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村上春樹の『壁と卵』を徹底解読:システムとは何か?
本稿では『壁と卵』を徹底読解しました。
まずはぜひ以下の目次を見て私の本気度を感じて下さい。
もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。
さて、このスピーチがなされたのは2009年。
流石に一昔前のことだなと感じるかもしれません。なんたってiPhone4が日本で発売されたのは2010年のことです。ガラケー時代。
いまさら壁と卵?と感じるかもしれません。
でも全然古びてません。なぜなら村上春樹が語っているのは、近現代社会を生きる私たちの「普遍的な生きづらさ」のことです。
私たちが生きづらいのはなぜ?
「壁と卵」を読み解くとそれが分かります。
1)宮台真司の言う「クズ」とは、村上春樹の「壁」に取り込まれた人のこと
いきなりすごい角度からぶち込みますが、社会学者の宮台真司さんが言う「クズ」とは、村上春樹の考え方で言い直せば「壁に取り込まれた卵」のことです。
信じられないかもしれませんが、これはマジです(笑)
村上春樹は「壁にぶつかって卵がグチャグチャに割れる」というメタファーを駆使して我々のイメージに働きかけています。それを宮台さんは端的に「クズが増えている」と言っているのです。
この対比おもしろすぎませんか?(笑)
と、まぁ面白いのですが内容は笑えません。
両者とも「システムに蹂躙される個人」がテーマなのです。
不勉強な私は「システムに蹂躙されている個人」ということの意味が長いことよく分からなかったんですよね。そこでたまたま手に取った以下の本を読んだらスパッと分かったんです。スパッと!
「安全、快適、便利」なのに、なぜ生きづらいのか?
普段から難しい本を読んでおられる皆様につきましては「経営リーダーのための・・・」という枕詞がついているだけで、内容の薄いビジネス本だろうという拒絶反応が出てしまうかもしれません。たしかに授業の書籍化という成り立ちなので口語ベースの軽い雰囲気の本ではあります。
しかし、圧倒的に分かりやすい!
この書籍の素晴らしいところは、社会学で用いられる「社会システム論」という理論を用いて、私のような不勉強な素人にも分かりやすく近代社会の生きづらさの本質を浮き彫りにしてくれることです。
「え、、俺って壁に直撃してる卵なんだ….What the f**k?」と呟いてしまうこと間違いなしです。
著者は宮台真司と野田智義の二名。宮台さんは言わずもがなの社会学者で、哲学や社会学の伝統的な議論や理論を現代社会の様々な問題点と結びつけてパラフレーズする能力がとにかく素晴らしい。
野田さんは日本橋の高島屋の中にある大学院大学至善館という主にビジネスマン向けの大学の創設者で、本書はそこでの宮台さんの授業内容を再現し書籍化したものです。
宮台さんといえばYouTubeの様々なチャンネルで切れ味の鋭い議論を縦横無尽に展開されておられますが、この本ではそうした各論の基礎となる社会学的な思考体系が提示されています。
彼はよく「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」のように振る舞う「クズ野郎」が増えている、という話をしますよね。そのようにして常にプチ炎上を起こすことで人々の関心を集めるという戦略をとっておられると思うのですが、表現こそ違えど、それは村上春樹の問題意識とぴったり重なり合っています(笑)
本書を読んでいると「これ村上春樹の『壁と卵』の話の解説やんけ」ってなるんです。副題を『壁と卵』の解説書にしたほうがいいんじゃないかな?って思うくらいです。マジで。
内容に深く入る前に、まずこの村上さん宮台さん2名の思想的なつながりを証明させて頂きます。つまり、宮台さんの言う「クズ」は、本当に村上春樹の言う「壁に取り込まれた卵」のことなのか?というあなたの戸惑いを解消しましょう。
それは非常に簡単です。
2人を結ぶ鍵となるのは社会学者のマックス・ヴェーバーです。
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「マックス・ヴェーバー?ああ、名前は聞いたことありますよ。たしかプロ、、プロテスタント、イズム?と資本主義、、みたいな本を書いた人ですよね。うん、なんとなく知ってますよ。」の、その御仁です。
まず宮台さんから見ていきましょう。
彼の「クソ社会でクズが増加している」という議論は、マックス・ヴェーバーが作ったフレームワークの延長線上にあります。それは以下の彼自身の発言で明瞭ですね。
僕が使う「クソ社会」という言葉は、ヴェーバーの「鉄の檻」の言い換えです。「クソ社会」の中には、僕の言葉では「クズ」がウヨウヨいますが、この「クズ」はヴェーバーの「没主体」の言い換えです。
では、村上春樹はどうなのか?
こちらも明らかです。ご覧ください。
一目瞭然ですね。
ご存知の通り、村上春樹は尊敬する作者から作品のタイトルを借りることが多いです。例えば、『1973年のピンボール』は大江健三郎の『万延元年のフットボール』から、『走ることについて僕の語ること』はレイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』から拝借されています。
そして『職業としての小説家』は、マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』がタイトルの由来となっているのです。
このように「私はここから拝借しましたよ」と元ネタが分かるようにするのはオマージュという行為で、元ネタの作者に対するリスペクトの表明行為です。
しかし、ここで村上春樹からマックス・ヴェーバーへ示されてるのは並のリスペクトではありません。なぜなら『職業としての小説家』は、村上春樹が一生を懸けた自分の仕事に対する考えが記されてる特別な本です。ラオス行ってきました、みたいな旅エッセイとは格が違う。その超重要な本のタイトルで示されたリスペクトなのです。
さらに考えてみれば、オマージュでは元ネタの著者に対する敬意が示されてるわけですが、でもマックス・ヴェーバーは1920年にもう死んでいます。つまり村上さんのリスペクトは本人には伝わらない。
あん?ではオマージュをする理由は何ぞ?
