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背骨がぶれなかった映画版『ベルサイユのばら 』 ―愛と信念と不条理を抱えて―
2025年最初のnoteは吐き出しコラムです。『映画版ベルばら』です。
あまりにも有名な作品なので、ネタバレ等は一切配慮しません。
映画版『ベルサイユのばら』観るべき人、やめた方がいい人
まず言いたい。次の条件がひとつでも該当する人は今すぐ映画館に行ってほしい。公開が終わる前に万難を廃して行ってほしい。
原作履修済
原作読破まではしていないが話の筋は知っている
オスカルファン
テレビアニメ版はイマイチだと思っている
ただし次の条件がひとつでも該当する人はやめたほうがいいと思います。理由は後述します。
ミュージカルや歌の演出は苦手
キラッキラの少女漫画と絢爛な飾り絵で押してくる映像は無理
原作のエピソードは全部忠実にカバーしてほしい(原作厨)
ロザリーファン
映画版『ベルばら』を観なければという謎の使命感
筆者は母親が漫画家・池田理代子先生の信者だったこともあり、小学生のうちに『ベルサイユのばら』と『オルフェウスの窓』を読み、中学生の小遣いで『聖徳太子』をリアタイで買い続けるという、ちょっと特殊な少女時代を送りました。
(親の影響で似た経験をした同世代は少なくないんじゃないかと思っている)
人生の師というと大仰ですが、筆者が自我や信念といった概念を最初に認識したのは間違いなくオスカルの言動からであり、『ベルばら』に出会っていなければヨーロッパ史に深い興味を持ち、大学の専攻や仕事に影響することもなかったでしょう。
基本的には原作厨なんですが、長くヅカファンもやりましたので、宝塚版のベルばらも本当に何作も観ました。
そんなベルばらが映画になるとの第一報が出て、どれほど経ったでしょう。
やっと公開されまして、ベルばらファンとしての使命感を抱えて映画館に行ってきました。
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113分の上映時間で『ベルばら』の全てをカバーすることなど不可能です。子供の頃は全く意識しませんでしたが、1972-1973年の僅か2年弱で描かれたとは思えない密度の歴史劇画であり、本気で網羅するなら『ラストエンペラー』や『シンドラーのリスト』並の時間と気合が必要でしょう。
「改変は絶対にある」という心づもりは持ちつつ、なるべく事前情報は入れずに臨みました。
想定した方向性は以下。
マリー・アントワネットとフェルゼンのラブロマンス軸
とにかく原作をなぞってフランス革命までの歴史ダイジェスト
想定外のリメイク
がっかりしたくない心理的ガードが固すぎて「オスカル編」が来ると思っていなかったのですが、観終わってみればまさしくオスカル編でありました。あまりの有り難さに、観終わった後、0時過ぎの駐車場で独りさめざめと涙を流しました。
ちなみに映画観劇特典の原画コピーはフェルゼンとアントワネットの再会ページでした。家で待っていた夫(ベルばらはきちんと知っているがミュージカルや宝塚をギャグ扱いする残念野郎)に泣きながら映画評をぶった後に開封し、膝から崩れ落ちました。「オスカルが当たるまで映画館行ったら?」と言われる始末。
(追記2025.02.13 この特典は時期変式でバリエーションがないことを知る)
オスカルとアントワネットの「生まれながらに抱えさせられた不条理」
今回の映画版は、オスカルとアントワネット、対照的に生きた二人の王侯貴族の女性が生まれ持った不条理に拘泥しながらも、愛と信念を曲げない姿を軸にしていました。113分の上映時間がとっ散らかった印象にならなかったのは、この部分にのみ焦点を当てた脚本の勝利でしょう。
アントワネットパート:恋を知らない〝人としての空虚〟
