仁恕
私はおそらく過去世は武士だった。
大柄で強く、怖いもの知らずな颯爽とした可也の傾奇者だった。
筈だ。
だが今生では女に生まれ、雪のように白い肌、白系ロシア人の血が少し混ざっているせいか祖父に生き写しの目鼻立ちのハッキリとした顔、細い身体、何処へ行っても注目されるのは、物心が付けば嫌でも気づく。
また男に生まれたかった。強い男が良かった。何故女なんだ。前みたいな男だったらどんなに楽だったか。子供の頃何度も思った。
スカートやワンピースが大嫌いだった。絶対に着なかった。
髪は常にベリーショート、バスに乗れば学校帰りの高校生たちが
「綺麗な子だけど、シーか?ヒーか?(当時は女か、男か、を、そう呼ぶのが流行りだったらしい。)」
とざわついた。
両親からは虐待された。
躾の範疇ではなかった。
母は私が美しく成長する事を恐れ、妬み、私が成長するに連れ自分が老いて行く事や中年太りを受け入れられず、私が外で少しでも容姿を褒められようものなら、帰宅するなり怒りが爆発し、感情任せに殴り蹴り罵倒する。
もしも私が逞しく強い男に生まれていたら、母にとって自慢の息子となり愛されただろう。私は母に愛されようと必死になったが、とうとう母は私を捨て、男と家を出て行った。予想していた事なので、涙も出なかった。
父は私を完璧な娘に育てたかった。父の中の完璧な娘とは、容姿が美しく、勉強もでき、身体能力も高い、世間に自慢できる娘の事だった。父は100点以外は許さなかった。テストの点数が95点でも、夜中まで勉強をさせられ、1問間違えれば殴られ蹴られ、殴ると自分の手が痛くなるからと、折檻棒まで用意された。それは良いアイデアだと母もよくその木製の棒でニヤニヤ笑いながら私を殴るようになった。
恐怖の虐待のお陰で私は学校で常に良い成績、クラスでは男子より早くスキーの1級を取得(当時父はスキーの指導員だった。北海道の長い冬休みは毎日夜までスキーの特訓だった)、ピアノに習字に塾に剣道の稽古、読書量も半端なく、読書感想文は常に表彰された。父は賞状や表彰盾、トロフィーの類を持ち帰る度、来客の多い家だった事もあり、此れ見よがしに並べていた。
クラスの子は私の異常な家庭環境を知らない。ニコリともせず本ばかり読んでいる近寄り難い子、友達が一人もいない謎の子で有名だった。
タロットが当たるので、休み時間は私の机の前に占って欲しいという子が並んだ。私は無表情で淡々と占った。中には頬を赤らめ「握手してください」と求める不思議な女子までいた。
幸い学校でまで酷い集団虐めに遭う事はなかったが、時折、生意気だ、と、呼び出される事はあった。それは決まって美人がリーダーのグループだった。女特有の厄介な妬みだ、こいつらは母親と同じ類だ、と思った。私は死んでも構わないと思う程絶望的な虐待を親から受けていたので、妬みを理由でかかって来る女どもに容赦せず、全力で狂ったように捨て身で喧嘩を買った。父に無理矢理鍛えられ、身体能力が高かったお陰で、かかって来る奴らを死に物狂いで次から次へとボッコボコにしてやった。
そんな中、グループのリーダーは最後の手段とばかりにカッターナイフを向けてきた。私は怯みもせず近寄り
「刺せよ?ほら、心臓ひとつ突きだ!殺れよ!何ビビってんだよ!こんなクソみたいな人生、早く終わらせたいんだよ!」
その子が持つカッターナイフを私の心臓に向け、笑いながら強く押し当てた。服が切れた。服に血が滲み出した。
薄笑いする私を見てその子の手は震えていた。
悲鳴をあげ逃げ出す子もいた。
「・・・狂ってる!マリアは狂ってる!」
そう言ってグループは全員逃げ去った。
「何だよ、また死にぞこなったじゃねーか。」
と言って、私は普通に教室に戻り、読書を続けたが、心配した保健委員の子が嫌がる私を保健室に連れて行った。
