【問うとはどういうことか】 - 正しさに殺されないために -
2021年の元首相でありオリンピック委員会会長であった森喜朗氏の発言からはじまります。
「女性差別」だと騒がれて、叩かれていました。梶谷さんはもっと厳しく捉えていて、「反民主主義」と主張。森氏だけではなく、マスコミや疑問をもたなかった大人たちへ「問う力がない」と言及しています。
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問うことをしなくなる要因は5つ、考えられるそうです。
基本歓迎されない
「わからない=質問」教育の基本はわかることだから質問は好ましくないしばしば攻撃的である
「どうして」や「なぜ」は責められているような気持ちになる与えられるもの
ある種の「テスト」であり、それには正解があるからかなり面倒くさい
1〜3の総合である。問うことも問われることも、ヘタをしたら「ストレス」になる実は怖い
うかつに質問をするとどうなるか、「恥」をかいたり「バカ」にされる
誰しも若いころに経験することばかりです。学校教育の方針や、人間関係の摩擦から、疑問に思っても深く考えることに抵抗が生まれ、質問したくてもできず、問うことのハードルがあがっていきます。
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それでは、なんのために問うのでしょう。
知るため
「新しいこと」や「正しいこと」は受け身では学べない理解するため
「わかったつもり」になって、知らないことを「深く考えない」理解するためには考えるしかない考えるため
「考える=問い」といえる
「想像」するためには「仮説」が必要になる自由になるため
「常識・偏見・苦しみ・無知」
外的要因をすべて受け止めていたら、人生を縛られてつまらない
いきなり外向きに問うと、嫌われるかもしれないし、トラブルになるかもしれません。内向きに問うぶんには、しつこくても問題にはなりません。
まずは自問自答をくり返す。考えつづけるとは、地道な努力をつづけることになります。
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大和書房:2023.8.11
単行本:216ページ
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