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両手にトカレフ
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」の作者、ブレイディみかこの小説。
本当は「ぼくはイエローでホワイトで…」のことを書いてからこのnoteを書くつもりだったけど、読後の衝撃が凄まじいので先に書くことにする。
本当に、なんて痛い、なんて悲しい、だけどなんて温かい物語を書くのだ、この人は。
あらすじ
主人公のミアは、今でいうところのヤングケアラーで、アル中でドラッグ中の母親の代わりに9歳の弟チャーリーの面倒をみている14歳の中学生。
ある日ミアは図書館でホームレス風のおじさんから一冊の本を受け取る。
その本は、遠く離れた日本という国に100年以上前に暮らした「ふみこ」の自伝。
ふみこはミアと同じように壮絶な生い立ちだったことから、ミアは時代も国も超えてふみこに共鳴していく。
そんなミアに、同級生の男子ウィルが「ラップのリリックを書いてみないか」と持ちかける。
あらすじだけ書くと割とアッサリしてしまったが、ここにはミアとふみこ(金子文子という大正時代のアナキスト)というふたりの少女の壮絶な日々が綴られていて、息をするのも忘れるほどの物語が展開されていた。
いつの時代も我慢するのは子どもたち
ミアは自分の現実をとても冷静に受け止めていて、公的な援助である「ソーシャル」のことを毛嫌いしている。
唯一心を開いていたゾーイはミアの同級生イーヴィの母で、彼女には本当の娘がいるから、ミアは今以上の助けをゾーイに求めてはいけないと自分に言い聞かせている。
このくだり。
若干14歳の女の子がここまでのことを達観するくらい、現代のイギリスの底辺層の子どもたちが置かれている現状がとんでもない。
このことは、「ぼくはイエローでホワイトで…」に少し描かれていたので知っていたが、やはり胸がきゅうぅっとなってしまう。
とんでもない親を持っても、子どもは諦めるしかない。諦めて、日々を淡々と過ごしていくしかないのだ。
しかしわたしが、自分の周りや過去のことを思い返して、数人の子どもたちの顔が浮かんでしまうのは、この構図が実は現代日本でもさほどめずらしいことではないことを表しているともいえる。
ミアの母親ほどではなくても、親の都合に振り回されて、それでもその中でなんとか自分を保つために我慢している子はとても多い。
自分が本当に生きることのできる世界
物語がどんなところに帰着するのか、ずっとハラハラしながら読んでいた。
ミアもふみこも、もう救いようがないところまでいっていたし、このふたりにこれ以上の試練はやめてほしいと願いながらページをめくっていた。(とはいえ、ふみこの場合はフィクションではないので、実際にはここに描かれている以上のことがあったんだと思う。)
そんな思いの中、著者が用意した結末には、一筋の風が吹いていた。
その風は、ミアの切り揃えたボブヘアを、サイズが合わなくなって短くなりすぎた制服のスカートを、軽やかに通り過ぎていく。
その風の中で微笑むミアが見えた時、わたしは泣くことしかできなかった。
この少女は、自分の気持ちひとつで、自分だけの心持ちで、この風を吹かせたのだ。
そんなミアの清々しい強さに、大人である自分は恥ずかしくなって泣くしかなかった。
こんな、こんなに強い結末があるのかと思った。
私たちの世界
けれどもそうなのだ。
誰もが立っているその場所こそが、私たちの世界なのだ。
そして世界は、今日も続いていく。
これは、ミアという少女が世界に気づくまでの物語。