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📖『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』📖

なんとなく前から気になっていた本が古書店で定価の半額以下になっていたので、気軽に買ってみたら、予想以上に良かった。
ファン・ボルムさんの韓国語の小説を牧野美加さんが日本語訳した本で集英社から出版されている。2024年の本屋大賞翻訳小説部門第1位になった作品らしく、目立つ帯が付いていた。

主人公のミンジュは女性一人でヒュナム洞書店を始める。日本にも増えつつある独立書店だが、小説の舞台となるヒュナム洞書店も町の小さな本屋として独自の道を模索しながら歩んでいくことになる。

この本はスリル満点なスピード感あふれる推理小説ではないし、ラストに大どんでん返しも待っていない。淡々と続く書店の日常の中で起こるちょっとした人々のざわめきや小さな波風が、時々そよりとやってくる。時々大波になることもあるが、周りが静かに見守っているといつの間にかまた日常の穏やかな風が吹いている、そんな小説だ。

多分これから先の時代に流行っていく小説というのは、こういう感じなのではないだろうかと思う時がある。
これまでの何十年かは、小説の中にあるドキドキハラハラするものがみんな大好きで、非日常的な劇的展開に胸を躍らせていたのではないだろうか。けれど、現実の世界が大きく変わってきているように感じる昨今、自分の日常に必要な要素を読むものや見るものにも求めたくて、穏やかさを探している人が増えてきているような気がするし、もちろん私自身もその中の一人でもある。

ヒュナム洞書店の店主ミンジュが書店でトークショーイベントを開催しているシーンで、ゲスト作家のアルムがこんなことを言うシーンがある。

「(笑)私はいいと思います。本は、なんというか、記憶に残るものではなくて、身体に残るものだとよく思うんです。あるいは、記憶を超えたところにある記憶に残るのかもしれません。記憶に残っていないある文章が、ある物語が、選択の岐路に立った自分を後押ししてくれている気がするんです。何かを選択するとき、その根底にはたいてい自分がそれまでに読んだ本があるということです。それらの本を全部覚えているわけではありません。でも私に影響を与えているんです。だから、記憶に執着しすぎる必要はないんじゃないでしょうか。」

『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』(ファン・ボルム著)p.55


私たちは日常的に食べているものから作られているという話があり、それはそうであろうとも思うのだが、それ以上に私たちは日々何を見て何を考えているかによって構築されているという方が、最近の私はしっくりきている。そもそも私が食べることが得意ではなく生まれつき食べ物に興味がないタイプだから余計にそう感じるのかもしれないが、実際の物質的食料よりもむしろ毎日朝起きてから目にしたもの触れたものの全てが自分の大切な栄養となり、思考が私を耕し、そしてそれらが消化されて熟成された時に新しい何かが自分の中から勢いよく生えてくることがあると感じている。

物理的食料は死なない程度に摂取していれば充分だなと思えるけれど、目にしたり考えたりする要素は大切に吟味して接し続けないと自分があっというまに枯渇してしまうと感じるし、つまりはこれは生きることに直結しているなと思う。

この小説の中で、登場人物たちはそれぞれが、それぞれにとっての最善を模索していく。

いま、彼女がある空間を心地よいと感じるかどうかの基準はこうだ。身体がその空間を肯定しているか。その空間では自分自身として存在しているか。その空間では自分が自分を疎外していないか。その空間では自分が自分を大切にし、愛しているか。ここ、この書店は、ヨンジュにとってそういう空間だ。

『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』(ファン・ボルム著)p.10


思考優位ではなく、身体の感覚に耳を澄ませていくこの方法は、最近の私が感じ始めたことでもあったので、とても納得がいく。
頭で考えることは、ある意味簡単であり、理屈などいくらでも並べることができる。正当化することもできてしまうし、大切なことを見落としていても無視しでしまえるのが、思考の怖いところでもある。けれど身体感覚というのは、正直なのだ。なんだか心がモヤモヤしたり、こっちが正しいと思考はいっているのにどうもすっきりしなかったりすることがある。そんな時はおそらく身体が、そうじゃないよと教えてくれているのだ。

その空間では自分自身として存在しているか。

これは私がいま最も大切にしなければいけないテーマだった。

「わたしは、誰かのために働いているときでも、自分のために働かなければならない。自分のために働くのだから、適当にやってはいけない。でももっと大事なことがある。働いているときも、働いていないときも、自分自身を失わないようにしなければならない。(後略)」

『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』(ファン・ボルム著)p.338


これは主人公ミンジュが一緒に働いてきたバリスタのミンジュンへのメッセージという形をとった章の中に出てくる一節だ。

自分を見失うほど、誰かのために動いてはいけない。
人生の全てを自分のためだけに動きながら生きられる人なんていないけれど、それでもあまりにも他人のことが多くなると、最近流行りの言葉で言えば「自分軸」がなくなって「他人軸」で生きることになってしまいかねない。他人のためだからと言い訳をしたりもするかもしれないし、自分主体ではないことに見えないストレスが積み重なって遅かれ早かれ結局は心身が破綻してしまう。

わたしは結局は、わたしのことしかできない。
わたしにできることは無限大でありながら、同時に極めて限定的でもある。
わたしは、わたしをやることでしか、生きられない。
そんなことをようやく最近、痛感し始めている。

他人から見たら「今更そんなことわかったの?あなたはそういう感じじゃないのよ」と言わそうだなと想像するのだが、自分のことはなかなか見えづらいものなのだ。

この本が具体的なきっかけになったのかならなかったのか、判断がつかないが、そろそろわたしはもう一度真剣に読んだり考えたり書いたりしていかなくてはならないのかもしれない。

この本は、立て続けに2周して読んだ。1周目は楽しむために。2周目は好きなシーンを書き留めておくために付箋を付けながら再読し、2周目にしての発見も同時に楽しんだ。

真剣に何かをやること、について、これまでの人生で自分の道を歩きながら、そして先人たちの姿を見ながら、学んでくることが多かったことにやっと気がついたわたしは、ではいまわたしは、生きたいことについて真剣にやれているのかと自問し、そうあらねばならないよと、どこから聞こえてきた声に背中を押されて、闇雲かもしれないけれど、自分というものをやるしかないと思っている。



インスタになんとなく書店の中で静かに流れていそうなギターの音源を探して付けてみた。リールはまだまだ勉強が必要・・・。でもやってみないと何事も始まらないから、とうぅっとやってみた。


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MariKusu
温かいサポートに感謝いたします。身近な人に「一般的な考えではない」と言われても自分の心を信じられるようになりたくて書き続けている気がします。文章がお互いの前進する勇気になれば嬉しいです。

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