それは未来の自分の作品の読者に対する呼びかけです。つまり、村上春樹は「拙著を気に入って下さった暁には、私が敬愛する先達マックス・ヴェーバーの書物もぜひご一読を」と私たちにメタメッセージを送ってるわけです。
となれば当然、村上さんはマックス・ヴェーバーを読み込んでいます。普段は「やれやれ、僕は射精した」みたいなことを言っておきながら、裏では『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで世界の行末について熟考されてるわけです。
ということで、もうお分かりになりましたでしょう。
村上春樹と宮台真司の2人はマックス・ヴェーバーという知の巨人を介して、ほとんど同じことを違う表現で述べているだけなのです。
つまり、村上春樹が「私たち個人の魂がシステムに搾取されている」とエルサレムで遠回しに述べるとき、宮台さんは「お前に友達がいないのはお前がクズだから」と私たちに直接言ってくれている、ということです(笑)
2)村上春樹は「システム」という単語を3つの文脈で使う
ということで、宮台さんの議論を参照して村上春樹の考えを読み解いていく前に、そもそも「村上春樹が使うシステムという言葉には何種類の意味が隠されているか?」ということから考えてみたいと思います。
私にとって「システムとは何か?」ということが捉えにくかったのは、その単語の意味を辞書的に調べてしまっていたからでした。wikiにはこう書いてあるのです。
システム(system)は、相互に影響を及ぼしあう要素から構成される、まとまりや仕組みの全体。
いやぁ抽象的ですよね。これでは何も分からない。ここから自力で小説家とシステムの関係に考えを展開するのは至難の業です。宮台さんの本を読むまで私が長らく嵌まっていた罠はこれでした。
で、どうすればいいのか?
シンプルに具体的にすればいいのです!
つまり、システムという抽象的な言葉を特定の文脈に落とし込む。私が思うに「壁=システム」の解釈として落とし込める文脈は以下の3つ。
1)社会をシステムとして捉える社会学的文脈
2)自我を自己恒常性システムとして捉える心理学的文脈
3)言語システムを問題にする哲学的文脈
村上春樹は常に少なくとも以上の3つの文脈を重ねるようにして「システム」という言葉を使っている、と現在の私は考える次第です。
これまだ詳細に説明していないのでピンと来ないかもしれませんが、実はマックス・ヴェーバー(1864-1920)の問題意識と相当重なっています。
というのも、2)心理学の文脈はフロイト(1856-1939)が創始者ですが、フロイトとヴェーバーは同時代人なので似たような問題意識を持ってます。フロイトは「切り捨てられない無意識の動き」について考えたが、ヴェーバーは「無意識を切り捨てようとする合理社会の弊害」について熟考している、といった具合です。
一方、3)言語システムに関する哲学的文脈とは、1960年代以降のフランス現代思想に強く関連しています。ヴェーバーの時代よりずっと後。しかし、現代思想の哲学者もヴェーバーも、問題の解決策として共通してニーチェ(1844-1900)を参照します。そこに時代を超えた強い共通項がある。
このように考えると実はマックス・ヴェーバーを軸にするだけで『壁と卵』の3つの文脈を概ね抑えることができます。
なぜなのか?
おそらく村上さんや宮台さんに限らず、近代以降の哲学者や思想家はみな「この社会において、我々人間はどう生きるべきか?どのように生きづらさに対応するべきか?」という問題について考えるからでしょう。
そのような問題について考えるうえで、マックス・ウェーバーの提唱した考えが未だに有効である、というのがシンプルな理由なのだと思います。
ということで、いきなり事前知識が必要な思想史の話になってしまいましたが、後ほど改めて詳しく説明するので軽くスルーしていただいてOKです。どうしても気になる人は、上記の文章をChatGPTにコピペして解説を依頼すると良いです!
ということでマックス・ヴェーバーを参照している宮台さんの議論は、村上春樹が「壁と卵」に重ねている3つの文脈すべてに通じています。
私もしばらくですね「宮台さんは社会学者だから社会システムの文脈のみについて語ってるんだな」って思ってたんです。ですが、よくよくよくよく話を聞いてみると少なくとも私があげた3つ全部の文脈の議論になっています。マジですごい。
なのですが!!!
村上・宮台が共有する3つの文脈の議論を一気に語ると膨大な量になるので、本稿で細かく追求していくのは(1)社会システムの文脈のみとさせて下さい。
「あ”?徹底解説じゃねえのかよ(怒)」と思いますよね。
すいません。たしかに3つの文脈があるぜ!と言ってスルーするのもあれなので、ここでは非常に軽くそれぞれの文脈におけるシステムの意味について以下に共有します。
私は半ば無自覚的に2と3に関連するnoteを過去に書いているので、そちらについて気になる方はとりあえず関連noteを参照することで理解の一助にして頂ければと思います・・!
