見出し画像

わたしの説明2(趣味:ない趣味を捻り出す)

前回、私という生き物の概要を説明したのだが、

スペック説明で終わった気がするので、今回はもうちょっと個人的見解からの説明をしてみたい。

つまり「趣味」である。

実は私はずっと、趣味がなくて困っていた。
ピアノは中学入学と同時に大学受験に向かっていたので、必死なものになっていて趣味とは言えない状況だったし、音楽鑑賞なんて受験勉強のため以外の純粋なる楽しみのためにすることは皆無だった。まずそんな時間は音大受験に向かうティーンエイジャーたちには無い。

純粋なる楽しみのためだけにやっている行為を探すことは、私にとって難しいことになっていた。みんな、趣味があるのに、私にはない。どうしたことか。
大学生になってもそれは続き、社会に出てからも続いた。
ここまでくるとどうやって趣味を見つけたらいいのかすら、検討がつかなくなっていた。重症である。

もはや我が家の老犬ウイリアムを愛でることと夫の観測が趣味ということでいいかなと投げやりになりそうになっていたのだが。

しかしなんと、ここ数年でどうにか捻り出した趣味がある、ような気がしている。

趣味1:珈琲の自家焙煎

コーヒーの生豆を買って、自分で焙煎をしている。
節約のために始めた焙煎で、ご飯を自炊するような感覚で始まったのだが、最近は焙煎ができるようになって良かったなと思えるようになってきた。
友達が自宅にきた時、我が家で仕事の打ち合わせがある時、コーヒーが苦手な方でなければ、私が焙煎したコーヒーをお出しする。時々、コーヒー好きな方に対しては、プレゼントとして焙煎したコーヒー豆をお持ちすることもある。

1週間から長くても2週間くらいで飲み切れる量を都度焙煎するのだが、焙煎の深さも自分好みに調節することができる。大抵は浅煎りから中煎り、時々まれにやや深めに煎ることもある。豆の産地は本当にたくさんあり、生豆もネットで簡単に買うことができる。あまりにも種類が多くて選びきれないため、今のところ生豆を買う時の選定基準は、楠家の人生に関連した場所を選んでおり、タイ、インドネシア、グアテマラ、メキシコ、ドミニカを主に焙煎している。本当はアフリカの国、エリトリアの生豆が手に入ったら焙煎してみたいのだけれど。いつか叶うだろうか。そもそもエリトリアは、コーヒーセレモニーという独自の飲み方があるらしいので、それもいつか体験したい。コーヒーセレモニーは焙煎をするところから始まるのだ。

焙煎については、これまでに3種類の焙煎機に触れる機会があった。
1つは一番最初に手にした銀杏煎り器のような形のもの。これはこれで使いやすかったのだが、一度に焙煎できる量が50g程度で、ちょっと少ないと感じるようになったので、次にもう少し多め、250gくらいまで一度に焙煎できるタイプに変更した。
その間に、友人の焙煎の仕事を手伝うという珍しいことをしていた時期があり、その時使っていたのは電気で動く小さなロースターだった。アプリと連動して、ロースター内の温度の上がり具合などを細かく見ることができるものだったので、この時の経験は、今のガス火で作る手回し焙煎になった時にも活かされているなと感じる。

今後この私の趣味のコーヒー焙煎がどうなっていくのかは、全くわからない。
わからないけれど、多分、私はコーヒーを焙煎するのが好きだ。
コーヒーを飲むことも好きだけれど、焙煎も同じくらい好きなのだと思う。
私にとって焙煎という行為は、この地球に存在する四大元素との対話である。自分の肉体と心、そしてコーヒー焙煎に関与する四大元素が美しくハーモニーになった時に、とても納得のいく仕上がりの焙煎になる。それがとても心地よい。

