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【読書】虎が出てくる、中島敦のもう1つの作品~『虎狩』(中島敦)~

「中島敦の虎が出てくる作品」といえば、圧倒的多数の人が思い浮かべるのは国語の教科書に載っていた「山月記」だと思います。しかし、こんな作品もあります。


*kindleユーザーではない方は、「青空文庫」の以下のリンクからどうぞ。


舞台は日本統治下の朝鮮半島で、主人公の友達である「半島人」の趙と行った虎狩の話です。とはいえページの多くが、虎狩の時以外の趙とのエピソードに割かれています。


この趙が、非常に複雑なメンタリティの持ち主なのです。

私は相手に、自分が半島人だという意識を持たせないように――これは此の時ばかりではなく、その後一緒に遊ぶようになってからもずっと――努めて気を遣つかったのだ。が、その心遣いは無用であったように見えた。というのは、趙の方は自分で一向それを気にしていないらしかったからだ。現に自ら進んで私にその名を名乗った所から見ても、彼がそれを気に掛けていないことは解ると私は考えた。併し実際は、これは、私の思い違いであったことが解った。趙は実は此の点を――自分が半島人であるということよりも、自分の友人達がそのことを何時も意識して、恩恵的に自分と遊んでくれているのだ、ということを非常に気にしていたのだ。時には、彼にそういう意識を持たせまいとする、教師や私達の心遣いまでが、彼を救いようもなく不機嫌にした。つまり彼は自ら其の事にこだわっているからこそ、逆に態度の上では、少しもそれに拘泥していない様子を見せ、ことさらに自分の名を名乗ったりなどしたのだ。

当時、朝鮮半島の人の中に、少なからず趙のような人がいたことが想像できます。


熱帯魚に夢中になる趙に対し、主人公がぶつけた意地悪な言葉への反応も印象的です。

 ――そりゃ綺麗でないことはないけれど、だけど、日本の金魚だってあの位は美しいんだぜ。――
 反応は直ぐに現れた。口を噤んだまま正面から私を見返した彼の顔付は――その面皰のあとだらけな、例によって眼のほそい、鼻翼の張った、脣の厚い彼の顔は、私の、繊細な美を解しないことに対する憫笑や、又、それよりも、今の私の意地の悪いシニカルな態度に対する抗議や、そんなものの交りあった複雑な表情で忽ち充たされて了ったのである。


趙が上級生からの苛めにあった時の言葉、それに対する主人公の反応も意味深です。

私は、その時、ひょいと彼の先刻言った言葉を思い出し、その隠れた意味を発見したように思って、愕然とした。「強いとか弱いとかって、一体どういうことだろうなあ」という趙の言葉は――と、その時私はハッと気が付いたように思った――ただ現在の彼一個の場合についての感慨ばかりではないのではなかろうか、と其の時、私はそう思ったのだ。

主人公、というより作者の中島敦自身が、日本に統治される朝鮮半島の人たちの悲哀に気づいていたことが伺えます。


虎狩を前に、動物園に行った主人公の虎へのイメージも面白いです。

その黄色の地色を、鮮かに染抜いて流れる黒の縞。目の上や、耳の尖端に生えている白毛。身体にふさわしい大きさで頑丈に作られたその頭と顎。それにはライオンに見られるような装飾風な馬鹿馬鹿しい大きさはなく、如何にも実用向きな獰猛さが感じられた。

うがちすぎな見方かもしれませんが、ライオンは日本人を、虎は朝鮮半島の人を暗示しているのかもしれません。


ちなみに、さすがにもう朝鮮半島の虎は絶滅したようですが、この話からすると、まだ20世紀初めには生きていたようですね。父が朝鮮半島の昔話は、「むかしむかし、虎が煙草を吸うていた頃」から始まると言っていたのを思い出しました。主人公たちが虎狩に行ったのは沙里院の手前、と書かれていますが、沙里院(サリウォン)は今でいう北朝鮮の、中国との国境に近い都市です。


日本人に虐げられている趙親子は、朝鮮の貴族階級にあたる両班(ヤンパン)の出身ですが、そんな彼らがふと見せた、同じ半島人であっても下層階級の勢子への態度の苛烈さには、ひやりとするものを感じました。その趙の姿に主人公は、「『終りを全うしない相』とは、こういうのを指すのではないか、と考え」ます。「終わりを全うする」が「物事を最後まできちんと成し遂げる」なので、そうできない相、ということですね。


虎狩からずいぶん経ってから、思いがけず日本で主人公が趙と再会した時、趙は煙草と燐寸を言い間違えるのですが、その説明も興味深かったです。

燐寸がほんとうに欲しいという実際的な要求の気持として、全身的要求の感覚――へんな言葉だが、此の場合こう云えば、よく解るだろう、と、彼はその時、そう附加えた。――として記憶の中に保存して置かなかった。これがあの間違いのもとなのだ。感覚とか感情ならば、うすれることはあっても混同することはないのだが、言葉や文字の記憶は正確なかわりに、どうかすると、とんでもない別の物に化けていることがある。彼の記憶の中の「燐寸」という言葉、もしくは文字は、何時の間にかそれと関係のある「煙草」という言葉、もしくは文字に置換えられて了っていたのだ。

ただの言い訳と言ってしまえば、それまでです。なのになぜ興味深かったかというと、試験などでの生徒の間違いの中には、「なぜこれをこう間違えるのだろう」と頭をひねるしかないものがあるのですが、それはもしかしたら、「言葉や文字の記憶は正確なかわりに、どうかすると、とんでもない別の物に化けていることがある」からかもしれない、つまり表面上の知識として上っ面で覚えているからかもしれないと、感じたからです。


「山月記」より7年ほど前なので、まだ粗削りというか、話が前後するのがまだるっこしいところもある作品ですが、これはこれで中島敦の「山月記」に感銘を受けた人にはお勧めです。


見出し画像には、「みんなのフォトギャラリー」で見つけた虎の写真を使わせていただきました。




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