では、以下壁と卵の意味を読み解く3つの文脈をそれぞれ軽く共有します。忙しい人はここだけ読めば、壁と卵のポイントは掴めます。
1)社会をシステムとして捉える社会学的文脈
2)自我を自己恒常性システムとして捉える心理学的文脈
3)言語システムを問題にする哲学的文脈
①社会をシステムとして捉える社会学的文脈
近代以降「国家システム」と「資本主義経済システム」が発展しましたが、今や私たち個人はそうしたシステムに支配されている…という文脈です。
つまり【壁=システム=国家 or 市場】です。
『壁と卵』では、戦争が言及されるので「国家システム批判」の印象を受けますよね。徴兵された父親の話は「国家システムに蹂躙される個人」ということで理解可能。これは分かりやすい。
でも、資本主義経済もシステムです。日本は憲法第9条で戦争放棄をしているので徴兵は(今のところ)ない。でも生きづらい。なぜなら今の日本に生きる個人は「資本主義経済システムという壁に直撃する卵」だからです。
この文脈における「壁と卵」の解釈は「近代社会システム(国家or市場) vs 個人」ということになります。これは「システム世界vs生活世界」という対立構造にパラフレーズされます。
社会学なので宮台さんのご専門であり、マックス・ヴェーバーの問題意識ど真ん中です。これについては後ほどガッツリ解説します。
本稿のメイントピックである「近代」という時代を理解するうえで「中世」をまず勉強しよう!ということで、先に書かれた兄貴分的な記事があります。こちらもどうぞ。
②自我を自己恒常性システムとして捉える心理学的文脈
私たちは近代化によって「近代的自我なるもの」に閉じ込められてしまいました。そんな私たちの自我もまた「恒常性を維持するシステム」なのです。
そのように【壁=システム=近代的自我】と捉える心理学の文脈です。
村上春樹がオウム真理教の洗脳問題に関心を寄せたり、創作プロセスを潜在意識との関連で語る際には、まさにこの心理学的な文脈が浮かび上がります。特に河合隼雄先生との対話では、物語が心のシステムにどのように作用するのかというテーマが掘り下げられていますよね。
ここでの「壁と卵」の解釈は「近代的自我(=意識&論理)vs 共同体的/神話的な自己(無意識&物語)」になります。深く理解している人は多くないかもしれませんが、おそらく一般的な村上春樹ファン、あるいは文学愛好者にとっては馴染み深い視点でしょう。
言い換えると、マスターベーションとセックスのことです。
ん?
(マスターベーションは)自己本位なんだよね。自分に閉ざされている。自分さえよければいいってね。性愛のポイントは相手に入られ、相手に入り、融合する、フュージョンすることだから。外から何か入って、外に入る、のがない状態で性的な幸いがあるというふうに思うのは、すごい偏っていると思います。
と、いきなりここで宮台節炸裂の「マスターベーションは自分に閉ざされてる」という発言をぶちこみますが、これ大真面目に解説していいですか?
これはですね「私たちはオナニーでは近代的自我の外に出られない」ということです。でも質の高い開かれたセックスなら2人が近代的自我の外に出て一緒になれる、ということです。それがフュージョン・セックス。
これを村上春樹風に翻訳すると「壁抜け」ということになります。
「ん?壁抜けって性行為のコトなの?」というのは早とちりで「壁抜け」とは近代的自我から抜け出し自然と一体になる、というようなことです。
壁抜けの方法は様々にありますが、その一つが質の高い性行為だということであり、あるいは村上春樹の小説を読むということでもある、ということです。マジです。
唯一の有料記事なのですがこの文脈については以下で深堀りしています(セックスではなく文学の話ですが..)
③言語システムを問題にする哲学的文脈
ポストモダニズムと括られる哲学があります。世界大戦の反省として「脱近代」を実現すべく、私たち人間の使う「言語システム」が分析批判されました。
脱近代とは、つまるところ「①近代社会」と「②近代的自我」という近代の問題を乗り越えようという試みです。では、①と②に共通する問題はどこにあるのか?それが「言語」です。
つまり【壁=システム=言語・記号】という哲学的な文脈です。
以下、詳しくない人は各自ChatGPTに教えてもらって下さい。そして千葉雅也さんの『現代思想入門』を読んで下さい。私もうっすら表層的にしか理解していませんが、私なりに解説します。
ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)から、フランス現代思想に受け継がれた「言語論的転回」によって「言語の意味は文脈次第」「普遍的な意味なんて存在しない」という考えが生まれました。
この考えが広まるポストモダンな社会では「大きな物語」の力が弱まるとされます。つまり「国家や神話から与えられる物語に乗っかるのではなく、自分の人生の意味を自分で作らなければいけない」という実存的な課題を個人が抱える時代になった、らしいです。
小難しく聞こえますが、今の私たちにとっては当たり前の感覚です。多くの人は「自分の人生の意味」を「日本という国の栄光の物語」と関連させて捉えていないですよね?それが現代=脱近代的。
でも戦前は「天皇陛下万歳!私の人生の意味は陛下に仕えることにあるのです!」ということだった。これが近代的な人生、つまり「大きな物語」という言葉の意味です。
あるいは中世ヨーロッパであれば、ほぼ全員が「天にまします我らの父よ、ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来らせたまえ。」ということで、キリスト教という大きな物語の中で生きていた、と。これが資本主義にとって変わられてヤバイよ、というのがマックス・ウェーバーの議論です。
で、大きな物語の代わりに「小さな物語」が必要なんです。それが「自分の人生の物語」。これを自分で作らなアカンのや、というのが今なのです。
これが「個人主義」ということです。裏返せば、大きな物語というのは「国家主義」とか「マルクス主義」などに関連します。
余談ですが、アメリカは大きな物語が今でもめっちゃ強い国です。トランプはMake America Great Againというスローガンを掲げて、小さな物語をうまく作れていない人たちを巻き込んで、大きな物語を回復させている。
中国は共産主義国家ですから、そもそもマルクス主義があり、それに加えて中国4000年の歴史という大きな物語があります。
日本はどうなのか?たぶん大きな物語が木っ端微塵にぶち壊れています。でもその反動なのか「中くらいの物語」の生産力は世界最高レベルです。ドラゴンボール、ワンピース、ナルト、鬼滅の刃、ジブリ映画、ポケモンなど。これを問題と捉えた代表格が三島由紀夫でしょう。当然、村上春樹もこのことについて考えているはずです。しかし、これは余談なので終わります。
で「OK〜!じゃ各自が小さな物語作って生きてね〜!」となっているのですが、そこでフランスの頭のいい奴らが言語を分解しまくった結果、「意味って何でもありなんですわ。何でもありってことは、ほぼ無意味みたいなもんですわ」みたいなことを発表してしまった。
するとですね…
「人生に意味はないのだ。マジかよ」と絶望する虚無主義、あるいは「意味は何でもありで正解や不正解はない。じゃ俺の好きなように他人を蹂躙したるわい」という相対主義者が問題となります。
そこで重要になるのは何か?
