しいか正しくないかを客観的に決めることができるもののことです。つまり、命題の真偽(しんぎ)が価値観に依存しないような命題のことです。
「人間には自由意志はない」という命題は価値的命題ではなく、科学的命題であることを覚えておいてください。つまりその人の価値観や好き嫌いで決めてはいけない命題だということです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
[❶私は《自由意志》は存在すると思います。人間は、他人の意見や行動に対して拒否的に感じたり、その自分の感じ方に則って自分が行動を起こすことができるからです]
まず初めに‥‥、
と規定しますが、それでよろしいですか?
何らかの影響(指図や制約)を受けて行動を起こした場合、それは自分の《自由意志》で行動したとは言えないですものね。
では、この方(Aさんとします)の主張する「他人の意見や行動に対して拒否的に感じ、その感じ方に則って起こす行動」は、何らかの影響(指図や制約)を受けて起こした行動ではないと言えるでしょうか?
Aさんが「他人の意見や行動に対して拒否的に感じ」た理由は、その直前の「他人の意見」に影響(指図や制約)を受けて、拒否的な行動を取らされたわけですよね。
我々の脳は、何かからの刺激を受けない限り何にもしない、まさに「脳無し野郎」なのです。五感を通して入力された刺激が電気信号に変換されて脳に届いて初めて脳は反応します。外部からの刺激を受けないのに自分から何らかの反応を始めることは一切ありません。
何も入力されないのに、勝手に怒り出したり悲しんだり、否定的な感情が湧き上がることは絶対にないのです。という理由から、Aさんは《自由意志》で行動したとは言えません。
ではなぜ、その直前の「他人の意見」を受けた時に「拒否的」な感情が浮かび上がったのでしょうか?
それはAさんの、脳に作られている「記憶」に関係があります。
脳が何かを記憶をするメカニズムは以前話しました。(『6日目 記憶という反応の道』)
そして記憶とは静的(固定的)なものではなく、動的なものだと説明しました。つまり記憶とはその人の脳に作られた「ベルトコンベアー」のようなものです。流れ作業で物を組み立てて行く、あのベルトコンベアーのことです。
そして、その外部からの刺激が何度も繰り返されるとシナプスが増強されて、「方向性を持った反応の道=ベルトコンベアー」を作るわけです。
「記憶」とはこの体験の積み重ねで作られていくものです。
つまり、Aさんの脳を取り巻く環境が、Aさん固有の「記憶(=方向性を持った反応の道)」を作るわけです。
日本人なら日本語を記憶していますが、それはもちろんその人の脳を取り巻く環境に日本語があったからで、環境にないドイツ語を記憶することは一切ありません。
さて、僕たちが何かを考えるということはどういうことでしょうか?
もちろん日本語で何かを考えます。ドイツ語で何かを考えることは決してできません。
ということは、記憶している日本語と、その文法が、その人なりの「方向性を持った反応の道」に則って作られていく言葉を、僕たちは言語化して外部に送り出していたわけです。
「方向性を持った反応の道」にはもちろん、その人の感情も織り込まれています。
感情とは、脳内の神経伝達物質と呼ばれているノルアドレナリン、セロトニン、アセチルコリン、ドーパミン‥‥など、現在100種類以上発見されている化学物質が放出された時に生まれるものです。
脳の神経細胞が次の神経細胞に電気信号を受け渡しながら電気信号は流れるわけですが、その際に、その接続部に当たるシナプスにおいて、一旦、化学物質の信号に変換されます。それが、今言った神経伝達物質です。
感情も、その時に作られる「方向性を持った反応の道」とくっついて記憶されます。
例えば、このAさんが親友のBさんと意見が合わずにケンカをしてしまったとします。その時感じた、怒りや、不満や、不安が、Aさんの記憶に付け加えられます。
その後、AさんはCさんと旅行に行くことになったとします。Cさんが、共通の友達でもあるBさんも誘おう、と提案したとします。
でもAさんは、その提案に「拒否的に感じ」、「Bさんが一緒なら自分は旅行にはいかない!」と言います。
このようにAさんはBさんとケンカした記憶を引きずっていて、その「方向性を持った反応の道」に従って「拒否的な」反応をしたわけです。
「記憶」とは、その人の脳に「反応の道=流れ作業のベルトコンベアーのようなもの」を作ることでしたよね。
そして「記憶」とは環境が作るものでしたよね。脳は環境にないもの、環境から入力されないものを記憶するなどということは絶対不可能ですから。
だったら、この時Aさんが「拒否的に感じ、その感じ方に則って取らされた行動」は、明らかにAさんの「環境」が取らせたと言ってもいいものです。
我々が今まで《自由意志》と呼んでいたものは、それは、今見てきたように、環境がその人の脳に浮かび上がらせていたものだったので、別にその人の自由で作られるものではなかったということです。
人間には「意志」がないと言っているのではありません。
それは、《自由意志》と呼べるものではなく、環境が浮かび上がらせていた「意志」を、我々の「錯覚の自我」が自分の意思だと錯覚していただけだったと言っているのです。
説明が長くなりましたが、まだ6つもあるので、次からは短めに行きます。
[❷あらゆる物質には指向性がある。物質の持つ指向性、もっと拡大すればこの宇宙の持つ指向性こそ、完全なる《自由意志》とも取れるものである]
「物質の指向性、この宇宙の指向性」とは「自然界の法則」を指しているのでしょうか?
もしそれに全てが支配されているとするならば、それに支配されている我々人間には、むしろ《自由意志》は存在し得ないという理屈になるはずですが‥‥。
[❸《自由意志》はあります。意識や精神など、人の心は、自分を取り囲む諸々の慣習や制度や物質や文明などに支配されてはならない自由な存在なのです]
立派な意見のように聞こえますが、「科学的命題」に対して自分の価値観や好き嫌いを語ってしまっているに過ぎません。
実は、この方の価値観や好き嫌いというのも、この方の脳が、以前、「人の心は自由な存在であるべきだ」という「立派な考え」を記憶させられた脳であるためです。
つまり、そのような「反応の道」が作られてしまっているために、そのような考え方が浮かび上がらせ・られて、今、そのような言葉を、そのまま口にさせ・られてしまっているだけです。
この立派な意見すら、《自由意志》で答えているわけではなかったのです。
[❹《自由意志》がないということは、自分が考えること、自分が行動すること、その全てがあらかじめ定まっていて変更不可能ということになります。それでは自分の存在する意味もなく、つまらないので死ぬことにします。あれっ、これって《自由意志》でしょうか?]
これこそまさしく、個人主義的な環境に長年洗脳され続けてきた人の脳に浮かび上がる感情です。この人の脳を取り巻く環境によって、この人の脳にこのような「反応の道」が作られていて、そこに浮かび上がった価値観や好き嫌いを、そのまま語らせ・られてしまっているだけです。
《自由意志》がない=存在する意味がない=つまらない⇒だから死ぬ
「個人主義的環境」が作る社会とは、自分という個人が活かされ称賛されることに最大の価値を置く社会なので、このような思考回路が作られてしまっているのです。
これが長年「個人主義的な環境」に洗脳されてきた脳に浮かび上がる感情であることに気づいてほしいと思います。これは世界を平和にしないどころか、これが世界を平和にできなかったのです。
ちなみに「分身主義的環境」から浮かび上がる感情は、
《自由意志》がない=環境とつながる、宇宙とつながる=世界中の人と共感でつながる=最高の幸福、生かされている喜び
となるので、別に死ぬ理由が見つかりません。
だからと言って「分身主義的環境」は、死を無意味に嫌悪したり遠ざけることばかり考えたりしません。死も喜びである社会です。
「個人主義的な環境」では、死にまつわる用語は「自殺、殺人、事故死、餓死、戦死、病死」などという悪いイメージがつきまとうので、喜びなどとは対極にあるものですが、分身主義ならそこからも解放されます。
それと僕たちは、自殺に対して大きな思い違いをしてきました。
自分の意志で自分を殺(あや)めることを「自殺」と呼ぶのですが、それは絶対に不可能です。そのような状況を作り出す原因を考えればすぐにわかります。
そのような状況を作り出した原因は、その人の置かれている環境です。
そして「自分を殺めようとする意志」を浮かび上がらせたのは、今の環境に作られる記憶(=反応の道)ですから、自殺とは自分で自分を殺(あや)めることではなく、環境に殺めるように仕向けられてしまうことなのです。
環境に殺されたわけですから、むしろ「他殺」だったのです。
[❺私は人には《自由意志》があると思います。理由としては無いと寂しすぎると考えるから]
可愛らしい意見で、自然に笑みがこぼれます。
子供が駄々をこねているみたいな感じで、許してあげたくなるような意見ですが、「無いと寂しいから、あると思う」というのは、誰が聞いてもわかる通り、自分勝手ででたらめな論理です。
[❻「《自由意志》が存在しない」という考え方は、人間を機械の一種と見なす発想、人間を因果律に縛られた存在と見なす発想であり、人間性や想像力という言葉も無意味なものになりそうです。人間の可能性を否定するような考えは、文化や芸術の不毛につながるし、精神衛生上にも良くないので断固反対します]
仰ることはよくわかります。
しかし「良くないので断固反対します」という意見は、「無いと寂しすぎるからあると思いたい」という論理と大して変わりません。
また、「《自由意志》が存在しない」というのは、この方が言うような、「考え方」とか「思想」ではなく、科学が解明した「事実」なのです。
良くなかろうが、寂しかろうが、科学時代を生きる僕たちは、まずは事実を直視すべきです。
そしてまた、事実を直視して生まれた分身主義は、少しも人間性や人間の可能性を否定するものではありません。
むしろこの方の言う人間性や人間の可能性を、一部の優遇された人たちだけでなく、すべての人から引き出すものです。
この方の不安は、海に入ったことのない人間が海を恐れているようなものなのです。
今必要なことは、取りあえず「良くなかろうが、寂しかろうが、事実を直視する」ということです。
その上で、僕(徳永分身)と一緒にそこから立ち上がりましょう。そこには決して絶望的な海が広がっていません。
今まで僕たちが経験し得なかった素晴らしい世界が広がっています。
[❼人には《自由意志》があるがゆえに行動を自律的に統御できる、という前提にわずかでも問題があるとすると、犯罪に対する規制さえも困難になる。人が何かしでかしたとしても、本人が自ら決めてやったのではないので責任はないという言い逃れにもなるし、誰も罰することができないことになり、現行の法にも効力がなくなる。《自由意志》という支えがなくなると、統制ある社会が崩れ去るのではないだろうか]
この分身さんの意見は、「《自由意志》があるかないか?」ではなく、「《自由意志》がないとすると、大変なことになる」という観点からの意見のようです。
たとえ、「大変なこと」になろうと、人類は子どものように駄々をこねて嫌がっていないで、科学が解明している事実を直視すべきです。
もちろん、「《自由意志》がない」となれば、現行の法律自体も自然に改正されることになります。
現行の法律は「《自由意志》がある」と考える人間の《幻想》から生まれていたものだから、「《自由意志》はない」と考える人間たちの《幻想》から生まれる法律は、まったく違うものとなるのは当然のことです。
その時に法律を作る人たちは、法律は自分たちが作るものではなく、環境が自分たちを媒体にして作らせているという真実を理解して、その環境に目を向けることを忘れないでしょう。
僕たちが今やらなければいけないのは、法の改正ではなく、素晴らしい法が生まれる環境を整えることです。
分身主義の目指していることは、良き文化や法律の生まれる「環境」を整えることです。
文化も法律も、環境によって生まれているだけだと知っているからです。
そして、十分に耕された分身主義的な環境には、「自分が決めてやったことじゃないので自分の責任ではない」などと言い逃れをしなければならない犯罪自体が、生まれる素地がないのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
さて、今日の森の中では、新しい発見をしていただけましたか?
分身主義の森は、前人未踏の森です。
僕たち自身の手で切り開いて進まなければならないので、大変な苦労ですが、ちゃんと着いてきてくださいね。
でも、それは、僕たちの《自由意志》ではなく、僕たちの環境が僕たちにさせていることなんです。
僕たちは、未だかつてない科学の時代に生きています。
分身主義は、この科学の時代という環境が生んだものです。
僕たちは今、個人主義的な環境から分身主義的な環境に移行しつつある過渡期に直面しています。
過渡期の混乱の最中です。
しっかりと地面を踏みしめて、事実を直視しながら進みましょう。
今日、一緒に歩いてくださったあなた、まだ「《自由意志》はある」と考えますか? まだ納得されませんか?
そのようなあなたのご意見をどうかお聞かせください。あなたと仲良く喧嘩をしたいと思います。
あなたを負かすためではなく、あなたに幸福になって欲しいからです。もう十分幸福だ、余計なお世話だ、ですって!?
そうなんでしょうか?
分身の一人である僕は、世界中の人が幸福になって欲しいんです。それを分身主義は、唯一、平和で自分が幸福な状態と考えます。
明日は、少し寄り道して、分身主義の考える平和とは何かということを、深ーく、掘り下げてみたいと思います。
あなたも、平和とは何か、ということを考えておいてくださいね。
◆◇◆ちょっと一言
実験によって「《自由意志》」はないという結果が導き出されたにもかかわらず、リベット分身さんは自分が得たその結果に不服だったようです。
彼はその後、「禁止権説」なる救済案を考え出したりしているからです。
僕たちの意識が、いくら約0.3秒前の神経回路網の活動によって浮かび上がらせ・られたものだとしても、それによって動作を行おうと意識してから、実際にその動作が起こる0.2秒の間に、もし、その動作を禁止することができたらそれは《自由意志》と呼べるに違いない、と彼は考えました。
例えば、母親から「豚肉300グラム買ってきて!」と頼まれたとします。夕飯のカレーに入れる肉を買い忘れちゃった、というのです。
あなたは、今、見たいテレビがあるのだけれど、夕飯に豚肉のないカレーを食べさせられるのは困るのでしぶしぶと買いに行きます。これはいわば母親からの命令で、明らかに《自由意志》ではありません。
道すがら、あなたは豚肉がたっぷり入ったカレーを想像してゴクリとつばを飲み込みます。
そして、肉屋で「豚肉をさんびゃく‥‥」と口まで出掛かって「‥‥ごじゅうグラムください」と注文してしまいました。
つまり、母親の命令に逆らって、350グラム買ってしまったわけです。
このような状態の時、《自由意志》を行使したと言えるのではないか、とリベット分身さんは考えたということです。
母親の命令を、約0.3秒前に起こる神経回路網の活動だとすれば、それによって意識される「指を曲げるぞ!」という意志は、豚肉を買わなければという意志に相当します。
そして、その0.2秒後、指を曲げようとするまさにその瞬間、あなたは指を曲げることを拒否した、つまり「350グラムください!」と自分の意志で注文した、というわけです。
「《自由意志》は、意思決定の結果を選択ないし制御する目的で作動する」リベット分身さんは、そのように考えました。
つまり、《自由意志》は、無意識からの命令に服従している間は出番はないが、無意識からの提案を退け、無意識が勧める決定を拒む時にのみ機能するということです。
これが「禁止権説」と名付けられたものです。
でも、この説がでたらめなのは、論理的に考えればすぐにわかります。
肉屋で「豚肉をさんびゃく‥‥ごじゅうグラムください!」と注文したあなたは、「何からも影響(指図や制約)を受けない、自発的な決定に基づく思い」によって、そのような注文をしたと、誓えますか?
道すがらあなたの脳内に浮かんだ想像によって「ゴクリとつばを飲み込まされた」自分をお忘れですか?
それは、豚肉入りカレーを食べた時の美味しい記憶(記憶とは反応の道でしたね)などが、脳内に浮上させたものです。もし豚肉が嫌いだったら反応しなかったものです。
どんなにあなたが、《自由意志》を持っていると信じたくても、あなたは決して脳の神経回路網の作る現象からは自由になることはできません。
なにより、あなた自身、つまりあなたが自分自身であると信ずる「自我」というものも、脳の神経回路網の作る現象に過ぎないのですから。
脳内で起こる様々の現象は、全て、その脳を取り巻く環境からの刺激と、脳内記憶との相互作用が作り出す《幻想》です。
そして脳の記憶とは、あなたの脳を取り巻く環境によって、植え付けられていくもののことです。ちなみに、先祖代々続く遺伝も、あなたの脳を取り巻く環境の一部です。
つまり、あなたが豚肉を350グラム買う行為一つにしても、それはあなたが、あなたの環境にやらされているだけだったんです。
もういいじゃないですか!?
もう、いい加減に観念しませんか?
子どものように、駄々をこねるのはいい加減にやめにしましょうよ。
僕たちに、《自由意志》がなかったのは科学が解明している事実です。まだ多くの科学者が知らないのは、自分の研究で忙しくてそのことに関わり合っている暇がないからなんです。もう一つは、それを認めることで、今までの自分の輝かしい業績や自尊心を砕かれたくないからです。
だって彼らが死ぬほど努力して一流大学に受かり、その後も他人の何倍も努力して研究に明け暮れ、たくさんの本も執筆して、こうして著名になり、人様に先生と呼ばれて尊敬される人間になったというのに、それが全て、環境にやらされていただけだったと言われてしまうのですから。
でも、いいじゃないですか!?
その方だけでなく、みんなみんな自分なりに努力して生きてきたんです。その自尊心とやらが打ち砕かれたとしても、その向こうには世界中の人が共感で一つになる本当の幸福が待っています。それは、その方の優越感という幸福なんかより数十億倍強く揺るぎないものなんです。
今の小さな自尊心など捨て去り、もっと大きな誇りをみんなで手にしましょう!
僕たちは、目の前の事実を直視して、そこから立ち上がりましょう。大丈夫!
分身主義が、その先の道を明るく照らしてくれています。
13日目 平和とは何か?
今日は、お約束どおり、少し寄り道して、平和とは何かということを深く深く掘り下げてみたいと思います。(ちなみに「浅い世界平和」とは、戦争を抑止したり回避したりしている状態のことです)
以前、ご紹介させていただきました安斎分身さんは、何かを判断しようとする時‥‥
と言っていましたね。
その時あなたに質問しました。
「霊は存在する」
これ ⇧⇧ は、科学的命題でしょうか?
それとも、価値的命題でしょうか?
霊などというから、てっきり「非科学的」だと思うけど、実は、「科学的命題」でしたね。
霊が存在するかどうかという命題は、「自分は存在すると思いたい」という好き嫌いや、「存在するとしたら人生が楽しくなるから、その方がいい」などという価値観で決められることではないからです。
そのようにして決めてしまってはいけない種類のものでした。
それに対して、「価値的命題」とは、好き嫌いとか、賛否の数とか、主張者の声の大きさなどに決定されてしまう命題のことでした。
例えば「ピカソの絵は素晴らしい」とか、「女の幸せは結婚である」などという命題でしたね。
これは、それを主張する人の好き嫌いや価値観に根差しているので、客観的にどちらが正しいという決定ができません。
「科学的命題(合理的命題)」と、「価値的命題(非合理的命題)」の違い、思い出していただけましたか?
ところで彼(安斎分身さん)は、立命館大学の教授で、「平和学」なるものの講義もされているとのことです。そんな学問あったのですね。
「科学的命題」は、何十年、何百年かかろうと最終的には万人が必ず一つの結論に至りますが、「価値的命題」はどこまで行っても一つになることができません。
そんな中において、平和学とは、「多様な価値観を持った社会の構成員が、非暴力的に共生する条件を見出すための学問」だそうです。
そもそも価値観とは何でしょうか?
辞書的な意味で言えば、「価値観とは、その人なりの善悪の判断基準、物事の捉え方や感じ方の優先度の基準」といった意味なのでしょう。
安斎分身さんは、それは人によって違うにもかかわらず、各自が「自分こそ絶対で正しい」と思っているから争いが起きると言います。
確かに、その言葉に尽きると思います。
だけど僕はこれは単なる理想論に過ぎないと思います。
その理由は、個人主義的な環境で生活している(させられている)僕たちは、結局は、自分の価値観と違う価値観を認めたり、尊重したりはできない存在だからです。
試しに、あなたに質問します。
あなたは、自分と違う価値観を認めたり尊重したりしたことがありますか?
もし、したことがあると言うなら、それはあなたの価値観と非常に近いか、あなたの価値観より優れていると素直に認めることができた時で、その時は、あなたは既に、自らの価値観をそちらの価値観に変更しているはずです。
あるいは、自分と全く違う価値観を認めたり尊重したりできたように思っている場合でも、よく考えてみれば、実は、聞かなかったことにして無視していたり、その人に関心が無いだけだったり、その価値観に対して好奇心的な気持ちが優先していたりするだけで、本当の意味でその価値観を認めているわけでも尊重しているわけでもないはずです。
できないからこそ、むしろ、「他人の価値観を認めよう、尊重しよう」などと、僕たち人類は、うわごとのようにいつも言い合っているのかもしれません。
また、「個人主義の本当の意味は、自分勝手ということではなく、個人を尊重することである」などともっともらしく言う人もいますが、これも自分の権利を侵害されないための予防線としての理由づけであり、理想論に過ぎません。
個人主義的な環境にいる僕たちは、自分が尊重されたいだけで、後はどうでもいいのですが、自分が尊重されるための交換条件として、他の個人も尊重する素振りを見せておくだけの話です。
そうである限り、依然として人類は争いと縁を切ることはできません。
だからこそ、人類はどんなに願っても争いと縁を切ることはできなかったのです。
個人主義的環境が作っている、今の我々の社会を考えてみてください。それは、嫉妬や羨望や恨みや怒りが渦巻いている社会です。
競争や奪い合いが不可避の社会であり、争いや犯罪を招くべくして招いてしまう社会です。
そのような社会で、僕たちが掴む幸福とはどういうものでしょうか!?
それは、優越感に根差した束の間の幸福です。
それは「優越感」を使って、不公平感、不満、不安‥‥を覆い隠しているだけの幸福です。
そのような個人主義的な環境から生まれる世界平和とは、戦争や犯罪を核兵器や罰則で回避したり抑止したりするだけのものです。
でも、戦争や犯罪を回避したり抑止したりしているだけでは、僕たちはとても平和な世界で生きているとは感じられません。
僕たちが感じる本当の世界平和とは、全世界の人の心から不公平感や不満や、妬みや恨みや怒り‥‥といった争いを作る種が消えて、お互いをプラウドし合って(誇りに思い合って)仲良く生きる世界でなければいけません。
でもそのような世界は「個人主義的な環境」に僕たちが置かれている限り絶対に無理です。「分身主義的な環境」にならなければ絶対に無理なんです。
さきほど、「価値観とは、その人なりの善悪の判断基準、物事の捉え方や感じ方の優先度の基準」と定義しましたが、「分身主義的にみた価値観」とは、それは‥‥。
と言えると思います。ここでいう型枠とは「記憶と言葉」が作っています。
「記憶」とは、もちろんその脳を取り巻く環境が作っているものです。
環境にないものを記憶することは不可能ですから‥‥。
「言葉」ももちろん環境が作ります。環境に存在もしない言葉を流ちょうに話し出す人はいませんよね‥‥。
そして、環境に作られた「記憶や言葉」で作られている型枠が「価値観」です。
だとすれば、「価値観」とは、元はと言えば、その人の脳を取り巻く環境が作っているものです。
もちろん、真の科学に導かれて生まれた分身主義は、その人の先祖代々から続く遺伝も、その人の脳を取り巻く環境に含めます。
またその人の脳以外の部分すべて(例えば胃とか心臓とか腸とか手とか足とか‥‥)も、脳を取り巻く環境に含めます。
これらの考察から浮かび上がる「価値観」とは、まさしく環境が作っていたものだということです。
つまり価値観とは、その人から自発的・内発的に生じていたものではなく、その人の脳を取り巻く環境に作られていたものだったと言えます。
例えば日本の古くからの食文化の中にあった、あんなに美味しい「クジラ」ですが、過激な反捕鯨団体に食べられなくされてしまいました。それは、まさにお互いの「価値観」の違いがもたらした争いです。
そして、これはまさしく、我々はお互いの生きてきた「環境」に、物事の捉え方や行動を操られているということの証拠でもあります。我々は、環境の傀儡(かいらい)であったと言ってもいいと思います。
過激な反捕鯨団体の人たちの環境が、クジラを食べる文化ではなかっただけの話です。彼らの環境は牛は食べる文化だったから、泣き叫ぶ牛を可哀想にどんどん殺して2ポンドペロッと平らげて笑っていられます。クジラは泣かないけど殺せないのです。
安斎分身さんは次のように言います。
確かに、その言葉に尽きると思います。
しかし、僕たちの生きている環境が個人主義的な環境である限り、これは理想論に過ぎません。今見てきたように、絶対に無理です。
人は立派な理想や立派な標語を作った自分の意志で動くものではなく、環境に動かされているものだったからです。どうしても身体が立派には反応してくれません。
もっとも立派な理想や立派な標語も、その人の脳を取り巻く環境に浮かび上がらせ・られた「意志」に、その人が作ら・されたものですが、個人主義的な環境から生まれた波しぶきのようなもので、すぐに大波に飲み込まれてしまいます。
このことわざをご存知の方もいると思いますが、モカシンって、インディアン靴のことだそうです。
これは、その人のいつも履いている靴を自分も履いてみるまでは批判してはいけない、というものです。
つまり、先ほどの例で言えば、過激な反捕鯨団体は、クジラを食べる日本人の中で何年か同じ生活をしてしばらく暮らしてみれば、日本人の気持ちがわかるよ、というような意味なのです。
分身主義は、これまで見てきたように「我々の行動は環境に制御されている」と科学に教えていただいたものです。つまり、環境に目を向けるものです。
それは、まさしくアメリカ・インディアンの「モカシン靴」だったのです。
世界平和とは、世界中の人が不公平感も不満もない状態です。
そして、世界は一つなので、「世界が平和」の状態も一つです。
「世界平和とはこうあるべきだ、などと強要するのは良くない。いくつもの状態があってしかるべきだ」などと考えるのは間違いです。
そのように主張する人の頭の中では、「世界が一つ」ということが理解できていません。
実は、世界平和に関する命題は何であろうと「科学的命題」だったのです。それを主張する人の好き嫌いや価値観に結論を委ねてはいけないものなのです。
分身主義は、「世界平和こそ善である」というたった一つの価値観だけを持った社会である、と言えます。
何故なら「分身主義」とは、我々を産んでくださった自然界様に「人間とは何ですか?」「この自然界はどのように成り立っているのですか?」「人間はどのように生きたら良いのですか?」と科学を通して謙虚な気持ちで教えを乞い、そこからいただいた答えだからです。
この宇宙の万物を産んでくださった自然界様の答えが、「世界平和」だったからです。
「その価値観の上には、どんな価値観も置かない」と決めた社会です。たとえ「価値的命題(非合理的命題)」であっても、「世界平和こそ善である」というたった一つの旗印を掲げて議論をすれば、必ず一つの場所に到達する、と分身主義は考えます。
例えば、「クジラを食べることは悪いことだ」という価値観や「クジラを食べるのは悪いことじゃない」という価値観を、「世界平和こそ善である」という唯一の価値観と比較すればいいのです。
つまり、分身主義の世界とは、「クジラを食べることは悪いことだ」、あるいは「クジラを食べるのは悪いことじゃない」という価値観が、「世界平和」という価値観とイコールになった場合のみ、その価値観は認められる世界です。
「クジラを食べるのは悪だ」=「世界平和」
「クジラを食べるのは悪いことじゃない」=「世界平和」
これらの公式が成り立つわけないですよね。だからこの価値観はそもそも存在しないということになるわけです。簡単でしょう!?
