或るロックスターの思い出4:フィル・ライノット
私が関心を抱いていたロックスターを回想する”或るロックスターの思い出”シリーズの第4回は、フィル・ライノット(Phil Lynott 1949/8/20-1986/1/4)を取り上げます。
生き様に憧れた「ザ・ロッカー」
ロック・バンド、シン・リジィ(Thin Lizzy)のリーダーであり、ボーカル&ベーシストであり、優れたソングライターでもあったフィル・ライノットは、私が最も敬愛するアーティストです。
彼がロック・シーンに与えた功績は絶大であり、敬意をこめて『ザ・ロッカー The Rocker』『アイルランドの英雄』と呼ばれます。彼を慕うアーティストは多く、シン・リジィが遺した楽曲は、多くのアーティストに今もカバーされ続けています。
2014年のソチ冬季オリンピックの男子フィギュアスケートで金メダルを獲得した羽生結弦選手のショート・プログラムに使われた『パリの散歩道 Parisienne Walkways』という楽曲は、盟友でもあったゲイリー・ムーア―(Gary Moore 1952/4/4- 2011/2/6)と彼との共作です。
フィル・ライノットとの邂逅
私が、彼の存在を知ったのは、1983年に発売されたシン・リジィ最後のスタジオアルバム『サンダー・アンド・ライトニング Thunder & Lightning』(通算12作目)です。当時は、"リノット"と呼称されていました。手にしたのは、シン・リジィの解散が決まり、ラストツアーも終了した後の1984年でした。
確か、レンタルレコ―ド屋で借りてきた2枚のうちの1枚でした。高校1年生の秋頃だったでしょうか。FMラジオからカセットへの録音は自室のラジカセを使っていましたが、レコードからカセットへのダビングには、実家の応接間に置かれていたSONYのステレオセットを使っていました。
TDK(マクセルだったかも……)の46分テープをセットし、レコード針を落とし、A面1曲目の『サンダー・アンド・ライトニング Thunder & Lightning』のイントロが流れ始めた瞬間から最後まで一気に引き込まれました。
翌朝、ロックについてよく語り合っていた級友のひとりに、この抑えきれない興奮を伝え、ダビングしたテープを貸しました。その友人は翌朝、教室に駆け込んできて「これはスゴイ!」と共感してくれました。親友は共犯関係を結ぶことでできるのだということを知りました。
その興奮が冷めないまま、間髪を置かずに手を出したのが、解散ツアーの音源を収めた二枚組のライブアルバム『ラスト・ライブ Life』です。これも瞬時に気に入りました。特に『エメラルド Emerald』で始まり、歴代ギタリストが壮大な競演を繰り広げる『ロッカー The Rocker』で締め括られる二枚目のB面は最高でした。『アリバイ Waiting for an Alibi』やシン・リジィの代表曲である『ヤツらは町へ The Boys Are Back in Town』も大好きでした。
1984年のある一時期、私の頭の中は、シン・リジィの音楽とフィル・ライノットの世界観一色に埋め尽くされていたのです。
シン・リジィの先駆性
シン・リジィの音楽の特徴は、ツインギター・スタイルでしょう。シン・リジィに在籍した歴代のギタリストは、いずれ劣らぬ名手ばかりです。
二人のギタリストが奏でるハードで美しいハーモニーとグルーブ感は、後に登場する数多くのツインギタースタイルのロックバンド ~アイアン・メイデン、ジューダス・プリースト、ウィッシュボーン・アッシュ、ナイト・レンジャーなど~ の中でも傑出しており、最高峰に位置付けられる、という評価に激しく同意します。
リズム隊も強力で、ライノットの重厚なベース、ライノットの旧友であり、長くドラマーを務めたブライアン・ダウニー(Brian Michael Downey 1951/1/27- )のタイトなドラムプレーも大好きでした。
そしてなんといっても、曲と歌詞の素晴らしさです。ライノットは優れたソングライター、詩人でした。私は彼の書く歌詞のことばの持つ深み、響きに惹かれます。
シン・リジィは、自分達独自のカラーをごり押しするようなバンドではありませんでした。優れた作品ならば、古い民謡や他人の作品も躊躇なくプレーしたし、売れる目的のポップな楽曲も衒いなく取り入れていました。その全方位的な雑食性、エンターテイナー性も私には魅力でした。
滅びの美学
優れたエンターテイナーとして、スポットライトを浴び続けてきた代償だったのでしょう。ライノットは、作品を生み出すため、その日を乗り切るために、身を削り続け、精神を擦り減らし続けてボロボロになっていきました。
ライノットは、1986年1月4日、ヘロインの過剰摂取に伴う内臓疾患で敗血症を発症し、36歳の若さで亡くなってしまいました。私がシン・リジィに夢中になって1年余りしか経っていない高校2年生の冬です。冬休みを終え、三学期の始業式で体育館に向かう途中、沈痛な気持ちで見た情景がなぜか頭から消えません。
彼の死を知った私は、ひどいショックを受けていました。憧れのヒーローが突然この世界から消えてしまったのです。当時の私は、彼の出生を巡る複雑な事情や、人間性や、置かれていた状況をまだ詳しく知らなかったので、「なんと馬鹿なことを……」とただただ残念に思うだけでした。
しばらくは、上述の2枚のアルバム(をダビングしたカセット)を自室でヘビー・ローテーションで聴き続けました。あの時、成人だったならば、共犯関係を結んだ友人を呼び出して、酒をしこたま飲んで過ごしたことでしょう。
彼の死がもたらしたもの
私が本当の意味で、フィル・ライノットという人物に惹かれたのは、彼の死後かもしれません。皮肉なことに、彼の死によって音楽雑誌では追悼特集が組まれたり、アルバムの復刻版や廉価版が出されたりすることとなり、シン・リジィ再評価の波がやってきました。
私はその恩恵によって、シン・リジィとフィル・ライノットについての理解を一層深め、バンドの全盛期だった1970年代の作品をリーズナブルに買い集めていくことで更に深くシン・リジィの音楽の素晴らしさにのめり込んでいきました。
代表作の『脱獄 Jailbreak』(1976)、アーティストからの人気が高い『サギ師ジョニー Johnny the Fox』(1976)、名曲『ダンシング・イン・ザ・ムーンライト Dancing in the Moonlight (It's Caught Me in Its Spotlight)』が収められている『バッド・レピュテイション〜悪名 Bad Reputation』(1977)は、この頃に復刻版で手に入れたものです。
彼の歩んだ人生は壮絶で、「ザ・ロッカー」の称号に相応しいものです。奔放な性遍歴、ドラッグ中毒、アルコールの過剰摂取によって廃人化していく人生を真似したいとは思わないものの、フィル・ライノットという人間と彼の貫いた滅びの美学を嫌いになれません。彼から受け取ったものは私の中で大き過ぎるのです。
海外旅行には興味がなくなったものの、2005年にアイルランドのダブリン市内に建立された彼の銅像だけはいつか生で味わいたいと思っています。
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