「意味があるか、ないか」ではありません。
「生きる力があるか、ないか」です。
つまり「楽しいか、ツマラナイのか」。
しかし、端的に言うと「俺の小さな物語が楽しければいいじゃない!」ということになるのですが、「楽しくても虚しい」と感じることもありますよね。
そこで解決策の方向にあるのが、身体性と記憶です。特に記憶。多分。
言葉に空虚な意味しかなかったとしても、俺らには言葉にできない「身体性と記憶」があるじゃないか!というのが、おそらく重要になってます。ここらへんでさっき言ったニーチェの思想が関係してくるのです。あと大きな物語と記憶も関連しています。おそらく。
ということで、私なりに噛み砕いてみたのですが、この文脈での「壁と卵」の解釈は「言語システム vs 身体的生命力」ということにでもなるでしょうか。
ちなみにこの文脈は内田樹さんが「壁と卵」について書いているブログを見て、なるほどと思った次第です。
もちろん宮台さんはこの文脈でも熟考されてます。こちらのnoteで言及されてることがこの問題についてです。虚無と戦ったニーチェの哲学が参照されます。
3)3つの文脈で岡本太郎の言葉が分かる
さて、以上が壁と卵におけるシステムの3つの文脈でした。
文学か哲学か芸術か政治に対して本格的な興味がないと、なかなかこの3つの視点すべてに気づくのは難しいかもしれません。しかしですね、私にとって衝撃的なことだったのですが、実はちゃんと勉強している人にとってはこの3つの文脈は全く以て新しくないのです。新規性0です。
インターネット上にこの3つの視点で包括的に語られた情報がないだけで、それなりに哲学研究などしてる人の本などを読めば普通に理解している人たくさんいます。やはり人間の盲点とは面白いもので、そのことに気づけないと認識できない。
しかし逆に言えば、これらの問題に気づくと面白いことに世の中の思想家やアクティビストや芸術家たちの発言の意味がある程度分かりはじめます。おもしろいですよ。
まださくっと簡潔に語っただけなのでピンと来ていない人も多いかと思いますが、この状態でこちらのyoutube動画を見てみて下さい。
以下で私なりの理解を解説しますが、まず何もしらないフレッシュな状態で映像を見たほうが面白いと良いと思います。10分しかないのでぜひ。
はい、どうでしたか?
この動画ではテレビ用に奇抜なキャラを演じつつ、120%の本音しか述べていない芸術家・岡本太郎さんの様子が伺えます。
具体的に彼が何を言ったか見ていきましょう。
名前なんかないほうがいいんでね、本当はね。例えば、人間だけですよ。自分の名前を意識して、そのためにろくな行動をしないでしょう。人の目を気にして。ところが鳥を見てくださいよ、動物を見てくださいよ。名前なんか持っていないし、自分の名前なんかどうでもいいんですよ、本当は。人間の虚しさなんてね、名前があるから逆にそれにこだわるから虚しくなっていくんだよ。そんなものなくていい。「わたし」なんて言う必要もない。
これはテレビなのにいきなり自己紹介をせず、タモリさんがそれに突っ込んだことで最初のトピックで話されたことです。
これ岡本太郎さん、「壁と卵」を読み解く3つの文脈ぜんぶ突っ込んでます。
岡本太郎の「名前を意識して、人の目を気にして、ろくな行動をしない人間」というのは宮台さんの言う「クズ」でしょう。近代社会システムという「壁」に取り込まれてしまっている、ということです。
人の目を気にしてしまう理由は、名前によって自我の個体性が常に強調されているからです。これは2つめの文脈である近代的自我の持つ息苦しさのことです。私たちは自我という壁、名前の中に封じ込められている。
自分の名前=自我にこだわるから辛い。そして名前とは「言葉」です。言葉にこだわるから虚しいと。この虚しさは全体から切り離されて意味を感じられない状態からくる、という3つ目のポストモダン的な話につながります。
岡本太郎さん、冒頭1分で奇人のフリしながらこれ全部突っ込んでるのマジでヤバくないですか?まだ続きます。
芸術は爆発だって僕が言ったでしょう。ところが、ダーーンッと大きな音がして、それでババァーンと飛び散るでしょう。そういうものとは、全然関係ないんですよ。芸術が爆発だというのは、自分の心の中に、自分の存在の中に、パァーッと燃え上がるものが音もなしにね、心のなかでバァーーンと開くこと、宇宙に向かって開くことですよ。だから「いわゆる爆発」と、「芸術は爆発だ」というのはまるで違うんですよ。ダーーンッと大きな音を立てて飛び散るなんて、あんな卑しいものじゃない。
有名な「芸術は爆発だ」という考えについて話しておられますが、ダイナマイトでぶっ壊すみたいな爆発じゃなくて、心のなかで宇宙に向かって開かれることだと仰っています。
これを宮台さんの言葉で言い換えるとこうなります。
相対的な快楽ならぬ絶対的な享楽を擁護する初期ギリシャの伝統……中略……自発性ならぬ内発性。損得勘定ならぬ内から湧く力。力(圧伏)ならぬ美(感染)。美(見かけの美しさ)ならぬ美学(醜く見えるものの美)。
宮台さんの言う「美学」。
今度はそれを岡本太郎が言い直せば…?