映画はオーストリア・ハプスブルク家の皇女であり、偉大なるマリア・テレジアの愛娘であるマリア・アントーニアが婚姻のためにフランスとの国境を越えるところからスタートし、オスカル、アンドレ、アントワネット、フェルゼンの4人がベルサイユで青春を分かち合う姿がテンポ良く描かれます。美麗なキャラに効果的に飾り枠を充て、各キャラの心情を盛り込んだ声優陣の挿入歌(みなさんお上手!、澤野劇伴曲もどれも良い出来で不快さ無し)に乗ってどんどん進みます。このあたりは映画というより歌絵巻といった感じです。
歴史の転換点である即位の前後は、王族の哀しみがよく描かれています。国王ルイ15世の崩御と同時にルイとアントワネットのもとに貴族が押し寄せ、「ルイ16世陛下万歳!」と平然と口にする。それを聞いた二人は涙を流しながら支え合うように抱き合う。敬愛する祖父を喪った哀しみ、肉親を失った者への配慮のない宮廷のありさま、若い身空で王位を継ぐ恐怖……。
一方で、同い年の同性の友人ではあるものの、恋を知らぬまま嫁いだために心の空虚を訴えるアントワネットと、彼女に仕え、王家とフランスを守ることが自分の使命とまだ信じて疑わないオスカルは、心の奥底で相入れることがない。誰にも理解されない為政者側の孤独が、フェルゼンへの思慕に繋がっていく様がガッツリ演出された前半でした。
その代わり、アントワネットが生まれながらに君臨者として育てられてきた証左といえる公妾デュ=バリー夫人との軋轢と敗北や、ポリニャック夫人をはじめとする貴婦人たちの寵愛は映像表現のみに留まります。お目付役のメルシー伯、アントワネットの行状を聞き及んで絶句するマリア・テレジアも割愛です。
過去稿「貴婦人はスーパーウーマン?」に記述した通り、王家や公爵家の娘は他国の王家と血縁同盟を結ぶのが役目です。フランスとオーストリアは度々戦火を交えた大国同士であり、この同盟が如何に重要な意味を持つかは原作でも映画版でもきちんと説明があります。その大きな役目を心のどこかで気にしながらも、上っ面の享楽で人生の寂しさを埋めようとしたアントワネットの転落ぶりもベルばらの見どころではあります。
オスカルパート:親に敷かれたレールを下りて掴んだ信念
後半に進むに従い、話の軸は主人公であり、架空の女性軍人オスカルの生き方に移っていきます。戦争と天災で疲弊する民衆、新聞記者を名乗るベルナールとの出会いで知る時代の流れ、従卒アンドレの存在意義……。
オスカルファンとして映画版が納得の出来だったのは、フランス革命の足音が迫る様子をオスカル中心に追いかけ、1789年の三部会招集から、アンドレが殉死する7月13日のテュイルリー宮広場での戦闘、革命記念日となる7月14日のバスティーユ陥落までを描き切ったことです。とりわけ、政治犯収容所となっていたバスティーユ要塞の戦闘に衛兵隊が加担し、オスカルが指揮を取って形勢を変えていく様子が原作以上にしっかり演出されていたのには舌を巻きました。ともすれば実在したののではないかと思われるオスカルが、良い意味でフィクションらしくなった印象でした。
アニメ版で意味不明の大改悪がされたアンドレとのエピソードも、過程を端折りつつも原作に忠実に進行しました。この点だけでも観る価値があるというものです。
オスカルもまた、生まれながらに不条理を押し付けられた人物です。将軍職を務める名門ジャルジェ伯爵家に生まれ、男児が誰もいない中の末っ子で、産声が立派だというノリと因縁で男として育てられる。王太子ルイとオーストリア皇女マリア・アントーニアの婚姻が決まると、まだ十やそこらなのに「皇女様が嫁いでこられたら、お守りするのはお前の役目になる」と言われ、士官学校も出ぬ14歳で出仕……。
ただ、オスカルはその不条理を嘆きません。物語の後半、父将軍が「結婚して子を産み、私を安心させてくれ」と言い出すまでは。