そして人類は「世界平和」という唯一の目標、「世界平和こそ善である」というたった一つの価値観を掲げて誰もが行動すればいいのです。
誰もが、その価値観から浮かび上がる「意志」に従って行動を取れば、正しい行動を取れるということです。
価値観の対立する者同士でも、「世界平和」というたった一つの目標、「世界平和こそ善である」というたった一つの価値観を掲げて話し合えば、必ず一つの結論に到達します。ただし、それは個人主義的環境の中にいる限り、まだ誰にもできません。
さあ、本当に「世界平和こそ善である」というたった一つの価値観だけを持った世界など、作れるのでしょうか!?
それを探すために、今僕たちはこの森に入ってきたのです。
分身主義の考える平和な世界とは、決して理屈の上だけの話ではありませんよ。それは、「個人主義的な環境」が、理屈ではなく争いや犯罪を招いてしまうのと同じように、「分身主義的な環境」が「仲良しな人間関係」を招いてしまうのは理屈ではないからです。
このことを理解する鍵は、あなたが踏み入ったこの分身主義の森の中に落ちています。
あなたは、もう、その鍵を見つけ出してくださったでしょうか? そろそろ、分身主義の森も出口に近づいています。
早く、その鍵を見つけ出しておいてください。
◆◇◆ちょっと一言
いつもながら、個人主義批判のようになってしまいましたが、分身主義は決して個人主義を否定しているわけではありません。
自我に目覚めてしまった人類が、個人主義への道を一心にひた走ってきたのは、いわば避けられない必然だと考えます。
分身主義は、個人主義の最も信奉している自我を、滅却させようとは考えません。
どんなに修行を積んだ高僧でも、自我を滅却させることは一時的にしかできません。そんなことは、人間をやめることと同じ意味だからです。
分身主義は、個人主義の最も信奉しているその自我を、むしろもっと拡大させようとします。
世界にまで、いや、宇宙にまで‥‥。
するとその時、「今までの自我」は消滅しているというパラドックスが起こります。
何十年も苦行を積んだ高僧にも成し遂げられなかったことが、簡単にできてしまうのです。
だから分身主義は個人主義を否定するものではなく、むしろ個人主義を拡大し、その欠点を乗り越えたものだと言えます。
僕たちは世界に目を見開く必要があります。宇宙に目を見開く必要があります。
自分や人間を中心にして物事を考えるのではなく、自然界を中心にして物事を考える柔軟性が必要です。
その視点を「真の科学」と呼びます。
真の科学だけが、僕たちを、世界を平和にする分身主義に導いてくれます。
『予備知識7 霊は存在するか?(3)』では、3Dアート(ステレオグラム)というの見ていただきました。あなたはもう見えるようになりましたか?
立体視ができるようになるにはちょっとした訓練とコツが必要です。
だけど、一度見えるようになると、次回からはそれ程苦労しなくても見えるようになります。
何が言いたいのかというと、これまで分身主義の森の中で体験してきたような、自然界中心に物事を見る「真の科学」の視点がなければ、分身主義の見えている光景が見えないのです。
その視点がなければ、僕の言っていることが、残念ながらあなたの心には届きません。
だけど、個人主義に行き詰った僕たち人類は、今までとは全く違う視点、全く新しい視点を持たなければ、世界中のすべての人が幸福に生きることはできない時代に入っています。
そのことに気づいた人から、今まで見えなかったものが見える分身主義の視点を持って欲しいと思います。
繰り返します。
分身主義の視点を持つための鍵は、自然界中心に物事を見る「真の科学」の中にありますよ。
14日目 平和は家庭の平和からか?
昨日は、この分身主義の森で、平和について考えていただきましたが、いかがでしたか?
世界平和などという言葉を用いると、国連や国の組織などに関わる人たちや、物好きが集まった団体などが活動することで、自分の現実とはかけ離れたところで勝手にやっていることというイメージを持つ人がたくさんいます。
そういう人は、もっともらしく次のように言います。
これは本末転倒です。
その言葉を語った時点で、その人の頭の中から「世界」は消え失せてしまって、自分のことしか目に入っていません。
もしかしたら、その人は、世界平和を考える面倒から解放されたいために、その言葉が必要だったのかもしれません。
だけど、世界を念頭に入れない自分の家庭の平和(幸福)というものは、現実にはあり得ません。
何故なら、現在では、世界のどこかで起こった事件の火種が自分の家庭に及ぶことは十分にあり得ることです。
また、自分の家庭だけが平和(幸福)であることは、その外側にいる人たちに不公平感や不満を抱かせ、嫉妬や恨みを買ってしまう場合もあります。
嫉妬や恨みを買われてもまだ、自分の家庭の平和(幸福)を信じ続けていくことは不可能です。
それは家庭をもう少し拡大させて、会社、あるいは国というものの平和(幸福)に置き換えても同じです。
世界中の人から不公平感や不満が消えない限り、僕たちは決して幸福にはなれません。
だから、世界を平和にするということは、自分の問題が片付いてから着手するなどという性質のものでは決してありません。
彼は正しくは次のように言うべきなんです。
そのように言ったなら、彼の頭の中から「世界」が消え失せることはありません。
「世界」を常に片隅に見据えている彼の日常が、自分の本当の幸福から大きくそれることもないはずです。
つまり、僕たちが幸福になるためには、日常の全ての行動に対して常に「この行為は、全世界の人が不公平感や不満を持たずに仲良く生きれるための行動かどうか?」と考えながらできるようにならなければいけないということです。
例えば、煙草の捨て場所を探す時も、子供を叱る時も、上司に腹が立って抗議をしようと思い立った時も、いつも世界に照準を合わせて行為を決定していくということです。
これは、初めのうちは難しいけど、「完全無欠の分身主義者」を目指していると結構簡単にできるようになりますよ。
さて、いつも分身主義の森をあっちこっち連れ回してお疲れでしょう。今日は中休みとして、これくらいにしておきます。
脳と身体をゆるめて、ご休養ください。
◆◇◆ちょっと一言
あなたは、「人間には《自由意志》はなかった」ということを理解し、その敗北を受け入れていただけましたか?
これは、「真の科学」が、この宇宙に人類を産んでくださった自然界様に教えていただいた間違いのない事実なのです。
人類が相変わらず傲慢で、そのことに目をそむけていたり、その敗北を受け入れないでいたりする限り、世界は決して平和にはならないし、僕たちは決して本当の幸福を得られません。
このバラバラな「個人主義的環境」の中から浮かび上がった「意志」で、誰がどんなに世界平和と幸福のための活動や努力をしても‥‥。
世界平和とは世界が一つになることだからです。
15日目 誰が精神病の患者を作ったのか?
昨日は、ゆっくり休養できましたか?
今日はちょっと過激な道を歩きますので、心を静めてから着いてきてください。
4日目に歩いた分身主義の森では、なぜ僕(徳永分身)が「精神病は病気ではない」と主張するのかという理由を、聞いていただきましたね。
‥‥という理由でした。
しかし、他にも大きな理由があります。
それは‥‥、
と考えるからです。
そのように考える分身主義は、病気という言葉を廃止して、治さずに放っておけ、と主張しているわけではありません。
自然に任せるしかないと考えているだけです。
と言うよりも、人間がどのように抵抗したとしても、それは自然に任せている状態でしかなかったんです。
実は、「脳という自然物」が考えることは、全てが自然に任せている状態だったんです。
放っておくのも自然、治そうとするのも自然です。
よく僕たちは、「自然物」と「人工物」を区別しますが、どのような「人工物」も脳という「自然物」から作り出されたモノである限り、それは「自然のモノ」なんです。
これからは、僕たちの身の周りの全てのモノ、本も机も洗濯機も、水道水も薬もクッキーも、パソコンも車もロケットも、「人工物」と同時に、「自然物」であるという見方もできるようになる必要があります。
人間が作り上げたと言ったって、この自然界に転がっている素材の組み合わせ方を変化させているだけの話なんですから。
どれも粉々にバラしていけば、分子になり原子になり、そして素粒子になるわけです。
人間が手を加えたものを「人工」と呼び習わしているわけですから、その意味では、人工という言葉が間違いだというわけではありませんが、ただ、都会は自然が失われて人工物ばかりになったという解釈ではなく、都会とはそのような自然に変化したものであるという解釈が、世界を平和にする分身主義的な視点だということです。
今日の分身主義の森では、この言葉をしっかりと手に取って自分のものにしてください。
放っておくのも自然、治そうとするのも自然ですが、もし精神病と呼ばれている人を救おうとするなら、それは今までのように《個人》を治そうとしても絶対に無理です。
それが、この分身主義の森の中で一番知って欲しかったことなんです。
病気と言うと、家族も医者も、とかくその人《個人》を治そうと努力しますが、例えば精神病者と呼ばれている人を救いたいと思うのであれば、実は、治さなければいけないのは個人ではなく、彼を取り巻く環境である、と分身主義は考えます。
何故なら、病気と呼ばれているものは、特に精神病と呼ばれているものは、それは、精神分析学者も精神科医もカウンセラーも親も含めて、その人を取り巻いている社会、ひいては地球全体の人々が作っているこの環境の状態が、その人《個人》に反映されているからです。
そこで今回は、そのことを裏付けるために、解離性同一性障害(多重人格)に触れてみたいと思います。
通常、個人差はあるけれども、僕たちは社会生活をしていく上で、誰でもいくつかの人格を使い分けています。
家族といる時の顔と、恋人といる時の顔と、一人でいる時の顔は違うし、また、友達といる時の顔と、会社の同僚といる時の顔と、上司といる時の顔は、みんな違うはずです。
もちろん友達によっても違う顔を使い分けていたり、仕事なんかじゃ、10人の人に対して10の顔を使い分けていると言ってもいいくらいです。
いくつもの人格の取る行動なのに、それが全部同じ自分であると思えるのは、それらが一本の記憶の糸で結ばれているからです。
だから、恋人とのデートから帰って部屋に一人でいる時にも、その日、彼氏が3万円の洋服を買ってくれたことを覚えていて、それを着て鏡に映った自分で見つめて、満たされた気分になることができます。
解離性同一性障害というものは、このいくつもの人格が、相互に記憶でつながっていなくてバラバラに分断されてしまっている状態です。
例えば、恋人と会っている時の人格と、一人でいる時の人格それぞれの記憶が、分断されていたらどういうことになるでしょうか?
恋人と会っている時の人格の時に、3万円の洋服を買ってもらった彼女ですが、家に帰った時の人格はその記憶がないので、どうして自分の家に見たこともない洋服があるのか理解できないということになります。
こういった症状が、解離性同一性障害というものです。
どうしてこのような記憶の障害(解離性同一性障害)が起こるのかと言うと、一般に幼児期の虐待体験によって発症すると言われています。
もともと子供は、成人に比べて催眠感受性(解離能力)が高いのですが、幼児期の心的外傷体験はこの解離能力をさらに高めます。
慢性的に心的外傷にさらされている子供は、「これは自分に起こっている出来事ではない」、「何も起こらなかった」、「痛くない」と自己暗示をかけ、身体的に避けられない苦痛から精神的避難をすることによって事態を乗り切ろうとします。
子どもは、どんなに苦痛な仕打ちを受けても、家族や周囲の成人への愛着を断ち切ることができないという構造の中で生きているので、そのような苦痛と困難な状況の中を生き延びるための防衛規制として解離が起こるわけです。
ところで、最近、『トラウマをかかえた子どもたち』(誠信書房)という本でたくさんの事例を調べていた時のことです。
ハッと気づかされたことがありました。
それは、父親に性的虐待を受けたジョニーという5歳の少年の事例を読んでいた時のことです。
少年は性的虐待を受けた後、父親に屋外に連れ出され、銃で鳩を撃つところを見せられました。
そして、「今日したことを誰かに話したら、こういう目にあわせてやるぞ」と脅されたのです。
その後、性的虐待を受けるたびに、このような脅しは何度となく繰り返されることになります。
その時、5歳の少年の心の中には、父親にやられていることはとてもいけないことなんだという罪悪感のようなものが刻印されるに違いありません。
僕の頭にハッと浮かんだ気づきとは、もしかしたら、ジョニーの心的外傷の原因は、父親の行為自体にあるのではなく、後ろめたい気持ちで行為に及んでいる父親の気持ちの反映なのではないか、ということです。
わかりやすい言い方をすれば、もし父親の行為が社会的に容認されている行為であるなら、ジョニーの心に外傷を残すことはなかったのではないか、ということです。
恋人同士が性的交渉を行なうのは社会的に容認されています。
また、独身者が売春などで性的交渉を結ぶのは、今の日本では社会的にはほぼ容認された状態です。
あっけらかんと、笑いながら、あるいは誇らしげに昨夜のことを友達に話して聞かせたりできます。
こういった状況下で性的交渉を持ったからといって、それが心的外傷になる人たちはいません。
だけど、同じ性的交渉だとしても、レイプなどは法的にも社会的にも容認されていないので、その人のそれからの人生に暗い影を落とすほどの心的外傷になります。
それはレイプを犯す人も、犯される人も、レイプそのものに罪悪感を持っているからに他なりません。
そのような価値観を持つこの社会に、僕たちの脳が浸かっているからです。
行為自体を取ってみれば、恋人同士も売春もレイプも同じことをしているのに、社会的に容認されているかいないかによって、外傷として体験されたり、喜びとして体験されたりするわけなんです。
納得されない方のために、もう一つ例を挙げます。
女性の性的な快感を不純なものと考えるアフリカ諸国では、現在でも、女の子が生れた時にクリトリスを切除する風習が広く行き渡っているそうです。
これは、女性器切除、あるいは、女子割礼(かつれい)と呼ばれている風習です。
もちろん、割礼を行ったならば地域でお祝いをします。
1970年代頃から、欧米人の中から、この風習は野蛮であり、著しい女性虐待であるとして非難の声が強くあがりました。
しかし、当事国はそうしたプレッシャーは自国の文化を否定するとして、文化相対論的論議になりました。
WHO(世界保健機関)は、このような風習をやめさせようと様々な広報活動などを行っていますが、何百年も続いている文化は容易には廃(すた)れそうにもありません。
欧米人にとっては虐待であっても、アフリカ諸国の人たちにとっては当たり前の儀式なので、今までは、それを受けた女性たちの心に心的外傷を残すことはありませんでした。
ジョニーのお父さんのしたことが、これと同じ意味を持つ社会的に容認されている誰もが通過しなければならない儀式だったとしたら、と想像してみてください。
ジョニーは決して不安定な精神状態を抱えることはなかったでしょう。このことをよく考えてみてください。
次に読んだ『心的外傷を受けた子どもの治療』という本は、その時の僕の直感をますます補強してくれました。
この本は、ビヴァリー・ジェームズという女性の分身さんが書いた(分身主義的に言えば書かされた)本です。
カウンセラーを目指す方は、読んだことがある本かもしれません。
どうでしょうか?
ここまで来てもまだ納得できないという方は、7日目に歩いた場所にまで戻ってもう一度歩き直してみてください。
実は、7日目に分身主義の森を歩いている時には、既に、今日の解離性同一性障害の話に結び付けようと考えていたのです。
正高信男分身さんの「人間の痛みや快感さえも、他人からのフィードバックによって作られる」という言葉がキーワードです。
その時の彼(正高分身さん)の言葉を、もう一度復唱します。
言い換えれば、僕たちの肉体も心も、まさに環境に作られているものであり、僕たちの存在それ自体が環境の媒体であると言えるわけです。
僕たちの「心的外傷」は、実は、環境やコミュニケーションを通して学習させられていくものだったのです。
それは親や周囲の人間だけでなく、たくさんの病名を考え出す世界中の精神分析学者や、クリニックに訪れた人を患者として扱うカウンセラーたちも、もちろん関わっています。
それはまるで、世界中の人間が寄ってたかって精神病の患者を一人作り上げようとしているかのようにも見えます。
精神病と呼ばれているものは、まさに今現在の世界中の人間の心が、個人に反映されて映し出されている現象だったんです。
◆◇◆ちょっと一言
放っておくのも自然、治そうとするのも自然ですが、もし精神病者と呼ばれている人を本気で治そうとするなら、それは今までのように《個人》を治そうとしても絶対に無理です。
それが、この分身主義の森で一番知って欲しかったことなんです。
だんだんと核心に近づいてきました。
もし精神病者と呼ばれている人を本気で治そうとするなら、人類は分身主義を受け入れるしかありません。
個人主義的環境で生きる僕たち人類が、精神病と呼ばれるものを作り上げてしまっているからです。そのことに気づかない限り、精神病と呼ばれるものは、ますます深く、ますます複雑にもつれながら、確実に仲間(=病名)を増やして潜行していきます。
それが「個人主義」的社会の歩き方だからです。
解離性同一性障害の人たちの記憶が分断され、彼らの脳の中に無関係な記憶の断片が立ち並び混乱を招いているように、今、僕たち人類は一人ひとりが互いに無関係な断片になり、そして混迷の中にいるかのようです。それを「個人主義的環境」と呼びます。
僕たちがこの苦しみから救われるためには、ビッグバンから一本につながる記憶の糸を取り戻すことです。
やがて、解離性同一性障害の人の記憶は統一され、一つの自分を知ることで平静を取り戻すように、僕たち人類も一つに統一された「真の自分の姿」を知る必要があります。
宇宙という自分の真の姿を。
16日目 郵政民営化・総選挙を考える
昨日は、次の言葉を確実に自分のものにしてくれましたか?
だからと言って、人工物という言葉を用いてはいけないと言っているわけではありませんから、誤解のないようにお願いします。
人の手で作ったもの、「人の手が加わったもの」のことを、過去の人が「人工」と呼ぶことにしたわけですから、その意味では間違いではありません。
今までは、人間は自分の意志で考え、自分の意志で行動していると考えられていたので、そのような言葉が生まれてしまったのは当然のことです。
でも、これからは「人の手」がどのようにして動かされているかを知る視点も持てるようになることが必要だと言っているだけです。
それは人間中心ではなく自然界中心の「真の科学」の視点です。
「真の科学」の視点で見れば、我々人間の為すこと考えること全てが、この脳を取り巻く環境にやらされていたことだったということです。
僕たちは今まで、自分の頭で考え、自分の意志で行動していたと思っていましたが、実はそうではなかったのですね。
(環境とは、大きな目で見たら、この宇宙140億年に起こっている全てのことです。それを「ビッグバンの風」と名付けましたね)
他の植物や動物、そしてまた、この宇宙の全ての物質や自然現象が、環境に従属しているように、人間だけが例外ではありません。
今まで、誰もが、人間だけは例外だなどと思っていましたが、それは何という思い上がりだったことでしょう!
何でも自分たち人間中心に見てしまう僕たちが、そのような自然界中心の「真の科学」の視点によって、自分たちの本当の姿を知った時、初めて人間は謙虚になれます。
そして、その自然界中心の「真の科学」が導いてくれた分身主義の視点を持てるようになれば、本も机も洗濯機も、水道水も薬もクッキーも、パソコンも車もロケットも‥‥、みんなが一つにつながった光景が見えてきます。
そのためにはちょっとした訓練も必要ですが‥‥。
それは、先日試していただいた、3Dを見るために視点を変化させる訓練にちょっと似ています。
しかし、一度見れるようになれば、次回からは簡単にその視点を作れるようになります。
これは、僕たちが本当の幸せをつかむために、そして世界を平和にするためにどうしても必要な視点です。
その視点こそ、「人の手が加わったものでさえも自然物であるという見方」ができる視点なんです。
3Dでは二つの視点が作れるようになったように、これからの僕たちは、容易に《人工物⇔自然物》この二つの視点を行き来できるようになる必要があるということです。
さて、今日は、その分身主義的視点から見た、郵政民営化とそれに関わる総選挙について考えてみたいと思います。
2005年、8月8日、小泉内閣が最重要課題としていた郵政民営化関連法案(ゆうせいみんえいか・かんれんほうあん)が、参院本会議で否決されました。
小泉分身さんは、要するに日本の古い社会構造(お金の流れ)を改革したいと思っているようです。
巨額の資金源となる郵便貯金や簡易保険などによって甘い汁を吸ってきた「官主導」「役人天国」の社会を、シビアな競争原理の働く「民間主導」の社会に変えて活力を取り戻したいということです。
しかし、小泉純一郎分身さんは、「郵政民営化関連法案」が参院本会議で否決されたのを受けて衆議院解散を断行しました。
彼は、衆院解散の理由について、「国会は郵政民営化は必要ないと判断した。今回の解散は『郵政解散』だ。郵政民営化に賛成してくれるのか、反対するのか、国民に問いたい」と記者会見で力強く発言していましたね。
そのように期待されると、頭も良く勤勉で精力的な議員先生方よりも、僕たちの方が良識があり、判断力があるように思ってくださっているみたいで嬉しくなりますが、でも、そんなおだてには乗りません。
実際、政治や経済の勉強もしていない僕たちに、しかもその内幕(うちまく)も知らない僕たちに、そんな難しい問題を突きつけられても困ってしまうんです。
政治家という人たちは、本当は国民を都合のいい時だけおだてて、内心ではバカであってほしいものなんです。
選挙の時だけ「お願いします。お願いします」とペコペコして、向こうから走ってきて握手などを求めてきますが、心の中では、当選するまでの辛抱だと思っています。
だいたいお願いしなくちゃいけないのは、国民の方であるはずです。
そして、少ない報酬でも国民のために働くことに生き甲斐を持つ人たちが、本当の政治家だと思うんですけどね。
でも、少ない報酬なら世界中の政治家はみんな辞めてしまうんでしょうね。
彼らにしてみれば、国民が賢くなれば政治がやり難いので、むしろ、あんまり勉強して欲しくないのが本音でしょう。
国民を無知にしておくことを目論(もくろ)むのは古今東西を問わず、為政者(いせいしゃ)の常套(じょうとう)手段です。
それに小泉分身さんは、国民こそはクリーンだとでも思っているのでしょうか。
民間の企業だって賄賂(わいろ)やファミリー企業の天下りはたくさんありますし、僕たちの日常だって気に入られようと贈り物(賄賂)を送ったり、コネを使って自分だけ得をしようとしたり、優遇されるように計らったり、思い通りにならなかったら恫喝(どうかつ)して思い通りにさせようとしたり、と同じようなものなんです。
小泉分身さんが審判を仰いでくださっている僕たち国民も、「官」や「役人」や「政治家」たちと、そもそもの考え方ややっていることは全く同じです。
ただ、その時使われる金額の大きさや影響力の大きさや法律が違うだけの話なんです。置かれた立場・環境が違うだけの話です。
この人間社会は、まるで悪人同士がお互いを裁き合っているような状態だったんです。
小泉分身さんは、まさにそのことを今やろうとしているのです。つまり、僕たち悪人に悪人を裁かせようと‥‥。
その方法は簡単です。
僕たちの嫉妬心や被害者意識を、ほんのちょっと煽(あお)ればいいだけです。
彼の熱意や正義感は大いに評価しますが、彼のやり方では、権力に対してより大きな権力をぶつけることでしかなく、永遠に権力の交代劇が続けられるだけです。
つまり、本当の意味の構造改革は成し得ません!
さて、投票日は9月11日に決定されました。
「国民に問いたい」と言われたからには、僕たち国民は勉強して臨もうではありませんか?
