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断食で小さな結論を捻り出す

断食5日目

断食5日目の朝

これまでもそうだったのだが我が家の老犬は夜中2時にお腹が空いてしまって起こしてくる。
今朝は4時過ぎにも、クンクン鳴いて起こしてきた。

そんなわけでここ数ヶ月は朝までぐっすり眠るのは難しい。

今朝のちゃんとした起床は9時を回ってしまった。
なかなか布団から起き上がれない。
体温が怪しいぞと思い計測すると36.5度。逆戻りだ。
体が熱くてだるい。布団からやっとの思いで体を引き剥がす。

断食による肉体反応として色々あるようなのだが、私は幸いこの体温上昇現象だけだ。
頭痛もないし、他にどこか痛いようなこともない。
めまいこそ最初の頃にあったものの、塩と味噌に救われて以来、めまいも消えた。

断食なのか不食なのか

色々とネット検索をしているうちに、やはり私がやっていることは
断食というよりも不食という表現が近いような気がしてきた。
ただこの不食という単語は比較的新しい造語らしく、大まかな趣旨はあるようなのだが、個人個人で少し捉え方が違うところもあるようだ。
不食の人たちが実践している太陽を通じて得られるプラーナというものを栄養にして生きていく方法は、日光アレルギーの私にはちょっと難しそうだ。
もしかしたら日光アレルギーが今後治るという可能性も無きにしもあらずだが、今のところ日差しを浴び過ぎてしまうとしっかり痒くなったり節々が傷んだりするので、今くらいの時期からしっかり用心しなければならない。春と夏の境目が一番油断しやすく、これくらいの日差しなら大丈夫だろうとたかを括りやすく、帰宅後に大後悔するのだ。

食べることへの心の在り方

ともあれ、食べるか食べないかを考える、その考え方の基本となる部分は断食よりも不食の方が近いような気がしている。
私は食べることに振り回されたくないし、食べることに自分の体力と時間を奪われ過ぎると強いストレスを感じる。納得のいかないものを妥協して食べてしまうとモヤモヤと嫌な気分が体の中に充満するし、この内容でこの値段は不当に高いなと感じるものにはお金を使いたくない。500円でも不当な価格だなと思うこともあるし、5,000円で適正価格だなと思うこともある。

世に溢れる美味しいものたち

世の中にはたくさんの美味しいものが溢れていて、今やまずいと感じるものを探す方が難しいのではないだろうか。

すっごく美味しいもの
美味しいもの
まあまあ美味しいもの
許容範囲で普通に食べられるな
これは無しだな

例えばこんな風に、とにかく「美味しく食べられるね」という範囲が広い。

スナック菓子は健康に良いか悪いかを別にすれば美味しい味だと思うし、ファストフードだって美味しい味がしている。それはそうだろう。企業がその食べ物を1人でも多くの人に食べてもらうには、多くの人が美味しいと感じる味に仕上げて商品化するのだから。

でも、はたと立ち止まって考える。
私はその企業を心から応援したいと思っているのだろうか。

食を選択する

何もスナック菓子やファストフードの会社が悪い会社だと言いたいわけではない。
ただ、星の数ほどもある食べ物を商品として提供してくれる誰かを、私たちは毎日自分の意思で選択していかねばならない。全ての食べ物を食べ尽くすことなんて到底難しいだろう。
じゃあ、人生の限りある時間の中で、私は何を選択したいだろうか。
買い物は投票だというセリフをよく聞くが、私は大人になるにつれ、食べるという行為一つによって自分が別の何かや誰かと繋がってしまう感覚を強く意識し始め、それについてもっと注意深くありたいと感じるようになってきた。

この商品が廃盤になったら嫌だなと思うものは、一般的に体に悪いと言われようが、買って食べたらいいのかもしれない。全て自己責任の範囲である。
このお店が閉店したら悲しいなと思うお店を選んで、カフェ時間や食事を楽しむために選んでいけばいい。


「食べることとは、私にとって何なのか」

さて断食5日目の夕方にして、ようやく現時点での答えが見えてきた。

食べることは、私にとって、何かや誰かとの繋がりを自らの意思で選択し、そこから新しい何かを切り開くためのものだった。
それはコミュニケーションの一つとも言えるし、意思表明のための何かとも言える。

食べることは、私にとって、何かや誰かとの関係性を発展させるための行動の一部だった。
そして自分自身の今現在の在り方を、食べ物や食べるという行為を媒介に、都度無意識に確認する。

仮に、1人で自宅で自炊をして食事をする場合を考えてみる。
ある食べ物を選択するたびに、私とその食べ物との関係性が積み重なる。
まるで体内に蓄積していくように、繰り返し食べれば食べるほど、まさに私を構成する部分になっていく。
食事の場面に他者がいない場合でも、その食材をどこかで買っているだろう。
料理して食べることで、その食べ物と自分との関係性が生まれる。
それらの食材はすべて自らの意思で選択している。

食へのモヤモヤの原因

だからストレスだったのだ。
適当な、妥協した、そうじゃないのにと思う食料をわざわざお金を出して食べて、
「今のあなたはこんな感じですよ」と食べるたびに突きつけられているような気がしていたのかもしれない。心の奥底で私は「そうじゃないのに」ともどかしく感じ、けれどお財布と相談すると妥協したものしか買えず、そのジレンマに苦しんでいた。
毎日少しずつ積み重なる無意識のジレンマ。私は自分で自分の首を絞めていた。

しかし断食をしてみると、空腹についての概念が変わり、自分の心と体が楽になっていくにつれ、もしかしたらこれまでの予算のままで、そのジレンマに押し潰されずに食から解放されつつ、食べるという自分の行為そのものや、社会での食事との関係性と、上手く付き合っていけるのかもしれないと思い始めた。

今後はどうしましょうか

とはいえ、断食をやめて以前と同じような食事量に戻れるかと言われれば、体は否と言っている。食べたい食べたくないではなく、必要ないなと体が理解し始めたような感覚だ。
結局のところ、一般的に推奨される1食の量と1日3食という頻度は、私にとっては多過ぎていたのかもしれない。
私の体は「違う違う、そうじゃない」と言い続けていたにもかかわらず、「いやいや常識ではバランスの良い食事はこうでああで健康と肌のためにも」ウンタラカンタラ、という思い込みに囚われ、ずっと体からの叫びを無視してきてしまった結果、強いストレスとなってそれらが襲いかかってきたのだろう。

やはり自分の体調のことは、最終的には自分の体に聞いてみるしかないのだ。

我慢しているなら何かが違っているのかも

断食だろうが不食だろうが、我慢して我慢して苦痛の果てに、通常の食事に戻す際にご褒美のようにたくさんの食べ物を食べるようなパターンでは、あまり意味がないのかもしれない。その人にとっては、本当は食べ物がそれだけの量と頻度で必要だったのかもしれないのだ。この辺りの個人差はとても大きいような気がする。
誰かが1週間断食をしても平気だとしても、別の誰かは3日が限界かもしれないし、
誰かが1日1食で充分と感じていても、別の誰かは3食しっかり食べて間食もしないと体がもたないと思うかもしれない。

体も、行動も、気力も、みんなそれぞれなのだ。

年月とともに少しずつ私の体や考えも変化していくかもしれないが、
ひとまず一旦、今のところは
私はもう、あんまり量を食べなくて良くなっちゃったんだな
ということも判明した断食であった。

知るのに丸5日かかった。
これが長いのか短いのかは、わからない。

就寝前に体温を計測する。35.8度。よしよし。

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