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【読書感想】春を背負って(笹本稜平)

いきなり個人的な話ですが、今年の夏はよく登山をしました。
近隣の山も行けば、北アルプスや南アルプスまで。
日帰りすることもあれば、山小屋やテント泊することも。

なぜ山に登るのか?と言われても、ジョージ・マロリーのように「そこに山があるから」と、かっこよく言えるわけもなく、ただ「非日常」の中に浸りたいから、というのが一番の理由です。

同じく、別の世界に入り込むことができるから、という理由で読書(とくに物語)もします。
そこで、つい先日買った本が、タイトルにもある『春を背負って』という小説です。

あらすじ

都会で技術者として働いていた主人公・長嶺亨は、山小屋を営む父の死を受け、父の遺志を継いで山小屋の経営を引き継ぐことに。

そんな彼の山小屋を訪れるのは、ホームレスのゴロさんや、自殺願望のあるOL・美由紀といった複雑な過去や悩みを抱える人々。

雄大な自然に囲まれた山小屋での触れ合いによって、訪れる人々の再生を支えていく、という物語。

感想

「背負って」の意味するところ

タイトルになっているこの言葉。
「春」は訪れるものであって、言葉通りに捉えると「春」を「背負う」ことはできません。

すなわち、「春」も「背負って」も別に意味するところがあるということ。

まずは「背負って」について。
本作では、山小屋の従業員のため、食料品や生活必需品については、自力で麓から山小屋まで運び上げる必要があります。

この荷揚げをする人のことを「歩荷(ぼっか)」といいます。
背中に100kg近い荷物を「背負って」運ぶ。
山小屋のメインとなる業務のことを指しているとも取れそうです。

もう一つの解釈。
本作では、多くの人の想いが交錯する内容となっています。
父の遺志を継いで山小屋の経営を引き継ぎ、父の愛した山に、主人公・享は自分の生活を捧げていきます。
そこにあるのは、父の想いを「背負う」享。

自殺願望のあった美由紀が、自殺を踏みとどまり生きる道を選んだのは、生きることの許しを自身の亡くなった父から得たと思えたから。
彼女もまた、生きることを「背負う」ことに。

続いて、「春」について。
本作は、春の山小屋開きの時期から始まって、また次の年の山小屋開きまでを描いています。

複数回の春が描かれ、作品の終わりがまた新しく始まる営業シーズンについて描かれます。
そこから、「繰り返し」ということが強調されているようにも捉えられそうです。

「春」という季節は、何度でも巡り巡ってくるもの。
そこから「背負うこと」は一時的なものではなく、これからもずっと背負い続けることを意味しているのかな?と思いました。

それでも、背負い続けることが、悲観的に捉えられないのは、「春」の持つイメージが、「新入生」や「芽吹」といったポジティブなイメージが纏っているからだとも考えられそうです。

本編を読んだ後にタイトルに込められた意味を探っていくのは、作者を知ろうとしている感があり、面白いと思います。
(あくまでも自分の解釈なので、頓珍漢なことを言っているとしてもご容赦を)

自然に対する敬意

自然というのは不思議なもので、触れることで癒しを与えてくれるものでもあれば、選択を誤ってしまうと雄大な姿からは想像もつかない過酷さを浴びせてくるものです。

作中でも、可憐に咲くシャクナゲの群生地を目当てに多くの観光客が山小屋を訪れます。

山中に植物が群生している場合は、人の手が加えられていないそのままの姿で見ることができます。

嵐があっても、雪が積もっても生命を耐えさせない、強くもあり、凛々しくもある姿。
その姿が多くの人に癒しを与え、作中では自殺願望のあった人に対して「生」への力を与える様子が描かれています。

一方で、まともな装備や経験もなく、冬山登山を敢行した挙句、遭難してしまうという、といった人も描かれます。

「柔らかさ」と「厳格さ」が、絶妙なコントラストで文章におこされており、そこが山の持つ魅力でもあると思わされます。

「下界」との隔離

山にいると、普段私たちが生活する場所のことを「下界」と呼びます。
要は、切り離された違う世界として認識しているから。

そして、不自由なく生活できる下界と比べ、山の中では原初的な生活を強いられることになります。

そのため、雑念に左右されることなく、己の内面や悩みに向き合うことができます。

本作において、山小屋の従業員・ゴロさんは、こう言います。


自然から離れれば離れるほど人間は頭でっかちになるらしい。生まれて生きて死んでいくーー。植物や動物にとっては当たり前のことなのに、頭でっかちになった人間はそれに逆らおうとする。人間も本来は自然の一部なんだから、正しい答えを本当は知っているはずなのに、それを忘れて楽して得して長生きしようとばかり考える。そこが間違いの始まりなんだよ
本著302頁

なんでもスマホのボタンひとつで解決できるような社会だからこそ、そこから離れた社会でしか見られないものもあるのでしょう。

そして、生まれる自然の中での己との自己対話が、自分を見つめ直し、ひいては自分への再生に繋がるのだと、本作を読んで気付かされました。

おわりに

映画化にもなっている本作。
映画はキャラクターの設定や舞台など、細かいところで小説との違いはありますが、映像化だからより気づくこともあります。

豊川悦司さんの演じるゴロさんは、味があり、映像でみるとより一層説得力が増していると思います。

Amazon prime videoで見ることができるので、まだの方は是非ご覧ください。
もちろん、小説の方も是非。

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