不登校生徒からの教え
はじめに
2009年生まれの息子は思春期を迎え、現在中学3年生だ。息子は自然体験を軸とする幼児期を経て公立小学校へ入学した。しかし途中から登校を渋り始め、一般的に定義される不登校生徒になった。中学校にはほぼ登校せず、家庭教育と支援教室で学んでいる。
息子には公教育の雰囲気が肌に合わなかった。集団生活と一斉型授業の学習環境で、個性を充分に発揮できず自らの情熱を思いのままに燃やすことが難しいようだ。
母親である私は子育てと仕事の両立に葛藤しながら、自己理解を深め、親子関係を見直した。そして息子の歩むべき道を共に探究した。そのなかで、不登校は自立と自由を手にして生きるための重要なメッセージであることに気づく。
この体験と学びを記し、我が子が一生涯において健やかで幸せに生きるために大切なことは何かを改めて考えた。また、社会的な課題に向きあうための一つの例として教育に関わる大人たちと共有したい。
心の声を聴き逃すな
息子は小学3年生頃から登校前に腹痛を訴えるようになり、時々学校を休み始めた。欠席の連絡をすると、息子はほっとした様子で紙工作やレゴブロックをして気分を取り戻した。翌日からはいつも通りに登校して無事に帰宅し、休日は家族や友達と遊んで元気に過ごす。ところが月曜日になると決まって欠席し、週4日ほど登校するパターンが続いた。友達のおかげで登校できている印象もあり、息子なりの登校の仕方を担任の先生にも理解していただいた。
休んだ日は自宅でゆっくり休養させた。好きなことだけをして、おしゃべりしながらおやつを作って食べたり、寝る前は小さい頃から続けている絵本の読み聞かせを多めにやった。私は自宅で仕事をしていたので、融通をきかせて息子と一緒に過ごすようにしていた。
息子になぜ学校を休みたいのかを聴いても明確な理由が見当たらない。当時の私には“学校は行くべきところ”という暗黙の前提があった。だからこのまま休み続けてしまうことへの恐れや不安があった。息子も何となく後ろめたさを感じていたと思う。
お互いに釈然とせず、嫌な気分になる日もあった。そんなときはカモミールというハーブの温湿布で息子のお腹を手当てした。すると、はぁ〜っと深い息がもれた。私たちはやさしい香りに包まれながら心を和らげた。
ある参観日の出来事。息子は持ち前のユーモアさで周囲を笑わせていた。“大丈夫だよ、学校でうまくやってるよ”という様子を私に見せた。ところが、その直後に急に腹痛になりトイレへ駆け込んだ。まぶたが異様に腫れ、背中じゅうに発疹が出ている。息子が身体でサインしている何かを私は決して無視してはならないと深く受け止めた。
幼児期の環境と学校生活に大きな違いがあることは分かっていた。息子が1歳頃にシュタイナー教育に出会った。シュタイナー教育とは、人間を心・からだ・精神の一体としてとらえ、人生を自らのものとして生きる力を養う教育だ。自然とのつながりを重視し、子どもの個性と成長過程に合わせながら、芸術的な活動を通して感覚・知性・意志の全体を調和するように育てることが特徴だ。
その思想に私は深く共感し、家庭で実践した。季節の巡りに沿ったライフスタイルや、遊び道具を自然素材で手作りするなど、創造的な暮らしを息子と共に楽しんだ。
保育園は“森のようちえん”に通園。自然環境での活動を主軸に、子どもの主体性を見守る保育だ。森、山、海で思いっきり遊ぶ毎日を過ごし、息子も仲間たちも笑顔が弾けていて、心底楽しんでいる彼らが羨ましいほどだった。“みんなちがって、みんないい”が合言葉で、一人ひとりの個性を尊重し、地域の皆で子どもたちを育てる文化があった。共感し合える仲間と家族ぐるみで子育てできることが心地よかった。
振り返れば、幼少の息子は大人たちにあたたかく見守られ、安心感に包まれながら世界への興味を膨らませていたように思う。ところが、入学を境目に息子は環境の変化を目の当たりにした。好奇心だけで生きてきたような息子は公教育の場で困惑したのではないだろうか。学校には周囲と同調することが正しいとされる雰囲気や、苦手克服に注力する指導の風潮がある。そして断片的な知識を詰め込み、成績で評価する。義務感に追われて泣きながら宿題をする息子の姿を見て、学校では一体どんな学び方をしているのか疑問に感じた。学校特有の価値観に私は違和感を抱くようになった。
学校について、「なんか違う」と息子が言っていた。“教養を身につけた、ある理想の大人像”へ一斉に向かわせるような空気感と、心からの喜びを伴わない画一的な学び方に息子は退屈したのだと思う。絵を描いたり、ものづくりをしたり、本気のごっこ遊びが好きな息子は、創作的活動の少ない学校で得意をあまり発揮できず肩身の狭い思いをしていたのだろう。
