ひきこもり日記*弱さを認めるひきこもりのプライド
半世紀ほど生きてきて、「正しく」あることが当然のように命をつないできた。長女でわがまま言えなくて、優等生でいれば親にも他人にもほめられてよく思ってもらえる。そこにわたしのやりたいことはなく、人の目とか常識とか、昭和の謎の正義感に縛られてきた。
「正しく」ないといけないと思い込む。
ごはんを「ちゃんと」作らなくては。
→ひきこもり女が節約しつつ家のことをやるのは義務。
→やらないと生きている価値がない。
本当にやりたくないのかとじぶんに問う。
→お寿司を買ってきて食べた
→あんまりおいしく感じない
ああ、こころが疲れてるって気がついた。
気づくだけまだマシで、痛いほど疲れている時は、なにも感じないままひたすらカラダを動かして、考えないようにしている。まるでロボット。いやゾンビ?AIだってわからないことあるんだろうがそこに感情がないことが羨ましい。
「ちゃんと」しないとって思うとき、誰にも言われない「おいしい」ってコトバを、じぶんにも言ってない。そこに潤いやら満たされたかんじはなく、カラカラに乾ききったこころに水をあげるのは、わたしだけだ。
重い足を引きずりながら、水を汲みにいく。
誰かに頼ろうなんて思いもしない。
視野が狭く、こころにも向き合わないまま、ひきこもる。外へ出ようとしないじぶんに問いかける。
「なにがこわいの?」
弱くてすぐへこたれてしまうじぶんを認めたくないのだと、「ちゃんと」していないじぶんを見下したまま、プライド高く思ってる。
「わたしはやればできるんだから」
いいかげん、弱さを認めてみようか。
大人になったムスメに誰にも言えない愚痴を言う。小さい頃はあまり言えなかったムスメの父親のこと。今はどんなに小さい嘘も言ってない。
そうしているうちにムスメが本気になった。マッチングアプリで人と会っているこのごろ。
「よかった」と思う反面、わたしも子離れのときだと思う。
いつまでも親ぶってえらそうにしてるわけにはいかない。
「ちゃんと正しい」親も、もう必要ない。
わたしはじぶんのコドクと話をして、弱いじぶんも笑えるぐらいおもろくネタにして、じぶんを認めていこう。
noteも紙のノートも専門家の意見も使おうと思う。
こじらせ日記を、嘘なく書く勇気。
だれかのためじゃない、じぶんのために。