意地でも、いい加減な第一印象とか、好き嫌いとか、しがらみとか、情とか、偏見で投票しないようにしましょう!
そんなわけで僕もちょっと勉強してみました。
まずは、小泉分身さんの主張に対して、みんなが賛成だ反対だと議論しているわけですから、その主張をきちんと聞いてみることにします。
自民党のホームページに次のようなものを見つけました。
http://www.jimin.jp/jimin/jimin/2005_seisaku/question10/index.html(『郵政民営化はあらゆる改革につながる』)
それに対して、実際に郵政民営化を行ったドイツやニュージーランドの例を挙げて、反論をされているホームページもご紹介します。
http://www.geocities.jp/dokodemodoa_jp/
(『よく分かる郵政民営化論』)
勉強すればする程、迷ってしまうって!?
当たり前です。
迷わない方がどうかしているんです。
迷わない人は、自分の頭の固さを疑ってみた方がいいですよ。
実は、本当の意味の社会の構造改革は、小泉分身さんが考えていることくらいでは成し遂げられません。
もちろん、彼が、今まで誰も手をつけなかったことができる天才的な政治家であることは認めます。だけど、その彼の力を持ってしても、さっきも言ったように、権力の交代劇が起きるだけなんです。
本当の構造改革を成し遂げるためには、小泉分身さんも、日本を背負って立つ政治家の方々も、僕たち国民も、「自分」、つまり「我(われ)」の本当の姿を知る必要があります。
小泉分身さんも、日本を背負って立つ政治家の方々も、僕たち国民も、実は「同じ一つの身体の部分」であったことに気づく必要があるんです。
今の状態は、あなたの身体の中で、それぞれの部位が自分の本当の全体の姿を知らずに、自分の立場を守ることに固執し、自分の考えを主張し、言い争っているのと同じなんです。
次の『自分の中の身体たち』という話は、僕の創作ですが、これは、右足と、左足と、足の指と、頭と、右手と、左手と、お腹と、目と、鼻と、背中たちの会話です。
これらの会話を、あなたは誰たちにたとえて読み解きますか?
大きく見れば国家間の会話とも取れるし、中くらいに見れば、政治家と国民と公務員と経営者などの会話とも取れ、小さく見れば、学校や会社や隣近所の人たちの会話であったり受け取れます。
つまり、どの階級にも当てはまるんです。
その辺りのことを想像しながら、何か教訓となるものを引き出してみてください。
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どうでしょうか?
何故、本当の構造改革を成し遂げるためには、小泉分身さんも、日本を背負って立つ政治家の方々も、僕たち国民も、自分の本当の姿を知る必要があるのかということを、理解していただけましたか?
僕たちは部分が争うことで、その全体の身体が壊されていることに気づいていません。それに気づかないで、権力の入れ替えが起こっているだけです。
世界から不満や不公平感をなくす本当の構造改革は、それは、部分たちが自分の全体の姿を知り、全体に気を配ることができるようになる「意識改革」によってしか成し遂げられません。
それが分身主義の目指している状態です。
それは大して難しいことではありません。
あなたは自分の身体を健やかに保つために、健康診断などを受けたり、健康に関するテレビ番組などを見て、身体の全部の部分に神経を注いでいますよね。それと同じ視線を宇宙に注げばいいだけの話です。
そして、一度そのような視点が作られれば、次回からは簡単にその視点に合わせることができるようになります。
まだ、世界(=自分の全体の姿)の平和に目を向けることのできる政治家は一人も現れていません。
あなたが誰かに投票する行為も、それは自分の立場を守ろうとする彼らと同じで、それは少しも世界(=自分の全体の姿)に目を向けていません。
もしあなたが、今のような環境(=個人主義的環境)の中で誰かに一票を投じるということは、右足とか、左手とかの部分の言い分に共感して、加勢するだけの話なんです。
もしあなたが世界(=自分の全体の姿)の平和に目を向けることができる人なら、部分に対してどこまでも公平な目を注げるようにならなければいけません。
だから、今回の選挙には誰にも一票を投じないという意思表示をすることです。僕たち部分が、自分の全体の姿を知り、助け合う意識が持てる日が来ることをひたすら願って、今は、誰にも「汚れた一票」は投じないという選択をすることです。
◆◇◆ちょっと一言
僕(徳永分身)は、2005年現在、48歳ですが、この年になるまで一度も選挙の投票に行ったことがありません。
それが僕の唯一の誇りでもあります。
暇がないからでも面倒臭いからでもありません。
最近では、選挙が始まる時期になるとテレビでは盛んに「棄権だけはしないように」と偉そうな顔をして呼びかける人がいます。棄権する人を政治に無関心な人と決めつけて非難の目で見ます。
だけどこれは、不平等な行為を強要しているのと同じです。
あなたの手を汚そうとしているのと同じです。
「清き一票」なんて現実にはありません。
それは、国民をおだてるための偽りの言葉です。
この個人主義的社会においては、一票はどんな一票も、人種差別と同じような不平等な「汚れた一票」なんです。
もちろん棄権をする人の中には、確かに政治なんかには無関心であったり、自分のことにしか興味のない人も多いかもしれないので、非難されるのも仕方ないかもしれません。
だけど僕(徳永分身)が今まで投票に行かなかったのは、無関心でも無責任でもなく、むしろその反対です。
もし僕が政治なんかには無関心であったり、自分のことしか考えられない面倒臭がり屋な性格であったなら、こんな歩きづらい分身主義の森なんかに、初めから踏み入ったりはしなかったでしょう。
僕が誰にも一票を入れたくなかった理由の一つは、今の個人主義的な環境から輩出されてくる政治家という人たちの発言が信用できないからです。
彼らは、選挙の時だけペコペコして「お願いします」などと言ってきて、いざ当選すれば手のひらを返したようにふんぞり返り、公約を破っても賢い言い訳をしたりします。
今まで何度もそのような目に遭っているくせに、凝りもせず毎回投票に出かけて行ける人は、同じ詐欺に何度も遭ってしまうバカな被害者としか思えません。
あなたは、もしそのような詐欺師? に一票を入れてしまったとしたら、責任を感じないでいられますか。
彼の片棒を担いでしまったことと同じなんですよ。
それ程の重みを自分の一票に感じて投票していますか。
僕が信用する政治家は、「自分に一票をお願いします」などとは決して言わない人です。
こちらに「お願いします」と言わせてくれる人です。
しかも、そのように言われても驕(おご)ることなく、「私は国民みんなのために政治家になる覚悟ですから、自分の年収は300万円もあれば十分です。それ以上はいただきません」と言ってくれる人です。
僕が信用する政治家は、世界的な視野を持ち、「世界(=自分たちの全体の姿)の平和のために一緒に頑張ってください」と、国民一人ひとりにお願いに来てくれる人です。
そして「そのために、あなたの税金を上げさせてください」とお願いしてくれる人です。
そもそも自国のことしか考えない政治家は、政治家とは言えないのです。
でも実際は、自国のことすら考えない政治家がほとんどではないでしょうか。
僕は世界平和というちゃんとした目的のためなら、生活ギリギリのお金だけいただければ、後は全部税金で持っていってもらってもいいとさえ思っています。車も冷房も高価な外食も我慢します。
そのような助け合いが当たり前の社会になればいいと思っています。
(⇧もちろん、このような感覚は、僕たちを取り巻く環境が分身主義的にならなければ身につきません。当然、現在ではまだ分身主義的な環境から輩出される政治家もいないので、僕は誰にも一票を入れたくないんです)
もう一つ、僕が今まで誰にも一票を入れなかった理由は、誰かに一票を入れるということは、その人を贔屓(ひいき)して、その他の人に不利益を与えるわけで、そんな不平等な行為をして自分を汚したくなかったからです。
それは誰かにコネを使ったり賄賂を贈ったりして、自分だけ優遇されようとする行為と同じような、不平等な汚い行為だと思うからです。
今まで、投票に関してだけは一度も汚れた行為をしないですんだ自分を、今ではとても誇りに思っています。
恐らく、いや、間違いなく、今の選挙制度自体が間違っています。間違っているというのは、平和とは逆行しているという意味です。
いいえ、この言い方も間違っていました。
平和とは逆行する今の環境だから、このような選挙制度が成立しているんです。
もし、平和を志向する社会ならば、つまりこの社会が分身主義的な環境に変化したならば、このような選挙制度自体が変化するに違いありません。社会も経済も今とは違う形態のものになっているに違いありません。
その時は、あなたに対して、誰一人として不平等な行為を強要しなくてすむような社会になっているでしょう。
その時は、ある種の人たちだけが甘い汁を吸うような社会ではなくなっているので、誰の心にも不満や不公平感がない社会になっています。
全体のために部分が我慢したり働いたりすることに、みんなが喜びを感じる社会になっています。
だから、もしあなたが「自分」の本当の姿を見ることができる人なら、つまり、宇宙という自分の本当の姿に目を向けることができる人で、その健やかな姿(=平和)を願う人なら、今回の選挙で、誰か一人に投票するような不平等なことはしないでください。
あなたの身体の部位に目を奪われるようなことはしないでください。
分身主義的な環境が来るその日まで、誰かに一票を投じるようなまねをして、自分の手を汚したりなさらないでください。
あなたの分身からのお願いです。
17日目 本当の「清き一票」とは?
昨日、あなたの分身である僕からお願いをしました。
「あなたの手を『清き一票』などという嘘の言葉につられて汚さないでください」というお願いです。
あなたは僕の言葉、どのように受け取ってくださったでしょうか?
お願いしているのは「棄権をすること」それ自体ではありません。闇雲に棄権を奨励しているわけではありません。
今日は、「棄権をすること」の真意を汲み取っていただきたいと思い、もう一度話を聞いていただくことにします。
昨日は、政治家のことを「詐欺師」呼ばわりしてしまいました。でも、その言葉は撤回するつもりはありません。
僕たちは、政治家に限らず、誰もが詐欺師的な生き方をしているわけです。自分を騙し他人を騙ししながら生きているのが僕たちの現実だからです。
そのことは以前、『世界を平和にする「自己愛的生活」の『NO.21 誰よりも有能な詐欺師』 に書きました。
自分が邪(よこしま)な行為をしているかもしれないと思っても、みんなやっていることだと自分の気持ちを騙すことはよくあります。
ある人に騙されているのかもしれないと感じても、そんなはずはないと理由づけをして自分を騙したりしていることもあります。
そのようにして自分を騙し騙ししながら生きている僕たちは、結果的には他人を騙してしまうこともあります。
結果的に他人を騙した上、それによって金品を巻き上げ、私腹を肥やすようなことに用いたとしたら、それは立派な詐欺行為です。
その金品が税金だったらどうでしょう。
ただ、僕たち国民の税金を使う方たちは、自分の行動が正義なんだと何らかの正当化をしながら、お互いによろしくやっているので、そのようにして立派な詐欺行為を働いても、誰もお互いを責めたりしないだけの話です。
もちろん、内情を知るすべもない僕たち国民が責めるわけもありません。
僕だって、もし税金を自由に使える立場になったら、そしてその時、自分たちを監視する立場の人の目がなければ、税金は国民みんなのために使うだけでなく、できるだけ自分たちの有利なものに使おうとするでしょう。
架空の経費を計上して自分たちが得する方法を編み出せば、内輪のみんなに、面倒見のいい良い人だと感謝されるに違いありません。
もし就職した職場が、あらかじめそのようなシステムになっていれば、いくらそれが不正であっても、良い職場に就職できたなあ、などと感謝してしまうでしょう。
上司や会社に対してよほど恨みに思うようなことがあって、自分が首になってもいいから困らせてやりたいというくらいのことがなければ、誰も内部告発するなどというバカなまねはしません。
双方共に何の得にもならないことをする必要がないし、それをすることで自分の首まで絞めてしまうわけですから。
その慣習に甘んじていれば双方が得するんです。
そのようにして、お互いをかばい合うように生まれた既得権益は、世間から見たら非常識なことでも、自分たちにとっては常識になります。
例えば空残業(からざんぎょう)を3時間つけるのが常識化したり、研修や視察などの名目で、贅沢三昧(ぜいたくざんまい)の海外旅行が常識化したり、毎月、綺麗どころをつけて豪華な飲み会を催すのが常識化したり‥‥それらに全て税金が使われていたらどうでしょう。
自分たちの不正や既得権益を、自分たちは特権階級だから当然なんだというような根拠のない理由づけをして、自分の良心を騙します。
政治家やお役人様たちを責めることはできません。チェック機関がなければ僕たちだってそうなるはずですから。何故なら僕たちは環境に行動をさせられていたからです。
もし僕たちがそのような社会構造を改革したいなら、自分の利益ばかり考えてしまうようなこの環境が変わるしかないんです。
今日まで分身主義の森を一緒に歩いてくださった方は、脳は環境に動かされているものだとわかっていると思います。
だから、僕たちの脳を取り巻く環境が「個人主義的」なものから「分身主義的」なものに変わらなければ、永遠に権力の交代劇が起こるだけだ、と主張する僕の言葉を理解していただけると思います。
つまり、得する人たちと損する人たちが入れ変わるだけの話です。
以下は、『世界を平和にする「自己愛的生活」』の『NO.21 誰よりも有能な詐欺師』からの抜粋です。
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客観的に見たら、とても非常識な行為をどれほど行なってきたことでしょう。
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我々と違って、詐欺師の中でも天才の部類に入る政治家という方たちに、あなたが一票を投じるということは、なんだかんだと自分自身の行為に都合のよい理由づけをして、事実を直視しようともせず、彼らの片棒を担いでしまっているわけです。
選挙の時期になれば、僕たち国民はみんな大事な「お客様」に祭り上げられます。
「政党」を他のものにたとえれば、お客様に喜ばれる商品を陳列するお店で、政治家は宣伝マン・営業マンたちです。
広告塔のような人たちもたまにいますが‥‥。💦
だけど、普通のお店と違ってタチの悪いことに、そこに陳列されているのは実際に出来上がった商品ではなく、これから作る予定の商品です。
彼らのマニフェスト(政権公約)は、あくまでも守ろうとしている目標であって、守られるという保障などどこにもありません。
どうせ陳列しない商品なら、良いものはより良く見せかけるように、そして都合の悪い商品はわざわざ見せないでおくのが常識です。どんな政党も、わさわざ「増税します」などと言う必要はありません。
守れないにしても、聞かれたならば、お客様の手前、「増税はしません」と答えておくに決まっています。
もし政権を握ってしまって止むなく増税をすることになっても、頭の良い彼らのことですから何とでも言い訳が立ちます。
だから、政見放送とは客を釣るためのコマーシャルのようなものなので、丸々信じてはいけません。
彼ら(立候補者)は、まだ自分が、自分の脳を取り巻く環境にしゃべら・されている媒体であることにも気づいていないから、あまり「謙虚」ではないし、なにしろ自分自身も、自分を騙していることにも気づかないでいるんですから。
誰だって、何度も何度も、政治家のそのような詐欺的言動にホトホト騙されているはずです。
それなのに、今度こそはと自分を騙し、凝りもせず毎回投票に出かけて行くのは、同じ詐欺に何度も遭ってしまう情けない被害者みたいです。
テレビだって、「同じ詐欺に引っかからないように十分注意しましょう」と呼びかけているじゃないですか。
それでも、未だにオレオレ詐欺に引っかかる人がいるというのはどういうことでしょう。
だけど、僕たち国民は被害者とばかりは言えません。
僕たちの中に「自分はいい暮らしをしたい」という自己中心的な感覚があるからこそ、政治家は僕たちを騙せるわけです。
もし政治家が「増税はしません!」と言っても、「私は自分が生活できるギリギリのお金さえあればそれでいいので、世界平和のために増税をして欲しいと思っているんです」などと考える人の一票を、彼は勝ち取ることはできないからです。
政治家は、僕たちの自己中心的な欲を突いてくるわけですし、その自己中心的な感覚を持った僕たち一人ひとりが、小泉分身さんが改革したいと願っている社会構造を作ってしまっていたので、むしろ僕たちは加害者でもあったわけです。
選挙の時だけ大事な「お客様」に祭り上げられる僕たち国民ですが、そんなことで得意になっている我々の感覚は、既得権益を利用して得しようとする「政治家」や「お役人様」たちの感覚とどれほどの違いがあるでしょうか?
年金を払う立場の若い世代は、「なるべく少なく払いたい」と考えるし、貰う立場のお年寄りは、「なるべくたくさん貰いたい」と考えます。
「なるべく少なく払いたい」と考える若い世代にしても、「だけど、自分が貰う段になったらなるべくたくさん欲しい」と考えます。
そのような僕たちみんなの自己中心的な感覚が、「政治家」や「官僚」たちの感覚とどれほどの違いがあるでしょうか?
この不況の中にあって、高級車の売れ行きはアップしているそうです。トヨタも、国内で高級車レクサスブランドの販売を始めました。店内をまるで高級ホテルのように装飾して、消費者の優越感を刺激します。
他人が羨(うらや)むようなモノを持ちたい、僕たちみんなの心の中に内在するそのような自己中心的な感覚こそが、詐欺師たちのねらい目です。
このような、誰の脳にも浮かび上がる自己中心的な感覚が、この「役人天国」と言われるような社会構造を作っているんです。
テレビのキャッチフレーズでは、「あなたの一票が日本を変える」ですが、どの政党が政権を獲得しても、表面的にしか変わりません。
僕たちを取り巻く環境が「個人主義的」なもののままで、人間が自己中心的な感覚で動かされている限りは、本当の意味の構造改革は成し得ません。
本当の構造改革をするためには、僕たちの中から、自分の本当の姿を知った人間が現れる必要があります。
自分の本当の姿を見る視点を持てた若い世代なら、「年金はできる限り多く払って、自分の分身であるお年寄りを助けたい」と言うでしょうし、自分の本当の姿を見る視点を持てたお年寄りなら、「自分の分身のために、なるべく切り詰めるので、少しの年金でもいいです。それよりも、働けるうちはみなさんのお役に立ちたいので働かせてください」と言うでしょう。
高級車に群がっていた消費者も、「高級車は必要ありません。そのお金を世界のためにもっと有効にお使いください」と言えるようになるでしょう。
公務員は「私たちは喜んで公僕(こうぼく)になったわけですから、年中無休で(土・日や年末年始も交代出勤で)働きます。報酬も皆様以下に引き下げてください。そのお金を世界に役立てます。みなさんに感謝される顔を見ることだけが生き甲斐で働いています」と言うでしょう。
政治家も、「今まで貰っていた年収を引き下げてください。そうしないと、国民の方たちに増税は求められませんから」と言うでしょう。
お役人たちも「いいえ、自分たちこそ年収を引き下げてください。自分の全身のために税金を使います。全身が幸福にならずに何が自分の幸せだ、と気づきました。私たちはつながっていたんです。だから、税金を今までのように無駄に使いません」と言うでしょう。
本当の構造改革をするためには、脳を取り巻く環境を変えて、脳にこのような考えが浮かび上がるように変化させる必要があります。
全人類の「意識改革」です。
いろいろお金にまつわる例を挙げましたが、これらはどれも笑い飛ばされるような、絶対にあり得ない話ですよね。
それはわれわれの環境がまだ「個人主義的環境」だからです。
個人主義的な環境から生まれた「お金」は、確かに個人主義的な我々をまとめてくれたり勤勉にさせたりすることに貢献してくれました。
しかし、元々詐欺的な要素を内包していた「個人主義的」な我々が作ったお金が、ますます詐欺的な感覚を助長してしまって、今ではほとんどの犯罪にお金が関係していることに気づかない人はいないはずです。
お金の負の遺産は「詐欺的文化」を作ってしまったこと、だとも言えます。
分身主義的環境になれば、自分のことを考えることが、みんなのことを考えることと同じになり、そして助け合いの世界が出来上がります。その時はお金に頼らなくてもやっていける世界になっているはずです。
でも、次のように反論する人がいるかもしれません。そんなことをしては、社会の「発展」はない。
お金は回らなくなり経済は「発展」しないし、質のいいモノだって作られなくなる。
その心配は、「個人主義的環境」に浸かってきたその人の脳に浮かび上がる心配に過ぎません。ある意味、洗脳を受けてきたのです。
人々が相変わらずきらびやかな物に目を奪われ、金持ちになるサクセスストーリーに憧れているのは、人々の脳がただそのような環境にあるからそのような反応をしているだけなんです。
極端な話、お金なんて回転しなくたって、経済状態なんか貧しくたって、車がなくなってみんな自転車に乗るようになったって、冷房がなくなって扇風機や団扇(うちわ)だけになったって、ロケットの開発ができなくなって火星に行けなくなったって、世界中の人の心が一つになって助け合って生きられれば、その方がずっと幸福だという考え方に、切り替えようじゃありませんか。
実際、今の僕がそうです。
車もやめてバイクにしましたが、そのバイクが盗まれて自転車にしました。今ではバイクが盗まれて本当によかったと思っています。自転車にしたことで、身体も数倍喜んでいるのを実感しています。
冷房はここ何年も使うのをやめていますが、汗を拭き拭きパソコンを打っているのが人間的な感じがして嬉しいのです。
収入も、一番稼いでいた時から比べると半分以下になりましたが、支出を抑えているせいで、貯蓄は以前よりできるようになりました。
もし死ぬ前にいくらかでもまとまった蓄えがあれば、《全身》のために使っていただきたいと思っています。
禁欲的な生活は、ダイエットをしているような快感が伴うことを知りました。自分の身体がスリムに引き締まり、精神的にもピュアになっていくような幸福感を感じています。
他にも、分身主義的な感覚によって僕が取らされている行動があります。
水はなるべく無駄遣いをしないようにしているし、酒は外で飲まないようにしたし、外食をやめて質素な野菜中心の食生活に切り替え、ゴミはなるべく出さないようにしています。
挨拶を心がけ、周囲の人を快くさせる質素なおしゃれに気を使うようになりました。
僕の体験から言わせていただければ、お金に余裕があって贅沢していた頃は、心に不要な皮下脂肪がたまっていくような、不快感だけがありました。
裕福で贅沢な生活は決して幸福とイコールではありません。
裕福で贅沢な生活は、そのような生活をさせられるような環境にいる可哀想な分身さんにお任せします。
分身主義的な環境の中では、裕福で贅沢な生活をする人も、自分がその取り巻く環境にそのような状態を強いられていることを知っているので、その自分の人生を受け入れるだけです。あるいは環境が生活を変えるように仕向けてくれるかもしれませんが‥‥。
誰に自慢することもないし、誰からも妬まれません。
分身主義的な環境の中では、優越感も劣等感も存在しません。
分身主義の考える「世界平和」とは、世界中の人が不公平感や不満を持たないで生きる社会のことです。
その時こそ、人類は本当の幸福をつかみとることができると考えます。
本当の幸せは、経済の発展を善しとする社会の中や、高価なモノの中にはありません。
そこにあるのは優越感というまやかしの、一時しのぎの幸福でしかありません。そこには、妬みや不公平感や不満が渦巻いています。
優越感という幸福は、争いを生みます。
そのことを是非あなたにもわかってほしいんです。
僕たちはいい加減、この「個人主義的な環境」が作り上げてきたまやかしの幸福と縁を切る覚悟をする必要があります。
いい加減、目を覚まそうじゃないですか!
まだ9月11日の選挙には間に合います。
もう一度、よく考えて、この選挙をきっかけにあなた自身が変わろうとしてみてください。
詐欺は、自己中心的な心があるところにはどこにでも存在していることを忘れないでください。
あなたの行為が詐欺的行為であるかどうか、よく見極めてください。あなたの一票にかける願いが、もし「自分や自分たち」のためなら、そこには間違いなく詐欺の臭いがします。
まずは自分から、「本当の自分とはこの宇宙そのものだった」と知るところから始めましょう。
そして、手始めとして「ある人たちだけの利益に加担する『汚れた一票』は投じない」という行動から始めましょう。
目的は、「棄権をすること」それ自体にあるのではありません。分身主義者を目指すことを、自分から始めるんだという気持ちの表現です。
世界(自分の全体の姿)に目を向け、自分(自分という分身)から変わらなければ真の構造改革は成し得ないと理解し、自分から変わる行動の一環として「棄権を選択する」、そのことに意味があるんです。
面倒とか無関心で棄権するのとは、同じ棄権でも全く違います。
「みなさま、最後のお願いに参りました!」
どうか、世界平和のために、勇気を持って棄権をしてください。😉
ところで、この分身主義の森は、もうすぐ出口に差し掛かりますが、約束していたことが2点あります。
政治家の公約ではないので、ちゃんと守っておこうと思います。
一つ目は、「予備知識7・霊は存在するか(3)」でお約束しました、次の文章です。
臨死体験を霊魂不滅説の証拠として取り上げる人がいますが、今では、酸欠状態に陥った脳の中で、脳内記憶とアヘン様の脳内化学物質が作る夢であることがわかっています。
つまり、彼が見ている「病院のベッドに寝ている自分」や「それを囲んで泣いている家族」とは、脳がその人の記憶を元に見ている幻覚だったんです。
その証拠に、臨死体験の中に現れるものは、その人の記憶の中にあるものか、あるいは記憶を組み合わせたものだけで、それ以外のものは一切現れないそうです。
つまり、そこで出会う人物や物は文化的な影響が強く、育った国や信仰する宗教によっても異なると言われているから、やっぱりその人の潜在的記憶が作り上げている幻覚に過ぎないのでしょうね。
海外では三途(さんず)の川を見たという事例はなく、城壁やその上に神々(こうごう)しい人が立っていたりするそうです。
やはり、記憶は環境によって作られ、行動は、その環境に作られた「記憶や言葉」とその時の環境からの刺激(=情報)に、受動的に取らされていたということですね。
臨死体験を持ち出したのは、ただ、分身主義的な視点をわかってほしかっただけです。
臨死体験をした人は一様に「人生観が変わった」と言うそうです。分身主義を味わった人は必ず、その後の世界観が変わります。
と言うより、宇宙観が変わります。
世界中の人が新しい宇宙観を持った時、つまり世界中の人が「分身主義的環境」で呼吸するようになった時、この世界は平和になります。
個人主義的な環境の中にどっぷりと浸かった脳を持つ世界中の有識者たちが、いくら難しい顔をして、その環境の中から自分の脳内に浮かび上がらせ・られた言葉を口にしても、世界は平和になりません。
彼らは、むしろ僕たちを平和とは逆の方向に先導しています。
そしてこの世界が「分身主義的環境」になった時、あなたも僕も、どんな事故や犯罪や災害に遭っても動じない本当の幸せの中にいます。
事故や犯罪や災害によって僕たちが苦しむのは、それはそのこと自体のせいではありません。僕たちの置かれたその状態を、事故や犯罪や災害と受け取り、そのような名前を付ける環境のせいです。
幸せを遠ざけるのは、それらを不幸と感じさせる環境に問題があったのです。
明日は、この分身主義の森に入って3日目にお約束した、もう一つのお約束を果たしておきます。
この「驚くべき事実」を楽しみにしていてください!!
