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水野南北*福禄寿の思想②日本三社
昨日の続きです。若井朝彦著『江戸時代の小食主義 水野南北の修身録を読み解く』より福禄寿の思想の2つめ、日本三社についてのまとめです。
②日本三社
日本において神道、仏教、儒学はどのように位置づけられているか?
水野南北がまとめた修身録4-4の抜粋です。
「日本の三社は、すなわち神儒仏の三道に通じている。天照大神は抜きん出た神として中心に立つ。八幡宮は仏教に応じていて、それゆえ放生会(ほうじょうえ)がある。俗に八幡大菩薩といわれるのは人々がいつとはなしに名付けたからだが八幡宮はこのように天自然の仏であって民をあわれむとともに天下を治める。
春日大社は儒学と繋がっており、だから鳥掛の神事がある。これは田畑を荒らす鳥獣を捕える祭事であるが、このようにして天下のために悪鬼を打ち取り国家を治める。
君というものは法を司ってすべての中心に在る。
臣は左右にいて君を助けるために理を用いる。民に慈悲を与え権勢をもって悪逆を叩き、天下の政事を行い国家を治めるのがそれだ。
三国(日本、天竺、唐土)とも民を治めるその根本にはこのように神儒仏の道理がある」
神社はすべて神道なのだと思っていた私f^_^;
ここのポイントは南北の「自己を一つの教えの中に投げ込まない」という思想。国が民を治める根本には神儒仏の道理があると南北は言います。個人の生き方としても参考になるのではないかなと思うのです。というか日本人は自己を一つの教えに投げ込んでない人が多いですよね^ ^
また、南北の観相法には「妙」と「法」の区分があり、
「妙」は「無相(姿、形のないもの)」で神道
「法」は「有相(姿、形のあるもの)」で儒学
仏教はその中間なんだとか。
南北が人の相を見るとき、目に見えるものと見えないもの、そしてその中間の相を見て判断するということなのでしょうか。相手のことを理解しようとするとき見た目だけではわかりませんもんね。
ということは、こういうことかと。
つまり
目に見えないもの*神道はスピリット(霊)それは大光明、宇宙エネルギー、生命そのものと言えます。
目に見えるもの*儒学はボディ(肉体)で人が営む行為といえると思います。
では、その中間である仏教は?マインド(心)ということかと。仏は神と人との間にあり、心、感情や思考を精査することなのではないかと思うのです。
このボディ、マインド、スピリットのバランスをとることが大切で、自身の心をを霊(0、ワンネス、統合の意識)に向かわせることで肉体(善悪など分裂の意識)とのバランス三位一体を実現していくのだと南北は言いたいのではないかなと(これは私の考え方なので自分の考えに近づけたいという気持ちが入ってしまうのですが)思うのでした。
そして、それが人相に出るということなのでしょう。
次回は3回目。
天と地が人に与えてくれるもの、です。