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以前、私はnoteリレーにてりりかるさんからバトンを受け取り、「美学」というお題を頂き、『仁恕』という記事を書きました。

『仁』も『恕』も大変美しい言葉ですが、私はその、『仁恕』を心して生きる道を『義』という、と、個人的に思っています。(私独自の考えですのでこれが正しいか間違っているかはわかりません。勿論Wikiなどにも載ってません💧)

儒教における『義』とは、儒教の主要な思想であって、ご存知の通り有名な五常(仁・義・礼・智・信)のひとつです。正しい行いを守る事であって、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として考えられました(義利の辨)。
孟子は羞悪の心が義の端であると説きました。
羞悪の心とは、悪・劣り・欠け・欲しいままに振舞う心性を羞じる心のことです。

易経の文言伝では、「利は義の和なり。」と教えています。
「利」とは利益の利であって、利を得るには個人的な感情、欲望を厳しく断ち切る「義」が必要になります。ですから利と義は相反するという発想はしていません。
(経営者の方でしたらおわかりいただけるかなと思います)

易経の話をすると可也長くなりますからまた別の機会にと思いますが、『義』につきまして『仁恕』を心して生きる道と、個人的に思っていると先にお話しました。

さて、小難しく考えず、『義』という文字をよ〜くご覧くださいませ。

『我』を『美くしくする』と書きます。

『義』とは

己にとって美しく生きるという事なのです。

『義』とは、『仁恕』を心して生きる道の事。己が守るべき美しい道の事。

簡単なようでとっても難しい。

『義』とは武士道での中心でもあります。有名なお話に、上杉謙信と武田信玄の「敵に塩を送る」というものがありますよね。

謙信は、敵の信玄が困っている事を哀れんで、書状を送ったそうです。

「私が貴公(信玄)と戦うのは弓矢であって、米や塩で戦っているのではない。
塩が必要ならば供給しよう。」

「義」を重んじる謙信にとって、相手がたとえ敵であっても困っている時は助けるのが「武士道」であり「義」であって、敵の弱みにつけ込んで攻めるのは義に反する事で、それで勝ったとしても全く美しい事ではない、と思ったのですね。

「義」には「私」(エゴ)がありません。
「義損金」の義もそうですね。
私欲私心を捨て、公共の為にする事。
自分の事はさて置き、相手の事を大事に思い考える事。
たとえ大きな危険でも相手の為に無償で身を投じられる事。
心の中にある「良心」を重んじる事。
等々

そう簡単にできる事ではありません。

先日、井上社長さんがこのような記事を書かれておりました。

人生観とはあなたがどのような人生を送りたいか、どんな人生が良いと考えるかを追求するものです。
人生観という時はより大きな概念的な人としての「生き方・あり方」を考える方が良いと思います。

人生観。何の為に生きるか、どのような人生を送りたいか、生き方、あり方。

「美学」同様、「人生観」なども、これまで考えた事がありませんでした。

人生観をじっくり考えてみた時、私はこれまで大切な尊敬する方達の、『義』を色々と見せて貰えた事が浮かびました。

それはまさに、『義』の文字の如く

己にとって美しく生きる姿でした。

「美」とは最高の陰徳とされる美徳の事。

私も己にとって美しく生きる人でありたい、と、思うところです。

ですので『義』とは人生観、というよりも、生き方、在り方の理想ですね😊

そもそも『義』は自分で口にするものではなく、周囲に認められてこそのもの。
自分で口にするのは美しくありません。

井上社長さんの 
「あなたはどんな人生を送りたいですか?」
というご質問に、自分自身の生き方、在り方について色々と真面目に深く考えてしまいました。

結論は、『義』に背く事のないような生き方、在り方、人生というものでした。

このように深く考える機会を与えてくださった素敵な井上社長さんとのご縁に、
心より感謝致します🙏✨

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