「読者」がいてくれるからこそ、わたしは「ライター」を名乗れるようになってきた気がする、倉敷市地域おこし協力隊7カ月目|2024.芒種・梅子黄
梅子黄(うめのみきばむ)
わたしは、「倉敷とことこ」という地域メディアでライターをしている。
地元メディアということもあって、地域のイベントやお祭りを取材することも多く、週末は数時間だけでも取材に出ることが多い。
2023年12月に関東から倉敷に移住してきて、約半年。
まだまだ知らないことだらけだから、こうやって活動として倉敷のことを知れるのはとてもありがたいし、わたし自身とても楽しんでいる。週末に活動したぶんに平日の活動時間を調整する、いわゆるフレックスタイム制のような働き方をさせてもらえているので、活動時間についても不満なく過ごしている。
のだけれども。先週末は久しぶりに週末なにも予定が入らなかったので、平日のうちに梅を購入しておいて梅仕事に勤しんだ。
仙台の実家では、祖父がずっと庭の梅で梅干を作っている。これはもう、物心ついたころからの慣習で、幼少期初めておこづかいをもらったお手伝いは、天日干しされた梅を夕方になったら甕(かめ)に移すお仕事だった。
わたしの祖父は、昼間は自宅にある店舗で時計屋さんをして夕方になると市民センターで非常勤職員をしていた。梅を甕に戻す時間帯が出勤の時間と重なっていたので、おてつだいにぴったりと任せてくれていたのだ。
父親参観にも祖父が参観に来るくらいにわたしたちは相思相愛だったので、大好きな祖父から大切なお仕事を任されたことがとっても嬉しくて、毎日張り切って梅仕事に勤しんでいたことを思い出す。
実際のところ、わたしは梅干しの酸っぱさがどうも好きにはなれなくて、食べたいとは思わなかったのだけれども。でも、おてつだいをした翌朝リビングに行くとニコニコ笑顔の祖父から「梅、ありがとうね。まりちゃんのおかげで、おいしい梅ができそうだ」とおこづかいの入ったポチ袋をもらう時間がとっても好きだった。
大人になって学校の先生になってからも、わたしは幼稚部で勤務していた期間も長かったので、季節の体験として梅ジュースづくりをするようになった。梅のヘタは幼児にも取りやすいし、毎日瓶を振りながら氷が解けてジュースになっていく様子はとても分かりやすく、ちょうど完成する頃には水遊びが始まるのであがった後に子どもたちと一緒に飲むのにもぴったりだった。
昔のわたしみたいに梅の酸味が苦手な子も多かったけれども、作るまでの過程が楽しいし、自分が丹精込めて仕込んだものだからなんとか飲もうとする姿もまた愛おしくて。それから、梅ジュースは時間と共に色が変化していくので、飲食するかは置いておいても幼稚部1年生から3年生まで毎年作った梅ジュースを少し残しておいて、経年変化を楽しむのもまた楽しくて。
水遊びを終えたら梅ジュース。畑仕事を終えたら梅ジュース。夏はもう梅ジュースがないと生きていけない身体になってしまった。
だから、幼稚部から小学部に異動して、関東から倉敷に移住しても、やっぱり梅ジュースのある夏が恋しくて、結局今年も梅仕事をすることに。
週末はしっかり時間があったので、土曜日は梅のヘタを取って消毒して冷凍庫に、瓶もきれいに洗って消毒して天日干しをして。日曜日は、瓶に梅と砂糖を交互に入れて、無事にお仕事完了。
幼稚部の先生時代も、子どもたちの集中できる時間や前後の活動時間との兼ね合いで2日間に分けて梅仕事をしていたので、これもやっぱり染みついたものなのかもしれないけれども。
祖父から大事にされている感覚を肌で味わった梅仕事。目に入れてもいたくないほどかわいがっていた子どもたちと一緒にした梅仕事。今年の梅ジュースは、誰と一緒に飲もうかしら。この夏我が家にくると、お茶やコーヒーだけでなく、梅ジュースも飲めますよ。
なんて言いつつ、朝起きたら一杯。外から帰ってきたら一杯。とごくごく飲んでしまいそうな予感がしています。
【ひまわり号37号乗車レポート(2024年5月26日開催)~ 障がい者とボランティアが共に作り上げた倉敷発着姫路への旅】のあとがきのような
2024年5月26日、倉敷駅から姫路への貸し切り列車が運行された。「ひまわり号」と呼ばれるその列車は、障がい者とその支援者専用の貸し切り列車。
わたし自身も聴覚障がいのある当事者として、そして倉敷とことこのライターとして、倉敷市地域おこし協力隊として、いろんな肩書と一緒に乗車してきた。
〇「高石さんの文章を読んで、この人に取材してもらいたいと思って依頼しました」
実はこのひまわり号の存在を知ったのは、3月。OHKでわたしの活動の様子を特集してもらった「ふれあいウォーク」に参加したときに、一緒に歩いてくれたボランティアさんから「まりちゃんも、ひまわり号に乗らない?」と紹介してもらっていたのだ。
わたしは元々電車に乗ることや旅をすることが好きなので、イチ参加者として「募集が始まったら、申込するぞ!」と意気込んでいた。
そうしたら、この翌週に倉敷市の障がい福祉課を通して「ひまわり号の取材に来てくれませんか?」と主催団体からご連絡をいただいて。本当にびっくり。
記事内でも触れたけれども、障がいのある当社は50名の枠に100名以上の応募があったので、抽選で当たる確率は半々。お役目をいただいたからには、たくさんの人に知ってもらうぞ!と意気込んで事前インタビューに向かった。
