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note中の人 プロフィール


1)生い立ちからこれまで

1973年生まれ。実家は石材店を営む父と商店を営む祖父母、子育てをしながらそれを手伝う母、兄姉の7人家族の末っ子として育ち、兼業農家をしながら商売人一家の中で育ちました。
高校を卒業後兵庫県の短大を卒業し、松江市内のホテルに就職し、現在のモルツウェル㈱の社長である主人と残念ながら(笑)出会い、現在に至ります。現在はすでに社会人となった長男長女の母でもあります。



起業したきっかけは、生まれ育った環境もあり、もともとサラリーマンの人生イメージがなかった私でしたので、ホテル時代に知り合った「世の中を楽しくしたい」という独立志望の主人(モルツウェル㈱現社長の野津積)と意気投合したところからです。特に手に職があるわけでもない私たちでしたので、当時フランチャイズの加盟店募集をしている企業をいろいろ探していました。結婚1年後に新聞広告で、持ち帰り弁当のほっかほっか亭学園通り店の加盟店募集の記事を見つけ、本部に問い合わせたのが始まりです。

2)経営と子育て

創業は平成8年、持ち帰り弁当のほっかほっか亭のフランチャイジーとして、島根大学近くの、ほっかほっか亭学園通り店を本部から買い取り、開業しました。創業時、社長は28歳、私は23歳でした。上の写真は創業一か月後の初々しい写真です^^。従業員は社長、私はと、本部直営時のパートアルバイトを引き継ぎ、約10名でスタートしました。経営のケの字もわからない中で、私の中ではお店屋さんごっこのようなノリで、店頭に立っていたと思います。当時の学園通りはまだ何もなく、開発途上の場所でしたので、工事関係者や学生、若いファミリー層を中心にお客様はどんどん増えていきました。社長も私もホテル上がりでしたので、両手に袋を持ったお客様には走っていってドアをあけたり、車までお見送りをしたり、持ち帰り弁当店には十分な接客をしていたので、さらに売り上げも上がり、朝7時の開店から夜中2時の閉店まで、くたくたでしたがお客さまに来店していただけるワクワクで休みなく働いていました。1年後私は長男を出産し、育児の傍ら給与計算等総務事務、営業担当など行っていました。

社長とともにお店のバックヤードで子育て



売り上げも順調に伸び、「お客様へちょっとうれしいを創造する」を理念に、今のモルツウェル株式会社の前身となる有限会社モルツクリエーションという名前で会社を設立しました。
当時の組織は、フランチャイズ本部から引き継いだパートアルバイト多く、モルツの攻めの新体制になじめないスタッフがたくさんいた悪状況でした。「売上は上がるけど、忙しいだけで良いサービスが出できない。これではじり貧だ。」という不安が常に付きまとっていました。毎晩ラスト業務が終わってからもスタッフと語りあかし、徐々にみんなが事業に情熱をもってくれるようになりました。

お客様の声から、当時本部からは反対されていた「宅配」も全国で初めて取り入れ、モルツマインドの入った店舗で一気に全国ナンバーワンの売り上げをたたき出す店舗となりました。
この頃のエピソードとしては、社員も家族の一員のような感覚で、会議は一緒に夕食をとりながら私は授乳をしながら・・・とか普通にありましたし、土曜日は子供の保育園の迎えや世話もアルバイトの大学生にお任せしたり、一緒に海水浴やスキーに行ったりと常にアットホームでした。
利益も順調にあがり、2店舗、3店舗、、と次々に店舗を増やし、気が付くと50名を超える組織となっていました。開業から4年後長女も生まれ、私は自宅事務所で経理総務事務、店舗統括を子育てをしながらこなす毎日でした。少しずつ店舗が増えていくにつれ、社員とのすれ違いが出てきます。

この頃の社長の気持ち・・
「なんで情報を上げてくれないんだ?数字をもっと読めよ。指示した通りもっと営業もできるはずだ。店もきれいにできるはずだ。なんでできないんだ~??」
社員の気持ち・・
「忙しくて全部できません!体が持ちません。社長手伝ってよ。もしかしたら、自分の能力の方が優れているかも。ノウハウはわかったし、自分でやった方がもうかるかも・・・」だったと思います。

この頃にはパートから正社員登用をしたスタッフもいましたので、
残された店長や社員で、必死に店舗運営を行いましたが、女性店長は、過労で体調を崩し、退職。私は、毎月の会計処理、給与計算に追われていましたが、この当時もどうやったら全社員で情報共有ができるのか、もんもんと考える毎日でした。月一回全社員MTを夜中に行ったり、各店長をわざわざ本社に呼んで朝礼を行ってみたり、いろいろやってみましたが、業績が悪くなっている状況で、集まっても社員を叱咤することばかりだったように思います。