(人に)認められることもいいし認められないことも面白いし、勝手にしやがれと思ってね。勝手にしやがれ。自分自身に対しても言ってるんだから。勝手にしやがれっつって生きてるんだし、相手に対しても勝手にしやがれ。純粋に生きることが、勝手にしやがれですよ。妥協しあっちゃダメですよ。
さらに面白いのですが岡本太郎はパリ留学時代の恋愛の話を振り返ります。
恋愛っていうのはありましたけどね。特にパリ時代はホントっにね。結婚しようとかなんとかってんじゃなくて本当に溶け合ってね。同棲生活は十何回もあったんですよ…..(中略)もうほんとに、結婚しようなんていったことはお互いに一度もないの。日本だとね、溶け合わないうちから結婚して下さいとか結婚しましょうとか言うと、まるで就職するような感じでね…..そうね、いろんなとこで眼と眼が合うとね、お互いがこう「パッ….」と溶け合うわけね。どっかにいってお茶飲みましょうという話をして、それから家来ませんかとどっちが言うわけね。それで溶け合うわけ。これが同棲の始まりであって、眼と眼があうってことはもう溶け合うということなんだ。
いやね、分かります。これを普通の人が言ったらただの昭和のスケベ変態クソジジィでしょう。現代の職場では完全にアウト。
これ第一義的に岡本太郎さんはセックスのことを述べているわけですが、当時のパリでは眼と眼があった瞬間に「パッ…」と「溶け合える」って、単なる通常のセックスの快楽の話に留まらないですよね。
「溶け合う」って、宮台さんがさっき言及したばかりのフュージョンじゃないですか。つまり、近代的自我の閉塞から抜け出して一体化する楽しさのこと。壁抜けです。
しかし、日本では「溶け合う前から、まるで就職するような感じ」で恋愛が行われていると。就職するように恋愛や結婚をするって、それは損得勘定でパートナーを選んでいる、ということです。
ということで、宮台さんの味方として岡本太郎さんを口寄せしましたが、2人とも言ってること100%同じですよね?おもしろくないですか?
なぜこれら深く考える人たちに、この文脈が共有されているのか?
おそらく彼らが深く考えるということそれ自体の文脈の中にいるからでしょう。つまり、彼らは哲学と芸術の伝統の中にいる。
つまり、哲学と芸術の伝統の文脈を一切知らなければ、この宮台真司・岡本太郎・村上春樹を並べて、古臭い昭和の考えに侵された老害たちの意見だと捉えることになると思います。
しかし、「壁と卵」というスピーチに感動したというあなたの感受性を経由すれば、そこから古今東西の深く考える人たちに共有されている哲学・芸術の文脈に入っていくことができる、ということでもあります。
こんな感じで今まで「いったい何を言ってるんだ?このクソ爺?」と思っていた発言が、ここまでちゃんと読んでくださったあなたはマジで少しづつ分かるようになってるはずです。
あなたは哲学と芸術が交差する文脈に入りつつあるのです。この文脈に入ったことで意味が生まれはじめているのです。
はい、ということで、前述したように以降では1の「社会システム」の文脈のみにフォーカスしますが、ここまでで一応3つの文脈を軽く共有してみました。ぜひ気になる人は自分なりにすべての視点で探究してみて下さい。
ここまでが基礎的な導入です。
毎度のことですが導入が長いですね。
うーむ、これだけ圧縮して3つの文脈の全体像を述べるとやっぱ分かりづらいですよね?人によってピンとくる文脈にも違いがありそうですし。
ここまで書いて考えさせられるのは、やはりメタファーを使うと複雑なことが鮮やかに伝わるんだな、ということです。ポストモダンがうんらかんたらと説明するより「壁と卵」って言ったほうが100倍スッと頭に入ってきますもんね。さすが小説家。
もちろん「クズ」も「クソ社会」も人の感情を動かす力があります。間違って「没主体」って言ってしまったら誰も聞いてくれない。岡本太郎さんみたいに「溶け合う」って日常的に言ってたら確実にドン引きされます(笑)
言葉って奥深いですよね(笑)
ちなみにですが、私は小説の中で自然発生的に書かれたメタファーは「確定した意味がない」というか「物語の流れの中で流動的に意味が浮かび上がってくること有用性がある」と、そのメタファーを物語から引っこ抜いて固定するような読み解きはしません。
でも「壁と卵」は論理的なメッセージとして構成されたスピーチですから、物語的な動きの中で捉えなくてよい。1つのイメージとして、そこに仕込まれた意味のレイヤーは自由自在に紐解いてよい、と考える次第です。
この私のnoteの方針については、こちらにあります。そういう意味で「しらふの村上春樹」ってタイトルなんです。分かりにくいですね(笑)
ということで、これより本稿では『経営リーダーのための社会システム論』を参照します。「壁と卵」を【近代社会システムに蹂躙される個人】という文脈で掘り下げいきましょう。
4)啓蒙思想 vs 反啓蒙思想
では先程あげた3つの文脈の1)社会システムの文脈での深堀りに入っていきます。
焦点はやはり「近代社会」にあります。本書では近代化が進む世界でどのような思想的流れがあったのかが簡単に紹介され、そこで今回の中心的な見方となる「社会学」の誕生が位置づけられます。
まず近代を前進させた思想は「啓蒙思想」と呼ばれます。この思想は「社会は人間がつくるものであり、理性的な人間が自由意志に基づいて契約を結べば合理的な社会が実現する」という考え方。
理解を深めるために「啓蒙」という言葉に引っかかって理解しましょう。
「啓蒙」とは、「蒙(無知蒙昧の蒙。物事に暗いこと)」を「啓(ひら)く」ことで、無知を有知にする意味。18世紀フランスに起こった啓蒙思想での「無知」とは、封建社会の中で教会的な世界観の中に閉じこめられていた人々のことを言い、彼らに対して「人間」や「社会」、あるいは「世界」や「自然」の真実を教え、無知から解放することが「啓蒙」であった。
ずいぶんと上から目線ですよね。実際にその通りで、この啓蒙思想の考えが後の外国に対する植民地支配の正当化のロジックに進化していくわけです。
英語ではエンライトメント(Enlightenment)です。
「自然の光としての理性を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味」とのこと。さらに詳細に『世界史の窓』を以下に引用します。
カントは『啓蒙とは何か』(1784)で次のように定義している。
(引用)啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて(サペーレ・アウデ)」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。
<カント/木田元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か』2006 光文社古典新訳文庫 p.10>
おもしろいですね。理性を使うには勇気が必要である、というカントの考え方は今の私たちには不可解ですが、当時の人からするとキリスト教への信仰を相対化することを恐れるな、ということだったのでしょうか?
