『林住期』を読む
本日のnoteは、私に生きる指針を与えてくれる五木寛之『林住期』です。
無条件に信頼しているオトナ
私にとって、五木寛之氏は、村上春樹氏、村上龍氏と並んで非常に重要な地位を占める作家です。高校時代に出会った衝撃の書、リチャード・バック『かもめのジョナサン』は五木氏の翻訳でした。
それ以来氏の著作を読み漁ってきました。扱う題材や文体、選ぶことば、価値観が私の嗜好や肌にしっくりと合う感覚があります。小説のみならず、エッセイの名手でもあり、『風に吹かれて』他、多数の名著があります。途中休筆した時期も経て、80歳を越えた今も新作を発表し続けておられる巨人でもあります。
クルマ、旅など、氏の著作がきっかけとなって意味を再定義し、自分の中に取り込んで血肉化したものも多い。私にとっては、無条件に信頼しているオトナ、人生の先輩です。
『林住期』思想との出会い
氏から影響を受けた最大のものが、本書で扱われている氏の『林住期』に対する思想だろうと思います。この考えに初めて触れた時から共感しかなく、「私の求めていたものだ」と確信しました。実際の私の行動にも大きな大きな影響を及ぼしています。
古代インド人生を四分割する『四住期』という考え方、前半の『学生期』『家住期』を生き切った後の50歳~75歳に該当する『林住期』は人生のもっとも豊かな時期であり、「生きる」ことに集中する時期だといいます。
「林住期」を人生の黄金期と決意することから、新しい日々が始まるのだと私は今つよく思う。(P25)
という氏のことばに背中を押されている気持ちです。
氏は、これまでと違う生き方を試みるからといって「人生の再出発」というイメージではなく、
「林住期」は人生におけるジャンプであり、離陸である、と私は思う。まったく新しくスタートするのではない。過去を切り捨てて旅立つのでもない。それまでの暮らしを否定し、0からやり直すのでもない。これまでにたくわえた体力、気力、経験、キャリア、能力、センスなどの豊かな財産の、すべてを土台にしてジャンプするのである。(P42)
と書かれています。私のイメージにぴったりくる考え方です。
人生五十年説をふり返る(P155-163)
本書に収められている項のうち、特に私の共感が強い「人生五十年説をふり返る」を取り上げたいと思います。
私は、「人生五十年」でいい、という価値観を信じています。人生五十年分を自分以外の人達にも配慮しながら真っ当に務めたら、後の人生はおオマケでいい、後は本人の好きに生きていいだろう、という感覚を持っています。
法を破っていい、人を傷つけてもいい、好き勝手やっていい…とばかり、社会人として果たすべき義務を無視してよい訳はありません。
ただ、50年踏ん張って生き抜いた人間は、他人の為に自身の人生を捧げる生活、「俺も我慢しているんだから、お前もワガママ言うな」という空気から逃げていいんじゃないか、と思っています。
この私の気持ちを、五木氏は見事に代弁してくれます。
なすべきことはなせり、見るべきことは見つ、とまではいかずとも、オマケとなればどう生きようとこちらの自由だ。はたから文句をつけられる筋合いはなかろう。会社や組織に属している人間は、五十歳で定年退職するのが理想だと思う。六十歳ではおそいのだ。人体の各部が五十年をめどに作られているのなら、その辺ではたらくのはやめにしたい。あとはすきで仕事をするか、自由に生きる。(P160-161)
できれば生活のために働くのは、五十歳で終わりにしたい。社会への義務も、家庭への責任も、ぜんぶはたし終えた自由の身として五十歳を迎えたいものだ。生まれてから二十五年間は、親や国に育ててもらう。それから五十歳までの二十五年間を、親や子供を養い、国や社会に恩を返す。(P161)
五木氏も49歳だった1981年から約5年間休筆されて、学生に戻ったり、休憩期間を取っておられます。目上の功績を残している人を引き合いに出して、自分を正当化するのは卑怯だとは思うものの、私も同じように生きたいというのが偽らざる気持ちです。