3)第二創業・子ども二人を置いて研修2週間~債務超過脱出まで

戦略を切り替え、店舗はパート店長運営とし、新事業を模索します。
東京のフランチャイズビジネスショーで、シニアビジネスパートナーと出会い、平成15年、ウェルビーイング有限会社を設立し、在宅高齢者配食サービスをスタートさせます。
当時パートナーとして契約をした、岡山の会社へ私が2週間研修に行き、調理方法、配達ノウハウを習得し、「絶対今のほっかより儲かるよ」との甘い言葉にほだされて、平成16年6月開業しました。
ところが、その会社も設立して2年の若い会社で、内部態勢も全く整っていない状態、マニュアル一つ研修時に持って帰れない状態でした。が、始めたからにはやらるしかない!と夜明け前から仕込みをして、昼前から子供を助手席に乗せて松江市内の在宅高齢者へ配達に回り、夕方からはレシピの作成、食材調達、受注、集計、請求ステムの開発、すべて自社でやりました。

今思えば、私にはとても勉強になる時期ではありましたが、私はシニアフードビジネスに没頭し、経理総務は、高卒新卒の女の子に任せきり、ほっかの状況も店長に任せっきりでした。嵐の中を計器なしで、走行している難破船のような状態でした。
支払日に、経理担当の女の子から、振り込もうと思って銀行に来たんですけど200万お金が足りないんですけど~」と電話がかかってきて、あわてて個人の預金をかきあつめて、振り込みをしたという管理の出来なさ加減でした。

言うまでもなく、財務体質は悪化。債務超過に陥り、社長は城山稲荷神社で途方に暮れ、どの木にロープをつるして死のうかと思い、私は毎日朝4時~夜中まで働き、週末は子供を預けに実家を夜中に往復という毎日で、いつ逃げ出そうかと思っていました。

4)お弁当をお届けするお客様は様々


都会に出た息子を待つおばあちゃんの姿、団地の4階で一人暮らすおじいちゃんの姿、介護に疲れて私を見るなり泣き出すお嫁さん、玄関先に腐った布団が置きっぱなしのおじいちゃん、何度届けても「食べてない」というおばあちゃん、「お父様退院おめでとうございます!」と言ったら「おめでとうっていうかね・・」と退院を喜べない娘さん。
----在宅介護の現実。

夜献立を組み、朝仕込みと食材発注、午後盛り付けをしたお弁当を配達に島根半島の町に配達に行くと、いつも笑顔で迎えてくれ、帰るときは車が見えなくなるまで手を振ってくれるおばあちゃん。でも年末になると「息子は今年の正月もかえってこらんわあ」と泣かれる。団地の4階で「毎日つまらんわ。早く空から迎えがこらんかいな。」と憂うおじいちゃん、「もういっぱいいっぱいなんです」とお弁当を受け取るなり介護疲れで泣き出すお嫁さん、かたずけられずゴミ屋敷となった家で暮らすおじいちゃん、何度届けても「食べてない」と電話をかけてこられる認知症で一人暮らしのおばあちゃん、「お父様退院おめでとうございます!」と言ったら「おめでとうっていうかね・・」と退院を喜べない娘さん。
様々な在宅で暮らすお客様や在宅介護で疲れているお客様を見てきました。
時には、昨日元気だったのに、今日配達に行ったら冷たくなってるお客様を発見することも。
一方で、亡くなられたお客さまのご家族から「父はいつもお弁当を待っていた。配達員さんとかわす何気ない会話が毎日の楽しみだったんです。」そう言ってくださるご家族にもたくさんお会いすることができました。
その現実が、この仕事を続ける原動力となっていました。


5)私たちのミッションてなんだ?

数年後、平成23年、山陰豪雪、東日本大震災が起こります。
当時東北にも介護施設のお客様がありましたので、現地の困窮している状況を見て、社長は食材を届けにいきました。私も含め、従業員は危険だからと引き留めましたが、社長は「人として行くんだ!」と、自社の真空調理済み食材と物資をトラックに積んで東北へ向かいました。向かう途中福島原発が爆発する中、東北に到着、現地では悲惨な光景が広がっていました。
母を探して泣きながら歩く少女や、避難所にトラックをつけるなり群がり喧嘩を始める被災者など、常軌を逸した人々、きのうまであったはずのふるさとが一瞬にして荒野となった光景を目の当たりにしました。