◆◇◆ちょっと一言
分身主義を知った僕たちは、政治家の言動は彼の環境が彼を媒体として取らせていたものだったと知っているので、彼らを責めることはしません。
政見放送などを見ていて、小泉分身さんや、岡田分身さん、蓮舫(れんほう)分身さん、志位分身さんたちがしゃべっているのを聞いて、「ああ、この人たちは、自分の脳を取り巻く環境にしゃべらされている媒体なんだなあ」という視点で見れるようになれば、かなり分身主義的な視点を持てるようになっています。
それがわかれば、真の構造改革とは、自分たちを取り巻く環境を変えること以外にないことがわかります。
それは、一人ひとりが、自分が変わろうと決意することから始まります。(正確に言えば、自分を取り巻く環境に決意させ・られるわけですが‥‥)
誰もが3Dアートを体験できるわけではないのと同じように、誰もが分身主義を体験できて、その視点を作れるようになるわけではありません。
○○主義などと言っていますが、分身主義とは何らかの主義・主張やイデオロギーのようなものではありません。個人主義の欠点を乗り越えようとしたので、それに倣(なら)ってそのように命名されただけで、実は、分身主義とは「物事を真の科学の目で見る視点」のことなんです。
あなたにその適性があるかどうか、簡単に質問してみます。
「はい」か「いいえ」で答えてください。
✅ 自分は幸福になりたいと思うが、他人に幸福になって欲しいとはあまり考えない。
✅ 差別はよくないとは思うけど、自分が優遇されたり(=差別されたり)、誰か一人を愛したり(=差別したり)するのは、悪いこととは思わない。
✅ 自分の信じている宗教は絶対である。
✅ 占いや非科学的なことを安易に信じるところがある。
✅ 部分だけ聞きかじって理解したつもりになる傾向がある。
✅ 一度先入観や固定観念を持つと、なかなか変えられない。
✅ 感情的に行動してしまっても特に後悔などしない。
✅ 物事を論理的に考えるのはまどろっこしいし、性に合わない。
これらの質問に全て「いいえ」と答えられる人か、どちらか迷う人なら、分身主義は必ず体験できます。
でも、全てに迷いなく「はい」と答えた人は、残念ながら無理かもしれません。
無理だとしても、その人の何一つ悪いわけではありません。人にはそれぞれ適性があるわけです。
僕(徳永分身)がたまたま「物事を真の科学の目で見る視点」を持つ適性に恵まれていたといっても、それは他の適性に恵まれていなかったせいであり、そのせいで誰よりも早く分身主義に出合えたからと言っても、それだって僕は単なる媒体なんです。
それに、もしあなたがこれらの適性に適(かな)わずに、分身主義を理解できないとしても、全く問題はありません。だからと言って分身主義はあなたを切り捨てたわけではありません。
あなたはみんなの部分であり全体でもあるわけですから、僕があなたを切り捨てるということは、それをした自分を切り捨てるのと同じことです。
もし、あなたが自分の幸せばかりを考えたり、他人の幸せを妬む人だとしても、それはあなたが悪いわけではありません。
あなたは、その取り巻く環境に「自分の幸せばかりを考える」人間をやらされているだけだからです。
同じように、僕が「自分の幸せばかりを考える人間でありたくない」人間なのは、自分の脳を取り巻く環境が、僕の脳内にそのような記憶(=反応の道)を作っていて、僕はそのように考えさせ・られている、というだけの話です。
もしあなたが分身主義を理解できない人間であっても、あなたを取り巻く環境が、分身主義的な感覚を持った人間で満たされてくれば、あなたの感覚も自然に「自分の幸せ」だけを幸せとは感じない脳に変化します。
金持ちになって贅沢をしようとか、優越感でいい気持ちになろうなどという考えが浮かび上がりにくい脳になります。
『バラ色の素粒子』を読んでくださった方は、自然界が素粒子というブロックをあれこれと組み合わせているうちに、長い年月をかけて僕たちの脳の中に扇風機を作った話を覚えていると思います。
それはモーターを持たない、外から吹いてくる風にだけ反応して回っている扇風機に過ぎませんが、その扇風機が回転することで、今度は外の風の動きを変化させることになるんです。
人間の脳が環境を変化させるようになる過程を、扇風機の比喩で表現しました。
煤煙を撒き散らしたり、生物を死滅させる風を送る扇風機もありますが、もちろん外の風を清らかな風に変化させる扇風機だってあります。
「外の風を清らかな風に変化させる扇風機」は、僕たちが自分の真の姿を知り、宇宙と一体になった時に、僕たちの脳内に浮かび上がる、「万物を愛する気持ち」や、「万物の幸福を願う気持ち」が動力となって回転する扇風機です。
モーターを持たないはずの扇風機に、新しい動力が取り付けられたのです。
清らかな環境に浮かび上がらせ・られた「意志」という動力です。
その時です。
僕たちが本当の意味で「清き一票」を投じられる時は‥‥。
18日目 科学は輪廻転生を認めているか?
9月11日の総選挙、自民党が圧勝でしたね。
全国的に高い投票率だったようですが、「あなたの汚れた一票を投票しないでください」という分身の願いは、あなたに届いたでしょうか?
あなたは投票に行ってしまいましたか?
それとも願いを聞き入れてくださって「清き一票」を守り抜いてくださいましたか?
あなた自身の詐欺的部分、ずるい部分、自己中心的な部分、汚い部分に気づいて欲しかったのです。
僕自身も自分のそのような部分に気づいて自己嫌悪に陥り、人間をやめたくなったのですが、なんとかそこから立ち上がろうともがき続けたことで、ついに分身主義に出合えました。
だから、あなたにも自己嫌悪に陥って欲しかったのです。
それはあなたを傷つけるためでも痛みつけるためでもありません。
あなたが分身主義に出合うためには、本当の自分から目を背(そむ)けてはいけません。
何か事件や事故があるたびに、自分を棚に上げて、自分は被害者であるような沈痛な顔をして、あるいは正義の味方のような顔をして、テレビでコメントをしているような人たちには、事件や事故を何一つ根本からなくせないからです。
僕(徳永分身)の言葉は、あなたの身体の内部からの「内部告発」です。あなた自身もまだ気づいていない、あなた自身の心の叫びなんです。
内部告発というのは、内部の人間から見れば、顔を背けて知らん顔を決めこみたいものかもしれません。
だけど、しっかりとその声に耳を傾けてください。
これまで僕と一緒に森の中を歩いてきてくださったあなたは、あなたや僕はこの宇宙の中の部分であると共に、全体でもあったんだということを理解してくださっていますよね?
この宇宙を一つの身体にたとえると、僕は全身の一部、例えば右手の薬指の爪かもしれないし、あなたは左足の小指かもしれません。
でも、ちょっと視点を変えてみれば、右手の薬指の爪や左足の小指をひっくるめた姿が全身なんですよね。
右手の薬指の爪や、左足の小指がなくなったら、今の全身とは違う形をした全身になります。
つまり、僕やあなたは今の形をした宇宙の部分であり、同時に今の形の宇宙を作っているそのものだということなんです。
なぜかと言うと、全部切り離すことのできない、つながっているものだからです。
それなのに今の僕たちは、一つの身体の中で部分部分が自己主張し合い、いがみ合い、足を引っ張り合い、競い合い、優越感に浸ったり、妬んだり、憎んだり、恨んだりしています。
時には殴り合いの喧嘩(=戦争)をしています。
それはみんな、つながっている自分の全身が目に入っていないからです。
相手を叩けば、自分自身にダメージを与えているということに気づいていないんです。
人類は、これまでに2000回を超える核実験を行ってきたという事実を知っていますか?
可哀想に地球は汚染され、ボロボロに穴が開いて、傷だらけ血だらけです。
それはまるで自傷行為のように見えませんか。
僕たちの心が今、何かに脅え、不安や苦しみや迷いの中にいる証拠です。
自分の全身を見る視点のない僕たちは、あちらこちらに監視カメラを取り付けて、自分を攻撃してくるものに対して身構えています。
こんなのが、今のあなたの全身の姿なんですよ!
あなたの全身はこんなにも不健康だというのに、あなたはそのことにもまだ気づかず、自分だけは楽しく生きれると信じますか?
あなたの大事な右手の薬指の爪(=僕)が叫んでいます。
あなたの内部からのその叫び声が、あなたには、今、聞こえますよね!
それはあなた自身もまだ気づいていない、あなた自身の心の叫びなんです。
さて、そろそろ分身主義の森も出口に近づいています。
気がつきますか?
前方が薄っすらと明るくなりかけているでしょう?
この森を抜ける前に、約束を果たしておかなければいけないことが、もう一つありました。
人間は死んだらどうなるか? という疑問に答えることです。この森の中に入って3日目に、あなたにお約束したことです。
これからご説明するのは、安斎育郎分身さんの考えている「科学的輪廻転生観」というものです。
人体を構成している元素の中で、体重の0.1%以上の元素(原子)の含有量は次のような割合です。
炭素原子は体重の18.0%なので、体重が75キロの人なら、13.5キログラムが炭素ということになります。
75×0.18=13.5
この人(仮にAさんとします)が死んで火葬に付されれば、13.5キログラムの炭素が酸素分子と結合して、二酸化炭素(炭酸ガス)の分子となって火葬場の排気筒から大気中へ放出されていくことになります。
安斎分身さんは次のように考えました。
火葬場から放出されるこの二酸化炭素が、もし地球の大気中に平均にばら撒かれたとしたら、無作為に大気中のどこかの空気を1リットル採取した場合、そこには一体何個のAさんブランドの二酸化炭素分子が存在するのだろうか?
二酸化炭素分子(CO₂)は、炭素原子(C)1個と、酸素原子(O)2個で構成されるので、火葬場から放出される二酸化炭素分子の数は、炭素原子(C)の数に等しいということになります。
13.5キログラムの炭素原子を持つAさんの場合、13.5キログラムの炭素原子の中には、一体何個の炭素原子が詰まっているんでしょうか?
どの原子も、「原子量」に相当するグラム数の原子を持ってくると、その中には「アヴォガドロ数」に相当する数だけの原子が含まれています。
ちょっと難しい言葉が出てきましたが、アヴォガドロ数というのはイタリアの物理学者・化学者アメデオ・アヴォガドロ(1776年-1856年)の名前を取った数で、「6.02×1023」です。
例えば、水素原子は原子量が1なので、1グラムの水素には、「アヴォガドロ数(6.02×1023)個」の水素原子が詰まっています。
鉄の原子量は56なので、56グラムの鉄の中には、「アヴォガドロ数(6.02×1023)個」の鉄原子が詰まっているということです。ここまではいいでしょうか?
さて、炭素原子は原子量12なので、12グラムの炭素原子がここにあるとしたら、その中には「アヴォガドロ数(6.02×1023)個」の炭素原子があるということです。
体重75キロのAさんの炭素原子は13.5キログラム(=13500グラム)でしたから、それは12グラムの1125倍になります。
13500÷12=1125
つまり、Aさんの身体の中には「1125×アヴォガドロ数」の炭素原子があるということになります。
1125×(6.02×1023)個です。
この炭素原子が火葬場で全部完全燃焼したとしたら、これと同数の二酸化炭素分子が大気中に放出・拡散されていくことになります。
では、次に、この二酸化炭素分子が放出・拡散される地球の大気の体積はどのくらいか計算してみます。
ちなみに、安斎分身さんは地球を取り巻く大気を、地上10キロメートルで計算しました。
その答えは、5.11×1021 リットルです。
先程計算で求めたAさんの身体の中の炭素原子の個数を大気の体積で割ると、1リットル当たりに含まれる炭素原子の個数が割り出されます。
すると、驚くことに、13万2500個もあるという答えが出たのです!!
これは75キロの体重の人の場合で、60キロで計算すれば10万6000個くらいになります。
安斎分身さんは言います。
これが安斎分身さんの考えている「科学的輪廻転生観」です。
今は、炭素原子だけの輪廻を考えたわけですが、人体を構成する物質は他にもたくさんありますし、葬法にも火葬だけでなく土葬や鳥葬などとありますから、実際の輪廻はもっと複雑な様相を見せてくれることでしょう。
彼は次のような興味深い想像をしています。
安斎分身さんは、動・植物ばかりを引き合いに出していますが、もう少し範囲を広げてもいいと思います。
16日目に歩いていた時に、「今まで人工物と呼んでいたもの(本や机や洗濯機や水道水や薬やクッキーやパソコンや車やロケット)さえも自然物であるという見方もできるようになる必要がある」と言いましたが、それら人工物と呼ばれているものは、自然界の素材を組み替えただけのものなので、僕たちを構成している分子が、過去それらのものであったり、将来それらのものに生まれ変わったりする可能性もあるわけです。
次のようにイメージできないでしょうか!?
その現象に対して、「生」とか「死」といった感情を込めた名前で呼ぶのは、人間の自分勝手な解釈に過ぎなかったんです。
宇宙にある原子の総数はビッグバン以来一定だと言われています。原子の大元は素粒子です。
だから僕(徳永分身)は、あえて素粒子という言葉を使って、「この宇宙は素粒子の巨大なリサイクル工場だ」と言うことにしています。
その科学的事実さえ理解できれば、安斎分身さんが数量的に証明して見せなくても、僕たちのこの身体は自然界の輪廻転生そのものだったとわかります。
このビッグバン宇宙は、140億年の間、素粒子がリサイクルを繰り返すことで様々な物質を作ってきましたが、その長い年月から見ればほんのごく最近になって、たまたま人間という物質を作りました。
素粒子がリサイクルを繰り返すことでたまたま生まれた人間の脳には、たまたまナトリウムイオンやカリウムイオンができて、何らかの刺激を受けてそれがやり取りすることで微弱な電流が流れる仕組みができていて、それが記憶を作り、記憶は《幻想》を発生させることとなりました。
《幻想》とは、「環境によって個別に人間の脳内に作られる「記憶や言葉」と、絶え間なくその脳に入力される情報とが反応し合うことで作り出される全ての現象。(認識、連想、想像、思考、感情、意思‥‥など)」のことでしたね。
ところが、今ではその人間の脳に生まれた《幻想》が、自然界という親元から離れて、自分だけの力で生きているかのように威張り始めています。
僕たちは「自分の意思」で行動しているかのように思い上がり、お互いの意思や命や愛を「よいしょ」し合って、いい気持ちになっています。
なんと、傲慢な存在になってしまったことでしょう。
だけど、科学時代を生きる僕たち人類は、そろそろそれは錯覚であったことに気づかなければいけません!
僕たちの脳に発生する《幻想》も、元はと言えば、みんな素粒子のリサイクルの過程に見せる単なる現象に過ぎないんですから。
素粒子が、その変化している過程で「人間」という仮の姿になって、自然界のシナリオに基づいて演じさせられているドタバタ劇こそ、僕たち人間の営みです。
この宇宙は、素粒子という役者が自然界の法則というシナリオによって、様々に変化(へんげ)して演じさせられている劇場です。
自民党が圧勝したのも、分身主義が生まれたのも素粒子がリサイクルを続ける過程の一現象です。
今、この僕(徳永分身)が文章を書かされていることだって‥‥。
どうです!?
「素粒子」というキーワードによって、全てがつながり歯車が噛み合ったでしょう!?
ついに、ジグソーパズルが完成したでしょう!?
今、あなたの手のひらに、キラリ光る真理が宝石のように乗っかっていませんか?
それとも、まだ疑問が残りますか?
僕は、錯覚がいけないと言っているのではありません。
人間の脳に記憶という作用があり、そして感情や言葉というものが育ってしまった以上、錯覚は避けられません。
しかし、人間は、自分が物事を認識したり思考したりしていることは錯覚であることを自覚することはできます。
単なる変化に対して、《生》や、《死》や、《進化》や、《成長》などを見て取ってしまうのは、人間の錯覚であったと、知ることはできます。
そして、科学的事実に即したより良い錯覚を持つことは可能です。
あなたは今、自我という古臭い錯覚で仕切られた狭い日常の関心事や、自分を中心にした目先の利益や、社会に植え付けられた常識などから解き放たれて、宇宙や素粒子を眺めることのできる視点に立っていますか?
その視点こそ、真の科学の視点です。
そしてその視点によって浮かび上がった、より良い錯覚こそが、分身主義なんです!
それこそが僕たちの世界を唯一平和にし、それこそが僕たちを唯一幸福にしてくれる錯覚です!
さて、この分身主義の森に入る前の予備知識で、萩原玄明分身さんの著書『精神病は病気ではない』を参考書にさせていただきましたが、結果的には彼の言葉をたくさん批判してきたような形になってしまいました。
しかし、表現が違うだけで、本質的には彼と同じことを言っているとも言えます。
彼(萩原玄明分身さん)は次のように主張していました。
これらの主張は科学的な立場から見ても、あながち間違いとばかりは言えません。
ただ、科学的な裏づけがなく想像だけで主張していた点で、細かい部分の間違いが露見してしまうんです。
そして想像はどこまでも肥大して妄想化してしまうことになるんです。
[❶肉体は滅んでも魂は不滅で、魂は別の肉体に乗り移り輪廻転生する]
確かに輪廻転生はあります。しかし、肉体は滅んでも魂は不滅なのではなく、その逆で、魂は滅んでも肉体はリサイクルを繰り返している、という意味においてです。
これは、今回の安斎分身さんの計算式が証明しています。
[❷死者の霊が、生者に乗り移って何かを語ることがある]
死者の霊ではないが、確かに僕たちは何かに乗り移られている存在です。僕たちはみんな環境の媒体に過ぎなかったのだから。
僕たちの語る言葉は、その脳を取り巻く環境が語っている言葉です。
[❸自分(萩原分身さん)は霊視をすることができる]
萩原分身さんに限らず、僕たちはみんな確かに霊のようなものを見ています。僕たちはみんな幻覚を見ているんです。現実とは、記憶に基づいて見る幻覚のことだったですよね。
霊は存在するか、と問われれば、存在していると答えても間違いではありません。
それは、《実体》としては存在していなくても、《幻想》の中で存在することが可能であり、そして、いったんある人の脳の《幻想》の中に立ち現れてしまったなら、それは《実体》(その人の肉体や周囲の環境)を変化させる力を持つ‥‥これが現代科学の答えです。
できれば、現代を生きる僕たちは、《幻想》の中に霊などを存在させないようにしようではありませんか。
昔はそれでも良い生き方ができたのですが、今では世界を混乱に落とし入れたり、ある人たちの利益に利用されたり、不要な苦しみを増やすだけです。
現代では、霊などを存在させない方がずっと良い生き方ができるし、世界を平和にもできます。そのことに早く気づいてほしいんです。
未だに「霊」の存在を持ち出して人の心を弄(もてあそ)ぶ雑誌や番組や霊能者に翻弄されることなく、それらのものに対しては《娯楽の対象》程度に留めておくことにしましょう。
僕たち大人は、サンタクロースはいないとわかった今でも、サンタクロースを捨て去ることなく、それによって楽しむことができるものです。
この「分身主義の森‥‥」も、いよいよ出口に近づきました。
もう一度初心に戻って、初めの頃、予備知識で語ってきたことを振り返ってみます。
そこで僕は次のようなことを言っていましたので、要約してみます。
実は、精神科医にも物語がないわけでもありません。
萩原分身さんが自ら語る物語の中に「霊」を登場させたように、彼らは自分たちの物語の中に、自ら創作した「病気」や「患者」というものを登場させて語っています。
でもそれはあまりにも貧弱な物語です。
現代を生きる僕たちが根本から救われるためには、まだ乗り越えなければならない課題でもあります。
この後、僕たちはこの分身主義の森で、現代を生きる僕たちが根本から救われるために必要な「物語」を見つけにいきます。
未来の精神科医やカウンセラーたちが知らなければならない、科学が導いた真実の物語です。
これまで生きてきた僕(徳永分身)の人生は、まさにこの一点を、あなたにお伝えするためにあった、と言っても過言ではないと思っています。
◆◇◆ちょっと一言
素粒子が、その変化している過程で「人間」という仮の姿になって演じさせられているドタバタ劇こそ、僕たち人間の営みです。
この宇宙は、素粒子という役者が自然界の法則というシナリオによって、様々に変化(へんげ)して演じさせられている劇場です。
だから人間は、今まで言われていたような意味での「自分の意思」によって動いていたような存在ではなかったんです。
これは科学的根拠に基づいた、もはや疑いようのない事実を述べているに過ぎません。
後は人類がそれに気づき、それをどう受け入れるかです。
それを絶望を持って体験した人が、本当の謙虚を知る人です。理屈だけで理解しても駄目です。
絶望を味わうにはそれなりの感受性が必要ですが、一番大きな分岐点は、その人の問題意識です。
「人間には、今まで言われていたような意味での意思はなかった!」
などと言われても、「あっそう、それでどうしたの? あっ、もうすぐ子供が塾から帰ってくるわ。そんなことより夕飯の支度しなきゃ」などと反応してしまう人は、絶望とは無縁なのは当然です。
「援助交際は魂に良くない!」と河合隼雄(かわい・はやお)分身さんが必死で警告しても、「あっ、そう、それでぇ? あたしは魂よりもお金が大事なの」と、問題意識もなくあっけらかんとしている女子高生たちが援助交際をしたからと言って、彼女たちの魂に傷がつくとも思えません。
問題意識が希薄な人とは、自我で仕切られた狭い日常の関心事にしか目を向ける視点を持てない人です。
自己中心的な感覚から抜け出せない人です。
それと同時に、やはりどこかに人間としての驕(おご)りがある人です。
次の質問をよく考えてみてください。
「あなたは、戦争のない平和な世界を作るためにはどうしたらいいと考えますか?」
たぶんあなたは次のように答えるのではないかと思います。
本当にそうでしょうか?
何度も何度もよーく考えてみてください。
この僕(徳永分身)がそうしたように、寝ても覚めてもよーく考えてみてください。
本当にそうでしょうか!?
実は、「命の尊厳」とか、「愛が大切」などという言葉は、人間としての驕りが語らせる言葉なんです。
そのような言葉を聞くと、個人主義的な環境の中にいる僕たちの脳は、「じゃあ、人を愛することは悪いことだと言うの!?」とか、「じゃあ、命は大切じゃないと言うの!?」などと反応してしまうかもしれませんが、そうではなくて、命や愛はそのような基準で語るべきものではないと言っているだけです。
命も愛も、良い悪いに関わらずそこにあるだけのものです。
それを美化するのは人間のご都合に過ぎません。
人間中心‥‥すなわち人間の驕りが語らせる言葉です。
「命の尊厳」とか「愛が大切」というような言葉は、人間である僕たちをちょっといい気分にさせてくれる言葉ですが、あなたがその言葉を聞いてちょっといい気分になるのは、その言葉が、あなたの中の自己中心性を満足させてくれているからなんです。
そしてもちろん、「人間には自由意志がある」という言葉も、僕たちの自己中心性を満足させ、いい気分にさせてくれます。
「家族や友人の愛を全身に受けて、絶対に生き抜くぞという意志の力によって、彼女は難病を克服した」などという話を聞かされたら、人間としての自己満足の極みで、感涙(かんるい)ものです。
そのような反応をしてしまう人間中心的な感覚だから、僕たちはなかなか科学的な真実を受け入れられないのです。
あなたも、自分の中の自己中心性・人間中心性に気づいてください。だからと言って、それを排除させる必要はありません。
取り敢えずは、人間中心ではなく自然界を中心に世界を見る視点を身につけてみてください。
それは、あなた自身の全身の姿を見る視点のこと、なのです。
その時、あなたは、「命の尊厳」とか「愛」とか「自由意志」などというまやかしの言葉でいい気分になっていた自分の愚かさに気づくでしょう。
そのような、自己中心的・人間中心的な、傲慢な言葉を発している間は、僕たちは戦争や犯罪をなくすことはできません。
むしろその傲慢さが戦争や犯罪を招いています。
いいですか!?
もう一度言います!