自己満足で仕上げたコーヒーを、自己満足の挽き具合とドリップ速度と温度で淹れて、自分のための一杯を飲むことで自分に優しくする。極めて自己中心的な趣味である。多少の節約になっているのかもわからないくらい、心置きなくジャバジャバ飲んでいる。同じ量と味の豆を市販で買うよりは確かに節約はできているのだろうけれども。

チアパスはメキシコの地名。


趣味2:ピアノ

大学の音楽科出身なので、本当にしばらくは修行のようにピアノと向き合っていたわけなのだが、一旦離れて、20年。やっとなんの考えもなしにピアノを触ってもいいかなと思えるようになった。そういう目線でピアノというものを捉え直してみれば、世の中には本当に素晴らしいピアノ曲がたくさんある。コンクールや試験の課題曲には絶対にならないような、自由課題としても絶対に得点が稼げなさそうで選ばれないだろうものの中に、本当に本当に美しい曲が、一生かかっても弾ききれないくらい、存在しているのだ。
華やかなテクニックの曲を、正確なタッチと正確な解釈で、正統派な演奏をいつ何時でもできるようにという、あの修行時代は終わったのだ。もう好き勝手に弾いたらいいとやっと思えるようになった。偶然去年、ピアノを弾けそうな人に出会ったので、今年は4手のピアノにも挑戦できたら楽しいかもしれない。点数や評価が絡む場面での4手のピアノ(連弾)や2台のピアノのための曲の演奏は、まさに胃に穴が開きそうなプレッシャーなのだが(相手の足を引っ張らないようにと)、完全に楽しく弾ける人となら、もしかしたら新しい面白さが見つかるかもしれない。
そうは言っても昨今、ぎゅうぎゅうに忙しくて、全然弾けていないのだけれど。何か無理やり用事にしてしまって弾くしかないかな。


趣味3:美術鑑賞

現代アートの写真分野の人と結婚したので、花嫁修行が家事全般ではなく写真史を勉強して写真集を観まくることだったというのは以前どこかで書いたのだが、アート鑑賞も花嫁修行で大きく変わったことの一つである。
それまでどちらかといえば、博物館系が好きだった私の大学時代のお気に入りの場所は国立科学博物館だった。恐竜の骨を眺めながらお茶ができるカフェがあって、そこから飽きもせず骨を見ていた。いつも大体常設展示の骨系は空いていて、じっくりゆっくり楽しんだ。かといって恐竜博士っぽさもなければ骨マニアでもないのだけれど、ただあのかつて生きていたであろう恐竜を空想するのが好きだったのだ。それが骨を目の当たりにすることでよりリアルになる気がしていた。この地球に、私が見たことがない、こんな大きな生き物が歩いていた時代が確かにあったのだということを考えると、不思議と穏やかな心になれた。

そんな私が、現代アートの写真作品について学ぶことが急務になり、とにかく必死に詰め込んで学んだ。そこから次第に写真以外の現代アートも見る必要性を感じ、そうすると日本美術もしっかり見て行きたくなり、そうすると古典的な絵画作品もと、写真がアートになったあたりの時代からどんどん遡り、どんどん広げて、見て回るようになった。夫と夫婦になることがなければ、おそらく全く知らないままだったであろう世界だ。おかげで本当に素晴らしいアーティストたちをたくさん知ることができた。実際に会いに行ける素晴らしいアーティストたちにも私は恵まれている。尊敬できるアーティストがこの世にたくさん今も活躍していることは、それだけで私の心を数倍豊かにしてくれる。彼らの作品を見て、勇気をもらう。私も私の道を、自分の手で掴むしかないのだということを彼らはいつも背中で示してくれている。

仕事の範疇でもあるので趣味とは違う側面もあるにはあるのだけれど、鑑賞したりレビューを書いたりするのは、どこにも忖度なくして行きたいと思っているので趣味に位置付けておくのは自分にとっても良いような気がしている。