婚姻を勧めたジャルジェ将軍の真意は、フランスが内乱に突入すると時勢を読んだ上で、軍の最前線からオスカルを遠ざけることにありました。だとしても、何たる傲慢、何たる不条理。こう言っちゃなんですが、オスカルの上には何人も姉がおり、皆普通に嫁いで子を産んでいます。オスカルはその役目を生まれながらに外された身。それを今さら「戦争になりそうだから女に戻って嫁に行け」とは。ジャルジェ将軍は立派な人物であり、娘への愛情も深く持ってはいますが、娘の人生の決定権は自分にあるという、貴族の当主としてごく当たり前の感覚の持ち主でもあったのです。そして最後まで王侯派でもありました。
ただ、父の敷いたレールの上を走り続け、結婚話を渡りに船と思う程度のメンタルならば、オスカルは荒くれ者だらけの衛兵隊に転属などしていません。フェルゼンへの片恋の幻影さえ振り切り、軍人として生きてきたオスカルのアイデンティティが極まり、過去稿「貴族の矜持と苦悩」でも取り上げた名言を生み、軍神マルスの子として生きる決意を彼女に与えました。
映画版の公開で改めて『ベルばら』が注目される中、どうもオスカルが性同一性障害だとか、自らの意思で男として育ったといったトンデモ誤解をしている人がいるらしいとSNSで見かけてひっくり返る思いです。
ネタバレしてから観たい人へ:びっくり割愛集
中盤というより本作で最も衝撃的なのはロザリーが存在しないことです。辻褄を合わせるため、アンドレが左目を負傷するエピソードが黒い騎士との戦闘ではなく、パリで遭遇した貴族と平民の小競り合いに巻き込まれてとなっています。ベルナールは止めに入る新聞記者で、彼はその後市民にカフェで現実を知らしめる歌を歌います(ここが完全にミュージカルの群歌状態)。ロザリーも小競り合いのシーンにいますが、子供を庇うモブです。オスカルが「私の春風」と表して可愛がり、夜逃げ同然でパリへ戻るベルナールについていかせる際に、「花嫁姿を見られないのが残念だよ……」と涙を堪えるシーンはありません。悪女の姉ジャンヌも出て来ず(首飾りだけは映像のみ登場)、ロザリーが経験した宮廷の汚らしさもありません。
また、「テニスコートの誓い」といった細かい史実が割愛されたため、ナポレオンはオスカルと街中で一瞬すれ違うだけです。その凄みにオスカルが驚き、アンドレに「見たか、あの眼を。あれは帝王の眼だ」と話すシーンもありません。原作を知らなければ、すれ違った男がナポレオンだとは全く気づかないでしょう。
衛兵隊への転属後に出会うアランはそこそこしっかり出てきますが、結婚を破棄されて自殺してしまう妹ディアンヌらパリ市民側のエピソードがないので、オスカルがどんどん平民側に寄っていく過程は薄いと言えます。ルイ・ジョセフ殿下とオスカルの交流や、三部会の裏で殿下が夭逝するエピソードもないので、原作を知らない人が観れば、かなり早い段階でオスカルと王家が袂を分かったように思うでしょう。
それでも割愛と改変が自然なので、原作をよく知る人は「ああ、そういう感じに持ってったのねハイハイ」と分かるし、原作を詳しく知らない人でもさらっと違和感なく観られると思います。ただ、原作を分かった上で観た方が圧倒的に面白い気はします。
オスカルは劇中でフェルゼン、新聞記者/黒い騎士ベルナール、衛兵隊に所属する貧乏貴族のアランと、さまざまな男性を人間性で魅了します。近衛隊時代のオスカルの副官ジェローデルもまた、長年女性として見ていたと明かしますが、聡明な彼はオスカルの人柄もよく見ていました。
オスカルとフェルゼンは特にいい友人関係にありました。もしオスカルが男として実在し、フェルゼンと同性の友人関係にあったならば、歴史の大勢は変わらずとも、もう少し違った流れになったのではないか。そんなことをいつも考えます。
アントワネットが夫ルイを尊敬し、最終的には夫婦愛を持つに至りながらもフェルゼンを捨てられなかった「恋」の人であるならば、オスカルは「愛と信念」の人であった。その背骨を曲げなかった映画版。池田先生がお元気なうちに、これが完成したことを素直に喜びたいものです。