0526「会話は歩きながら、その2」
ただの日記です。
昨日はクリエイター仲間の3ちゃんに2年ぶりくらいに会った。5月の上旬に等々力渓谷〜多摩川を歩きながら会話したら、思考が活性化する&運動も同時にできて最高だったので、それに味をしめて、今回も歩きながらの会話を提案した。昨日のルートは武蔵野公園〜野川公園。
3ちゃんは「むすこのを作るついでだから」とお弁当を用意してくれた。誰かの手作りお弁当を食べるとか、何年ぶりだろう!?外で食べるお弁当はおいしい。デザートのさくらんぼまであった。感激。
クリエイティビティやものづくりについて、いつもあれこれ考えているものの、なかなか同業と話す機会がない。今回は「言語化と可視化」について、「創作のモチベーション」について、「アートにおいて数字が目的化してしまうこと」についてなど、聞いてみたかったことをいろいろ質問して、思考が深まった。
言語化と可視化について、「絵は、部屋の片隅にさりげなく置いてある置物を、そのままさりげなく描くことができるが、文章ではそれはできない。書いた時点で置物にフォーカスしてしまう。」という話が印象深かった。これはどなたかの作家さんの言葉らしいのだけど。
ここでいう「言語化」というのは、脳内イメージないし考えを「ことば」で表現すること。「可視化」は脳内イメージないし考えを「絵」で表現すること。
わたしは言語化と可視化をどちらも「(自己)表現」の方法として同じくくりで考えていたけれども、全く別ものなのだと気付いた。同じ土俵で考えるものではなかった。
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わたしは何かを描いたり書いたりするとき「表現したい」気持ちはあるけど「伝えたい」気持ちは特にないんだよね。表現したものを見たり読んだりしたひとが、何かを受け取ってくれればもちろん嬉しいと思うけども、そこになんらかの文章なり絵なりがあれば、ひとは必ず何かを感じる(受け取る)わけだし、何を感じる(受け取る)かはそのひとの自由だと思っている。
「誰かのために」をモチベーションにすると頭デッカチなものが出来がちだし、なんだかおこがましい気もする。
なので、よく言われる「伝わる文章を書きましょう」というのが、ずっとしっくりきていない。言われていることはもちろん理解できる。けど、その度に「伝えたいこと、ないなあ…」と腕組みしてしまう。
表現したいものを、表現できるようになりたいとは願っている。こう書くと、受け手のことをまったく考えていないようで不遜な気もするけども、根底にはもちろん、もしそこに受け手がいるとするなら、その方には喜んで欲しいし、幸せな気持ちになってもらいたい願いがある。でも、そのことと「伝わりやすく」は繋がらないように感じる。
わたしにとって重要なのは、何かを伝えることよりも、わたしが表現したものと相手との間に偶発的に生まれる(かもしれない)何かで、相手の思索の余地を残しておくことのような気がする。具体的なものを手渡ししたいわけではない。
結論がでていないまま書いているから、着地点がないな。もうしばらく考えます。もやっとしたまま終わります。
追記
あとで読み返したら、最初から読む人がわかっていてそのひとに向けて書く場合と、ただ自分が書きたいから書く場合では、前提条件が違いすぎるな、と思った。仕事のメールやプレゼンとかで書く場合には、当然伝わらないとダメよね。