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柔らかな瀬戸内、苦手なアートに救われた話

私はアートが苦手だ。
芸術センスがないし、それぞれの作品のどこを見たらいいのか分からない。

いくつか美術館やいわゆるアート展を巡ったことはある。ただ、理解する素養も持ち合わせていなければ、「ここを押さえておけばいいんでしょう」なんてテストの答え合わせをするかのように、スタンプラリーを続けるだけ。
「ここが良かった」と具体的に伝えられる場所はわずか、「行ったことがある」場所がただ増えていくだけだった。

「作品や潮流の背景なんて調べたくなったら調べたらいい。好きだと思える場所を言語化する、なんてできなくてもいい。
それよりも、”何かわからないけれど好き”だと思える作品に出会えたら、それが素敵なことだと私は思っている。

長い歴史の中でたくさんの表現方法や流派、手法が世界中で生まれては消えていった。すべての良さが万人に理解されて受け入れられているわけではない証左。作った人にしかわからないことだってたくさんあるはず」

以前、知り合いの絵描きの方から言われた言葉。
なるほど、と思うと同時にその境地に至る日なんて来ないのでは、と思っていた。だって、この話をしたのはもう10年前のことだから。

ここのところ、ありとあらゆる意欲がどこかに行ってしまっていた。
「写真を撮ろう」どころか「外に出よう」、いや、起き上がることすらできない日もあって。
動くことも、感性も、呆気なく自分自身を失っていた。

少し悩んだけれど、冬から決めていた岡山旅は行くことに決めた。穏やかな海には会いたかったし、リハビリを兼ねて。
観光先を特に決めていなかった私に、宿の方が勧めてくれたのが豊島だった。世界中から観光客が訪れる「瀬戸内芸術祭」で有名な島だ。

新たなスタンプラリーになるかもしれないけれど、ありがたく豊島に向かうことに決めた。
翌日朝7時、宇野港を目指す。朝日に照らされた水面がきらきらした朝だった。

豊島に到着し、船を降りると島にはゆったりした時間が流れていた。

獲物を狙うとんびが速度を変えながら旋回を続け、海と山を行き来する。山道を進んでいくと、もうすぐ一人前なんだろう子どものうぐいすからほーほけぴょ、なんて惜しい鳴き声が聞こえる。
名前通り春を告げる声の方向には山の中に1本だけ満開の桜が見える。


どこにいたって海が見える、この景色だけでも来た甲斐があった、なんて思いながら。

曲がりくねった坂を登っていくと視界が開け、海を見下ろす。見晴らしがいい山の中に、自然とともに「豊島美術館」がある。

入館し、海を見ながら風が通り抜ける山道の遊歩道を進み、たった1つの美術館スペースを目指す。日差しが眩しくて暑いぐらいの朝だったけれど木漏れ日が柔らかくて少しひんやりした空気が流れている。



無機質なまるい美術館スペースに入ると、しん、と音が聞こえてくるような静けさ。
中は2つの窓がある広い空間。窓から光が入り、床を照らす。窓から遠くカーブをえがく壁には影が生まれコントラストが広がっている。

一歩踏み入れると、足の裏にコンクリートのじんとした冷たさが伝わる。
外を歩いていた時には近づいてくると恐怖を感じてしまうとんびもとても遠くにいる様に感じてしまう。大きく開いた窓から見える景色の一部だ。

かすかな音ですら内部の空気を揺らし、空間いっぱいに広がっていく。
外では風がそよぎ、葉が1枚、2枚、ひらひらと着地を続ける。誰も葉にふれることもない。
ただ、風が落とした葉がそこに落ちてくる様子をぼんやりと眺めるだけだった。

足元には、水のオブジェ。オブジェ、と言っても水滴が所々に散らばっている。丸いもの、水たまり、その場にとどまっているもの、流れていくもの……。
この空間で、水だけが意思を持っているかの様に動いていた。揺れる。それから流れていく。

いや、どうなのだろう。本当は流れつくべき場所に、流されているのかもしれない。どちらが本当のことなのか、なんて私にはわからないけれど。はっきりさせなくてもいいことは、きっとあるはず。

静謐な空間。でも、何もない、わけではない。
普段、見えないものが見える気がする。見過ごしてきたことが目に止まる。揺れる。とどまっているものなんて、きっとない。

一歩進めるたびに伝わる冷たさなのか、わずかながら目に入るものが変わりゆく世界のせいなのか、それとも、静寂な空間で研ぎ澄まされた聴覚に語り掛けてくる自然の音のせいなのか……少しずつそれぞれの感覚が研ぎ澄まされていく。

どれだけの時間が過ぎていったのかもわからない。長いような、本当は一瞬だったような。できるならずっとここにいたい。不思議な心地よさの中を漂う時間は初めてのこと。

ここがいい、なんてわかりやすく伝えられる気がしないけれど、きっと私はこの場所が好きなのだと思う。
自分の五感はちゃんと動くのだ、と教えてもらえた。
この場所に出会えた今の自分も、ここに連れてきてもらえたことも、背景もまるっと含めて、紛れもなく癒しだった。

佇みながら、頭の中に言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消え……を続ける時間があった。ずっと忘れていた様な見ないふりをしていた様な言葉たち。いつも平熱35度の心がふわりと高揚したときのことを忘れないうちに、少しでも残しておきたい、それから自分が穴に落ちた時にもすこしずつ浮上できるきっかけになれば、といつも願っていた。

絵を描けたなら、どんなに良かっただろう。無理な私は、”書く”ことを選んだんだっけ。それから、言葉だけじゃ足りなくて、少しでも鮮やかに、丁寧につづりたくて写真も好きになったんだっけ。自分にあてた、ささやかな祈りの様な何かを。
どれだけおざなりにしてきてしまったのだろう。もう一度ちゃんと向き合ってあげよう。


外に出てゆっくり息を吸った。不安や無気力でいっぱいだった心は、何だか穏やかだった。

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maria
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