ペシミストは朝、泣く。|運/03 #4|安達眞弓
《ペシミストだけど、「まあいいか」なところもある。ペシミストの己を懐かしむ若き日の1コマ》
【お知らせ】:安達眞弓の最新訳書『異性愛という悲劇』(ジェーン・ウォード著/トミヤマユキコ解説/太田出版)は、11月21日発売。
親譲りのペシミストで、子供の時から損ばかりしていた。
母は豪放磊落を絵に描いたようなタイプなのだが、めちゃくちゃ悲観的な人だった。たとえば大学受験を控えていた娘のわたしに「落ちた時のことを考えて勉強しろ」と、繰り返しふきこんできた。親からそんな暗示をかけられてはたまらない。落ちたよ、落ちましたよ。
親譲りのペシミストは、争うことも嫌いだった。なんだりかんだり「競走」と名のつくものが苦手で、しょっぱなから試合を投げる。徒競走なんて「お願いだから早く終わってくれ」と、いやいや走るから、堂々の最下位。
そんなわたしがなぜフリーランスで働くことになったか。きっかけはやはり母だ。職場で倒れ、そのまま入院し、医師から「長期入院となります、退院はできないかもしれません」と言われた。母の介護が唐突にはじまったのだ。
覚悟を決め、辞表を出し、それまで住んでいたマンションの賃貸契約が切れるところで実家のそばにアパートを借り、そこで翻訳の仕事をしながら母を看病しよう——と決めたら! 母の病状がケロリと好転した。1か月で退院。引っ込みがつかなくなったが、もともと好きな職場ではなかったし、翻訳で身を立てるつもりでいたから、まあいいか——と思っていたら! 新潟からステルス攻撃を食らってプロポーズされた。退職理由が「母の介護」から「結婚」に変わった。
まあいいか。
こうしてはじまったフリーランス&新婚生活が暗礁に乗り上げたのは2年後の6月のこと。ひと月まるまる、翻訳の依頼が来なかった。少しは休みをくださいと悲鳴を上げるほど押し寄せていた仕事が、どこからも来なくなったのだ。
社会人になってから2週間以上休みを取ったことがなかった。ずっと正社員だったから休暇はすべて有給だったし、無収入で1か月過ごすというのは、実に生まれてはじめてだった。足元の床が全部砂になって崩れてしまうのではと思うほどの不安にさいなまれた。
何かヘマをやらかしたのだろうか。
納品した訳稿に目を走らせ、ここか? それともこっちがよくなかったのだろうか? と頭を抱えた。エクセルにつけていた売り上げ記録から前年同月比を割り出して、推移をグラフにしては眉間にしわを寄せ、夕方になってもメールひとつ、電話ひとつ来ないと言ってはため息をつき。自分でもいまだによくわからないのだが、絶望のピークはいつも朝だった。目が覚めるとすぐ、今日もまた、仕事が来ないのかよ——と。
さめざめと泣いていると(そう、泣いていたんだ)、夫が、うるせえな、って顔をして起きてくる。「仕事なら、俺もないから心配するな」植木等を気取ったつもりだろうが、君まで仕事がなかったらもっと辛いだろ! まるで昭和のどつき夫婦漫才やないか……! みたいなやり取りを繰り返し、夕方になり、ふたりで晩酌していると、少し気が楽になってくる。そして寝る。朝が来る。泣く。
今、思い出しながら書いていて、あまりにへなちょこなペシミストぶりに笑ってしまう。オチはもうおわかりだろうが、7月になったらすぐ仕事が来た。ないから心配するなとほざいていた夫にも、同じころに大きな案件が降ってきた。
その後、20年以上フリーの翻訳者を続けてこられたのは、運に恵まれていたと言ってしまっていいのだろう。何度か迎えた危機的状況も、豆粒みたいにちっぽけな運を転がし、こねくり回して乗り越えてきた。
つまらないことで一緒に笑って、泣いて。いいことばかりじゃなかったけれども、生涯楽観主義を貫いた夫と暮らせたこともラッキーだったのかもしれない。
文:安達眞弓
>>次回「運/03 #5」公開は11月21日(木)。執筆者は栗下直也さん