サラサーテとラロの物語
本日のテーマの元ネタは、NHK教育テレビ『ららら♪クラシック』で放送された「天才×遅咲き“スペイン交響曲”〜サラサーテとラロ〜」です。クラシック音楽に疎い私は、今このタイミングで書いておかないと、サラサーテとラロの名前すら忘れてしまうと思い、付け焼刃の情報を足して書いていくことにします。
天才演奏家、サラサーテ
パブロ・マルティン・メリトン・デ・サラサーテ・イ・ナバスクエス(Pablo Martín Melitón de Sarasate y Navascuéz, 1844/3/10-1908/9/20)は、スペイン・パンプローナ出身で、19世紀中盤から後半にかけて活躍した作曲家、ヴァイオリン奏者だったバスク人です。
彼の生まれ故郷、パンブローナは、スペイン三大祭の一つ「サン・フェルミンの牛追い祭」で知られています。サラサーテは、幼少期からバイオリンの演奏で頭角を現し、天才の名を轟かせていたようです。
サラサーテは、天才芸術家にありがちな変人ではなく、温厚なジェントルマンで礼儀正しく、身だしなみや立ち振る舞いも流麗であったため、女性には大変モテ、多くの人から愛された人だったようです。番組では、18年間彼に片想いし続けた女性のエピソードも紹介されていました。
当時の著名な音楽家たちとも交友があり、上述のサン=サーンスやドボルザークなど著名な音楽家から新作の献呈を受けています。サラサーテが初演奏を行ったことで話題になった楽曲も数多く、後述のラロもその恩恵を受けた一人だったようです。
サラサーテ自身も優れた作曲家であり、1878年にバイオリン協奏曲『ツィゴイネルワイゼン』を残しています。難解なフレーズや変調も苦も無く弾きこなす超絶的な技巧は称賛され続け、生涯「天才」の世界的名声を保持したまま、64歳で生涯を終えました。
1991年からは、彼の名を冠した若手ヴァイオリン奏者のためのコンクール、パブロ・サラサーテ国際ヴァイオリン・コンクール(Pablo Sarasate International Violin Competition)がパンプローナで開催されています。
遅咲きの苦労人、ラロ
一方のヴィクトール・アントワーヌ・エドゥアール・ラロ(Victor Antoine Édouard Lalo, 1823/1/27-1892/4/22)は、フランス・リール生まれの作曲家、ヴァイオリンおよびヴィオラ奏者です。祖先は、サラサーテと同じバスク人だったようです。
ラロは非常に真面目な人で、若い頃から作曲家になるために研鑽を重ねていったものの、望んだような成功は掴めず、ヴィオラ奏者に転進して生計を立てていました。40歳を過ぎてから再び作曲に取り組み、50歳の時にサラサーテの演奏と出会って大いに感化され、1874年に『ヴァイオリン協奏曲第1番 ヘ長調』を書き上げ、献呈した頃から遅咲きの才能が開花していきます。
サラサーテによって初演された『ヴァイオリン協奏曲第1番 ヘ長調』は大成功を収めます。その後も自身の代表曲となる『スペイン交響曲』や『ノルウェー幻想曲』がサラサーテによって初演され、ラロの作曲家としての評価と人気はぐんぐんと高まっていきました。以降に巻き上がるスペインブームの先駆者とも言われます。
苦労人のラロは、20歳以上も年下のサラサーテへの感謝の念を生涯失わず、「もしもあなたに出会わなければ、私は今も取るに足らない音楽を書き続けていたことでしょう」という手紙を送っているそうです。
天才(Genius)が遅咲き(Late bloom)に道を開くストーリー
ラロは元々音楽的才能はあったものの、なかなかチャンスに恵まれない不遇の人だったということなのでしょう。なかなか運が味方しなかったのは、何かが足りなかったからだと思われます。番組では、解説の下山静香さんがラロの初期の作品を「面白味・革新性に欠ける」と評しています。生真面目な性格が音楽に投影されすぎ、型にはまった曲しか作れない「あと一歩及ばない残念な作曲家」でした。
そんなラロが殻を破るきっかけを提供したのが、天才・サラサーテとの出会いだったというストーリーはとても興味深いです。ラロが諦めずに精進し続けたからこそ、サラサーテとの縁を得て才能が開花した、いやようやくその音楽的才能が周囲から認知されるようになったと言えそうです。
高名なヴァイオリンの名手サラサーテが、無名のラロの作品を演奏することで、その埋もれていた魅力を惹き出し、箔が付いて世間に広く届けることができ、大きな人気を訴求できたと考えられます。
現代にも通用するサクセスストーリーです。著名な天才の後押しで、隠れた才能が掘り起こされる事例には夢があります。真の才能を持った天才の名声は、こういった形でどんどん利用されて欲しいと切に思います。