逆説のようですが、「命の尊厳」とか「愛」とか「自由意志」などという言葉を好んで用いる自己中心的・人間中心的な感覚が、実際には戦争や犯罪を引き起こす大元だったんですよ!
これらの言葉に支えられて、個人主義的な環境の中で生きてきた僕たちが、それらの言葉を捨てることは難しいことです。
でもそれを大いなる絶望として体験してください。
そしてそこから一緒に立ち上がりましょう。
そこにしか世界平和はないからです。
世界平和の先にしか僕たちの本当の幸福はないからです。
19日目 物語の出現
昨日は、次のように言いました。
物語とは、言葉によって語られるものですよね。
その「言葉」とは辞書によると次のようにあります。
では、人類最初に生まれた言葉は何かというと、物の名前ではないかと推測できます。
ここで思いついた名前とは、物に対する名前だけでなく、所作や形状や感覚に対してそれぞれ名前も付けられていったと考えています。
「リンゴ」や「馬」などの名詞はもちろん、「走る」とか、「ゆっくり」などという動作に対する名前や、「丸い」「大きい」などの形状に対する名前や、「寒い」「冷たい」などの」感覚に対する名前です。
「名前」と聞くと、僕たちはどうも一対一の固定的な、広がりを持たない静的なイメージを抱いてしまいます。
子供の頃、モノの名前を覚える時に、リンゴや馬の絵を見て、そのまま「りんご」「うま」という音に置き換えて習ったような感覚です。
だけど本当は、「名前」とは、たくさんの文章で埋め尽くされた本の内容を端的に表す《タイトル》のようなものなんです。
例えばリンゴや馬の絵を、「これは、リンゴで、これは、ウマよ」と母親から教えられた子供は、その音の響きと同時にその本の質感や、その時母親と交わした会話や、その日の気分や、その時の感情や、昨日食べたおいしい果物の記憶や、動物園の記憶など‥‥たくさんのものを同時に貼り付けて、「りんご」、「うま」と覚えていくわけです。
要するに、名前や所作や形状や感覚などに対してつけられた「名前」は、その人の脳の中では、複数の記憶を代表して表現しているタイトルのようなものだと言えます。
もし、そのような関連の刺激(情報)がまったくなければ、僕たちには「名前」を記憶することはほとんど不可能です。
英単語を覚える時も、関連する刺激(情報)がたくさんあるほど覚えられます。
だから、その子供に「リンゴをたべる?」とか「馬を見に行こうか?」などと言うと、その音声刺激に対する反応として、彼の脳にリンゴや馬の形状や色などが浮かび上がるだけでなく、同時に、彼の脳内に記憶されている本の質感や、母親と交わした会話や、その時の感情などを担当していた神経ネットワークまでもが反応することになります。
もちろん人間の脳内で行われることなので、浮かび上がるものに対しても重要度の度合いがあり、重要度の低いものは意識にも上らず即座に消去されますが‥‥。
(記憶というものは時々刻々、消去と追加を繰り返し、常に塗り替えられていくので、反応する記憶のネットワークの力関係も常に変化します)
「名前」とは、一対一の固定的、静的なものではなく、それ自体が様々な反応を誘発する可能性と広がりを持った動的な刺激(聴覚刺激)である、ということを覚えておいてください。
これはとても重要なことなので、これからそれをお話していきますが、ここでは「名前」という一対一の静的なイメージの言葉は使わずに、複数の刺激を一括(ひとくく)りにして付けるイメージの、「タイトル」という言葉を用いることにします。
では、言葉や物語を構成する最小の単位であるこの「タイトル」は、どのようにして生まれたのかということを、ヒトが地球に誕生した頃をイメージしながら考察してみることにします。
そして次に、タイトルはどのような働きをするのかを考え、そのタイトルによって言葉や文章がどのように組み上げられるのかを考え、最後に、そのようなタイトルは僕たちにどのような影響力を持つか、ということを見ていこうと思います。
❶タイトルはどのようにして生まれたのか?
❷タイトルはどのような働きをするのか?
❸言葉や文章は、タイトルによってどのように組み上げられるのか?
❹タイトルは僕たちにどのような影響力を持つか?
[❶タイトルはどのようにして生まれたのか?]
ヒトがサルから分化した最も大きな要因は、二足歩行だと言われています。
樹上生活をしていたある種のサルが、森林がなくなるなどの何らかの環境の変化で、二足歩行をすることになり、そのことによって手が自由に使えるようになり、「器用な手」ができたと考えられています。
器用な手は大脳の働きを活性化させシナプスを増大させるわけですが、二足歩行によって頭がしっかりした脊柱の上に乗ったために脳の肥大化が可能になりました。
そしてもう一つの大きな特徴は、二足歩行によって、鼻だけでなく喉でも空気の出し入れができる構造になったということです。
喉が食べ物の飲み込み専用ではなく息を吐くところにもなったおかげで、複雑な音声が出せるようになったわけです。
最初の人類の中に、喉から変化に富む音が出せる器用な人が現れて、周囲の人も面白がってそれを真似したりしているうちに、より多くの人類が複雑な音が出せるようになっていったに違いありません。
時には雷の音とか、鳥の声とか、雨音とか、いろいろな音を真似てみたり、そこから歌のようなものも生まれてきたかもしれません。
人類最初の、意味のある「タイトル」は何だったんでしょうか? 想像すると楽しいですよね。
やっぱり本能と関係があると思うので、食べ物に関する「タイトル」とか、求愛に関する「タイトル」だったんではないでしょうか?
例えば初めて葡萄(ぶどう)を発見して、それを口に入れた時の感動が「ブチュウー」という感じのものだったとします。
人類で初めて葡萄を食べた人が、大急ぎで帰ってきて他の人に伝える時に、葡萄の木のあった方向を指差して「ブチュウー」と言いながら、それを口に入れる格好をして興奮している姿を想像してみてください。
そして、次回から「ブチュウー」は、そのモノの記憶を代表する「タイトル」になるわけです。初めの頃の名前の付け方なんてものは、その程度のものに違いありません。(原始人さん、ごめんなさい)
この「ブチュウー」という名前が、初めて発見した人にとっては、その野山の風景や、気候や、征服感や、食べた時の驚きや興奮をひっくるめた記憶に付けられた「タイトル」であることは言うまでもありません。
もちろん、同じ「ブチュウー」というタイトルでも、他の人にとってはまた違った記憶の総称に付けられた「タイトル」です。
それぞれの環境が違えば記憶が違うのは当たり前ですから。
ただ、その記憶の中で、そのモノを表す最も特徴的な部分が互いに近似しているので、お互いに「ブチュウー」というタイトルで話が通じるわけです。
[❷タイトルはどのような働きをするのか?]
このようにしてタイトルが付けられることで、自分の脳内で乱雑に暴れまわっていた複数の刺激が整理・分類され、理解が助けられます。
そして記憶はより強固なものになります。
しかも人間同士の共通の理解や共感にも寄与します。
僕たちの脳内には、五感を通して、四六時中おびただしい量の刺激が次々と入力されています。
もし全ての刺激が脳内で何の加工もされずに刺激のままに渦巻いていたなら、ただ騒がしいだけで、僕たちには何も理解できません。
例えば雲ひとつない青空に、何万匹、何億匹という色とりどり、大・小さまざまな鳥が、けたたましい鳴き声を上げて飛び回っている状態を想像してみてください。
青空が真っ黒に埋め尽くされて、規則性も方向性もなくめったやたらと鳥が飛び回っているその状態が自分の脳内だったら、僕たちはただ呆然と立ち尽くすだけです。
名前を付けるということは、脳内をけたたましい鳴き声と共に飛び回っていた鳥たちに規則性と方向性を与え、整理・分類して、それぞれに意味を与え、それにタイトルを付けるということです。
それにより脳内は鎮まり、理解と記憶が助けられ、人間同士の共通の理解も高められ、共感を作り出すことにも役立つわけです。
[❸言葉や文章は、タイトルによってどのように組み上げられるのか?]
例えば「走る」という名前は、「足をすばやく動かして移動する」という所作を中心にして貼り付けられたその人なりのたくさんの記憶を整理・分類し、それら一連の記憶に対して付けられたタイトルです。
例えば「でこぼこ」という名前は、「なめらかでない状態」を意味するものを中心にして貼り付けられたその人なりの記憶を整理・分類し、それら一連の記憶に対して付けられたタイトルです。
例えば「悲しい」という名前は、「心が痛んで泣きたくなるような気持ち」を意味する感情を中心にして貼り付けられたその人なりの記憶を整理・分類し、それら一連の記憶に対して付けられたタイトルです。
「子供」とか「道」とか「山」とか「葡萄」とか、モノに付けられた名前も、それを意味するモノを中心にして貼り付けられたその人なりの記憶を整理・分類し、それら一連の記憶に対して付けられたタイトルです。
それぞれ、一般に、動詞、形容詞、名詞などと呼ばれているものに付けられたタイトルです。
所作や形状や感覚やモノなどに対して付けられた「タイトル」を、一定のルールのもとで並べると、言葉が出来上がります。ここでは日本語で考えてみます。
原始時代、ある女性が亡くなりました。
その直後、その女性の子供が姿を消しました。
お父さんは心配して、子供がどこに消えたのかみんなに聞いて回ります。すると、ある人がその子供が走っていくのを目撃していました。
子供は悲しみのあまり泣きながら走っていってしまったそうです。
そのことを伝えようとした目撃者は、走っていった方角を指差して次のように言います。
「子供、悲しい、でこぼこ道、走る、去る」
まだ「てにをは」が生まれていなかったであろう遠い原始時代でも、このように、タイトルを並べることで言葉らしきものができます。
普段、あなたの脳の中でどのようなことが起こっているか考えてみてください。脳内には五感を通してひっきりなしに無数の刺激が入力されていますよね。
冬のある日、強い北風が頬を撫でたその瞬間、脳に届いた刺激がある種の記憶のネットワークの一部に触れました。
そこには「ラーメン」というタイトルがぶら下がっていたとします。
タイトルだから、その中には「ラーメン」に関する、その人なりのいろいろな記憶も詰め込まれています。
すると、「ああ、ラーメンが食べたいなあ。そう言えば横丁の屋台のラーメン屋のあんちゃんは元気かなあ。以前行った時は、お客さんの中で関西弁を話す女性がいたなあ。そうだ、今から寄ってみよう! へへっ、今日は寒いし、熱燗も飲んじゃおうっと!」
などという「言葉」が脳内に浮かび上がり、思わず歩く早さが倍加させられるのではないでしょうか?
まだまだ続けてみましょうか?
「あっそうだ、煙草が後数本しかなかった。どこかに販売機なかったかな(キョロキョロ)。煙草と言えば、禁煙をした藤井さんはどうしてるかなあ。藤井さんは美人の彼女と一緒に禁煙を始めたと言ってたな。あっ、あそこに販売機がある。300円入れてと(チャリン)。彼女は鹿児島でミス○○になった美人だから羨ましいなあ。家の近くの酒屋では鹿児島の芋焼酎は売り切れていたけど、そろそろ入荷してるかなあ。あれっ、お釣りが500円出てきた。
しめしめ、熱燗追加しよう。芋もいいけど、でも今回は麦にしとこうかな。それにしても部長には腹が立つなあ。( ⇐ なぜか、麦焼酎が部長にリンクされていた)。上役の機嫌は取るくせに、僕たちには文句ばかり言いやがって。あんなやつ代えてもらいたいよ。あれっ、向こうで手を振っているのは山根ちゃんだ。そうだ奴も誘おう。(オーイ、山ちゃーん!)」
まだまだ続けられますよ。
この僕が生き続ける限りずっと‥‥ね。
このように延々と続くのが、僕たちの一生だからです。
もちろん今は、皆さんにわかりやすいように書きましたが、実際はこんなに説明過剰で明瞭な文章を脳内で組み立てているわけではありません。
他の人にわかってもらう正確な文章を、自分の脳内で組み立てる必要はまったくないわけですから。
5日目に歩いた分身主義の森の中で、記憶とは脳内に反応の道が作られることである、と言ったのを覚えていますか?
人間が何かを記憶したということは、何かを固定的・静的に記憶したということではなく、その人なりの方向性を持った「反応の道」が作られたということです。
僕たちの脳の中の記憶が整理・分類され、それらに付けられたタイトルは、そのまま、記憶という反応の道を呼び覚ます働きをします。
反応の道とは、日本語の文法を記憶したことで方向性が作られるので「一定の方向性を持った反応のベルトコンベアー」であると考えてください。
脳を取り巻く環境から、五感を通してひっきりなしに入力されてくる刺激に反応したタイトル(記憶のまとめ役)は、一定の方向性を持ったベルトコンベアーに乗せられて、想像とか連想とか思考といった経験をさせられ(加工させられ)、そこからその人なりの言葉が押し出されてくるわけです。
これが、「❸言葉や文章は、タイトルによってどのように組み上げられるのか?」の結論です。
その押し出されてきた言葉によって、先ほどの例のように、延々と行動させられていたのが僕たちの実際ではないでしょうか。
話は少しそれますが、どうしても先ほどの「屋台のラーメン」の話に関連して聞いていただきたいことがあります。
ちょっと注目して欲しいのは、随所に出てきた「意思」のようなものです。
「ラーメンが食べたい」
「横丁の屋台のラーメン屋へ行こう」
「熱燗を飲みたい」
「煙草を買おう」
「芋焼酎はやめて麦焼酎にしよう」
「部長を代えてもらいたい」
「山根さんを誘おう」
これらの「意思」が、自分の内部に最初からあるものではなく、自分の脳にひっきりなしに入力されてくる刺激に影響を受けて、浮かび上がってきたものだということがわかります。
僕たちが今まで「意思」とか、「意志」などと呼んでいたものは、そういうもののことだったんです。
今まで言われていた意味での、何物もの影響も受けずに、自分の中に主体的に発生する「意思」や「意志」などというものなんて、どこにも、誰の脳の中にもなかったんです。
何らかの刺激を受けて、それが自分の脳内に作られている「反応のベルトコンベアー」に乗って流れることで、たまたま浮かび上がった意志を「自由意志」などとは呼べませんよね。
要するに僕たちは、僕たちを取り巻く環境にしゃべらされ、僕たちを取り巻く環境に行動をさせられている「媒体」のようなものだったのです。
脳内の記憶を作るのは環境だし、それによって反応の道が作られたということは、一人の人の口を通して語られる言葉は、その人を取り巻く環境(=この宇宙の万物)が、一人の人の口を通してしゃべっていたとも言えます。
だけど、僕たちは媒体でありながら、環境を作っている一部でもあったということも忘れてはいけませんでしたね。
「❹タイトルは僕たちにどのような影響力を持つか?]
タイトルとはそれ自体が刺激(聴覚刺激)である、と言いました。
それ自体が、脳内に張り巡らされた様々な記憶のネットワークにちょっかいを出し、たくさんの反応を誘発します。
それによって僕たちは、連想とか意識とか思考とか想像とかいったものを経験させられます。
「今日の夕飯はお刺身よ!」
このような形でタイトルを並べたてられたら、あなたの脳には、仕事を早く打ち切って家に帰りたくなる意思(意志)が浮かび上がります。
だけど、あなたの記憶にないドイツ語で同じことを言われても、あなたの脳はまったく反応しません。
ドイツ語でタイトルが付けられた記憶のネットワークがないからです。
同じように、魚を生で食べる習慣のない国の人にもそのような記憶のネットワークがないので、もし「今日の夕飯はお刺身よ!」の言葉の意味が理解できても(むしろ理解できたなら)気持ち悪くなるだけかもしれません。
つまり、所作や形状や感覚やモノに対してつけられた「タイトル」が、今度は、僕たちの心をワクワクさせたり、不快にさせたりするわけです。
自然の成り行きでたまたま人類が二足歩行を始め、自然の成り行きでたまたま人類に言葉が生まれ、自然の成り行きでたまたま生まれた「言葉」が、人間の感情や行動にも影響力を持ち、やがて人間の脳を肥大させ、論理を操り、それが今度は自然界を作り替えたりしているわけです。
つまり、屋台のラーメン屋を開店したり、そのラーメンを食べたくなったりするのも、全て、人間の脳に「言葉」があるからなんです。
もし言葉が生まれていなかったら、不幸なことに、僕たちは一生、屋台のラーメンにありつくことはできなかったのです。
昔は大きな木や草が生えていて、その中を様々な生き物が走り回っていた自然だったのに、今では、高層ビルが立ち並び、その横をものすごいスピードで車が走り回る自然に変化しました。
これは、人類が言葉を獲得したせいだったということです。
そして、言葉を獲得した人類は、今では思いのまま言葉を操っているかのように錯覚していますが、実際はこのように言葉に操られていたのですね。
それは、自分が生んだ子供を育てている母親が、子供に育てられていた自分に気づくようなものです。
ある意味、子供は侮れないものなんですが、言葉も侮れないということも実感していただけましたか?
さて、統合失調症(精神分裂病)は、母語(ぼご)の病である、と言われることもあります。
母語とは、幼児期に周囲の大人たちが話すのを聞いて最初に自然に身につけた言語のことです。
もし、僕たちに言葉がなければ、恐らく、僕たちの知っているような形での統合失調症の世界もなかったでしょう。
僕たちは言語という論理的な働きをするものを手に入れたことで、ますます論理的な思考をするような脳になってしまいました。
論理的な思考と言っても、ここで言っている論理的はそれが整合性があるかどうかは別です。
例えば、「人形が壊れたのは、自分の身代わりとなってくれた」などというのも、その人にとっては、十分、論理的な考え方です。
ただ、その論理が曖昧で筋が通っていなくて、間違っているだけの話です。
そして、それが間違っていると指摘できるのも、言語を記憶した脳が、論理的な思考をするようにできているからです。
僕たちの脳は、あんまり整合性のある論理を得意としていません。どちらかと言うと、感情が引いてくる論理を得意としています。
そこから自分勝手にいろいろな論理を導き出し、その論理に異常に固執してしまうこともありますが、その論理と現実とがかみ合わないことになると、それを修正するのではなく、むしろ自分の論理に合うように現実を統一しようとするところがあります。
そんな中で、たまたま身体的・精神的に弱っていて、孤独と恐怖の海の中に放り込まれているような状態にある人は、藁(わら)にもすがる思いで、自ら作り上げた現実にしがみつき、そして溺れ、統合失調症(精神分裂病)の症状になっていくと考えられます。
だけど、それはその人の脳が言葉を操り(正確に言えば言葉に操られているわけですが)、言葉が論理を操り、操られた論理によって取らされている様々な行動であるわけです。
言い方を変えれば、統合失調症(精神分裂病)とか、解離性障害とか言われるものは、その人の脳が、その人の言葉の論理に沿って現実に適合しようとした結果なのです。
その状態こそが、「その人の脳が自然界に適応した状態」であると言えます。
それは、正常と言われるあなたの脳を、僕たちは「自然界に適応した状態」であると考えるのと全く同じように、彼らの脳が「自然界に適応した状態」だったんです。
今、狼に育てられて言葉を理解しない少年が、人間社会に保護されてきた状態を想像してみてください。
彼の頭には「人形が壊れたのは、自分の身代わりとなってくれた」などという考え方は浮かび上がるはずもないし、また、それが論理的に矛盾しているという判断もできるはずがないことは容易に理解できます。
彼の頭の中は、自分を捕まえて檻の中に入れた《人間》という見慣れないものたちに対する恐怖だけです。
もし彼が狼に育てられたということを知らなければ、近づくと驚いたように目を見開き唸り声を上げる彼を見て、僕たちは「精神異常者」だと判断するはずです。
でも彼が育った環境からすれば異常でもなんでもなく、すべてが自然界に適応している行動です。
僕たちが精神異常者と判断しているのは、その程度のことなんです。
大昔、生きた人間から心臓をくり抜き、生贄(いけにえ)として神に捧げたりする行為は、彼らの言葉から繰り出される論理からすれば異常でもなんでもなかったのですが、現代の僕たちの言葉から繰り出される論理からすれば、もし今そのようなことをする人たちがいたら、危険で異常な集団であると判断することになるでしょう。
狼に育てられて言葉を理解しない少年が精神異常者ではないことは確かですし、言葉を理解しなければ生贄などという行為も生まれていなかったことも確かです。
「言葉」がいかに重要であるか再認識していただけましたか?
言葉と僕たちの現実との、危うい関係を理解していただけましたか?
それらの関係を踏まえた上で、いよいよ核心に迫ります‥‥。
言葉が織り成す「物語」の重要性が解き明かされます。
あっ、でもその前に、もう一度確認しておきたかったことがあります。ちょっと足を止めて一言聞いてください。
◆◇◆ちょっと一言
「名前とは、一対一の固定的、静的なものではなく、それ自体が様々な反応を誘発する、無限の可能性と広がりを持った動的な《聴覚刺激》である」と書きましたが、聴覚刺激とは、空気という物質が振動し、それを感受した耳が、その刺激を電気信号に変えて脳に伝えたもののことです。
文字は、一見、《視覚刺激》だと思うかもしれませんが、僕たちは、文字を脳が理解する時にも聴覚に置き換えているはずです。
完璧な速読術を身につけている人で、視覚刺激をそのままの形で意味を理解できる人は別として、僕たちは通常、書かれている文字を黙読し、その黙読された音を脳が聞き取ることで理解しているはずです。
理解を助けるために働く脳の部位は、やはり聴覚に関連した部分が導入部のような気がします。だから結局は、言葉とは、文字で表現されたものであっても「聴覚刺激」であると考えられます。
では何故、誰かから発せられた「言葉」が単なる空気の振動を作って、それが耳を介して僕たちの脳に届くと、それが想像とか連想とか思考を生み出し、そこから言葉が発せられるのでしょうか?
それは僕たちの脳に、「記憶」と「言葉」が作った反応のベルトコンベアーができていたからでしたね。それを作ったのは、僕たちの脳を取り巻く環境でしたよね。
ほら、やっぱり僕たちは環境の媒体だったのです。
今のあなたには、言葉(聴覚刺激)という単なる空気の振動が、その反応のベルトコンベアーに乗って、僕たちの言葉や行動を作り、果ては自然界の様相まで変化させてしまっている、という「環境」の不思議な力を感じられていますか?
ビッグバンの時に存在していた「素粒子」たちが、自然界の法則というシナリオに基づいて演じさせられている劇を、驚きと感動をもって見物できていますか?
20日目 引き返しますか?
さて、いよいよ分身主義の森も出口に近づいてきました。明日は、この未開の森、最後の難所です。
まさにこの日のために、これまで歩きづらい分身主義の森を歩いてきたと言っても過言ではありません。
今日は、最後の難所に挑む前に、もう一度確認しておきたいことがあります。
ちょっと、そこの切り株に腰を下ろして僕の話しを聞いてください。
どうして前人未踏の森の中に切り株があるのか、ですって? それは僕が以前切り倒した木なんです。
疲れ果てた僕が、そこに座って、長いこと行くか戻るか思案した場所です。
初めに、ここを訪れた方々にした質問を思い出してください。
「幸福とは個人の価値観の問題で、他人がとやかく言う筋合いのものではない、と信じている方は、分身主義の森に入るのはご遠慮ください。そういう人は途中で迷子になってしまうかもしれません」‥‥と忠告させていただきましたよね。
ここまで歩いてきてくださった方にこんなことを言うのは申し訳ないのですが、あっちにつまずき、こっちにつまずき、今では反感や苛立ちの気持ちばかりが募ってしまっている方は、ここから先へ進むのはやめておいた方が無難かもしれません。
あっちこっちつまずきながらも、なんとかクリアして今は晴れ晴れとした気持ちでいる方や、早く分身主義の真髄に触れたいとワクワクしている方のみ、ここから先はお進みください。
僕(徳永分身)が、この分身主義の森であなたに望んでいるものは、分身主義とは何かという知識を得てもらうことなんかではなく、分身主義を全身で体感して、感動を味わっていただきたいんです。
そうしなければ、人類はいつまでも同じ場所でグルグルと回っているだけで、そこから抜け出すことができないからです。
人類初の一歩を踏み出す原動力となるものは、あなたの感動しかありません。
そのためには、あなた自身の心の中に巣くっている不安や恐怖や怒りや不幸な心持にしっかりと目を向ける勇気が必要です。
そして、それを乗り越えたいという強いモチベーションがなければいけません。
そういったものから、普段、目を背(そむ)けて適当にうまくごまかして生きている人には、分身主義の必要性は理解できないし、感動も味わえないでしょう。
また、差別やいじめを受けている人を見た時、防波堤となって守ってあげるよりも、自分も差別側に加わってしまうような要領のよい人や、自分だけ得をすればいいと考える今の社会の風潮に、何ら怒りや疑問を感じることもないような人にも、分身主義の必要性は理解できないし、感動も味わえないでしょう。
世界に目を向けることのない方も、無理かもしれません。
例えば、世界中の人の不平等感をなくして、みんなが幸福な心持で生きる社会にしたいとか、本当の世界平和とは何かとかあんまり考えない方です。
でもそういう人たちは、初めからこの森の中に入ろうとさえ思わないでしょう。と言っても、彼ら自身がつまらない人間なのではありませんよ。
彼らは彼らを取り巻く環境に、そのような人間を演じさせられているだけで、環境さえ変われば、何事にも正面から取り組み、世界に目を向けることのできる人間に変わったりするわけです。
だから彼らを責めたりしないでください。
ここまで、つまずきながらも、そのつど拾い集めた言葉を自分のものにして歩いてきてくださったあなたなら、きっと明日は分身主義の必要性を理解し、感動を味わっていただけると思います。
でも、もし、反感や苛立ちの気持ちばかりが募ってしまった方は、ここから先へ進むのはやめておいた方が無難かもしれません‥‥と言っても、分身主義はその人たちを切り捨てたわけではないことは何度も言いましたね。
切り捨てるどころか、その人たちにいつも思いやりの目を向けているのが分身主義です。
まさに、自分に向ける思いと同じ強さで‥‥。
そしてまた、切り捨てるどころか、分身主義の必要性を感じなかった人たちも、やがては同じ場所に引き上げてあげることができると知っているからこそ、僕たちは、張り合いを持って分身主義を実行できるし、またすぐにでも実行するべきなんです。
(分身主義を実行するとは、ここではブログを作ることを指しています)
「僕たちは環境の媒体である」と知った科学的視点こそが分身主義の視点ですが、同時に、分身主義は、僕たち分身は環境を作っていた一部でもあると知っています。
自分たちが環境の媒体であったと意識した瞬間(分身主義的に言えば、意識させられた瞬間)、その人たちはほんの少し今の環境の外に顔を出します。
ほんの少し今の環境から顔を出した人たちが少しずつ増えれば、僕たちは環境を作っていた一部でもあったわけですから、当然、僕たちの今の環境が少し変化することを意味しますよね。
環境が少し変化すれば、今度はその媒体である僕たちの考え方や行動パターンも、例えば自分にしか興味や関心がなかった人たちの考え方のパターンや行動パターンも少し変化します。「自分」の意識が変わるわけですから当然です。
だから、「その人たちを切り捨てた」わけではないんです。
分身主義は、僕たち一人ひとりは部分であり、全体であると言っているのです。どうして、それを知った僕(徳永分身)が、自分の一部を切り捨ててしまって、全体を損なわせるようなことなどできるでしょうか!?