イギリス史家近藤和彦は、18世紀のキーワードとして「重商主義・啓蒙・公共圏」をとりあげ、その中の「啓蒙」について、次のようにまとめている。
(引用)啓蒙は、古代とイスラームの遺産を受けついだルネサンス以来の合理主義・科学が成熟点をむかえた17世紀末~18世紀に、ヨーロッパの知の基調をなした。これは西欧文明が、近世に新しく拡大した世界のすべてを理解しなおそうというと欲した渾身の自己了解の試みであり、古代以来の知を組みかえ、展開すべき先端哲学であり、総合科学である。理性に照らしあわせてみずからの非合理なものを排そうとした実学であり、歴史や伝統、そして信仰を相対化する普遍主義であり、知と理性を信じ、現在の文明に自負をもち、未来を楽観する進歩思想であった。これは基本的に世俗合理主義であり、キリスト教の枠内にとどまる場合は理神論にかたむいた。
<近藤和彦『文明の表象 英国』1998 山川出版社 p.127~128>
中世では、キリスト教の物語が支配的な世界であり、地域ごとのローカルな価値観や決まりが異なる世界でした。だから同じ人間であるにも関わらず、異なる国や地域に生まれれば、お互いを理解するのは非常に困難だったわけです。
つまり中世は魑魅魍魎のカオスな世界となります。そこから脱出して「人間の理性の力によって思い通りになる社会を打ち立てようぞ!」という考え方が啓蒙思想です。
これはゴヤ(1746–1828)が描いた絵です。タイトルは《理性の眠りは怪物を生む》 "The Sleep of Reason Produces Monsters"です。人が眠っているときは理性が働かず人は夢を見るわけですが、それを「怪物が生まれる」と考える。つまり、とにかく理性が素晴らしいのだ、と。
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ヨーロッパ的啓蒙主義の感性が分かりやすい
フロイトが無意識を「不気味なもの」と呼んだ理由が分かる
ということで、その思想を軸にして1789年にフランス革命が起きたわけですが、合理的な社会が生み出されるどころか、ナポレオンによる帝政という結末を迎えてしまった。
つまり誰しもが自由に生きられる社会を目指したのに、それとは真逆の独裁体制を生み出してしまった。そのショックが凄まじく、今度は「反啓蒙主義(Counter-Enlightenment)」という思想が登場します。
啓蒙主義のベースとなる考え方は「理性の光を照らせば、社会は思い通りになる」というものだったの対して、反啓蒙主義は「理性を用いても、社会は人間の思い通りにならない」という前提に立っています。
理性偏重はダメなんだ…!と考える人たちが出てきたのです。
その1人がイギリスの詩人・画家・思想家であるWilliam Blake(1757 – 1827)です。彼は「芸術は生命の樹、科学は死の樹」という考えを持っていたようで、それは絵を見れば一目瞭然です。
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コンパスを持った神は、もはや創造ではなく、測定し制限する。
ブレイクは、理性や科学がすべてを測定し枠にはめることで、人間の想像力や精神の自由を奪うと考えた。理性が「万物の創造者である神のように振る舞うが、実際には世界を制約する存在になっている」という皮肉です。
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描かれてるのは天才科学者アイザック・ニュートン。
しかし..
一見すると、ニュートンが知的探求に没頭している美しい姿にも見えますが、彼の身体は縮こまり、世界を見ずに手元でコンパスを使うことにのみ集中しています。彼の身体はカラフルな岩肌として表現されている自然と一体化していたのに、科学に前のめりになり岩から独立するように見えます。
ということで、これが分かりやすい反啓蒙思想ですね。理性偏重しすぎると、大切なこと失いますよと。
このような反啓蒙主義と括られる考えは、それぞれの特徴を持ちながら複数誕生したとされています。例えば、私たちが現在でも日常的に使う「保守思想」、アナーキストというカタカナでお馴染みの「無政府主義」、今でも影響力を持つ「マルクス主義」などです。
そのような様々な反啓蒙思想の1つに「社会学主義(sociologism)」があります。社会学主義の立場を一言でいえば「国家や市場を否定しない中間集団主義」とのこと。そして、もちろん社会が思い通りにならない理由を究明することで適切なアプローチを考えていく、という社会学的な態度を取ります。
ようやく今回の切り口が出てきましたね。
宮台さんは社会学の伝統的な議論を使って、現在まで引き継がれている近代社会の土台にある理性に偏よった啓蒙思想の問題について考えていきます。
5)システム世界 vs 生活世界
ということで、ここからは社会学の系譜を辿りつつ『壁と卵』の話に結びつくように3段階で整理してみます。
5−1:社会学の誕生
社会学は啓蒙思想の本拠地フランスで誕生します。1789年のフランス革命は社会的無秩序を生み出しました。革命とは秩序をぶっ壊すことですから当然ですね。すると旧社会と異なる新しい社会現象を科学的・実証的に研究する必要性が出てきます。つまり哲学的思索や歴史的探求ではなく、リアルタイムで起こる社会現象の観察と分析をする方法論が必要なのです。