このように息子を理解していたが、学校からは息子を問題児扱いするような視線を感じて悲しくなった。そして次第に私自身の不満も増していった。息子の対応を最優先にする反面、私は仕事に集中できず自分のための時間も少なくなり心の余裕がなくなった。仕事がしたい、けれど息子を一人に放っておくわけにもいかない。子育ても仕事も充実させたくて起業という働き方を選んだはずなのに、子育てと仕事のジレンマに陥った。
不登校による困りごとを夫とうまく共有できずにいた。夫は子どもの目線で遊ぶことは得意だが、コミュニケーションで難しい一面がある。心の奥で誰にもわかってもらえないという孤独感を募らせた。私はストレスによって体調を崩し、持病の気管支喘息も悪化させてしまい、身も心も息ができなくなった。
そんなとき息子は具沢山のスープを作ってくれた。私は泣きながらそれを食べ、私こそ自身の心のサインに気づくべきだと思い知らされた。
視点と発想を転換せよ
コロナ禍に突入すると、あらゆる混沌をリセットしたいという思いを強め、転校と移住を決意した。志望するのは教育理念に心から賛同できる私立校で、自然豊かな土地にあることも魅力的だ。息子の交友関係を考えて中学生になるタイミングで志願し、新天地での暮らしに期待した。
しかし、志望校への入学は叶わなかった。思い出の詰まった家を手放し、親しい仲間と離れる覚悟での挑戦だったので、私たちは深く落胆した。それでも奇跡的に好条件の家を見つけられたことが救いとなり、移住を決行した。
息子は移住先の公立中学校に飛び込み、すぐに友達もできて順調に登校し始めたが、やがて“月曜病”が再発。泥んこ系育児出身の息子は案の定、制服を着ること自体が苦痛なようだ。初めての定期テストで緊張のあまり発熱したのも息子らしい。
中学1年の担任の先生は息子をよく理解してくれて、なおかつ経験も豊富。“生徒の人生に関わる重要な仕事をしている”と語る熱心で明朗な女性教師だ。私にも「お母さん、大丈夫ですよ。長い人生、学校が全てじゃないですし。」と声をかけてくれた。不登校だった教え子がその後に花開いたエピソードを聞いて、私は気を取り直した。
完全に学校を休むことにしてからは、学校では教えない、家庭でこそ学べることに注目した。まず、人生の基盤は健康的な食だ。私は息子の料理の腕をさらに磨かせ、夫は息子を魚釣りに連れて行った。庭で育てた野菜を収穫して調理したり、釣った魚を自らの手でさばいて食べることを通して、息子は命をいただくことの意味を味わったと思う。キャンプでは一人で火起こしもできるようになり、息子はサバイバル知識と技術を確実に鍛えていった。
知的好奇心と感動によって学びを与えたいという考えから、学習については自ら学ぶ意欲が湧くまで一時中断した。その代わりに、お金の勉強や、インターネットに関わる情報リテラシーを上げることを実践した。家族で「カタン」という島を開拓するボードゲームを楽しみながら、交渉術を身につけさせた。
自己信頼を回復し、対等な関係を再構築せよ
不登校に関する本をかき集めて読むなか、「自己肯定感」という言葉につまずいた。自己肯定感とは、ありのままの自分を認め、自分の感じたことに素直で、自分を好きであるという感覚である。不登校生徒は自己肯定感が低い傾向があるらしい。息子の様子から、自己肯定感の低い母親と相手へ共感が難しい父親の組み合わせにより子どもが母親と一緒に家に居たがるという一説にも納得した。
私は息子の自信というコップに水を注ぐことができていなかった。その理由は私自身が水不足のままだったからに違いない。他人と比較して自分を責め、今の自分のままではいけないと思い込み、自己嫌悪に陥ることが常だった。自分が枯渇したまま、他者に水を与えようとする行為は自己犠牲に近い。子どもの水を満たすには、まずは母親自身が満たされることこそ大切なのだ。
私自身の境遇を辿ると、母親に充分に甘えることができなかったように思う。心のどこかに愛情飢餓感があり、それを補うために優等生を演じ、愛されていることを確かめていた。20代は精神的な病を患い、生きづらさを長い間抱えていた。
自己肯定感がうまく育たないままに私は母親になった。これが息子の自己肯定感を育てることを難しくしていたのだ。息子もやがて親になることを想像すると、負の連鎖をここで断ち切らなければならないと痛切に感じた。
子育てをもう一度学び直そうと、母親向けのシュタイナー教育の講座に1年間参加した。水彩画、粘土造形、木工などのアートワークで手を動かすうちに、私は歪んだ自己認識を整え、自分への信頼を取り戻していった。人間にはいくつになっても自分で自分を育て直す底力がある。ありのままの自分を愛し、毎瞬満ち足りた気持ちでいることが何よりも大事。子どもの幸せは、お母さんも一緒に幸せでなくては全部台無しなのだ。
