『極上の孤独』を読む
本日の読書感想文は、一時期話題になった下重曉子『極上の孤独』(幻冬舎新書2018)です。再読になります。
ともだちを求めない人が増えた
本音レベルでは、厳選された信頼できる数人とだけ繋がっていれば十分だ、という考えの人が増えているような気がします。疲れるだけの人間関係を断捨離して、自分のやりたいことに集中したい、と真剣に思っている人です。
社会的地位のある人や経済的に恵まれた人の中には、「ともだちは多ければ多いほどいい」「誰とも繋がっていないのは淋しい」という考え方はナンセンスであり、自分の大切なものを守るために交友関係を厳選すべきだと助言する人が少なくありません。
社会的強者の孤独肯定論(に見える)
本書を読んで、著者の下重氏もそのような立ち位置の孤独賛成派、自らの意思で孤独を選べる社会的強者、と映りました。
と孤独を肯定し、孤独の効用を説きます。自身の孤独だった例として、病弱で友人のいなかった幼少期や社会に出てから常に感じていた疎外感などが語られています。
孤独を肯定する説明には真理が含まれています。成功している人、素敵な生き方をしている人、は孤独を極度に怖れたりはしないのは、多分真実です。孤独に打ち勝つだけのガッツがなければ、生き辛いのは仕方がない、のもその通りだと思います。
「淋しい」という一時の感情に負けて、それを埋めてくれる人を探してはいけないと言います。とはいえ、自分に自信を持てない弱い人間にとって、誰からも相手にされていないと感じている状態に耐えるのは、なかなかきついものがあります。一時的な状態でなく、慢性的孤独状態に耐えられるのは、特別な人だと思います。出口のない寂しさは振り切ろうとしても、じわじわボディブローのように効いて、精神を蝕んでいきます。
自ら孤独を選べる人は孤独にならない
本書の書評には、孤独についての優れた見識という好意的な評価がある反面、辛辣な悪評も目立ちます。
それは『下重氏からは世間一般の孤独な人というイメージが全く沸かない。付き合いたい相手を自分の都合で選ぶことができる高等な人の自慢話じゃないか!』というものです。私の一回目の読後感も似たようなものでした。
下重氏は、誰とも繋がれない天涯孤独に押し込められた人ではありません。つれ合いもいるし、友人もいる。豊かな生活も社会的地位もあって、尊敬も集めている。そもそも誰からも相手にされていない孤独な人が、本を出版できるはずもありません。
下重氏と、批判する人とでは、「孤独な人」についての定義が違うのだろうと思います。自らの意思で孤独を選べる立場の人と、孤独になりたくないのに孤独に甘んじている人とは根本的に立場が違います。強い立場の人の説く「孤独のススメ」が刺さる相手は、同じような恵まれた環境にいる少数派ではないかと思います。
孤独への向き合い方
わざわざ孤独を選ぶ必要はないし、孤独であることを怖れて我慢に我慢を重ねて周囲の人たちと繋がっておく必要もありません。
結果として誰からも受け容れられずに孤独な状況に直面した場合、一人で踏ん張って耐えるしかないという覚悟を決めて独力で進むのも、周囲に迎合して救いを求めるのも、どちらもありだと思います。人間としてどちらが優れた生き方かと対比させて語るのは無理があります。
孤独を受け止めて立ち向かうのも、孤独を避けて迎合するのも、ケース・バイ・ケースで使い分けたらいいと思います。自分が直面する環境や条件は変化するので、どちらかに決め打ちをせず、柔軟に対処した方がいいです。
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