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自分も世界も宇宙も前世もなかったよ
言葉では表現できないことを
あえて言葉で表現してみます。
全て間違いだけど、
間違いはありません。
本質的に
自分も時間も空間も無いけど、
便宜上 言葉の性質上
自分も時間があるかのように
表現することになることを
ご了承ください。
※言葉の性質上
その言葉自体存在するだけで
音、視覚、意味、個人の解釈
必ず分けるが起こるので
表現しようがないのです。
他人の味覚を自分では分かり得ない感じです。
私は毎日 近くの山へ
愛犬と散歩に行きます。
引っ越してきて
2年目くらいのある日
登りの途中で
悲しくもないのに 突然
涙が溢れて止まらないという
体験をしました。
(周囲には人はいなかった)
一人理由なく
おいおい泣きまくりました(´;ω;`)
思う存分泣き終えたら
今までに感じたことのない
とんでもない解放感
そのあとに
温かく 柔らかい感覚に包まれました。
起こる全ての事は
既に赦され、愛され、
全受容されていたんだという
気づきが起こりました。
何とも言えない
とうてい言葉にはできない
解放感のようなものが起きました。
今までの嬉しいも辛い体験も
どの体験も間違いなどなかった!
そして これからも間違いなど無いんだ!
という確信が湧いたのです。
そして
自分も世界も宇宙も前世もないという
気づきが起こりました。
これは 本当に
言葉にするのは
とても とても難しい…
なぜなら 冒頭でも記した通り
本来
自分も言葉も時間も制限も
何も存在しないから
表現は不可能なんです。
一瞬=永遠=時間は無いからです。
自分があることも
世界があることも
宇宙があることも
時間があることも
空間があることも
全て勘違いだった。
自分はいるけど、いない。
生きているけど、生きていない。
自分でしていることなどない。
言葉で表現してしまうと
必ず 誤解が生まれる。
だから、
宗教も道徳も教育も
言葉にすることで
誤解が誤解を生んでいったのです。
前世や宗教について
岡田斗司夫さんが
とても分かりやすく
解説されていますので
ご覧ください。
しかし、
これらの誤解もどちらも間違いでないのです。
現象世界は誤解でのみ成立しています。
反応の連続。
上記で体験と表現しましたが
実は体験ではないのです。
感じることもできないのです。
なぜなら
感じる自分はいないからです。
「無」は感覚も「無」で
「差」もないので比較ができず
感じることは不可能なのです。
表現として変なのですが
上記のことも
私が体験したわけではないのです。
全ては境界は無く
分かれていないのです。
分かれていないから
分かり得ないのです。
私は山登りをした際に
思考が停止したことで
自ら分けているという
勘違いの境界が一瞬消失した
感じが起こることにより
自分も世界も宇宙という空間
前世などの時間もなかった!
ことの気づきが起こった。
同時に
あるという感覚があるのに、
全て勘違いだったことに
気づきが起こる。
自力の可能性、余白の消滅
(境界がなくなることも
気づくということも
その勘違いすらも
本来は何も起こって無いのですが…💦)
同時に
起こることしかなく
決まったものは何もない。
特別なんてないのです。
方法も法則もないのです。
※ただし 山登りすれば思考が消せる
訳ではないので ご注意ください。
わからないので、法則はありません。
なので
優劣も無ければ
価値もない。(そもそも差がない)
変化もない。
比較できるものが(絶対:対象の絶え)
何一つなかったのです。
なので どんなに豊かで
才能ある人も みんな 同じ。
思考も感情も見えるコップなどの
無機物も全て同等。
分かるものなんて
一つもなかった。
不思議なんですが
二つない けど
一つだけというわけでもないのです…
ワンネスとうわけではなく
ワンネスも無かったという…
全て否定し 全てを肯定する
これしかない 感じ。
ある意味
表面上違って見えても
すべて 同じ
ということでもあるのです。
個人(自分)という感覚が
存在することで
自分にとっての特別な
時間と空間がうまれ
境界がうまれ
価値がうまれ
所有がうまれ
執着がうまれてしまうのです。
それは 悪いことでは
ありません。
ただ そうであるだけで
理由なんてありません。
そもそも「何故」が無いのです。
そうあるだけなんです。
主体=客体
主体というのは客体ありきの
比較でしか存在できないので、
主体=客体ということは
主体も客体も無いということ
意味します。
反対に
個人は常に特別です。
唯一無二なんです。
個人が発生すると同時に
対がうまれ
ポジティブもネガティブも
発生します。
ポジティブもネガティブも
実は同じなんです。
ポジティブだけネガティブだけ
というわけにはいかないのです。
何が起こるかは 分かり得ないのです。
ポジティブもネガティブも全てが
ギフトです。
自分があることでしか
体験という勘違いは起きないので
体験という勘違いは全てギフトなのです。
(※ただし主体もないので
誰かが体験しているわけでは
ないのですが…)
何か親切にされることだけが
優しさや幸福ではないことを
腑に落ちる誰かはいないのですが
少し腑に落ちるが起きると
絶望=希望(リラックス)が
起きるのではないかと思います。
絶望について補足するなら
自分から解放されたいという
自分の願いは
叶える自分はいないので
永遠に叶わないΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン
この記事もただ起きていることなので
誰かに届けているものではありません。
全てが消えて無になるわけではありません。
今までと何も変わりません。
どんなことも起こり得ます。
起こしてる主体がいないというお話です。
選択、行動がないという意味ではありません。
行動が自然と起きている感じでしょうか。
コントロールできる誰かがいないのです。
嫌なことは嫌でいいのです。
否定するが起きたら 否定したらいいのです。
身体、行動は ただの表現です。
自分の行動にネガティブも全て肯定していくと
何故が無いのに 何故か分からないけど
幸福感が湧いてきてしまうのです(*´艸`*)
そうすると、嫉妬、妬み、マウントなどの
他者を貶める現象が減るがおこるんですよねー。
現象のコントロール欲みたいなものが
減るというのでしょうか。
ただ
ネガティブを肯定することが難しいが起きたり
この記事にモヤモヤが起こるのなら
それはそれで正解です。
自力でしていると思ってたものが
自力ではなかったというだけのお話なのです。
少し湧いたことを言葉にさせて
いただきました。
最後までお付き合いいただきまして
ありがとうございました。