子育て経験もある先生からのアドバイスにも助けられ、「この子に何があっても大丈夫」という息子への確かな信頼が生まれた。私の内面の変化は息子との関係性において大きな影響を与えた。
アドラー心理学を学んだことも親子関係の改善に役立った。大ベストセラー本の『嫌われる勇気』を再読した。そしてアドラーの子育てに関する本を数珠つなぎで読み、著者の講演も聴講した。
最も重要なことの一つは、親と子が対等な関係であることだ。分からなければ尋ね、協力してほしければ相談をする。そうして初めて親の助言を子どもに聞いてもらえるのだ。学校や友達のことなど、息子の課題に土足で踏み込んではならない。
子育てのゴールは自立だ。苦難を回避させようとつい手助けをしたくなるが、転んでも自力で起き上がれる機会を忍耐力をもって与える必要がある。大ケガを防ぐために小さなケガを体験させる寛容さも大切なのだ。
峠を越え、抜け道を突き進め
学校との関わりは宿泊体験や体育祭などの参加したい行事のみ。普段からの友達付き合いのおかげで、息子は突然に登校してもなんとか楽しめるようだ。定期テストは毎度見送った。学校からは登校を時々誘っていただくが、気が向かないことにはNOと言う息子。学校よりも優先して通いたい場所があるからだ。それは不登生徒のための支援教室である。
中学1年の冬から、学校カウンセラーさんからの紹介で市の運営する支援教室に通うようになった。少人数制での教育活動が行われ、数人の専任の先生方のもとで自習、コミュニケーションゲーム、スポーツなどをして一日を過ごす。好きなときに通室できて、学校の出席日数としてもカウントされる。
息子にとって、この小さな教室がぴったりだった。自由な雰囲気で、生徒の「好き」「楽しい」「やりたい」の受け皿にもゆとりがある。息子は先生や仲間との親交を深めているようで、夕食の時にその日の面白かったことをよく聴かせてくれる。家でもない、学校でもない、サードプレイスのような居場所。そこでの楽しい毎日は学校以外のルートを選んだからこそ見えた風景で、きっと息子の大切な宝物になると感じている。
不登校というとネガティブなイメージが強い。たしかに不登校は学校や家庭ごとのさまざまな事情をはらんでいる。けれども私の経験から言えることは、子どもには学校に行かない目的があるのだ。原因を探すのではなく、“何のために学校に行かないのか”に目を向けると見えてくるものがある。
息子の場合は、自分の情熱を燃やし続けるためだった。“人生にやりたくないことをやる暇などない。他人の評価だけを気にして生きるなんて超ダサい。社会に適応するために自分という唯一無二のパズルのピースの形を削るな。自分を信頼でき、安心感を保てる場所を選べ。そして好きなことを極めろ。”この内なる声に忠実に従うための道を息子は探していたのだ。
普通に生きているだけで人生がうまくいっていないと錯覚させられる世の中になっていないだろうか、と私は時々考える。“おひさまの光で朝起きて、美味しいご飯を食べて、美しい月を眺める。生きてるだけで最高!”が、何故か通用しないことが多い。
何のために生まれてきたのか、その目的を果たすための地道な努力は大事だと思う。けれども、自分の望む人生を生きるために本当に大切なことがわからないまま、あるいは自分自身との良好な関係がないままに、恐怖や不安という幻想から逃れようと自分にムチを打ち、自力で頑張れば何とかなるという“努力主義”には注意を払いたい。
かつて教員を目指し、母校で教育実習をしたことがある。その経験から努力主義の元凶の一つは公教育の仕組みにあるのではないかと考えている。可視化できる成果を上げられない人は怠け者で、もっと頑張らなければ、となぜか思い込まされてしまうからだ。そんな努力は人を幸せにしない。
行動の起点がワクワク感なのか、それとも恐怖感なのか。息子は前者を起点にして支援教室へせっせと通い、生き生きと羽を伸ばしている。
私は公教育を受け、いい学校いい会社に入って生涯安定という他人の敷いたレールにうっかり乗ってしまい社会に出た。自分の好きなこと、やりたいことが分からなくなって挫折し、自分探しに迷走し、随分と遠回りをしたように思う。(それも私の愛すべき人生。)そう考えると、息子は本来の自分を見失わずに人生を歩んでいるのかもしれない。その最短ルートとして不登校を遂行しているように見える。正しいかどうかの道しるべは、笑顔だ。道草しても、迷ってもいい。抜け道を楽しみながら自分の足で歩んでゆけることを信じている。
先日、息子は大好きなラジコンの改造作業をしながら、「オレはどこでも一人で生きていける」と生意気にのたまった。母として寂しくもあり、嬉しくもある宣言だった。