その事件以来、そういう連中から気持ち悪がられ、私に嫉妬し陥れたり呼び出す女子はいなくなった。代わりに事件を知った父からボコボコにされ、以来父は、私に身体能力の高さを求めなくなり、お茶やお花を習わせるようになった。
ここまで読まれた方、きっとドン引きされただろう。
この様子に祖母はとても心配した。マリアは人として一番大事なものが欠落している、と。心配した祖母は、このままではマリアが駄目になる、と、私を引き取った。父から離し、祖母の家で暮らす事になった。
祖母は私を心から愛してくれた。祖母はよく、お寺へ私を連れて行き、住職さんのお説教を一緒に聞かされたり、人として大切なものを色々教えてくれたが、ピンと来なかった。世の中に親のような恐ろしい種類の人間がいる、という事を嫌という程叩き込まれて生きて来た私に、愛とは何かと言葉で教えたところで、枯れ木に水を与えるようなものだったと思う。それでも私は祖母に感謝した。虐待のない穏やかな世界。朝が苦手な私は祖母に5時には叩き起こされ(「ああ、また新しい朝が来やがった!畜生!」と不貞腐れる私の言葉遣い一つ一つを厳しく女性らしいものに直された)、玄関や庭の掃除や朝食作りの手伝いなど、色々させられたが、その度に少しずつ、祖母は人として大事なものは何かを私に教えた。頭では理解したが、体感した事が一度もなかったので、ふーん、そうなんだ、くらいにしか受け止められなかった。小説に書いてある事だって結局は作者の妄想であり、こんな風になればいいなあの話、ああめでたしめでたし馬鹿みたい、と、いくら良書というものを読んだところで感動を味わう事なく、寧ろ鼻で笑った。結末が不幸なもの程共感できた。
弱い者虐めを見ると黙っていられず、虐めっ子の男の子をボッコボコにして帰り、泥だらけの私に驚く祖母に「また男を泣かしてきた。」と言って、風呂場へ直行した。この話を今の夫にすると、「大人になったマリアは別の意味で散々男を泣かしてきたね。」と言われる。
そんな私に転機が訪れる。父がブラジルに赴任になり、私も連れて行かれる事となった。決まったのは中学生の頃だった。
何と、父は私に泣いて頼んで来た。
「マリアお願いだ、私一人でブラジルへ行くなんて、とてもじゃないけど寂し過ぎる。不安で仕方がない。マリアもついてきてくれないか?もうマリアに手をあげたりしない、怒鳴らない、約束する。マリアが来てくれるなら、どんな我儘でも聞く。だからブラジルまで一緒に付いて来てくれないか。」
父の涙を見たのは生まれて初めてだった。この人も泣く事があるんだ、と、驚いた。と言うより、これ、41歳の男が娘に言うセリフか?何てひ弱で幼稚な情けない男なんだろうと呆れた。
「わかった。その代わりもう、怒鳴ったり暴力を振るわないと約束して。」
父は喜び、先にブラジルへ行ってしまった。父に遅れる事2ヵ月後、私は一人、ブラジルへ向かった。周囲は一人でブラジルへ行くなんて大丈夫か、何故父親は迎えに来ないと心配したが(文部省、今の文科省へ書類を取りに立ち寄った際も、大人達は「君一人でブラジルへ行くの?」ととても心配された)、お金とパスポートさえあれば何とかなる、と思い、結局何とかブラジルに辿り着いた。父には悪かったが東京、成田、ロス・アンゼルス、マイアミ等泊まる先々で湯水のようにお金を使った。父は何も言わなかった。
ブラジルでの生活は思いの他楽しかった。父が私を放置し、女遊びに夢中になってくれたお陰で、私も自由に遊べたからだ。治安の悪いブラジルで、危険と隣り合わせな遊びにスリルを味わいながら夢中になった。そんな時、ある人と出会った。
詳細は⬆️の中だが、私はあるブラジル人男性と恋に落ちた。その男性から、「愛」とは何かを初めて深く教えられ、「これが愛というものなのだ」と体感する事ができた。
ブラジルから帰国て暫くし、また、ある男性と恋に落ちた。
詳細は⬆️の中だが、(R-18指定)この人となら死んでも構わない、と思う程の「愛」だった。
