線を引くこと〜映画「怪物」感想文(少しだけネタバレ)
非常に遅ればせながら、映画「怪物」(2023年公開)を鑑賞した。
久々に映画館で見たいと思っていた映画だったが間に合わず、アマプラで配信があると言われても間に合わず。とにかくやっと時間に余裕ができて鑑賞することと相成ったわけである。
楽しみにしていたので、ネタバレもそこそこしか確認していなかった。俳優陣も安藤サクラさんが出演されていることだけがわかっているような状況だったので、瑛太さんがなんかありえんぐらいダメな教員を演じていることに衝撃だった。東京03の角田さん(年末を乗り越えた私にとってはふるさと納税のことをずっと考えている人)も、本当に嫌悪感を抱かせない親近感の湧く演技をされていた。……などという高みの見物感想はさておき。
私が一番感極まったのは、保利先生が星川君の家庭訪問をするシーンだった。最初のパートで保利先生が完璧な「怪物」として描かれ、良くない先生のいわゆるステレオタイプとして描かれていて、ある意味私も保利先生を「誤解」していたのだと気付かされたからである。教員のこういう一途さというかひたむきさは、あまりにも儚くて、なかなか目立たないものである。教員の不祥事は万人が好むものだし、新聞記事にもなりやすい。「聖職」とのギャップがあまりにも破滅的でセンセーショナルなのだろう。
でも民生委員も自治会も成り立たないと聞く時代に、仕事とはいえ赤の他人を心底心配するっていうのはある意味では常軌を逸しているなと改めて思う。教員以外でもそういう職種はあるけれど、どの人もしっかりとどこかでボーダーを設定するべきなんだろう。これ以上は干渉するべきではない、と。私はボーダーを引くのが苦手なタイプであるが、良い先生は過干渉な先生とは異なるのだ。保利先生を見ていてうっすらとそんなことを考えた。
本当に良い先生は多角的に物事を見ることのできる人物だろうか。
それこそ確かに本当に「聖職者」だ。
スマホを持つようになって、ニュースを見る機会が増えた。ニュースを「知る」のではなく「見る」回数が増えた。朝起きたらヤフトピを確認して、世の中で何が起きているのか確認。次にSNSを徘徊して世の中の人が何に関心を持っているのか確認。次にテレビを見て、その中の何が特に報じられているのか確認。この作業を1日に何ターンも繰り返す。
だけどニュースを見ているだけでは、何が起こっているのか。それっぽっちしか把握できない。誰が悪いのかは正直わからない。ずいぶん昔は悪いことは明らかに悪いことだと思えたし、少し前までは様々な媒体の情報を重ね合わせば真実が見えると思っていた。(ちなみに名探偵コナンと金田一少年を見て月曜日夜7時を名探偵時代の人間です。)真実はいつも一つだと信じてた(信じてる)ので。
だけど今はもう本当にまじで何がなんだかわからない。こっちかな? と思ったら、次の日にはそっちかな? って思わされていて。自分がニュースを「知る」ことなんてできないんだなと思い知らされた。
どこまで行っても、そのニュースは発信者のバイアスがかかっているので、文字情報になっている時点で「見る」ことしかできない。文字化された誰かの記事を見て知ったような気分を味わっているだけだ。
ここで同時に考えるのは私はどれくらい「知りたい」のかということである。見ているニュースの分量に対して、本当に知りたいと思うことは実際にはごく僅かしかないことにも気づいた。本当に「知りたい」ことは専門的な知識と、そして何より「本当のところは私などには知る由もない」という線引きが必要になる。どれだけ情報を集めようが、勉強しようが、わかったようなつもりになるのは本当におこがましいことである。多面性を持つ人間と人間が常に接している限り、善と悪という整理整頓された美しい二項対立には決してなり得ない。
だから誰が悪い、とか、何が良くない、とかではなく、なぜこの人が悪く見えるのか、なぜこの事柄が悪しきものに映るのか。ニュースにより気軽に接することのできる時代だからこそ、線を引くことが肝要だと思う。
生徒に対してもそうである。作品の最後は「ほっといてよ」っていうことのような気もしたけれど、そんなほっとくとか無理な話である。親も教師も、私も含めて「聖職者」ばかりではないのだから。
追記:本作品を通じて谷川俊太郎さんの「ぼく」という絵本を思い出した。子どもの想いは深淵で強い切実さがある。だからこそ余計に知りたい、知らなければならないと思ってしまうのだ。