そういえば中之条ビエンナーレは、ビエンナーレだから2年に一度。ということは2025年、今年ではないか。また行かなくては。

飛ぶ鳥落とす勢いとはこのこと、現在大活躍中のサリーナーちゃん。タイのバンコクにあるSACギャラリーがきっかけで知ることになった作家さん。若いエネルギーに溢れている。

一応、夫の展示についても考えるのだけれど、どうしたって夫の作品については「内側」からしか見ることができないので、「外側」から見た意見をいつも知りたいなと思っている。けれどもこの「内側」から目撃できるというのは考えようによってはとても恵まれて面白い経験なので、いつも喜びを感じている。

シアスター・ゲイツの展示。すごくかっこいい人だわあと思った。生き様を作品から感じられる素晴らしい展示だった。最近の森美術館の現代アートの展覧会はとても好きなものが多くて、毎度次は何かなあと楽しみになる。

趣味4:考えること

ここに「読書」と書こうか「文章を書くこと」と書こうか迷ったのだが、結局迷ったということはなんか違うなと思ったということで、何が違うのかと心の奥を探ってみれば、本質は「考えること」をやるために読書をしたり文章を書いたりしているのだということに気がついた。
物心ついた時から「存在(ある)とは何か」「時間の今とは何か」についてずっと気になっている子供だった。その疑問は今も続いている。生涯ずっと考えることになるテーマなのかもしれない。私は私が今ここにあることが、時々とてつもなく不安定で疑わしいような気になる。私の存在について考えるとき、それはそれは落ち着かなくなり、考えることを止めてしまい日常の瑣末なことに意識を逃避させてしまいたくなるような強い不安感がやってくる。小さい頃の私はこの不安をどう処理していいかわからずに、周りの大人たちに質問したけれど、無味乾燥な「そんなこと言ってないで勉強しなさい」的な答えしかもらえなかった。「そんなこと言ってないで勉強」した結果、一応学校の成績は良く、大学には入った。けれども、自分が大人になるにつれ、この疑問は何も解決していなかったことを思い出した。そしてそれらを含むあらゆる疑問を考えることが、私にとっての「生きる」ということかもしれないと感じるようになった。

私はこの世界に散りばめられたヒントを集めたくて読書をする。私は自分の中のモヤモヤに答えを出したくて必死に文章を書く。本当は全然答えには到達していないのだけれど、せめてその途中までの考えが全くの無意味なものとしてゴミ箱に消しさられてしまわないように、必死に書く。そして必死に読んで、また考えて、また書く。時々観る。映画や演劇、映像作品に舞台作品に平面作品、立体作品。人間が生み出したものを見て、考えて、また書く。自分の目でしか世界をとらえることはできず、決して他人の目に成り替わることはできない。だから私の考えが正しいのかは、結局わからない。私になって検証できる人は誰もいない。
私は全て消えてしまわないように考え続ける。なんの生産性もないけれど、考えることをやめることができない。資本主義経済の中で役に立っていないような気がする私の「考えること」は、純粋なる興味であり、私にとってのアートなのかもしれない。私が今感じていること、見ているもの、心という何だかよくわからないものが捕まえている何かが、どういうものなのか、何なのかを考える。私が存在しているかどうか不安になりながら、今という瞬間はそもそも無いかもしれない可能性も考慮に入れながら、さらに不安に押しつぶされそうになるけれどグッと踏ん張って考える。誰に頼まれてもいないのに、考えている。だからきっと「考えること」が「趣味」なのだろう。

そういうわけで、大人になってやっと趣味が4つは言えるようになった。
ちょっと、ほっとした。
ない趣味を捻り出す人な割には、ボリューム満点な記事になった。

いいなと思ったら応援しよう!

MariKusu
温かいサポートに感謝いたします。身近な人に「一般的な考えではない」と言われても自分の心を信じられるようになりたくて書き続けている気がします。文章がお互いの前進する勇気になれば嬉しいです。

この記事が参加している募集