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別れの悲しみとどう向き合うのか
楠ウイリアムさん17歳
老犬の老い
我が家の老犬は今年の6月で17歳になった。ミニチュアダックスフントの男の子で、これまで大病は一度きり。腰のヘルニアを発症し、手術をしたことがある。それ以外は特に問題もなく、穏やかにこれまで過ごしてきた。
犬と暮らす近所の人々の家から、愛犬のご不幸のお知らせを聞くたびに他人事ではなく、いつの日か我が家にも訪れることなのだと、その度に考えさせられてきた。小学生くらいから、生き物はいつかその生命を終える時が来るのだということについて、とても強く意識を引っ張られるなと思うことが多かった。特に考えるようになったのは父親の突然死以降だ。その頃、恩師や近しい人たちが亡くなることが数年間にわたって続いていた時期でもあり、尚更一層、死について考えざるを得なかった。
父の死
わたしが22歳の時に突然死してしまった父。思い出すたびに号泣してしまうという現象が10年以上も続いてしまったわたしは周囲の慰めの言葉「時間が解決してくれるよ」というのが一体どういうことなのか、全く理解できずにいた。時間って、じゃあ何年くらいのことなんだろうか。3年か5年くらいでこの悲しみが薄れるならまだ理解ができたのかもしれないが、10年越えとなると自分でもどうしたら良いのか分からなかった。
しかしある時、なぜだかふっと、大丈夫になったのだ。11年経った頃、やっとお墓参りに行くことができた。お墓の前まで行けるようになるまで、それだけの時間がかかってしまった。今では、その頃の悲しみを蔑ろにしているわけではないのだが、全く悲しみを伴わずに父のことを思い出すことができる。あの底の見えないような深い悲しみの10年はなんだったのだろう。
なぜある特定の出来事に対して、人は悲しみを覚えるのだろうか。それが他人事なら悲しみはそこまで深くはないことも多く、自分ごとなら終わりの見えない悲しみに飲み込まれたようにも感じる。これは一体どういうことなのか。考えているうちに見えてきたのは、悲しみが執着と繋がっていることだった。
ブッタの教えから考えた死と悲しみ
あらゆる執着を手放すというブッタの教えは、わたしを死の悲しみから救ってくれる唯一の教えのように感じた。わたしは「死んだ○○さんは天国からいつもあなたを見守っていますよ」と言われても納得がいかなかった。「わたしは今、今日、ここで、悲しんです。で、それは一体どうしたら良いんでしょうか。」という苦しみがあるのに、「隣で見守ってる」うんぬん「いつもそばに」うんぬん言われても困るのだった。ブッタの『スッタニパータ』を読んでいた時、わたしの死の悲しみは、執着が原因なのだと気がつき始めた。大切に思う心、愛しいと思う心が、執着となり、それが悲しみを生み出すという仕組みを理解した時、初めてわたしは「じゃあわたしの心に湧き起こってしまうこの悲しみとどう向き合うか」というテーマに取り組み始めることができた。
消えゆく愛犬ウイリアム
17歳になることができた我が家の老犬ウイリアムは、ここ最近食欲も落ち、かなり痩せてしまった。周りの犬たちの最期の日々の様子を聞くに、おそらく我が家もそんなにもう長くはないのではと思う。いつまでも生きることはできないと理解しながらも、いつまでも居てほしいと思ってしまう。理解と心が合致しない。けれどこの別れへの心ぼそさや悲しさは、愛犬を大切に思う気持ちが強いからこその裏返しなのだ。誰よりも愛しく思う気持ちが強すぎるが故に、それが執着となり、強い悲しみを引き起こしてしまう。もしも大好きだと思う気持ちが弱ければ、執着もほとんどなく、悲しみもそこまでのものではなくなるかもしれない。そこまで執着と悲しみの仕組みを理解した時、果たしてわたしは執着を手放してまで悲しみから逃げたいのかと自問した。
わたしは老犬ウイリアムを力一杯愛することを否定したくない。愛すれば愛するほど、執着がどんどん積み重なり強くなる。だから悲しみもより一層深いものになる。つまりもう「悲しくなるのは仕方がないんだと諦めなさいよわたし」と思った。そして終わりが見えないように感じられる悲しみは、自分がそれほど大切にしていたこととは切り離せない部分なのだと理解するようになったら、スッと悲しみの部分が蒸発してきたように感じた。この考え方で本当に悲しみを消化していけるのかは、お別れの日が実際に来てみないとわからない。けれど、悲しみの原因の一部をブッタの教えから理論的に理解できたことによって、少しだけ自分の心の扱い方が見出せたような気がした。
お犬様のお終活
今日は愛犬家が集うお友達のカフェに行き、火葬場の情報を教えてもらってきた。縁起でもないという人もいるかもしれないが、愛犬本人と一緒に我が家は終活をしている。それはわたしの祖父が自分で自分の葬儀場の予約やお墓の手配まで全て済ませてから亡くなった様子に起因する。あれは本当にすごかった。素晴らしい最後だったと、我が家ではことあるたびに話題になる。あそこまで人生の後始末をして亡くなるだなんてと。同じようにはできなくとも、自分もできる限りの後始末くらいは自分でしてからこの世を去りたいものである。残された人に、悲しむ時間と心の余裕くらいは渡してあげたい。実際、誰かが亡くなると、本当に親族は大変で、悲しんでいる暇なんてないのである。
犬のための看取り
そういえば近所の犬ご飯のプロフェッショナルな方が出した本を、かなり前なのだが読んで、とても参考になったので、最後に載せておく。犬のための手作りご飯の本を何冊もだし、お店やお料理教室も運営されている方で、看取りの経験も豊富な方だ。
いざという時、準備をしていたつもりでも動転してしまうものだろう。準備が全くなかったら、どうしたら良いのか途方に暮れてしまうし、後々になって「あの時ああしていれば」と後悔が残ってしまうかもしれない。最期の時について考えるだけでも悲しくなるものだが、大切な時間を生きたいからこそ、一緒に時間をかけて考えられる間に準備を少しずつしておくようにしたいとわたしは思っている。
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