最終的に、今の夫と出会うのだが、夫に辿り着くまで恋愛のみならず「様々な愛の形」を教えてくれた、性別国籍年齢問わず愛する大切な人達と巡り合えた。お陰で私は祖母が教えたかったであろう「愛」について十分理解できる大人になっていた。
詳細は⬆️の中。(R-18指定)
大変長くなったが、実はこの記事はあの、noteに咲く美しき一輪の花、大好きなりりかるさんらのバトンなのである。
書かれてあるように、お題は『美学』。
「憧れの女性の「美学」を知りたくて、お願いしました。
マリア先生よろしくお願いします!」
との事だが、残念ながら、私は最初から書かせて頂いた通りのクソみたいな生い立ち故、歪な人間に仕上がり、憧れられる要素等全くと言ってない。
まして『美学』などこれまで考えた事もなかったのでとても戸惑った。
日々淡々と生きている私に美学など、と思ったし、そもそも美学とはなんぞや?と調べると、美の本質、原理を研究する学問、とある。これは幅が広過ぎる、う〜ん、と悩んだ。するりりかるさんは
「生きていく上で、女として、人としての「美学」。
「個人的な美学」なのかな?センスでもあるけれども、人間として許せないこととかってあるじゃないですか。理想の自分の生きかた、とも言えるのかな。マリア先生はとても美しい女性で、尚且つユーモアもあり、心も美しい、憧れの女性なので、きっとその「芯」が「美学」なのかな?とも思います。でも、マリア先生にお任せします!
マリア先生の「美学」を知りたいと思ったのです!」
との事。
夢を打ち壊すようで誠に申し訳ないが、上記のようなクソみたいな生い立ちの人間に、美学を語るなど100年早いわと思うところだけれども、こんな私の歪な生い立ちを忘れさせてくれるような、私のクソ人生を初期化、上書きしてくださる光と愛に溢れた方達とのご縁に恵まれ、また、この鈍い頭をガツンとぶん殴られたような、易経という素晴らしい学問にも恵まれた。
私の個人的な美学といえば一つしかない。
それはタイトルの『仁恕』だ。
易経に、
元は善の長なり。君子は仁を体すればもって人に長たるに足り。(文言伝)
という言葉がある。元とは物事の始まりであり、元旦の元、元をはじめとし、万物が生じる。仁とは中国思想における徳の一つで大いなる愛の意。
要するに「大いなる思い遣り」である。生きていく上で、人として、絶対に外せないもの、大切なもの、全ては「仁」から始まる、という事だ。
思い遣りといっても、そこには私心など全くなく、見返りを求めたりせず、相手をただただ思い遣る気持ち。例えば危険な状況に直面した時、保身に走ったり逃げたりせず、自分の身を投げ打ってでも誰かを守れるか如何か。
本音をいえば、人は何より自分が一番可愛い。自分が一番大切だ。
いざという時は本能的に自分を守る、それが普通の人間だと思う。それが易経に出てくる「小人」であり、普通の人である。だが、たとえ小人であっても、いざという時、自分の身を投げ打ってでも誰かを守る勇気が咄嗟に出た時、君子になれるのだ。君子とは、徳が高く品位の備わった人物。私は人生において、数人の君子達に命を助けられ、今、こうして生かされている。その数人の君子達に『仁』とは何か、を教えられ、人間にとって『仁』が如何に大切か、という事を身を以て、骨の髄まで体感したのだ。
愛など知らずに育ち、自分以外の人間を全く信用せず、寧ろ敵と見做し、
自分は如何すれば楽に生きて行けるかだけを追求し、快楽に溺れ、破滅的な生活を送っていた私に光が差したのは、私に綺麗な南十字星を見せてくれた君子、緋色の三日月を一緒に眺めた君子、そして新月の雫が滴る中希望というものを教えてくれた君子達が私の前に現れた時だった。書いていると感極まって涙が溢れて来る。それ程素晴らしい君子達なのだ。
もう一つ、「仁」と似た言葉がある。
それは「恕」だ。(怨じゃないよ!)
