0501「相手の話を最後まで聞くことを意識しただけで新しい発見がある」
ただの日記です。
今日はレイ・デー。
ハワイでは、さまざまな機会にレイを贈る。誕生日、結婚式、卒業など、お祝いのときや、なにか大きな事業が成し遂げられたり、だれかを歓迎したりするとき、愛を伝えるとき。この素敵な文化をたたえる日。
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昨日は、相手(夫)の話を最後まで聞くように心がけたら起きたことを書いたけど、ひとの話をよく聞こうとするようにしたら、たとえば文章を読むときや、自分でなにか書くときにも、ジャッジメントを介入させずに、耳を澄まそうとするようになったというか、注意深くなにをいいたい(あるいは書きたい)のかに集中するようになった。興味深い変化。
もうひとつの気づきは、本(小説など)よりも漫画のほうがジャッジメントが入りやすいみたい。ここデッサンおかしいとか、これどうやって描いているんだろうとか、すぐ気になっちゃって、その思考を脇に置いておくのがむずかしい。これはきっと職業柄なんだろうなー。
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わたしは知りたい欲求が強くて、気になったことは納得いくまで延々と調べ続ける性質がある。納得行く情報が得られれば自己満足してそれで終わってたけど、あるとき「その”情報を集める資質”を強みとして使うには、知識を自分だけのものしないで、ひとに伝えて役立てたほうがいい」みたいなアドバイスをもらった。たしかにそうかもと思って、持っている情報を表に出すように意識した。そこから徐々に解釈が変化して「自分が知っているのに言わないのは、悪いこと」「伝えないと資質が役立たない」というふうに考えていたふしがある。
もちろん、持っている情報をシェアすること自体は悪いことじゃない。例えば、行政関係の手続き方法がわからないひとに「このサイトみたら良いよ」とか「ここの窓口に行くと助けてくれるよ」という情報は伝えるべき。
けれども、恋愛相談、仕事や子育ての悩みのような、解決策がひとそれぞれな場合、「似たようなケースでこんな話があってね」みたいな情報は、かならずしも相手の役に立つとはかぎらない。そのひとが自分で答えを出すか、意見を求められるまでは、黙って聞くのが正解。
まあ、こんな単純な話ではないけど、ようするに、知っていることを口にすべきときと、そうでないときの選別がよくわかっていなかった。
また、わたしは博識なひとに強いあこがれがあって、物知りと思われたい願望があるんだなって、この一連で自覚した。無意識に「物知りアピール」に走りがちな傾向もあいまって、いつでも自分が知っていることを全て言おうとしてた。
以前、夫に「なんでもかんでも伝えればいいってもんじゃない」と指摘されたことがあるけれど、その意味が、いまようやく理解できた(と、思う。ほんとうに理解できたのかどうかは、まだわからない。)
「聞く」ことを意識するようになっただけで、いろいろ発見があって、とっても面白いな。