そもそも、こんなに歩きづらい分身主義の森の中に、あなたにお付き合いいただいたのは、たまたまこの僕が、皆さんを代表して出合わせていただいた「分身主義」というものの、その真髄に多くの方に触れていただき、感動を味わっていただき、そして世界に奇跡を起こしていただきたかったからでした。
「分身主義」という名前を付けたのは僕の脳ですが、僕の脳は、僕の脳を取り巻く環境(環境とはこのビッグバン宇宙140億年に起こっている全てのことです)に作られているだけのものです。
だから正確に言えば、たまたまそこにいた僕という媒体が、皆さんを代表して分身主義に出合えただけなんです。僕はこの環境とあなたや他の環境とを取り持つ仲人(なこうど)のような存在なのです。
あなたも、あなたの周りの環境と他のものたちを取り持つ媒体(仲人)です。
僕たちは普通、何かを認識したり、理解しようとしたり、考えたりする時は、自分中心・人間中心に考える習性があります。
しかし、分身主義はそのような視点から離れて、自然界中心に考えようとするものです。
自然界中心に考える《真の科学》の声に忠実に従います。
例えば、分身主義は、「我々が病気と呼んで忌避(きひ)するようなものは、自然界には存在しない」と知っていますが、それこそ真の科学の視点であり、真の科学の導いてくれた真理です。
嫌悪すべき感覚を伴う「病気」という概念は、人間中心の心(=脳の働き)の産物でしかなかったんです。
今、風に乗って良く飛ぶ紙飛行機と、すぐに落下する紙飛行機があるとします。当然、僕たちは、すぐに落下する紙飛行機を失敗作と考え、原因を究明して改良しようとします。
それは僕たちの心の中に、「良く飛ぶ紙飛行機こそ、良い紙飛行機である」という観念が無意識にあったり、紙飛行機を作る目的の中に「良く飛ぶ紙飛行機を作りたい」という人間的な願望などがあるからです。
では、視点を自然界中心に合わせたらどのようになるでしょうか?
良く飛ぶ紙飛行機も、すぐに落下する紙飛行機も、どちらもその状態が、その紙飛行機が自然界に適応した姿なんです。
落下する紙飛行機には落下する原因があって、まさにその原因が自然界の中で適応した形が、落下という形となって現れたわけです。
つまり、自然界には失敗作は一つとしてありません。人間だけが、失敗と見て取るだけです。だからと言って「失敗と見て取るのは間違いだから原因を究明して作り替えてはいけない」などと言っているのではありません。
落下の原因を究明して「良く飛ぶ」紙飛行機に作り替えたとしても、人間は自然界(=環境)の媒体でしかないので、それをしたのはその人の意思でも力でもなく、自然界(=環境)からの刺激とその人の脳の記憶(これも自然界に作られたもの)の相互作用によって、紙飛行機を作り替えようというような意思がその人の脳内に浮かび上がらせ・られて、それによってその人が行動を取ら・されたのだ、という視点を忘れないでほしいというだけです。
人間には、自分中心・人間中心に考える習性があるので、失敗作とか病気とかいう観念にとらわれてしまいます。
単なる生物変化の一時的な状態に対して、生とか死と名づけて感情的な色合いを持たせてしまいます。
だからと言って、失敗作とか病気とか、生とか死とかいう言葉は金輪際用いてはいけない、と言っているのではありませんよ。
それが自分中心・人間中心から生まれている言葉であることを理解できる、柔軟で客観的な視点を持てるようになることが必要だと言っているんです。
サンタクロースは実在しなかったと知っても、僕たちは彼を見放さなかったですよね。
僕たちの生きる世界が平和(=世界中の人の心の中から、不平等感や不満がなくなり、喜びの中で生きて死んでいける世界)になるためには、どうしてもこの失敗作とか病気とかいう、自己中心的な強迫観念から解放される必要があります。
失敗作とか病気とかいう強迫観念から自由になり、また、生と死の誤ったイメージからくる恐怖や緊張を取り除く必要があります。
つまり、自然界中心の視点が必要です。
例えば心の病気です。
精神科医やカウンセラーと呼ばれる方たちは、僕たちの心の病気を取り除き明るく健康な心の状態にしようと、日々、努力してくださっていますが、彼らも科学者の端くれなら、彼らこそ自然界中心の真の科学の視点を持ち、彼らこそ病気という観念から解放されない限り、心の病気はなくならないことを知っていただきたいのです。
本当に心の病気をなくすためには、僕たちの脳(=心)を取り巻く環境が、「個人主義的(自分中心的)な環境」から「分身主義的な環境」に移行しなければならないことを知っていただきたいのです。
皮肉なことに、彼ら(精神科医やカウンセラーと呼ばれる方たち)がやっていることは、心の病気をなくすどころか、病気や患者と言われるものをますます増やして、ますます自分たちの収入を増やすことくらいです。
個人主義的な環境は、病気や敵という観念を生み、そのことによって緊張や恐怖などが僕たちの脳に浮かび上がり、その緊張や恐怖などは、犯罪や戦争の引き金になります。
犯罪も戦争もなく、世界中の人が不平等感や不満がない喜びの世界で生き、祝福の中で死んでいくためには、分身主義の視点がどうしても必要なんですが、世界中の人に分身主義の視点を持っていただくためには、「この宇宙には病気などは存在しない」、「この宇宙には敵など存在しない」ということを説明することから始めるのが近道だと思っています。
そのように考えて、この分身主義の森へ、あなたをお誘いしたわけですが、こうしてここまで一緒に歩いてきてくださって、今、率直にどのような感想をお持ちでしょうか?
初めの頃、次のように言ったのを覚えてくれていますか?
ずいぶん偉そうなことを言ってるなあ。
何様のつもりだよ。
謙虚などと言っていながら、先生と呼ばれるような偉い方たちを見下しているような感じだし、自分だけが正しいと思い上がっているような感じで、少しも謙虚ではないんじゃないかなあ。
もしあなたが、僕(徳永分身)の言葉を聞いて、未だにそのように反応してしまうとしたら、残念ですが、この先へお進みになっても反感以外に得るものはないかもしれません。
あなたにはどうしても、今までの自分中心・人間中心的な視点でしか、僕の言葉を受け取れないようです。分身主義は、今までの僕たちの視点とは全く違う視点なんですよ。
分身主義的な視点の先にあるものは、分身同士互いにプラウドし合う深い喜びだけです。
もしあなたが、僕の先程の言葉に対して、「偉そうな奴だ」と感じるのなら、この分身主義の森で拾い集めていただいたたくさんの言葉を、少しも自分のものにされていなかったということです。
「僕は媒体です!」
何度もそのように言ってきました。
僕は偉そうでもなんでもなく、単なる媒体です。昨日までにそのことを明らかにしましたよね。
ちなみに、環境が僕たちの脳内に作る記憶(=反応の道)こそ、個人主義的な環境に、どっぷりと浸かった現代の学校教育において、その育成に最も力を入れてきた「個性」と深い関わりがあります。
個性とは、環境からの刺激に対する個々人の反応の仕方のことですから。
もしあなたの脳に、「個性を大切にしよう」などという言葉が何の違和感もなく浮かび上がるようなら、あなたの脳は個人主義的な環境にどっぷりと浸かって、たっぷりと洗脳を受けてしまっていることを自覚した方がいいですよ。
だからと言って、「個性は大切にする必要はない」などと言っているのではありません。
個性は大切にするも何も、環境がその人の脳に植え付ける記憶もそれぞれ違うわけだから、その後に入力される環境からの刺激に対する個々人の反応の仕方は当然違ってくるので、自ずと個性というものは生まれてしまうものです。
没個性などという言葉もありますが、それも、その人を取り巻く環境が作り上げた、その人の個性(=反応の仕方)なんです。
それをわざわざ、「個性、個性」とけしかけると、人と違う何かを見つけなければ生きていく価値もない、というような強迫観念を持ってしまうことにもなりかねません。
僕(徳永分身)の脳内の記憶も、元はと言えば、僕の脳を取り巻く環境(先祖代々からの遺伝も環境に含む)が、時々刻々僕の脳に作っているものです。
例えば、僕がアルツハイマーになるとしたら、それは、僕の脳を取り巻く環境によって作られている僕の脳内の記憶(=反応の道)が崩れる(変化する)ことを意味します。
アルツハイマーになってしまっても僕は僕で、誰も僕の身体を見て、他の名前で呼ぶ人はいません。
だけど、僕の身体は僕なのに、アルツハイマーになった僕は、もうこの森で話すようなことは一切語りませんし、分身主義が何なのかさえ、まったくわからなくなります。
それは、一体、どのように理解したらいいのでしょうか?
それこそ僕の身体が媒体でしかなかったことの証ではないでしょうか。
分身主義という言葉を作ったのも、分身主義を語っているのも、この境界線を持って存在している僕(の身体)ではなかったんです。
僕の身体は単なる媒体であり、僕の脳の記憶(=僕を取り巻く環境が僕の脳に作るもの)と僕の脳を取り巻く環境から入力される刺激が、僕の身体を使って、今、分身主義を語っているんです。
あなたの身体も、あなたの脳を取り巻く環境の媒体として、何かを考えさせられたり、しゃべらされたり、スポーツをさせられたり、行動の一挙一動をさせられたりしているわけです。
だけど、本当は僕たちのこの身体でさえ、環境(遺伝も環境に含む)が作っている媒体でしかないんですけどね。
この身体も、細胞分裂という自然界の法則の制御の元で、その取り巻く環境に時々刻々、作り替えられています。
ところで、忘れないでいただきたいのは、僕たちは媒体であると同時に環境を作っている一部でもあるわけでした。
僕たちの身体が環境からの刺激に反応して動くことで、その周囲の環境は違う環境に変化しますよね。
簡単な例で言えば、あなたの身体が環境からの刺激に反応して煙草を吸うという行動を取ると、その周りの大気は明らかに変化します。そのあなたの作った環境の変化は、同じ部屋にいる煙草を吸わない人の身体にまで影響を与えます。
だから僕たちは環境の媒体であると共に、環境を作っているものでもあるわけです。
僕の脳を取り巻く環境は、この宇宙全てのものが含まれますから、当然、そこにはあなたも含まれています。
と言うことは、もしあなたが、僕の語る言葉に不快感を感じるとしたら、あなたは今、自分に対しても不快感を感じていたんですよ!
「そんなバカな話、信じてたまるか!?」
あなたはまだその真実に目を向けたくありませんか?
それを認めた途端、あなたが今まで長い年月をかけて築き上げてきた自尊心なる鎧(よろい)が剥ぎ取られてしまうという恐怖感に襲われてしまいますか?
でも、これは、架空の作り話ではありません。
真の科学が導いてくれた事実を述べているだけです。
あなたに、そのことに気づいていただきたかったのです。
あなたの周りには、本当は敵は一人もいません。
敵もいないあなたには、本来、鎧など不要だし、守るべきものは一つもありません。
命も愛も、何かから守るものなんかじゃありません!
そういうことも、早くあなたに気づいていただきたかったんです。
昨今のゲームや、映画や、テレビドラマやドキュメンタリー番組や、それにニュース報道まで、やたらと敵を作り上げ、それらの敵と勇猛に戦い、命や愛を守り抜くというシチュエーションのものなどがもてはやされ、感動を呼びます。
敵にされてしまうものは隣国であったり、隣人であったり、テロであったり、犯罪であったり、また、恋の障壁であったり、病気であったりもします。
敵という観念に共通しているものは、「自分」を脅かす対象です。要するに、それこそ人間の自分中心的な感覚が作り上げた「架空の観念」だったんです。
つまり、昨今の映画や、テレビドラマやドキュメンタリー番組や、それにニュース報道などは、製作スタッフの方たちを取り巻く自分中心・人間中心的な環境が、彼らの自分中心・人間中心的な反応をする脳と相互作用することで、媒体である彼らがそのような番組などを作ら・されてしまっていたわけです。
それが、自分中心・人間中心的な反応をする僕たち視聴者の脳と共鳴することで、感動が生まれるわけです。
僕だってまだ個人主義的な環境に浸かって生きているので、結構そういうものを見て涙を流したりもするのですがね‥‥。(笑)
命や愛は大切ではないと言っているのではありませんよ。
それらは大切とか大切ではないとか言う種類のものではなく、ただそこにあるものです。
命をやたらと称揚することで、その対極にある死を毛嫌いしたり、恐怖したり、見えないように蓋(ふた)をしようとしたりするような気持ちが生まれることがいけないのです。
それはわざわざ自分を生きにくくさせて、余計な苦悩を増やしています。
また、愛をやたらと称(たた)えることで、誰の心の中にもある差別の感覚が増長されてしまうようなことがいけないと言っているんです。
愛という感情は、実は強い自我(これが自分であると信じているもの)が根底にあり、その自我を中心にして生まれる差別意識が作り上げる感情なんです。
分身主義は、命を大切にするなら死も大切にしなければいけないと考えます。誰かや何かを大切にするなら、一つのものを特別に愛するようなことはせず、万物を平等に大切にしなければいけないと考えます。
それは決して万物が平等だと考えているからではないんです。
分身主義は、万物を等価に置くだけです。
例えば人間は生まれつき平等ではありませんよね。
豊かな土地(環境)に生まれる者もいれば、貧しい土地(環境)に生まれる者もいます。
背が高い人もいれば低い人もいるし、スポーツが得意な人もいれば勉強が得意な人もいます。
人は生まれながらにして不平等です。
しかし、その人その人の置かれた環境を認める、あるいは自分の置かれた環境を受け入れるのが分身主義です。
誰かと自分を比較することで優越感に浸ったり、劣等感を抱いたり、あるいは誰かを差別して特別に愛したり、誰かに嫉妬したり、ひがんだりしません。
そのことを、万物を等価に置くと言ったんです。
どうして分身主義にはそのようなことができるのかというと、分身主義は、この宇宙の万物は、宇宙創成の最初に起こったビッグバン(野球のボールくらいの小さな火の玉をイメージしてください)から急激に膨張して、今もその時の力が少しも衰えることなく膨張を続けている過程で生まれているものが、空に瞬く星々であることやこの地球であり、その地球に生まれた植物や動物であり、そして僕たち人間であり、その人間の《幻想》(記憶と外部からの刺激との相互作用によって作り出される全ての現象)であり、《幻想》によって行動を取らされてそこから作られる道具などであることを知ったものだからです。
つまり、この宇宙に存在する万物は、ビッグバン宇宙を構成する素粒子が、いろいろな形にくっついてできているものだし、それは何度もリサイクルを繰り返しているもので、言わば、この宇宙に存在する万物は、ビッグバンから「分」かれている「身(からだ)」だということを知ったからです。
生まれながらにして不平等である僕たち人間ですが、「人間」とは、実は我々が住むこのビッグバン宇宙という一つの身体の、その一部分の呼び名に過ぎないんです!
一つの身体の部分であるなら、どれも同じように重要な価値を持った部分です。例えば僕たちは自分の身体の中の、左手よりもおちんちんの方が偉いとか、右のおっぱいよりも心臓の方が重要だなどという考え方は、普段はあまりしません。
一つ一つのパーツ全部をひっくるめて自分だという感覚があるはずです。
だから、どこかを切除しなければならないなどという状況に追い込まれれば、苦渋の選択を迫られることになるんです。
みんな大切だからです。
だから分身主義の視点を持てば、万物を「等価」と認識するなどということが、たやすくできるんです。
僕たちは全体の部分であり、同時に全体でもある。僕たちは環境の媒体であり、同時に環境でもある。
分身主義を知れば、英雄に対しては、彼らは自分たちの環境ではできないことを、彼の環境の中で我々に代わってやってくださっている分身さんであるとして誇りに思います。
また、犯罪者に対しては怒りを煮えたぎらせることもなく、彼らの行為はたまたまその環境に置かれた自分たちの分身さんがやらされてしまったことであり、またその環境を作っていた自分にも責任を感じ、救いの手を差し伸べる気持ちが自然に育っています。
そうしなければ、自分も救われないからです。だから、英雄に嫉妬することもなければ犯罪者に怒りを持つこととも無縁なんです。
この感覚が世界中の人の共通の感覚にならない限り、僕たち人類には永遠に本当の平和は訪れないし、あなたも僕も本当の幸せを手にすることはできません。
僕たちの感覚とは、環境に作られているものでしたよね。
だとしたら、世界中が分身主義的な環境になりさえすれば、自然にこの共通の感覚が人々の脳に埋め込まれてしまっているので、いつの間にか世界は平和になってしまっています。
分身主義が真価を発揮するのは、世界中の人の「個人主義的」な心と環境が、「分身主義的」な心と環境に変化した時だけです。
宗教のような個人的な救済とは違い、一人だけ悟っても何の救いにもならないと知っているのが分身主義です。
それが分身主義の「分身」たるゆえんです。
そのためにも、早く多くの人に分身主義を知って欲しいと思っているのです。
だけど、分身主義をきちんと理解してくれる数人の人さえいれば、世界中に分身主義が広まるいい方法があるんです。
今はこのインターネットという世界をつなげるネットワークがあるからです。インターネットがなければ、僕はとっくに失望して人生を投げていたでしょう。
ちなみに、その方法とは、ブログを作ることです。
どのようなブログを作るのかということが実はとても重要なので、それは最後にご説明しますが、真剣に平和と幸福を願っていて、しかも迷子になることなくここまで分身主義の森を一緒に歩いてきてくださった方なら、きっと自分のための(=宇宙のための)すばらしいブログを作ってくださることと思います。
逆説のようですが、命や愛をもてはやす感覚が世界中に争いを増やし、自分の中の苦しみを増やしてしまっていたのです。
何故かと言うと、それらが、現在の個人主義的な環境が作る自分中心・人間中心的な感覚から生まれていたもので、その感覚は自然界に抗っていたからです。
水の上に体中の力を抜いて仰向けに寝転べば、自然に身体が浮くのを経験した人は多いと思います。
その反対に、一生懸命水から顔を出そうと手足をばたつかせれば、水をたらふく飲んで溺れてしまいます。僕たち人間がやっていることは、そのことだったんです。
一生懸命、命や愛を叫んでいるのは、まるで「人間界」の中で溺れまいともがいているようなものだったんです。早くあなたに、そういったことに気づいていただきたかったのです。
あなたや僕や、それに僕たちを先導してくれる社会的地位のある方たちや、宗教に携わる方たちや、知識人と呼ばれる方たちや、僕たちの心を救ってくださる医者と呼ばれる方たちや、いろいろな方の中から自分中心・人間中心的な感覚が抜け、そういう人たちが子供たちに、「自分たちの真の姿(=宇宙)」を伝える時代が来ない限り、世界は決して平和にはならないし、この時代を生きる分身である僕たちは、分身としての本当の幸せを知らずに短い人生( ⇐ 宇宙年齢から見ればほんの一瞬)を終わらせてしまうことになります。
あなたは、それでいいのですか!?
皆さんは、それでいいのですか!?
僕は、それでは嫌です!
だからと言って、そんなに焦っているわけでもありませんが‥‥。分身主義は焦りとも無縁です。自分の意志で何とかなるわけではないからです。
今、世界は個人主義的な色の絵の具が何層にも厚く塗り重ねられ、ちょっとやそっとではとても削り落とすことはできないようにも感じますが、でも僕は、どういうわけかそれが分身主義的な色に塗り替えられるのはそれ程難しいことではないように感じています。
さっきもちょっと書きましたが、今は、インターネットというすごいものがあるからです。
ところで、先日、たまたま付けたテレビで不思議な映像を見ました。
60年代のベトナム戦争の映像を、ルイ・アームストロング(サッチモ)分身さんの名曲、『この素晴らしき世界』に乗せて流していたのです。
たぶん、当時のヒット曲に乗せてアメリカの歴史を紹介する、というような番組だったんでしょう。
爆撃機から次々と落とされる爆弾。炎を上げて燃え盛る森林。
もうもうと立ち上る煙。
銃を抱えて勇猛に突進するアメリカ兵。戦火の中を逃げ惑う住民たち。
目隠しされて連行されるベトナム人の捕虜たち。
負傷した人を担架に乗せて泣きながら運ぶ人たち。
それらの映像が、ルイ・アームストロング分身さんの名曲、『この素晴らしき世界』に乗せて流されると、まるで古い愛の映画のワンシーンでも見ているかのように懐かしく、美的でもあり、感動を覚えるほどでした。
この名曲は、「戦争のない平和な世界が、一刻も早く訪れるように」という思いを込めてサッチモ分身さんが歌ったものだそうです。
「嘘っぱちだ!」
我に返った僕は、叫びたくなりました。
お茶の間で、人が殺されていく映像を見ながら、「この世界はなんて素晴らしいんだろう」などと歌う音楽にうっとりさせられてしまう自分は、なんて愚かな奴なんだ!
実際の戦争の映像を報道するなら、絶対に音楽を挿入してはいけません!
「事実の報道」には、作為的な色や音を付けてはいけません!
僕たちが好んで使う「愛」や「命」などという言葉も、これと同じです。
欲にまみれた汚い人の世をごまかす挿入歌のようなもので、どんな場面でも、とても美しい感動的な場面にすり替えます。
本当は、命や愛をもてはやす自分中心・人間中心的な感覚が、世界に戦争を引き起こす一番の原因だというのに、そのことはごまかされ、まるで綺麗な包装紙に包むように自分中心・人間中心的感覚を美化してしまう言葉の魔力に、僕たちはいい加減に目を覚まさなければいけません!
さて、今日の話はこれで終わりです。
今日の話を聞いていただいて、それでもまだ納得されなかったり、反感や苛立ちの気持ちが抜け切れないのなら、やはり今からでもあなたは引き返すべきだと思います。
でも、何度も言うように、僕はあなたを切り捨てたわけではありませんよ。
戦争中に、敵であるアメリカ人を好きになれなどと言っても、ほとんどの人が抵抗を感じたと思います。
でも戦争が終わった途端、一転して、今まで「鬼畜」などと蔑(さげす)んでいた人たちのことを尊敬し、お手本にするような気持ちに変わってしまうことができるのが僕たち人間です。
個人主義的環境にどっぷりと浸かって生きてきた今のあなたが、「この宇宙には病気などは存在しない」とか、「この宇宙には敵など存在しない」とか、「愛とか命をもてはやしてはいけない」とか言われても、どうしても受け入れられなくても無理はありません。
でも、僕たちが敵であったアメリカ人を尊敬するまでになったように、あなたを取り巻く環境が変われば、それらの言葉にむしろ喜びを感じることのできる日がきます。
もし、ここまで一緒に歩いてくださったあなたが、今でも、僕の言葉を受け入れられないのならば、この場所から引き返し、その日を待っていてください。
その反対に、もしあなたが、僕の言葉を理解してくださる方で、この世界に奇跡を起こそうと思ってくださる方なら、ここから先の最後の難所を一緒にお進みください。
21日目 この時代の新しい物語
さて、いよいよ分身主義の森も出口に近づいてきました。今日は、この未開の森、最後の難所です。足元の悪い長くだらだらとした道が続きますが、障害物を乗り越えながら、今日一日でくぐり抜けてしまおうと思います。
覚悟してかかってください。
まさにこの日のために、これまで歩きづらい分身主義の森を歩いてきたと言っても過言ではありません。
玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)という、誇るべき我らが分身さんが書いた『やおよろず的』という本があります。(分身主義的に、つまり真の科学の視点で正確に言えば、彼は、彼を取り囲む環境に、現在、住職や作家をやらされている媒体であり、『やおよろず的』を書かされた媒体です)
この本は、禅の立場から世界平和を説いた本だと言えます。
いろいろと教えていただくこともあり、とても素晴らしい本なので、自分の読書ノートにたくさん抜き書きさせていただきました。
ちなみに、彼は僕より一つ年上の方です。
だけど、読ませていただいた中で一つだけ、これは違うなと思う部分がありました。
これは、参考書として取り上げさせていただいた萩原玄明分身さんの『精神病は病気ではない』とも一脈通じる部分があります。
萩原分身さんは、精神病とは死んだ人の霊が生きた人に乗り移って、その人の身体を借りて(その人の身体を媒体として)しゃべっていると考えていましたよね。
死んだ人をきちんと供養し、彼らの霊を鎮めて成仏してもらうことで、それらの症状は消失する、と考えていました。
そして、萩原分身さんの話によると、実際にそのような方法でそれらの症状が消失した人もいたということでした。( ⇐ 分身主義的に言えば一時的な小康状態に過ぎませんが‥‥)
これは、玄侑宗久分身さんの「健康は合理的な考え方だけでは保てない」という言葉を具体的に示している例だと言えますが、合理的とは何でしょうか?
