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名残惜しさを感じたなら|残暑/01 #3|関野哲也

関野哲也(Tetsuya SEKINO)
1977年、静岡県生まれ。リヨン第三大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。フランス語の翻訳者/通訳者として働くが、双極性障害を発症。その後、福祉施設職員、工場勤務などを経験。「生きることがそのまま哲学すること」という考えのもと、読み、訳し、研究し、書いている。著書に『よくよく考え抜いたら、世界はきらめいていた』他。
■ Xnote



留学していたフランス・リヨンの街を、ローヌ川が流れている。この川のように、ゆっくりと時間の流れるその街が、わたしは好きだった。

フランス北部に位置するメッス大学で、哲学の学士・修士号を取得したのち、フランス南部のリヨン大学へ移り、いよいよ博士論文の準備に入った。フランスの哲学者であるシモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)について研究する日々が始まったのだ。

ところが研究は、まるで暗闇を歩くようでなかなか見通しがつかず、総じて苦しいものだった。けれど、どうしても知りたいという問いに導かれて模索するなか、その暗闇にひとすじの光を見たときは、ひとつ知見を深められた喜びで満たされ、それがこれまでの苦しさを一気に吹き飛ばしてしまう。そうして、ふたたび研究に行きづまると、気分転換にローヌ川のほとりを散歩する。その繰り返しの日々だったが、三十代なかばを迎えてもなお、そんな知的青春を味わうことができた。

この街での留学を終え、いよいよ帰国日が近づくにつれ、わたしのなかで芽生えた感情は名残惜しさだった。もっとここにいたい。留学生活をふりかえって最後にそう思えたのは、とてもしあわせなことだ。

なぜ名残惜しさがしあわせと結びつくのか。名残があるなら、心残りがあるということではないのか。当初の計画が成し遂げられず、不完全燃焼に終わったことへの心残りであるなら、それは残念なことであり、しあわせとは結びつきにくいかもしれない。しかし、ここで言う名残惜しさはその意味ではない。その感情は、慣れ親しんだものへの愛着とも呼べるものだ。

早く帰りたい、二度とこんな街に来るものか。そんなふうに思ったならば、留学生活を否定することになるだろう。そこにあるのは嫌悪であり、愛着ではない。そうではなく、リヨンに名残惜しさを感じられたのは、研究の苦しさやそれに勝る喜びもふくめた日々と、ゆっくりと時間の流れるその街に、わたしが愛着を抱いていたからだ。だから留学生活を否定ではなく肯定で終えることができた証が、名残惜しさという感情だと思っている。

秋の始まりを知らせる残暑にも、そんな名残惜しさを感じさせるものがあるのではないか。たしかに近年では、残暑は酷暑の終わりの始まりを告げる言葉とも言えるだろう。もうすぐこの危険な暑さも終わる。もう少しで涼しくなる。あと一息がんばろう。そんなメルクマールが立秋以降の残暑という言葉に含意されているのかもしれない。この場合、一刻も早く暑さがおさまってほしいと願うあまり、名残惜しさなど感じる余地はない。夏が苦手な人にとって、それはひたすら耐えに耐えた季節だったから。

しかし、夏が好きな人にとっては、残暑に名残惜しさを感じることがあるだろう。自然界では、セミの鳴き声が変わりはじめる。ミンミンゼミからツクツクボウシへ。または空に浮かぶ雲の形が変わりはじめる。わた雲からうろこ雲へ。夏の終わりと秋の始まりを教える自然界の兆しが、名残惜しさを感じさせるとともに、夏の思い出を過去へと運んでゆく。

名残惜しさにしあわせを見るということは、生まれ変わったらと想像することにも当てはまるのではないか。もし生まれ変わったらと想像することができるためには、人はこの人生を肯定している必要があるはずなのだ。この人生を肯定しているからこそ、もういちど生まれ変わりたいと願えるはずなのだ。この人生と同じようにふたたび苦労するくらいなら、生まれ変わりなど御免こうむりたい。逆に、人生をそう否定することも可能だ。生まれ変わりたくない。それが人生の否定なら、生まれ変わったらと想像することは、今がしあわせな人生のゆえだと思う。

もちろん、思いがけずつらい人生を歩んだあとに、生まれ変わったら別の人生を送ってみたいと想像することも可能だろう。これは一見するとこの人生を否定しているようで、じつは人生の中身を否定しているだけなのではないか。それでもやはり、人生という器は肯定しているのだから。もし生まれ変わったらと想像するとき、次の人生で何をしようかと夢がふくらむ。

これは人生を終えるときも、しかりだろう。苦労したけど、べつに生まれ変わりたくはないけど、「この人生でよかった」と言えることは、素敵なことだ。また、臨終の間際に「もっと生きたい」と願うことも。そこに名残惜しさを感じたなら、それは人生がしあわせだった証なのだから。心残りではなく、名残惜しさ。この感情こそ、ふりかえった人生の愛おしさに相通ずるものではないだろうか。

そして、ここまで書いてきて気づいたことがある。それは人生肯定の契機について、である。「これでよし」と人生を肯定するうえで、人生における喜びと苦労の割合がそれを決するのではないということだ。たとえ苦労だらけの人生であっても、すべての苦労を凌駕する喜びがたったひとつあったならば、それだけで人生を肯定できるのではないか。それが「これでよし」とわたしに言わしめるのではないか。わたし自身の留学生活をとおしても、そう思うのだ。だから、名残惜しさは、たったひとつの喜びからでも生まれえる感情なのかもしれない。

ローヌ川/imagemart No.40101135055

文:関野哲也


>> 次回「残暑/01#4」公開は9月15日(日)。執筆者は安達眞弓さん

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