この体験をした自分に何ができるのか、帰りの道すがらひたすら考えたそうです。ふるさとがなくなった東北の荒野、高齢者配食をする島根も空き家がどんどん増え、商店もなくなり、限界集落となり一人さみしくなくなっていくお年寄りを日常業務で目の当たりにする中、もしかして島根も同じではないか?「ふるさとを守る」のは私たちがやらなければ。

島根に帰り、数か月後、地域の商店の商品を、配食サービスの配達網で共同宅配を行う「ごようきき三河屋」をスタートさせました。
しかし、なかなかこの事業、利益が出ず赤字のジレンマが社内に広がりました。

みんなで考えました。

「モルツウェルってなんなんだ?」
導き出したのは、

モルツウェルの固有の役割は
「世の中に風穴をあけること」

ミッションは「ふるさと守り」
これを達成するには、
収益の安定的な確保、投資の原資を稼ぐこと

その原資で「健やかで安らいだ地域生活への貢献をすること」

ミッションがはっきりした私たちは、
経営理念を再作成、併せて中期ビジョン、経営方針、戦略、経営計画を成文化しました。



自分にとって幸せな時は?
子供たちと一緒にコンビニにアイスを買いに夜道を歩くとき
なんのために仕事をしているのか
何が人間をより幸せにすると考えますか
どのような姿勢で仕事に臨んでいますか

など、
社員と一緒に、自分軸をとことん考え、文字にしていきました。
すると、
経営者も従業員も何気ない、家族との時間に幸せを感じたり、
安心で安全な場づくりが何より大切なんだということに気づきました。

何気ない、大切な家族との時間


私自身も子供も手はかからなくなり、営業部長として販路拡大、管理部長して財務改革、平成25年からは専務取締役として、経営全般を見れる状態となっていました。
平成26年念願の新工場が竣工したのですが、消費税増税や、送料の料金改定、スタートアップの真空調理も暗中模索が続き、再び業績も悪化し、一時役員報酬をゼロにする決断もしました。社員は「正解が分からない」と自信も失いつつありましたが、品質改善や生産性改善を愚直に行い、中期計画を策定、目標管理を徹底し、少しずつ業績も回復し、1年で黒字に復活させることができました。

6)介護施設の厨房から見えてきたもの

介護施設の人材不足も深刻化をしてきていて、平成17年から新規事業として厨房受託事業もタートし、新しい社会課題が見えはじめていました。
 
平成28年には、開業当初からの事業であったほっかほっか亭事業を事業譲渡し、シニアフード事業、ごようきき三河屋事業に集中。未来を見据えて取捨選択をし、新しい事業にチャレンジできる環境も少しずつできてきました。

そのころ、私自身の自分軸では、起業時から子育ても経営のことも、お金以外のコトはなんでも支えてくれていた父親が心不全で突然亡くなり、私自身も体調を崩して入院をする時期があり、「これからの生き方」について、考える機会がありました。
自分の命をどう使うか、どう生きるべきか、
これまでたくさんの従業員に支えて頂き、お客様に勇気づけられ、地域の経営者仲間に励まされてきたことを思いだし、そこに恩返しがしたい、と考えるようになりました。

7)さまざまな立場の方々が介護を支えている介護施設現場。私たちは厨房で何ができるか。

フランチャイズの中食産業の厨房でいかにお客様にスピーディに提供するかをとことん突き詰めた創業期の経験。お弁当配食のために、鍋窯で調理し、ひやひやしながら衛生管理をし、クックチル製法を体にしみこませた経験。
真空調理製法に切り替えて衛生管理が数段アップした製品を、すでに厨房機器メーカー主導でがちがちに設計された介護施設厨房で配膳しつつ、生産性を上げていく経験。人手不足で、早朝の立ち上げや、皿洗いのクロージングのために社長と私で介護施設の厨房を回した経験。

どれも、わたしたちの血肉となっています。
今、私たちには心強い仲間が周りにたくさんいます。社内にも、社外にも。
真空調理食品の製造工場で働く大手半導体メーカーの管理職経験者や大手食品会社での勤務経験者、飲食業界出身でホテル厨房、介護施設厨房管理を経験した者、システム開発経験者のプログラマー、障がい者就労継続支援事業所の仲間・・・。それぞれの知見を活かして、

データドリブンな食事指示をもとに配膳・提供ができ、作業導線の改善を重ね、スリムで、作業性抜群、そしてだれもが楽に配膳ができ、お客様(施設利用者とその家族、介護者、施設経営者)みんなが幸せになれる施設厨房を目指して研究開発を進めています。



まだまだ続く私たちのドラマをこれからお伝えしていけたらと思います。
応援をよろしくお願いします♪



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