合理的とは辞書的に言うと、「道理や論理に適っているさま」のことです。
それなら、彼の言う「健康は合理的な考え方だけでは保てない」というのは、それが彼の道理や論理に基づいた考え方であり、それこそが彼自身の合理的な考えを述べていたわけです。
合理的なことがいけないわけじゃないんです!
今までの科学ではまだ解明できていなかったり、ノータッチだった部分があったというだけの話なんです。
現に、脳の研究(心の研究も含めて)や、遺伝子の研究などがなされるようになったのは、本当にごく最近のことです。
科学は実験と観察を繰り返し、常に検証しながら進むものなので、以前の理論や学説が覆されたりするのは常識です。
プライドを捨てて、以前の理論や学説を覆すなどということが簡単にできるのは、科学が、自然界だけを師と仰いで歩む謙虚な学問だからです。
もし以前の説が間違っていれば素直に訂正しながら進むので、科学はそのように亀の歩みのように遅いものなんです。
ある人が、科学的な大発見をしても誰にも受け入れられず、その人が死んでから何十年もしてから認められることなんてしょっちゅうです。
その歩みの遅さに苛立つ気持ちもわかりますが、修正を繰り返しながらも、確実に自然界の不可解な現象の解明に近づいています。
今までの科学ではまだ解明できていないことやノータッチだったことに関して、せっかちに「科学では無理だ」などと諦めて、すぐに祈祷や呪術に頼ろうとするのは、現代人の生き方としてあまり賢明とは思えません。
何故なら、実はそのような非科学的な気持ちが、今まで自分の中に善くない行いを無意識に招き入れてしまっていたり、周囲の善くない行いを助長したりしてきてしまっていたからです。
確かに宗教の教理は1000年経っても不変ですが、宗教とは、たとえ自分が間違っていても自然界の方を捻じ曲げて解釈してしまう性格のものだからです。
まどろっこしい科学にひきかえ、宗教や祈祷師などの独断と偏見に満ちた答えは単純明快で即答ですから、僕たちは彼らに圧倒され、つい引き込まれてしまいます。
その結果、個人的に救済されるかもしれませんが、「個人的な救済」というのは一時的なもので、すぐにその個人に新たな苦悩となって襲ってきます。僕たちの救済とは、世界中のみんなが救済される以外にないんです。みんなが繋がっているからなんです。
僕たちは一つの身体だからです。
宮沢賢治分身さんも、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言っています。
これは先日見ていたNHKの『心の時代』で、ある分身さん(たぶんどこかの僧侶の方だったと思います)が、「宮沢賢治の言葉」として紹介してくださったものを大急ぎで書き取っておいたものです。
インターネットで調べたところ、それは彼(宮沢賢治分身さん)の『農民芸術概論』の中にある一節だということがわかりました。
インターネットというのは本当に便利なものです。
以前だったら、この言葉の出典を探すために図書館で気の遠くなるような数の本をひもとかなければならなかったでしょう。それが自分の家で一瞬にして探せてしまうのですから。
それにしても、この文章を発見した時、全身に震えがきました。
これが書かれたのはおそらく1926年ころだと思いますから、今からなんと80年以上も前に宮沢賢治分身さんが、分身主義の出現を予言するような文章を書いていたのです。
どうか、短気を起こして科学には無理だなどと結論付けてしまったり、安易な方向に流されてしまったりしないでください。
そんなことでは、いつまで経っても人類は、自然界の真理を知ることはできません。自然と共に生きることはできません。
自分中心・人間中心に自然界を勝手に解釈するだけで終わります。
自然界を師と仰ぎ、謙虚な気持ちで自然界に体中の力を抜いて仰向けに寝転べば、自然物である僕たちは、当然、心地よく浮くはずです。
「真の科学」が導いてくれた道を歩めば、僕たちは自然界に反旗を翻すことも、人間界で溺れまいとしてジタバタと手足をバタつかせて余計に水をたらふく飲んでしまうこともありません。
どうして人類は自然界に反旗を翻してしまったのでしょう。所詮、僕たちには絶対に勝てない相手なんです。
何故なら、どんなことをしても僕たちは自然界(自分を取り巻く環境)の傀儡(かいらい)、つまり操り人形だったからです。
たとえ、空からたくさんの爆弾を落として森を焼き払い、「どうだ、人間はついに自然をも作り替える力を身につけた。ついに神を乗り越えたんだ!」などと豪語しても、それもその人の脳を取り巻く環境にその人がやらされたり語らせ・られたりしているだけなんですから。
僕(徳永分身)があなたに「あなたは環境の媒体です。あなたは、あなたを取り巻く環境に行動を取らされているんです」と言ったら、「そんなことはない。俺は自分の意思で行動をしている。その証拠に俺の意志で今からお前を殴りに行ってやろうか!」と脅してもだめです。
どうぞ殴るなら殴ってください。殺すなら殺してください。
完全無欠の分身主義者を目指している僕は、そんなこと少しも恐くはありません。
でも、あなたは、今あなたの脳を取り巻く環境からの刺激、この場合「僕の言葉」という刺激によって、怒りの反応をし、行動を取らされようとしていることを忘れないでください。
その証拠に、僕の言葉という刺激がなければ、あなたの中にそのような怒りも意志も浮かび上がらなかったじゃないですか!?
ほらね。
やっぱり「意志」とは、環境によってその人の脳に作られている記憶という反応の道に、外部の環境からの刺激を受けた時に、浮かび上がらせ・られているだけのものだったんです。
玄侑宗久分身さんは、「病気の原因はこれだ、と決めつけて、その原因を合理的に取り除こうという治療を、今の西洋医学はするわけですが、健康っていうのはどうももっと複雑微妙なもので、意外に合理的には分からないことで治ったりするわけです」とおっしゃっていましたが、最近の西洋医学の現場の潮流としてナラティブ・アプローチが必要である、という考え方が導入されてきました。
ナラティブ(narrative:物語)‥‥聞いたことありますか?
近年の西洋医学は、確かに彼(玄侑宗久分身さん)がおっしゃるように、病気にばかり着目して人を見ようとしない傾向にますます突き進んでいました。一言で言えば過去の統計的データに基づいた医療です。
ある種の問題を抱えて訴えをする人に対して、その人の経歴や置かれた環境にはまるで無頓着に、その訴えの主な部分にだけ着目して統計的データに基づいた疾患名を与え、対症療法を行うというその考え方は、医師個人の経験や観察力のばらつきをカバーすることもでき、また時間的・経済的なメリットもあってますます医療現場でも主流となっていました。
統計学的な視点のない研究は、普遍性を欠如した主観的、権威主義的な、もしくは自己満足的なものになりがちだからです。
1991年にカナダのマクマスター大学で「科学的な根拠(データ)に基づく医療(Evidence Based Medicine(エビデンス・ベイスト・メディスン)=EBM」という概念も確立されました。
それにより医療の質の向上と標準化が図られ、地域や医師による診療内容のばらつきを極力減らすことが可能となりました。
また、根拠のある臨床判断を患者に明示することによって、インフォームド・コンセント(医師が患者に十分に情報を提供し、患者の同意を得る)も得やすく、医師と患者のよりよい信頼関係の構築にも貢献できるわけです。
しかし、機械や検査が次々と開発されて、それに頼るあまり、対話が隅に押しやられてしまったのも事実です。
そんな中で、複雑に要因の絡み合った個人の症状を、データという画一的な基準だけで評価していいのかという意見もあり、1998年にトリシャ・グリーンハル分身さんたちによって「Narrative Based Medicine(ナラティブ・ベイスト・メディスン)=NBM」という考え方が提唱されました。
NBMとは、訴えをする人に全人的にアプローチしようとする臨床の手法です。
訴えを持つに至るその人に、彼の生きてきた人生、家族、仕事、人生観などの物語を語らせ、医師は訴えをする人の「物語」が完成する手助けをすることで、ケアをしていく方法です。
先日見ていたテレビでは、それを実践している医師が紹介されていました。
いろいろな医者を訪ねても、自分の身体の不調の原因がわからなかった年配の女性分身さんが、ある日、その医師の元に尋ねてきました。
その医師は、一人の患者の診察に40分くらいも当てるそうです。
そこで、その人の経歴や家族のことや人間関係などを傾聴します。
ついには、その女性分身さんが、亡くなったご主人のお墓のことで悩んでいる、などという話になり、その悩みに相談に乗ってあげたりしました。
すると、不思議なことにどこへ行っても治らなかった身体の痛みが翌日にはすっかりなくなったそうです。
その女性は、「まさか病院でお墓の話をするとは思わなかった」と言っていました。
このような方法は、「今までの医療が考える合理的な方法」だけでなく、「玄侑宗久分身さんの考える合理的な方法」も必要であることに、西洋医学が気づき始めたということです。
僕たち人間は、言葉を自由自在に操っていると信じていますが、実は、言葉に操られている存在でもあったわけでしたね。もちろん言葉もその人の脳を取り巻く環境が作るものです。環境にない言葉を流ちょうに話す人はいません。
つまり、今まで、脳の研究などが遅れていた科学が、ここに来て、言葉に操られ言葉に統御されている我々人間には、言葉による治療(=物語の創作)が必要である、ということに徐々に気づき始めたわけです。
『語り・物語・精神療法』(北山修分身・黒木俊秀分身 編著)という本があります。
そこには‥‥、
と書かれています。
萩原分身さんが行なったこともそういったことでした。
彼は、霊が生きた人間に乗り移るという物語を、問題を訴える人たちに受け入れさせることで治療を成功させたのです。
『語り・物語・精神療法』にはまた、次のようにも書かれていました。
ここで言う「物語」とは、問題を訴える人に寄り添った物語のことです。その人の背景や経歴や人間関係などによって作られていく物語のことです。
だけど、今までの治療というのは、いわば、医師と呼ばれる側の人たちが作り上げた物語を、一方的に患者と呼ばれる側の人に押し付けていたわけです。
さて、寄り道をしながらも、だんだんと核心部分に近づいてきましたよ。『予備知識2』に次のように書いた言葉を思い出してください。
では、医師と呼ばれる側の人たちが作り上げた物語とはどのようなものでしょうか?
それは、もちろん科学者や医師と呼ばれる人たちだけが作ったものではなく、僕たちに自分中心・人間中心の感覚をもたらすこの環境が、彼らに作らせた物語です。
現代の医療とは科学的なようでいて、実は、自然界中心の「真の科学」ではなく、人間中心の「似非(えせ)科学」であり、その似非科学が作り上げた物語が、現代の医療だったんです。
自分中心・人間中心の視点を持った似非科学が作り上げた「医療」という物語の特徴を3点挙げて、それぞれに分身主義的な視点からの反論を試みてみます。
それでは「分身主義的な視点(真の科学の視点)」からの反論を始めます。
❶それはまず、僕たちの身体を正常な状態と異常な状態に分け、異常な状態を「病気」と名付けます。
【この❶への反論】 科学的概念である「正常・異常」というものの中に、社会的概念である「良い・悪い」というような意味を含めてしまっているので、《病気》という言葉が使われているわけです。
真の科学では、「正常・異常」という概念の中には、統計学における正規分布(ノーマル分布)の概念しかなく、「良い・悪い」というような価値判断は一切含まれません。
《病気》という概念は人間中心の価値判断がもたらす概念であって、この自然界には《病気》などという忌避(きひ)すべき含みを持ったものが存在しているわけではないことはすぐにわかります。
人間以外の動物が腹痛を起こしたり高熱を発したとしても、彼ら自身にとっては《病気》ではなく自然現象でしかありません。
その症状は、その動物の身体が自然界に適応して現れている症状に過ぎません。人間だけがそれを感情的な気持ちをこめて《病気》と呼んで嫌悪するのです。だから《病気》は「似非科学」の用語であって、「真の科学」の用語ではありません。
❷その異常な状態に対しても、それぞれの特徴の違いからさらに細かく分類して、たくさんの病名が創案されます。
【この❷への反論】 真っ暗な地中を、自らの勘と経験だけを頼りに突き進む似非科学者たちは、たくさんの「病名」を作り出すことに貢献しました。病名を付けることでその状態をくっきりと浮かび上がらせることができ、対処する方法も具体的に決定できます。
例えば、アメリカ精神医学会が発行している「精神障害の診断と統計マニュアル(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)=DSM」などは、現在、精神医学を志す人は必ず勉強させられるものですが、それにはたくさんに分類された病名が紹介されていて、版を重ねるごとに増え続けています。
「真っ暗な地中を、自らの勘と経験だけを頼りに突き進む似非科学者の方たち」の努力は凡人には真似できないものですから、そのことを批判しているわけではありませんし、そのことによって発見されたこともたくさんあり、成果はそれなりに感謝しなければいけません。
だいたい、分身主義が一体誰を批判できるでしょうか?
僕たちの行動は、その脳を取り巻く環境にやらされていることを知っているのが分身主義なのですから。
しかし、人間は相反する二つのことを同時にはできないので、凡人にはできることが彼らには真似できないのは仕方のないことです。
彼らは病気という《憎むべき敵》と戦うために、どこまでも細部に入り込んでくれましたが、それはあまりに込み入っているので、自分のやっていることを外から眺める余裕を持てません。
あなたは肩書きが人を変えるということを経験済みですよね?
人は、課長という肩書きを与えられるとだんだんと課長らしくなっていくし、不良などというレッテルを貼られるとますます不良らしくなっていくものです。つまり、言葉が人を作るわけです。
課長も不良も、元々この自然界にあるものではないですよね!?
人間だけが名前を付け、名前を付けたことでそのものが出現するんです。
同じように、似非科学が病名をたくさん作ることで、その病名を授かった人は、その病名の病人らしくなっていくわけです。
病名を作ることで、その病名を持った人間が生まれるんです。このことをよく考えてみてください。
そして病名が病気を作ると、またもっと細かい症状が見えてきて、その症状にも新たな名前を付けると、その新たな名前の病気を持った病人を作り‥‥と、どこまでも細部に入り込んでいきます。
それは病気をなくすことよりも、病気を増やしているだけなんです!
こう言ったからといって、「じゃあ、あなたは病気という病気を《幻想》と決めつけて、一切の治療を放棄しろと言うのですか!?」などと短絡的な反応をしないでくださいね。そのことを批判しているんじゃないことはもう言いましたよね。僕は今、感想ではなく事実を述べているんです。
例えば沖縄では、精神を煩って非日常的な行動をする人に対してすぐに精神病者として共同体から放逐(ほうちく)しようとせず、《カミダーリ(神障り)》と呼んで受け入れる習慣があった(現在でもある)ようです。
彼女ら(多くが女性)は、生まれつき感受性が強く、霊的能力を備えた《セイダカウマリ(性高生まり)》と言われ、むしろ尊敬や畏れの念を抱かれます。
カミダーリを突き抜けた人はユタ(シャーマン)と呼ばれ、人類に共通した深い無意識を通して悩める人に共感を示し、その魂の傷を癒す力を得ることができるとされています。
ある人の身体に現れた同じ現象でも、それに病名を与えることで病人を作るのであって、カミダーリという名前を与えるならば病人よりもむしろその人の心の底に潜む能力を引き出し、人々を癒す人間を作ったわけです。
また、DSMの中にある「人格障害」などは、三つの群に分かれ10の症例に分類されていますが、これは以前は犯罪者を対象として考えられてきたものでした。
社会的概念である「良い・悪い」が根っこにあるこのマニュアルが、真の科学に基づいて創案されているとは言い難いことはわかります。
❸そして、その異常?な状態に陥った人間に対して、「患者(あるいはクライアント)」というラベルを貼り、その治療に当たる正常?な人間は、「医師(あるいはカウンセラー)」と呼ばれます。
【この❸への反論】さて、この反論こそ、僕(徳永分身)が、この分身主義の森で、あなたに発見していただきたかった一番のものです。
病気を負った異常者を患者と呼び、それを治療する正常者を医師と呼び、医師は患者の身体から病気を取り除き、自分たちと同じ正常な状態に戻す‥‥これが現代医療の筋書き(物語)ですが、これがどんなに非科学的な物語であったか、もうおわかりいただけましたね!?
いいですか?
何度も言ったので、いい加減嫌気がさしたかもしれませんが、もう一度言います。
僕たちは環境の媒体です。
これは「真の科学」が導いた事実を述べているんです。
僕の脳の中に浮かび上がる様々な言葉も、そして、それを文章に組み立ててパソコンに入力する行為も、全て僕を取り巻く環境が、僕という媒体にやらせていることでした。
そのことから言えば、医師と患者という優劣の関係、あるいは上から下への一方的な関係、などあり得ません。
医師は、その取り巻く環境に作られたものです。
そう。医者になろうという大志を抱き、猛勉強してやっと医者になったとしても、それはその分身さんが大志を抱き猛勉強させられる環境(環境には先祖代々から続く遺伝も含む)にいたからです。
ちなみに、小泉純一郎分身さんも、ジョージ・ブッシュ分身さんも、金正日(キム・ジョンイル)分身さんも、悪名高いアドルフ・ヒトラー分身さんも、実は彼らの強固な意志であそこまで登り詰めたと言うよりも、彼らを取り巻く環境に強固な意志を持たされて登り詰めさせ・られただけですし、また彼らの発言や行動は、彼らを取り巻く環境にやらされているだけのものです。
つまり、その環境の一部である僕たちみんなが(彼らと対立する人たちも含めて、そのみんなが)、彼らの脳に意志を浮かび上がらせ、彼らに発言や行動を取らせていたのです。
つまり、つまり、彼らを取り巻く環境である僕たちが、彼らを媒体としてしゃべったり行動したりしていたとも言えるのです。
同じように患者とは、その取り巻く環境に作られたものです。こちらは患者になろうとして一生懸命努力したわけでもないので、「彼らが環境に作られたもの」という感覚は、あなたも受け入れやすいでしょう。
だから、医師やカウンセラーたちが知らなければならなかったことは、実は自分たちが一緒になって患者の症状を作っていたという事実です。
科学(ここで言う科学とは似非科学のこと)が作り上げた「物語」がまだ未完成で、あまりにも視野が狭く貧弱だという意味は、その物語の中では、自分たち(医師やカウンセラー)は、患者を外側から眺めて、彼らを治療する立場にあるという点です。
医師やカウンセラーは、決して患者を外側から眺めて、彼らを治療する立場にいる余裕なんかありません!
現代医療の筋書き(物語)には、医師やカウンセラーは患者や病気と呼ばれるものを治そうとしますが、自分も患者や病気を作っていた環境の一部だということが忘れられています。
彼らだけでなく、「僕たちみんなの何かが一緒になったもの」が、一人の分身さんの肉体に、ある症状として現れていたのです。
「世界中の人々で作り上げていた何か」が、ある国とある国に戦争となって現れたり、一人の分身さんの犯罪行為となって現れたりしていたんです。
「世界中の人々で作り上げていた何か」が、僕という分身にこの文章を書かせているのと同じように。
僕がこの分身主義の森の中で、あなたに発見していただきたかったことはこのことです。
つまり、救われなければならなかったのは‥‥医師やカウンセラー自身だったんです!
いいえ、救われなければならなかったのは‥‥僕たち世界中のみんなの心だったんです。
未来の精神科医や精神療法士は、「治療」などという言葉は一切使わなくなるはずです。
未来の精神科医や精神療法士は、自分たちのやることは誰か個人を治すことではなく、まして、何かを治すことでもないということを知っています。
ひたすら自分の感覚を宇宙につなげていくことだけをすれば、僕たちはみんな自然に、精神病などと呼ばれているものから解放されていくことを知っています。
それらは、実は、「個人主義的な環境」の産物だったからです。
それが理解できない限り、僕たちにはたった一人の人さえ、苦しみから救うこともできません!
そのことが理解できない限り、僕たち人類はどんなに願っても、決して戦争も犯罪もなくすことはできません!
僕たちはどんなに願っても、決して本当の幸福をつかむこともできません!
‥‥ああ、今日はずいぶん長いこと、障害物だらけのでこぼこ道を歩かせてしまいましたね。お疲れ様でした。
分身主義の必要性が少しでも理解していただければいいのですが。「真の科学」に導かれて生まれた物語‥‥それが分身主義です。
だけどそれは架空の夢物語でも、遠い昔の神話でも、はるか未来の話でもありません。世界中どこにいても、友達に自分の映像を送ったり会話を楽しんだりできる、この時代の物語です。
宇宙にロケットを飛ばしたり、宇宙が誕生した初期の頃の様子を望遠鏡で眺めることができるようになった、この時代の物語です。
難病と言われていたものを次々と克服していき、その気になれば何年でも人間を病院のベッドの上で生かしておくことが可能になった、現代を生きる僕たちの時代の物語なんです。
科学の変化に僕たちの心は置いてきぼりを食っています。
科学がどんどん先に進めば進むほど、同時に、僕たちの心には得体の知れない不安や恐怖が広がります。
だからこそ、僕たちは今、この時代の物語が必要です。
科学と共に歩む物語(=分身主義)が、‥‥そう、僕たちには必要なんです。
◆◇◆ちょっと一言
さて、明日、いよいよ僕たちはこの森の出口に立ちます。
その向こうにはどのような世界が広がっていると思いますか?
ついに僕たちは、この森の出口に到達したんです。
そして、まだ誰も見たことのない、その向こうの風景を見る瞬間に立ち会おうとしています。
22日目 世界はどう変わるか?
僕たちは、この身体に張り巡らされている神経系に、自分とは、この身体の内側だという感覚を持たされていたということですが、実は、これ程あてにならないものはなかったということでした。(『8日目 自我とは何か?』)
もし1メートルもある箸(はし)を自由に操って豆をつまむ人がいれば、その時、その1メートルの箸はその人の指の延長(=身体の一部)です。クレーン車を見事に操る人は、そのクレーンの先端までが、その人の身体です。
また長いスキー板を担いで人ごみの中をぶつからずに歩けるのは、スキーの先端までがその人の身体です。
東京医科歯科大学の入来篤史(いりき・あつし)分身さんたちの、サルの脳に神経細胞の活動を観測する特殊な装置を付けて実験した話を前に話しましたね。
それによると、熊手を使用して餌を引き寄せた際、彼の脳は熊手を自分の手の一部であると認識しているようだということがわかったという話です。
先日、テレビで科学の最先端技術を紹介していました。
それは人間が指を動かそうとする時に発生する脳の微弱な電流を、離れたところにある筋電義手(きんでんぎしゅ)に飛ばして、その指を思い通りに動かすというものでした。
さしずめ念力といった感じです。
(正確に言えば、指を動かそうとする意志とは、環境に浮かび上がらせ・られた意志ですよ。科学時代を生きるこれからの僕たちは、世界を平和にするためにも、そして人類がすべからく幸福になるためにも、このような視点も持てるようにならなければいけません。このテレビ番組ではまだ気づいていないようですが‥‥。)
その義手に敏感なセンサーをたくさん取り付ければ、誰かに触れられるとその感触も脳に返ってきます。
例えばその義手を世界各国に置き、脳からの微弱な電流を、一旦、HTLM言語に置き換えてインターネットを使って飛ばせば、世界各国の人と握手をしてその感触までも味わえるわけです。
テレビ電話のようにお互いの顔が見えるようにすれば、もっと触れ合っている気持ちが強くなるでしょう。
そういったことが、いろいろできるようになったら、僕たちの身体の境界線の意識は、地球全土にまたがってしまうことになります。
つまり、この身体の中だけを走っていた神経系が「この身体の内側が自分である」と錯覚していたわけですが、その神経系が世界に飛び出してしまったようなものです。
僕たちの信じていた「自分」という感覚は、このように大きくなったり小さくなったり実に不確かなもので、本当はあてにならないものだったんです。
しかし、いくら「自分」も「意志」も錯覚に過ぎなかったと言ったところで、「錯覚」とはそれを持ってしまった時点で「環境」を変えるほどの力を持っているということも知りましたね。
たとえば自分のアパートに幽霊が出没すると錯覚してしまった人は、引っ越しを余儀なくされます。錯覚は、その人の人生だけでなく、人間関係にも影響を与えたりします。その人にとっては「錯覚」とはまぎれもなく現実なのです。
同じように、今の人類の脳に浮かび上がる「錯覚の自我(=これが自分であると信じているところのもの)」は、我々の脳を取り巻く環境を「個人主義的な環境」に変えてしまいました。それが我々の今の現実です。
しかし、今日までこの『分身主義の森』を一緒に歩いてくださった方は、科学は、今の我々が抱いている「自分」という意識は、それは神経系の見ている錯覚にすぎず、「本当の自分」というのは、この宇宙そのものだったのだと教えてくれていたことを知りました。
下の図を見てください。下図は、約140億年前、この宇宙がビッグバンによって生まれた瞬間だと思ってください。僕たちがまだまだ生まれたばかりの産声をあげたところです。どうせなら、手のひらに乗るくらいの可愛らしい大きさをイメージしてください(超高温・超高密度なので当然手には乗りませんが‥‥)。そこには素粒子(黄色い点々で表しています)と言われるものしか存在しませんでした。
その赤ん坊はあっという間に膨張し、内部にあった「素粒子」を最小の部品にして、自然界の法則というシナリオに基づいて様々な形を作ってみてはまたバラして、リサイクルして他のものに作り替えたりを、ただただ延々と繰り返しています。やってることは本当にそれだけです(それをレゴという玩具のブロックで表現したのが下図です)
実に単純明快でしょう。これが科学が自然界様から教えていただいた、あなたや僕の「本当の姿」だったんです。みんな僕たちの身体の内部(=宇宙)で行われているリサイクルです。
最小の部品(=素粒子)が作った一時的な姿が、今の我々、つまり人間です。だからいずれはバラされて宇宙に帰り、違うものにリサイクルされる宿命にあります。でも、元々の我々の本体(つまり宇宙のことですが)、それを作っているブロックの数は永遠に変わりません。これが科学的輪廻転生でしたね。
だけど、人間は「錯覚の自我」を持ち始め、まるで我が物顔で自分の内部を荒らし始めたから大変です。
要するに、僕の身体がこの宇宙だとしたらその中にたまたま生まれた癌細胞が「錯覚の自我」を持ってしまい、僕の身体の中で仲間を増やして大暴れしているようなものです。
「おいおい、癌くん。君たちも僕の一部なんだよ。そんなに威張らないで、他にもいる僕の一部たちと仲良くやってくれよ」そう言ってあげなければいけません。
残念なことに、「錯覚の自我」を持ってしまった癌くんという人間たちは、僕の身体というこの宇宙の内部環境をガラリと変えてしまいました。
それこそが人類が作ってしまった、この「個人主義的環境」です。
しかし、その癌くんたち‥‥、じゃなかった‥‥、人間たち‥がその錯覚から目を覚まし、科学が教えてくれている「本当の自分」を知ったら、世界はどのように変わるでしょうか?
