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出口も窓もない永遠なる白い部屋について
大学時代、精神の調子を著しく壊してしまった時期があった。
当時運悪く市販の睡眠薬が安易に手に入るようになった時期と私が心を壊した時期が重なり、私はその市販薬にどっぷりと浸かっていた。
私は努めて人付き合いが良さそうに振る舞うようにしていたが、実は極めて内向的な人間であり、本当の意味での友人はとても少なかった。それでもそういう危ない変化に気がついてくれるのがやはり本当の友達というものなのであろうか、数少ない友人のうちの一人が、「専門医に診てもらった方が早く治るし何よりも薬代が安く済むはずだからまず身近な内科に行け」と私に強く勧めてくれた。あの時のあの友人の言葉には今も感謝している。
結局最初に行った内科では一度睡眠薬を処方してもらったものの、「うちに通ってもいいけれど、もう少し専門科で細かく診てもらった方がいい」「通うのに出来るだけ負担の少ない場所がいいよ」というその内科医の真摯な言葉に後押しされ、その後、通いやすい距離の精神科に通うことになる。
当時の話は多方面にわたり書くことが多すぎるので、なんともまとまらないのだが、最近一つ思い出すことは、当時私は心の中に広がる「白い部屋」がとても怖かったということだ。
それは私の頭の中にだけに存在するもので、今思えば非常に抽象的な概念のようなものかもしれない。ただ、当時の私にははっきりとその様子が見えていたように思う。
そこは白い部屋だ。窓はない。どれくらいの広さがあるのか、狭いような気もするし、とても広いような気もする。全ての壁は白く、明るい。天井も床も壁も全く同じトーン、同じ質感の白で構成されており、おそらくどこかに電気が点灯しているのだが、その照明の光源の場所はわからない。とにかく明るい。そしてその部屋には自分しか存在しない。明るいはずなのに自分の影を見ることはない。私自身が白い部屋と同化しているように感じると同時に、白い部屋にポツンとある異物のようにも感じる。私に色はなく、その時私も全てが白になっているのかもしれない。白い服、白い髪、白い顔、白い手。その部屋にいるときに自分を見ることはできないけれど、自分がその白い部屋にいることを確かに認識している。
私は当時、その白い部屋にいる状態がとても怖くて、ただ部屋の中で蹲ることしかできなかった。そしてその部屋から抜け出したいと心で叫びながらも、一歩も動くことができずにいた。
底なし沼のようなその白い部屋は、治療を続けるうちに、いつしか私を捉えることがなくなり、そして私の中に現れなくなっていった。
さて今になってなぜその白い部屋が出てきたのかといえば、なぜだかふとした時にその白い部屋について具体的に思い出したからなのだが、不思議なことにもはやその白い部屋を全く怖いと感じなくなっていた自分が今いる。そしてむしろ、その白い部屋はとても心地が良く、とても安全で、いつでもここに帰れば大丈夫と思えるような場所に変化してしまっていた。
これは一体どうしたことだろうか。
白い部屋が怖かった時から20年近くが経過した。
この20年、予想もできなかった本当にたくさんのことがあった。
もしも本当に時間というものは存在せず、過去も現在も未来も全てが同時に存在しているのであるなら、今すぐ20年前の白い部屋にいる私に言いたい。その部屋は怖い場所ではなく、あなたを本当の意味で休ませるための避難場所だから、誰にも邪魔されずにまずはそこでエナジーを回復させたらいいんだよと。
子供の頃の鬼ごっこのルールで、安全地帯というものがあった。そのエリアに逃げ込んだ人に対しては鬼はタッチをすることができない。興味深いルールだった。
白い部屋は、おそらく私の無意識が作り出したのか、はたまた神というものが私に提供してくれたのか、本質的に内向的である私に対して用意された安全地帯だったのかもしれない。ここぞという緊急時にしか現れなかった安全地帯の白い部屋は、今、瞑想することをきっかけに、いつでも出入り自由なものになった。
白い部屋に入る私は、外界からの刺激の何が負担だったのかを観察する。一つ一つ見落とさないように丁寧に観察を続けると、雑音が消え、最近溜まってしまっていた澱が解消されていく。
誰かと接することは刺激的であり、楽しいことでもある。身近な友人は皆とても優しく、それぞれが創造性にあふれ、素晴らしい人たちばかりだ。それでも私は時々白い部屋に帰って、自分を休ませなければならない。音も匂いも言葉もないその白い部屋で、私は一つ一つ、出先の草原で自分にくっついてしまった草の種を摘んでは取り外していく。その白い部屋では、自分から取り外されたものは粉砂糖が溶けるように音もなく消滅していく。
20年が過ぎたから言えることかもしれないが、私は「うつ病を克服した」だとか「苦難を乗り越えた」だとか、そういう表現を自分に対して使うことが好きではない。私にとっては単に「あれはそういう時期だった」という事実があっただけのことであり、良かったでも悪かったでもない、ただの現象と状況だったと判断している。
人は誰しも、生まれてから周りの環境に大きな影響を受けながら育ってしまう。そして生まれてくる環境を選ぶことはできない。
それでも根っこの部分、それを魂と呼ぶべきかは判断に迷うところだが、何か外界に影響されない小さいな中心にある塊のようなものは、何者にも影響されない要素があるように思う。一つ一つ、この考えは環境から影響を受けている、これは親から影響を受けていると、外からの要因を外していくと、最後に残る部分があるのだ。それは周りの誰にも似ていない不思議な部分でもある。
最近はこの白い部屋に入って、私が私に戻るにはどうしたらいいのかを考える。余計な影響を取り外し、本質に戻れるように、自分のメモリ容量を空ける。けれども長年の癖というのはしぶといもので、すぐに外界用の仮面やら鎧やらが装着され、外界用のアレやらこれやらで私風の何かが作りあげられてしまう。最も近くに存在する夫や犬ですら、私の外界的な何かと接しているのかもしれない。
白い部屋に入り、私は私を観察する。この観測で現れるものは、瞬時に消えるものもあるが、なかなか消えないものもある。繰り返し観察することで、少しずつ薄くなっていくものもある。
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