牛乳飲めないのってずるい?
「給食の牛乳は飲まないのに、アイスは食べるんだね」
修学旅行先の日光で、通りすがりのクラスメイトに娘が投げかけられた言葉。
その子の真意はわからないが、「食べられてよかったね」というよりも、「それってずるくない?」のニュアンスなのだろう。
私自身が当時珍しかったアレルギー児で、子どもの頃幾度となく「ずるい」という言葉を投げかけられた経験から、その言葉の意図を「ずるい」と仮定して話を進める。
「ずるい」ってなんだろう?
普段給食の牛乳を飲まないことが?
修学旅行先でアイスを食べていることが?
娘が小学校に上がる際の説明会で、当時の保健室の先生と「アレルギー数値は高くないが、いろいろ懸念材料があるため、牛乳は飲ませず、お茶かお水を持たせたい。メニューの中の加熱や加工された乳製品はOK」というやりとりをした。
保健室の先生曰く「医師の診断書を持ってくれば牛乳を飲まないことは可能だが、数値に出ないのであれば書いてくれる先生はいないだろう」とのことだった。
私のかつてのかかりつけ医(いつもの王瑞雲先生)が子どもを診て診断書を書いてくれたため、晴れて飲み牛乳は免除となった。「たまに顔を合わせる医者の言葉より、いつもそばで見ているお母さんの言葉や気持ちが大切なのにね」的なことを王先生がおっしゃったのが印象的だった。
診断書は出したが、保健室の先生には「好き嫌い」としか映らなかったようで、娘は学校で牛乳を飲むはめになったこともあった。
好き嫌いを「いけないこと」とは考えていないので、娘の飲まない権利さえ保障されるなら、好き嫌い扱いでも構わないが、ご自分が条件として出した「診断書」の重みは尊重してほしかった。
話を「ずるい」に戻す。
ずるいと思う時、誰かに厳しく接してしまう時、以下のような感情があるように思う。
これは食べ物の話だけではない。他人の言動を腹立たしく思ったり、非難したくなる時にも注意が必要だ。
腹が立った時は、自分に問いかけ、見つめるチャンス。大切なのは、自分が嫌な思いをしたことは他の人に連鎖させず、自分のところで止めること。
娘の件では、養護教諭とのやりとりに苦労したが、苦手な給食をあらかじめ減らしたり、残すことはおおむね担任の裁量、担任次第と感じる。
そもそも、大切な自分の体に何を入れるか、に関して、なぜ他人の許可を得なければならないのか?という疑問は常にある。
嫌いなものを無理やり体に詰め込んで、本当にそれが心身の滋養になるのか?
残すことを禁じて達成した給食の「完食」にどんな意味があるのか?
好き嫌いはそもそも克服すべきものなのか?
「食べ物を粗末にしてはいけない」それは大切だけれど、自分の体を粗末にするのはもっと良くない。
もし、娘に嫌味を伝えた子が、毎日の給食の200mlの牛乳に苦労しているのだとすれば、感情をぶつけるべき相手は娘ではない。
給食のことに限らず、学校での困りごとは、親としてはまず伝えてほしい。
何に困っているかわからなければ、よりよい妥協点を探ることもできない。
子どもたちが牛乳で嫌な思いをした際には、「あなたが給食の牛乳を飲まずにいられるのは、お母さんが、先生と話し、診断書を書いてくれる先生を探し、本当に牛乳を飲まなくても大丈夫か?を調べて考えて、家族でも話し合って、その全部の時間と労力をかけたから。ずるいんじゃない。そうやって勝ち得た「飲まない権利」があるのだから、堂々としていてほしい。」と伝えてきた。
長女はこの春から中学生。給食がなく、毎日お弁当を作るのは大変だが、例年の牛乳に関するやり取りをせずに済むことに心底ほっとしている。