ご挨拶をして椅子に腰かけると「ひまわり号」を走らせる倉敷実行委員会の西尾さんが、記事の通りのにっこりとした笑顔で「高石さんの文章を読んで、この人に取材してもらいたいと思って依頼しました」と教えてくれた。
まだ活動を始めて4カ月。まずは倉敷の人たちに顔と名前を憶えてもらうぞ!と自分からイベントを見つけては取材に行き記事を書く、という段階だったと思う。だから、顔見知りの人から取材先を紹介してもらうことはあっても、顔も見たことのない読者から「この人に書いてもらいたい」と言ってもらえたことがとっても嬉しくて。
ひまわり号は障がい者専用の貸し切り列車ということもあり、障がいのある当事者の活動を熱心に応援してくれている。当日のボランティアのなかにもわたしと同じ聴覚障がい者や、自身も発達障がいがあるけれども身体障がい者のために働きたいとボランティアをしている人たちがいた。
参加者だけでなく「ボランティア」として活動したい当事者をも応援するひまわり号だからこそ「わたしたちの記事を当事者に書いてもらえたら本望です」と依頼してくださったとのこと。
「取材先のようすを誰にでも伝わるように書く」はもちろん大事だけれども「聴覚障がいのある当事者だから」「高石真梨子だから」書ける記事って何なんだろうと考え始めるきっかけになった取材。
〇「まりちゃんの記事を読んで、ボランティアに応募してみました」
ボランティア募集の記事を倉敷とことこで公開てから数日後、何度かお会いしたことのある方から「まりちゃんの記事を読んで、ひまわり号のボランティアに応募してみました」というDMが届いた。しかも、複数。
蓋を開けてみると、当事者だけでなくボランティアも応募者多数で抽選になったのだとか。ひまわり号は30年以上の歴史のある取り組みだから、もともとの認知率も高かったこともボランティアがたくさん集まった理由だと思う。
だけれども、わたしの記事を読んでひまわり号を知った人がいること、その人がボランティアの応募までしてくれたこと。
わたしの書いた記事が、誰かの行動のきっかけになった。その事実がとても嬉しかったし、改めて、ていねいに言葉を紡いでいこうと思うきっかけにもなった。
〇「私たちを撮って!」
ひまわり号乗車当日。わたしは「倉敷市地域おこし協力隊」という名札を付けて、カメラを構えながら電車のなかを練り歩き、姫路の街を走りまわった。
まるで、教員時代に子どもたちの校外学習の引率をしたときのように「何時頃にはここに何人くらい来るだろうな。こんなショットを撮ろう」と事前にイメージトレーニングをして、当日も参加者の様子を見ながらたくさん写真を撮った。
ボツになった写真を含めて600枚くらい撮影したんじゃないかな。こういう一日は特に撮り直しが効かないので。撮りすぎなくらい撮ったほうが良いというのは、教員時代の経験からきている。ちなみに、教員時代は遠足や行事の日の写真を撮った後、その写真を使って絵本を作っていた。
「ライターと教員って全然違うお仕事だよね」とよく言われるけれども。教員時代の経験が今のお仕事に生きていることがわりと結構あるので、わたしのなかでは続いていることのひとつのような感覚でやっている。
そんなわけであちこちを走りまわりながらカメラを構えていると、いろんなスポットで「ねぇねぇ」と肩を叩かれたり服を引っ張ったりされながら呼び止められて「私たちの写真を撮って!」と声を掛けてもらった。
わたしには聴覚障がいがあるから、参加者が話しかけにくかったらどうしよう、コミュニケーションが取れなくて自然な表情が撮れなかったらどうしよう、とか。正直、心のどこかで心配していたけれども。
そんなのは杞憂で、みんなわたしがキコエニクイことを了承したうえで「私たちを撮って!」と満面の笑みを向けてくれたこと、本当にうれしかった。
〇「まりちゃんのレポート記事、読んだよ!」
当日撮影したデータを選定して編集した300枚近いデータを実行委員会に提出して、わたしも倉敷とことこでレポート記事を書いた。
実は、写真を撮ることは趣味でしかなかったし、正直苦手だとも思っていただから今も、写真がお仕事になるだなんて信じられないと思っている。でも、今回は「あなたに写真を撮ってほしい」と声を掛けてもらってカメラを構えたからこそ。最後まで責任をもって写真を納品しようと全データを編集した。
そんなに大掛かりな編集ではないけれども、高石真梨子に撮影を任せて良かったなと思ってもらえるお仕事をしたいと、文章だけでなく写真に対してもそういう気持ちが沸々とわいてきた。
2024年の下半期は、もっと写真とも向き合いたい。
そして、倉敷とことこで公開された記事を読んだ参加者からも「ほかの参加者はこんな経験をしていたんだ!と新たな気づきがあったよ」「当日の楽しかった思い出がよみがえる」などのコメントを個人的にいただいて、ホクホクした気持ち。
「わたし」を主語にした日記はこのnoteに書けばよいし、客観的な事実を書くだけだったら、障がいのない人にだって書ける。当事者として、でもライターとしてご指名していただいたからには、「倉敷とことこでライターをする、聴覚障がいのある、倉敷市地域おこし協力隊の、高石真梨子」にしか書けない記事を書こう。
当たり前のことかもしれないれども、それらバランスを考えながら記事を仕上げていくことが「職業」としてのライターなのかもしれない、と実感した地域おこし協力隊7カ月目。
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