そこでオーギュスト・コント(1858-1917)は社会現象を科学的に解明する「実証主義」を提唱し、エミール・デュルケーム(1858-1917)が「社会的事実」を客観的に研究することで、社会学を独立した学問分野として確立しました。そういう意味で、啓蒙主義に対するカウンターで生まれた考え方の一つなんですね。
5−2:マックス・ヴェーバーの彗眼
さて、我らがマックス・ウェーバー(1864-1920)です。彼は近代社会の特徴として「合理化」の概念を提示しました。それは資本主義の発展とプロテスタンティズムの関係の分析から導き出された洞察であり、後に「壁と卵」のスピーチにまで受け継がれる思想へとつながっていきます。
ウェーバーによれば、近代化とは「魔術からの解放」であり、前近代の宗教や伝統が社会の枠組みを形作っていたのに対し、近代社会では合理的な計算や制度がそれに取って代わったといいます。これにより、社会は効率化し、科学技術が発展し、制度も安定しました。
しかし、彼は「合理化」の負の側面として「鉄の檻」という概念を提示します。人々は合理的な制度や規則に縛られ、人間らしさを失い、機械の歯車のように生きることを余儀なくされる。近代社会はこうした「鉄の檻に取り込まれた人」を生み出し、個人の創造性や情熱が抑圧される危機を孕んでいると洞察しました。
そんな「鉄の檻」に対抗するものとして、ウェーバーは「カリスマ」の概念を提示。カリスマ的支配は、官僚制のような合理的・制度的な枠組みによらず、個人の情熱や信念、超越的な魅力によって社会を動かす力を持つと。歴史的に見れば、宗教の預言者や革命家、偉大な政治指導者などがその例に当たる。ウェーバーにとって、カリスマは近代社会の硬直化したシステムを突き破り、新たな価値やビジョンを提示する可能性を秘めたもの、とのことです。
彼のカリスマの議論は同時代人のニーチェの影響もあるそうです。それも含めて宮台さんは参照されていますね。
5−3:生活世界という考え方の登場
反啓蒙思想はあれど、近代という時代は凄まじい速度で理性&科学中心的になっていきます。そのような近代社会に警告をすることで社会学に大きな影響を与える哲学者が、ドイツ人のエドムント・フッサール(1859-1938)です。
彼は1935年5月にウィーンで行われた講演「ヨーロッパ人類の危機における哲学」において「生活世界(独: Lebenswelt, 英: Lifeworld)」という概念が提出されました。
近代科学が世界を数値や法則で捉えるあまり、私たちの生きた経験や主観的な意味を軽視していると批判した。科学的世界観が「生活世界」を忘却し、それが現代の危機の根源となっていると。
しかし、彼は理性や科学を全否定しているわけではありません。あくまで科学が生活世界を基盤としていることを忘却し、その結果として各個人が日常生活で感じる生の世界が軽視されることを問題視しました。
「生活世界を忘れるな」とは、どういう意味なのか?後ほど宮台さんなりのパラフレーズを引用しますが、ここではフッサールが発案した際のニュアンスを共有します。
★科学的探求は大切だが、日常の経験世界を見失ってはならない
★数理的な科学は価値があるが、私たちの生きた現実を軽視してはならない
★客観的な知識の追求と、主観的な生活世界の理解は両立すべきである
ということです。
この考えが後の社会学に大きな影響を与えることになります。
ここで少しピンと来るものがありますでしょうか?
実はですね、フッサールが守ろうとしている「生活世界」とは、村上春樹の『壁と卵』における「卵の世界」のことなのです。
では「壁=システム」とは何なのか?いよいよ「社会システム理論」を見ていきましょう。
5−4:社会システム理論の誕生
社会システム理論は、マックス・ヴェーバーの研究を参考にした、アメリカの社会学者タルコット・パーソンズ(1902-1979)によって打ち立てられ、それを二人のドイツ人、ユルゲン・ハーバーマス(1929-)とニクラス・ルーマン(1927-1998)が論争をして進化させたという流れがあります。というか、あるそうです。
詳細な理論の内容については各自が調べて頂ければと思いますが、今の私たちの議論において重要なポイントをあえて限定すれば「システムの自律性」が明確になったことでしょうか。ルーマンは、社会システムは内部のコミュニケーションによって自己を再生産する「オート・ポイエーシス(自己産出)」の特性を持つ「自己完結的なもの」としました。
ちょっと分かりにくいですが「システムは自己を再生産する」というのがポイントです。言い換えると「システムは自律的・自己完結的だ」ということになります。さらに平たく言い換えると、システムはシステム内部にいる私たち個人の意思や考えに直接依存せず、システムはシステムそれ自体の持続と機能を優先して自動的に動作する、ということになります。
すると、どうなるか?
近代社会システムというのは欧州人が啓蒙思想を経て、自らの手で血みどろの革命を起こして作ったものであるはずなのに、いつの間にか私たち人間は、自律して存続するシステムに支配されるような構図が浮かび上がってくるのです。つまり「システムに搾取された世界」それが「システム世界」です。
考えてみてください。我々のうちにははっきりとした、生きている魂があります。システムは魂を持っていません。システムに我々を搾取させてはいけません。システムに生命を任せてはいけません。システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです。
この構図はウィリアム・ブレイクやフッサールの危機感と重なりますよね?