孔子の弟子の子貢が、ある日、孔子に
「人生において大切なことを一字であらわすと、何という字になりますか」
と尋ねた時、孔子は、
「恕」
と答えたという。
「恕」とは「思いやり」「相手の立場に立ってみる」「赦す事」という意味で、「仁」に並んで「恕」も大事だと思っている。
己の欲せざる所は、人に施す勿れ。
自分がして欲しくないことは、他人にしないこと。自分がして欲しいことでも、もしかすると相手にとっては迷惑かもしれない、ということを慮ること、この言葉を発する(態度を取る)ことで、相手はどんな気持ちになるかを想像する事。そして相手を赦す事。
その美しい二つの文字が並んだ「仁恕」という言葉の意味は
情け深く、思い遣りが厚くあること。相手をあわれんで赦すこと。
私は私を虐待した父母を始め、赦せないと思っていた人達の事を、
「仁恕の心」を以てすっかり赦した。
赦す事ができたのは、私に「仁恕の心」を示してくださった、上記自伝小説に出てくる数人の君子達のお陰だ。その君子達のお陰で、私にとって「芯」であり「美学」である「仁恕」についてこの度語る事ができた。
自伝小説は矢張り必然的にこの時期書かなければならなかった。
歪だった筈の心に変化が起き、「仁恕」という今の私の「芯」の部分、「根」の部分、「美学」というものが何故どのようにして出来上がったのかを再確認する為に。
人として最も大切な事を教えてくださった君子達に感謝せずにはいられない。
と、長々書いてしまったが、次にバトンを託すのは、金木犀さん。私と同じ、1966年丙午年生まれの方。男性から憧れられる程の男の中の男、
「漢」であり、記事の行間から常にその力強さと温かさ、優しさが滲み出ている。その魅力的なお人柄から男女問わず人気の高い御方。
私から金木犀さんへのお題は「忘れられない思い出」。
金木犀さんが印象に残っている忘れられない思い出、是非教えて頂きたく、日々お忙しくされている事を承知の上、バトンをお渡しした。寛大な金木犀さんは、私からのバトンを快く受け取ってくださった。何と有難い事だろう。金木犀さん、何卒宜しくお願い致します。
りりかるさんの記事をチェックしてみると、私は此方の企画に参加させて頂いたらしい。
自分なりの『美学』について書き終えてから、お題の記事を辿って読んでみると、皆ほっこりとした温かな記事ばかりではないか!
如何しよう・・・ 私のような者が参加して良かったのだろうか?と、甚だ疑問に思う。
私は文章を書いている時、自分が書いているような気がせず、後になって読み返し、これは本当に私が書いた文章なのかと物凄く吃驚する事が多々ある。これは占いの仕事の時も同じだ。 私はメール占い鑑定が主だが、占い鑑定に入るとパソコンのキーボードを打つ指が頭で考えるより早く、指の動きに頭が追いつかなくなってしまう。あっという間に3000〜5000文字の文章を書き終え、読み返しその内容に驚くのだ。
今回書いてある文章も、きっと「何か」に書かされているようにしか思えない。文調がいつもの私と違う事にお気づきの方もいらっしゃるだろう。私は大抵、もっと柔らかい女性的な文調で記事を書いている。これはきっと、背後にいる何か、何者かに書かされているような気がしてならない。よくわからないが私にとって、必然的に書かなければならないものだったのかもしれない。
必然的に書かなければならない文章程、このような不思議現象が起こり、書き出すと書き終えるまでキーを打つ指が止まらなくなる。これはきっと、
「書け」、というサインだと思った。
バトンを渡してくださったりりかるさんに心より深く感謝申し上げます。
さて、文字数が6000字を大幅に超えたようなので、この辺で手を止める事にしよう。