つまり、自分たちの生活している「個人主義的な環境」が「分身主義的な環境」に変わったら‥‥ということです。
分身たちは、宇宙という自分の本当の身体の健康に気を配るので、互いに争うことはなくなります。助け合う気持ちで生きることになります。したがって武器は不要になります。
個人や企業が独占していた特許とか著作権などの知的所有権は、世界中のみんなで作っているこの環境に、個人や企業が媒体となって作ら・されていただけだと知るので、不要になり、人類の共有財産としてみんなで守るようになるでしょう。
お金も役に立たなくなるので他のもの(例えばSAカード:僕が創案したセルフ・アシスト・カードのこと)に変わり、お金が作っていた詐欺的文化が消えます。
また、お金がなくなったことにより、不要になる職業もたくさんあるので、人々は自由な時間がたくさん持てるようになるでしょう。
人々はその時間を利用して世界中どこへでもSAカードを持って自由に飛び回り、行く先々で自分の分身たちと交遊し、行く先々でボランティアのような仕事をしながら生きる人も出てくるでしょう。言語は、共通言語として誰もが英語は話せるようになっているのでどこに行っても安心です。
お金がなくなった世界なので、一方的にサービスを提供する「店」というものはなくなります。例えばホテルなども、今までの形態とはガラリと一変し、一つの空間をみんなで楽しむために集まる場所になります。宿泊客も一方的にサービスを享受するのではなくなり、総出でホテルの中を掃除したりします。
つまり、あらゆる仕事が「その場の時間と空間を共有した者が、交流を楽しむために行うもの」という意識に変化するのです。だから、そこにはもてなす側も客もありません。
今まで大富豪の住んでいた邸宅や別荘やプライベートジェット‥‥などは、元々は人類みんなの作った財産なので、みんなで共有し楽しめるようになるでしょう。
お金がいらない世界なので、何かを実行したり何かを手に入れようとしたりする時は、今まで金持ちだけに許されたようなことも、みんなが実行したり手に入れたりできるようになります。
そのため、それを実行したり手に入れたりするためのチケットをもらうために並んだり、順番待ちなどをすることが増えるでしょう。でも彼らにはそれが少しも苦痛ではなく、初めて会う分身同士、ずっと話ができるのでむしろ並ぶことが楽しみになっています。
時間に追われることのない彼らは、並んで待つことを少しも厭(いと)わないのです。
他にもいろいろと考えられます。
例えば、病気という言葉が違う言葉に言い換えられるでしょう。
痴呆症が「認知症」という名前に、精神分裂病が「統合失調症」という名前に言い換えられたように、あるいはいくつかの差別用語が違う名前に言い換えられたように、「病気」という敵対的な感情をこめて使われる言葉は、もう少し友好的な気持ちがこもった言葉に変化するはずです。
ちなみに分身主義は、「病気」のことを「適応症状」と呼んでいます。
病気という概念が変わるだけでなく、人々の死生観や医療自体も変わるでしょう。
男女の愛の形も変わるでしょう。
愛国心や国民感情といった言葉は死語になるでしょう。
今までの「国」のイメージは、この地球という国における一つ一つの「都市」のようなイメージに変わるでしょう。
「人権を保障する」などという言葉もなくなるでしょう。等価として大切にされる僕たち分身同士に、保障しなければならない人権などという概念が持ち上がるのはおかしなものだからです。
個性的を奨励する教育や社会はなくなるでしょう。
人々は「一人の分身が全ての環境に身を置くことはできないので、それぞれ違う環境に置かれた自分の分身が、その中で生きてくれている」と感じているので、互いに誇りに思い合うし、その環境が個性を作っていると知っています。だから、それぞれ個性的なのは「当たり前」で、敢えて奨励する必要もないと知るからです。
また、現代は幼い子供の命が奪われるような事件がたくさん起きてしまっているので、親も子供を守る気持ちが強くなっていますが、世界が分身主義的な環境になれば、全世界の人の意識の中に、子供は世界のみんなの分身という共通の気持ちが育っているので、あなたは安心して子供をブラジルの人や、イランの人や、北朝鮮の人‥‥など、どこへでも預けることができるようになります。
子どもは世界中のみんなで大切に育てるようになるでしょう。そんな世の中を想像してみてください。
なんて素晴らしい世界なんでしょう。
子供は決してあなただけの持ち物ではありません。全人類の分身です。宇宙の、部分であり、そして全体です。
あなたや僕が、宇宙の部分であり全体であるように!
また、地球環境問題などはまさに自分たちの身体の内部の問題なので、自国の利害などを持ち出していつまでも決着が付かないような幼稚な討論はしなくなるでしょう。最もお金のない世界なので「利害」などはあり得ませんが‥‥。
ところで、今ここに書いた話は全部、分身主義がちゃんと世界に行き渡った後に起こることを僕が勝手に想像しているだけです。
分身主義はあくまでも、僕たちが幸せに生きるための土台となるものです。
あるいは視点です。
分身主義的な土台や視点を持てていない人が、今の僕の勝手な想像だけを聞くと、次のように反応してしまうかもしれません。
でも、これらはみんな、個人主義的環境にどっぷりと浸かっている脳に浮かび上がる発想です。
もし分身主義がちゃんと行き渡れば、そんな発想は浮かび上がらなくなるし、発明や創作や働く意欲はますます強くなります。
今までお金のために発明や創作に意欲を燃やしたり働いていた人たちは、みんなのために発明や創作や働くことに喜びを感じるようになっているからです。だから一秒を競って醜く競い合うこともなくなります。
みんなのために働くことこそが、自分のためだと知っている人ばかりになっているからです。
僕たちは、自分を助けるような気持ちで他人に手を差し伸べ、それが自分の喜びとなります。
犯罪が起こる土壌すらない所に、犯罪は起こり得ません。
そこは、犯罪を起こしておいて、「それは環境が俺にやらせたんだから俺は悪くない」とか、「生きてたって意味がない」などと皮肉を言う人がいること自体、あり得ない社会なんです。
実は、誰も好き好んで争いや犯罪を犯していたわけではなく、個人主義という環境にやらされていたわけですから、環境が分身主義に変化すれば、放っておいても争いも犯罪のない社会になってしまうのです。
分身主義が行き渡った世界になれば、「現在の感覚から見れば」我慢しなければならなくなることもあるし、犠牲を払わなければならなくなることも、諦めなければならなくなることも出てくると思います。
だけど、「分身主義の感覚を持った人たちから見れば」それらが、我慢でも犠牲でも諦めでもないということを、もう、あなたにはわかっていただけましたよね。
それは、喜びなんです。
それこそが、喜びなんです。
分身主義が行き渡ったら、やがて、僕たちは生命の年齢制限を設けることができるようになるかもしれない、と僕は本気で考えています。
そんなことを言うと、個人主義的な環境にどっぷり浸かって、その環境に洗脳されている脳には、当然、反感が浮かび上がるでしょう。だけど、本当はとても素晴らしいことなのです。
自我が拡大しているその時の僕たちの「死」の観念は、決して「終わり」を意味するものではありません。自分の本当の故郷に帰ることです。そして自分の全身のために、違う分身になって再生することです。
僕たちは自分の全身ために、喜んで部分を犠牲にするのです。
その時、犠牲という言葉は「喜び」という言葉に取って代わります。部分は、全体の中でより良く生き続けるからです。
そのように、必ず、死が恐怖や悲嘆ではなく、祝福になる日がきます。
まだ「個人主義的環境」にどっぷりと浸かっている脳で、今の環境が「分身主義的環境」に変化した状況を想像して僕が語った世界に対して、その是非を論じることは全く無意味です。
環境が違えば、その人の脳に浮かび上がる価値観や感情も違うからです。
いらぬ誤解を受けないためにも、土台が、ちゃ・ん・と・し・な・い・う・ち・に、形が先走ってはいけないし、分身主義のできることは土台を作ることだけで、決して形を変えようとしてはいけません!
土台が変われば自ずと形が変わるので、そのことを信じて、ひたすら土壌を耕すことだけに精を出すことが大切です。
これまで僕たちは、世界を平和にするためには、外にばかり目を向けて、外を変えようとしてきました。でもこれからは、「自分」に目を向けて、科学的な視点で「自分の真実の姿」を見ようとするだけでいいんです。
それこそが実は、世界を平和にする一番の近道だったんです。
と言うより、それ以外に僕たちは世界を平和にすることはできません。
平和な世界にならなければ、僕たちも決して幸福にはなれません。一時的な見せかけの幸福で終わるだけです。
もしそれができないなら、この「個人主義的な環境の媒体」である僕たちは、今まで通り、同じ過ちを繰り返し、その度に誰かを批判したり何かに責任を押し付けたりし続けるしかありません。
自分(たち)を棚に上げて、自分(たち)の権利を主張して、自分(たち)の不利益に憤慨して何らかの体制を変えさせたとしても、それは権力の移し替えという同じことの繰り返しでしかないことは、人類の歴史が証明しています。
同じ環境の中にいる僕たちがしていることは、みんなのための真の構造改革ではなく、構造を作っている権力の移し替えをしているだけです。
個人主義という同じ円環の中に留まる限り、戦争や犯罪も繰り返されます。
戦争によって達成されるのは、力関係の移譲だけです。勝った方が正義で、負けた方が責任を追及されて終わるだけです。
この世界から争いがなくなる唯一の方法のヒントを、以前、次のように語りました。
現実社会では、まだ武器や鎧が必要ですが、仮想現実(インターネット)の中では、本物の武器も鎧も不要です。
だけど、インターネットは、いずれ僕たちが生きている現実社会をも、武器や鎧が不要な環境に変化させることができます。科学的な意味で、人間の《幻想(=錯覚)》が環境を変化させることは、僕たちはすでに無数に経験済みですから。
‥‥さて、分身主義の森はここで終わりです。
ここまで、一緒に分身主義の森を歩いてきてくださったあなたに心より感謝いたします。
僕たちは今、分身主義の森の出口のすぐ直前にいます。
その向こうからは、薄っすらと明るい日が差し込んでいます。
その向こうには、素晴らしい世界が待っていることも僕たちは予感できます。
その場所こそ、僕(徳永分身)が自分の全身全霊をかけて懸命に探し求めていた世界‥‥敢えて名前を付けるなら、「分身主義の夢見ているユートピア」です。
でも、まだこの場所から外に飛び出すことはできません。
偉そうにあなたをここまで先導してきましたが、僕もこの森の外に飛び出したことは、まだ一度もないんです。予感しているだけなんです。
その場所は、世界中のみんながいてこそのユートピアだからです。
分身主義は目的ではなく手段であるということを覚えておいてください。世界中の人が一つになり幸せになるという目的のための手段。
まさに、80年も前に宮沢賢治分身さんが夢見ていた理想の世界に突入するための手段に過ぎません。分身主義自体が目的ではないので、分身主義とは目的を達成したら忘れ去られる宿命のものです。
もう一度、宮沢賢治分身さんが夢見ていた理想の世界を噛みしめて見てください。分身主義そのものです。
分身主義は「‥‥主義」などと言っていますが、共産主義とか社会主義とか民主主義などという主義・主張とはまったく違い、物事を見る単なる視点です。自分や人間中心ではなく、自然界中心の科学の視点です。
言動において特に自分中心の人を、個人主義者などと揶揄(やゆ)する場合がありますが、その個人主義との違いを強調したいがために「‥‥主義」という言葉を使っただけです。
自分だけが中心だった子供の視点が、他の人の立場に立った視点も持てるようになることを大人になると言いますが、それでも大人は、まだ自分たち人間中心です。
分身主義はその先の自然界中心の視点です‥‥それを大人の大人の視点と分身主義では呼びます。
科学が導いてくれた最も先の視点です。
だから、世界中の人が分身主義の視点(いわゆる大人の大人の視点)を持てるようになった時、分身主義などという言葉は不要になります。
僕たちが幸福になった時は、幸福などという言葉もなくなっているのと同じ理屈です。
世界中の人が一つになり、「共感」という最大の幸せを掴むという目的を完遂(かんすい)させるためには、僕たちを手引きしてくれる何らかの名前を付けた指針が必要です。そのための最も心強い手段として、今は、「分身主義」という名前が必要なだけなんです。
今言った「共感」というのは、まだ会ったこともない人々が心のどこかでつながっていると感じ合っている「分身観」のことです。
この分身観という「共感」で、しっかりとつながるという目的を達成させるために仮に付けられた名前です。
機は熟しています。
一緒にこの歩きづらい分身主義の森をここまで歩いて来てくださったあなたは、幸福のすぐ側まで来ています。あなたはもう「幸福か幸福じゃないかは個人の勝手だ、お節介はやめてくれ」などとは言いませんよね。
近いうちに、世界中の人たちが力を合わせて、この鬱蒼とした分身主義の森から、分身主義の夢見ているユートピアへ飛び出せる日が必ず来ます。
僕たちの本当の平和と幸福はそこにしかないからです。
このインターネットが、僕たちの生きている間にそれを可能にしてくれるかもしれません。僕はそのことを考えると、嬉しくて仕方ありません。
僕の脳にその嬉しさを運んでくれる環境にお応えして、まだまだ僕は喜んで分身主義に関する文章を書か・され続けるでしょう。
僕という一人の分身は、世界中のみんなのために喜んでこの身を粉にして、無償で働きます。
働かせていただけることに感謝いたします。
分身主義の理想とする世界とは、みんながこんな気持ちで、働か・されることに感謝しながらみんなのために無償で働く世界です。
お金なんかに頼らなくても立派に社会が成立する世界です。そして、この宇宙の万物に祝福されて喜びの中で死んでいける世界です。
それは、宇宙に溶け込み、本当の自分に帰っていくことを意味します。
今のあなたには、そんな世界が少しだけ遠くに、しかし、くっきりと見えているでしょうか!?
さあ、「世界に奇跡を起こすために今僕たちにできること、そして、今僕たちがやらなければいけないこと」を一緒に実行しましょう。
◆◇◆最後の最後に一言
歩きづらい分身主義の森を、一緒に歩いてくださって本当にありがとうございました。分身主義の森はここで終わりですが、この場所こそ、本当の意味の僕たちの始まりです。
この分身主義の森から、分身主義の夢見ている世界へ飛び出すために、僕たちにできること、そして僕たちがやらなければいけないこととは、外に目を向けて、外に働きかけることではなく、自分を見つめ、自分の本当の姿を知ろうと努力することです。
そのための一番いい方法がブログを作ることです。
他人にわかってもらうために書くのではなく、自分を発見するためです。
僕だって文章を書いているうちに分身主義と出合えたんです。自分の手で書いてみることが大切です。書くことは行動です。書き間違えてもブログなら即座に修正できますから。とにかく実行してみることです。
書くという行為は同じでも、普通の日記を書くのと違う点は、常に他人の目を意識することでより客観的に自分を眺めることができるという利点があります。あなたの視界がどんどんクリアーになることを実感するはずです。
そしてあなたが自分を発見することこそ、何にも勝る世界平和の実践だということに気づいていただけるでしょう。
「分身主義的な視点」で作るブログを「分身主義ブログ」と名づけます。もっと略して、「Bblog」でもいいでしょう。
「Bblog」の作り方はこちら⇩です。
http://www.bunshinism.net/action
(* 現在は閉鎖しました)
~ おわり ~
現在からの「あとがき」 2020.11.13
この作品は、2004年10月26日から2006年12月25日の、2年2ヶ月間にわたり計34回発行したメールマガジン『精神病は病気ではない』を一つにまとめて、『分身主義の森を抜けて‥‥』 というタイトルに改題してホームページで公開していたものを、note用に再編集したものです。
僕の若い頃、「自己啓発本」が流行った時期がありました。
たぶんアメリカ発祥だと思いますが、《成功》を手にするための心の持ち方みたいなものを説くものでした。その辺りから、プラス思考とかポジティブシンキングなどという言葉も盛んに使われ始めたような気がします。
それは今でも根強い人気があり、それを信奉している人たちも未だにたくさんいそうです。
若い頃のことなので、《成功》という魅力的な言葉にひかれて何冊か読んではみました。読んでみてわかったのですが、アメリカンドリームなどという言葉もあるように、アメリカから来た「自己啓発本」の言う《成功》とは、ほとんど「金持ちになること」を意味しているようでした。
だけど世界中に出回るお金には限度があります。お金は無尽蔵に印刷していいものでもありません。そんなことをしたら世界経済は大混乱に陥ります。
ということは、冷静に考えればわかることですが、ある人が金持ちになるためには、その何万倍もの貧しくなってくれる人が必要だということです。
個人主義のアメリカからやって来た「自己啓発本」を読んで、いくらみんながポジティブシンキングをしたからといって、その人たちがみんな裕福になることはあり得ないということです。むしろ競争を生み格差が広がるだけの話です。
2017年のデーターですが、国際非政府組織(NGO)オックスファムは、世界で最も裕福な8人の資産が、世界人口のうち下位50%(約36億人)の合計額とほぼ同じだとする報告書を発表しました。
ほらね。当然の成り行きです。
自己啓発本が言う「成功」が「お金」を意味しているのであれば、今見てきたように、明らかにその理論は間違っています。僕たちは《成功》などという甘い言葉に乗せられて、せっせと金持ちを育て上げてしまっていただけなのです。あるいは、失敗しても、「まだ自分の努力が足りなかっただけだ」などと、プラス思考を持てる人間になれただけです。
それによって儲かるのは、億万長者たちを広告塔に掲げて「君たちも、今の意識を変えて努力さえすればあのようになれる」と謳う本を出版した側や、そのようなセミナーを開催する側ばかりで、最終的にはたくさんのお金をむしり取られて、「成功=お金」とは逆のものを獲得して終わることになるはずです。
何が間違っていたのでしょうか? 「成功=お金」の公式が間違っていたのでしょうか?
でも、現代はまだお金社会ですから、お金がなければ幸福も手に入れられません。「お金がなくても愛さえあれば」などという昔のつつましい物語を無邪気に信じていては、厳しい現代では生きてさえいけないでしょう。
では何が間違っていたのでしょうか?
それは、個人主義のアメリカからやって来た「自己啓発」の言う「成功」や「幸福」が、《個人の成功》や《個人の幸福》を意味していたからです。
《個人の成功》のためには、たくさんの「失敗してくれる個人」の存在が必要でした。すると、競争や争いが生まれ、ますます格差が広がる方向に向かうだけです。《自己啓発》とは成功への道を伝授するどころか、結果的には、少数の成功者のために役に立ってくれる「失敗者」を増やすだけでした。
また、《個人の幸福》には、優越感が必要でした。個人主義の社会とは、他人との比較の中で優越を感じた時に、幸福を感じる社会なのです。
だけど優越感に根差した幸福ほどタチの悪いものはありません。これは他の人からの反感や妬みを買い、争いを招いたり、自分の地位が逆転しないように常に警戒して生きなければならなかったりするので、《自己啓発》とは本当の幸福とは程遠いものだったのです。
一緒に「分身主義の森」を歩いてくださったあなたは、「幸福か幸福じゃないかは個人の勝手だ、お節介はやめてくれ」などという「個人主義的な発言」は、もうしませんよね。
本当の幸福とは、我々の脳が「個人主義的環境」に置かれている限り、誰一人、一生掴めないものなのです。本当の幸福とは、世界中の人が幸福になること以外にあり得ないからです。
分身主義は、「本当の幸福」とは、全世界の人の心から不公平感や不満や、妬みや恨みや怒り‥‥といった争いを作る種が消えて、お互いをプラウドし合って(誇りに思い合って)仲良く生きれるようになった時、つまり世界が本当の意味で平和になった時、初めて叶うものだと知りました。
もう一度、我らが分身、宮沢賢治分身さんの言葉を噛みしめてください。今から90年以上も前に、偉大なる大詩人が書かれていたものです。
分身主義は視点です。
分断されていた「個々人」だった我々が、真の科学を通して自然界様の声を聞き、世界中の人とつながり、140億年の宇宙とつながった視点です。
3Dアートで体験していただいたように、普段見ている二次元の視点をちょっと立体視に変化させると違った模様が浮き出てきました。初めはなかなか見えなくても、一度見えるようになれば、次からはすぐにその視点を作れるようになります。
今、僕たちは、「個人主義」の視点も、「分身主義」の視点も、そのどちらの視点も持てるということです。
分身主義の視点ばかりで世界を見続けるのは、今の僕たちには無理だと思います。でも、いつでもどこでも、分身主義の視点も持ち合わせて、二つの視点を簡単に行き来できるようにしておくことは大切です。
そのための一番良い訓練は、テレビを見ていてその出演者がしゃべっていることや行動している姿を見ながら、「ああ、今この人は《環境》にしゃべらされたり行動させられたりしているんだな」とわかるようになることです。
その時、大事なことは、「環境」とは、我々人類の「幻想」が作り上げている身近な環境だけでなく、「この140億年の宇宙」という意識で見ることもできるようになることです。
宮沢賢治分身さんも言っていました。「銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」
この森を一緒に歩いてくださった方ならわりとすぐに、先ほどの二つの視点が作れるようになり、140億年も一瞬にして行き来できるようになっていると思います。キーワードは「ビッグバンの風」ですよ! たった一言で全部を言い尽くしていますよね。
そしたら、忙しい日常に追いまくられて、分身主義の視点を忘れてしまわぬように、そして、ますます分身主義の見ている風景がはっきり見えてくるように、日々、精進するようなつもりで「ブログ」を作りましょう。
その行為だけが、僕たちの環境を少しずつ、平和と幸福の方向へと変化させるからです。
‥‥でも、
14年前に執筆した、この『分身主義の森』の中では、何度もそのように皆さんにお願いしていた、「分身主義ブログ(=Bblog)」ですが‥‥、
今はたくさんのSNSというものが出現して、即時に全世界に情報を届けることができるようになっています。
SNSは年取ってしまった僕には太刀打ちできないツールですが、それをいとも簡単に使いこなす人たちがいることはとても心強いです。
SNSというツールは、14年前よりもはるかに可能性を広げてくれました。
それなのに、せっかく世界を平和にしてくれる可能性を持ったツールが、今では逆に争いを招いたり、個人主義的な自己顕示欲を満たすためだけに使われているのも、やはり我々を取り巻く環境がまだまだ「個人主義的」だからです。
この素晴らしいSNSというツールと、「本当の自分とは何か」を知りたいというあなたの熱意や「世界中の人が仲良く暮らせる社会」を願うあなたの熱意が手を組めば、世界はすぐに変えられます!!
世界から争いがなくなり、武器もお金もなくなり、みんなが仲良く助け合って生きて、そして世界中の人の祝福の中で死んでいけるユートピア‥‥。
(『ブンシニズム・ドット・ネット』)
分身主義が夢見ている世界‥‥は、もはや夢物語ではありません!!
夢のような世界があなたの力で実現するのです!!
(「始まりはどんなものでも小さい」(キケロ))
★★★ 関連記事(保存版) ★★★
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★★★ 未来モデル小説 ★★★
『ブンシニズム・ドット・ネット』
人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義の《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。
長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。