つまり、ウィリアム・ブレイクの「科学主義vs神の世界」という構図が、ヴェーバーによって「鉄の檻vsカリスマ」になり、フッサールで「科学主義vs生活世界」と置き換えられ、社会学の議論の中で「システム世界vs生活世界」とパラフレーズされてきたのです。
ということで、おそらく近代哲学や近代の諸問題について考えるには、このパラフレーズされまくっている対立構造を理解するのがポイントです。
宮台さんは、この対立構造は啓蒙思想に大きな影響を与えたカント(1724-1804)の「物理世界vs人倫世界」という区分に由来していると述べています。ショーペンハウアー(1788-1860)なら「意思の世界vs表象の世界」ですね。
マルティン・ブーバーだと「モノ(it)と私の世界vs汝(you)と私の世界」になり、古代ギリシャまで戻りプラトンなら「洞窟の外vs洞窟の中」。
さきほどの岡本太郎なら「名前のある世界vs名前のない世界」、「ダイナマイトの爆発vs芸術の爆発」あるいは「就活の様な結婚vs溶け合う愛」の対比です。
そして村上春樹が言うと「壁vs卵」とになるんです。
これで社会学と村上春樹の問題意識が接合されましたね。
では、次から「システム社会に蹂躙される個人の問題は何なのか?」ということを考えていきましょう。「システム世界の問題点」についてです。具体的に私たちが感じる違和感や生きづらさの正体にアプローチしていきたいと思います。
6)生活世界とは「地元商店的」である
ではまず、生活世界について、私たちの生活を想像しながら具体的に考えてみましょう。
まず人間なら誰しも家族に生まれ落ちますよね。もちろん例外はありますが、とりあえずほとんどの人は両親の元で生まれる。そして兄弟や祖父母や従兄弟といった家族と交流して暮らす。近所の友だちや学校の友だちと遊びながら成長していく。つまり、実家と地元の中で育ちます。
これが「血縁(家族のつながり)」と「地縁(地域/友人のつながり)」として生活世界の基礎を構成します。
まぁここまでは生活世界なんて大袈裟に呼ぶまでもなく極めて普通で当たり前のことですよね。古代から現代まで続く人間にとっての基本的なあり方ですが、本書ではこの生活世界の特徴を描き出すために「地元の八百屋さんとの関係」が持ち出されます。
• あなたと八百屋の店主は、互いに顔見知りで雑談をしたりする(顕名的)
• あなたと八百屋の店主は、互いの家族や好みなどを知っている(人格的)
• あなたと八百屋の店主は、今までの交流の記憶を共有している(履歴的)
つまり、あなたは八百屋の店主と個人的な関係を持つわけです。このように他の誰とも異なるユニークな個人としてお互いに交流すること。これが生活世界の特徴です。このユニークさが重要で、ユニークとはつまり代替不可能を意味します。
八百屋の店長じゃなくて、自分の親や子どもだったらもっとハッキリしますね。自分の家族は交換不可能です。自分の娘をクラスのAちゃんと交換しようって絶対できないわけです。
こうした特徴を踏まえて、改めて生活世界とは何か?
生活世界とは、家族や友人などとの信頼し助け合える人間関係がある世界です。そこでの人間関係は、個別具体的であって誰か他の人で代替することができません。
それは「あなたは私にとって特別な人です」という世界であり、翻って「私はあなたにとって特別な人なんだ」と感じられる世界です。「私は私でいいんだ」と思える生活世界では、感情的な安全が保証され、人々はある種の前向きに生きる力を得ることができます。そのため宮台さんは生活世界を「ホームベース」とも表現します。
このように書くと少し美化しすぎかもしれません。というのも、逆に生活世界の個人的な関係性には不自由がつきものだからです。もっと素朴に表現すれば、それは「田舎」みたいなところです。
地方移住者の失敗談みたいな話でよく聞きますよね。地域の決まり事とか村議会への参加とか、非合理的なこと多くて田舎は鬱陶しい。目黒区が恋しいみたいな。
つまり、生活世界特有の関係性は、裏を返せば「小さな地域共同体特有の不自由さ(俗に言う田舎の息苦しさ)」にも繋がるということです。人間関係の暑苦しさみたいなのがあるんです。
ということは、都会人から見たら田舎は息苦しいという感性がある。これはヨーロッパが中世社会から近代社会へと変化する際の流れを勉強したときに見た「中間集団の縛りから個人が自由になる」という流れと一致します。(詳細は以下の記事を確認下さい)
つまり、生活世界とは「中間集団に縛られる世界」のことでもあり、システム世界とは「個人の自由な暮らしの世界」でもあります。欧州の歴史では「教会からの自由」という文脈が強調されましたが、日本の場合は戦後の「家族と地域の空洞化」が進んだとされます。
ということで次にシステム世界について考えてみましょう。
7)システム世界とは「コンビニ的」である
実家で暮らして地元で成長した後に、進学や就職で都会にいく人は多いですよね。彼らが生活世界を離れて、どこに行くのか?それがシステム世界です。
私たちは仕事をすることで「資本主義経済システム」に生産者/消費者として本格参入することになります。また同時に納税者/有権者として「国家システム」の運営にも強く組み込まれます。この「市場と行政」がシステム世界の代表的なものです。
こちらもまぁ当たり前のことです。みなさん仕事をして税金を収めていますから。ですが、このシステム世界は生活世界とは大きく異なります。どんな違いがあるのか?生活世界の考察では「地元の八百屋との関係」をヒントにしましたが、システム世界については「コンビニ店員との関係」から特徴を考えてみましょう。
• あなたとコンビニの店員は、互いの名前や顔をほぼ認識しない(匿名的)
• あなたとコンビニの店員は、互いの背景や感情に関与しない(没人格的)
• あなたとコンビニの店員は、継続的な関係性を持たない(単発的)
これは生活世界のユニークな関係とは真逆です。個性とか無いんです。やっぱりコンビニって便利でいいですよね。変に気を使う必要もないし、八百屋のおっさんの世間話に付き合わなくてもいい。なんなら一言も話さなくても欲しいもの買えます。めっちゃ快適で便利なんです。このコンビニのように個人が自由に振る舞える世界こそが、システム世界なんですね。
そう、システム世界は私たちに「快適・便利・安全」を提供してくれます。資本主義経済から生まれたコンビニは24時間空いていて、文字通り便利ですよね。冷暖房完備だし人と話さなくていいから快適でもある。家とコンビニの間には近代国家によって運営されている警察の派出所があるから、夜道でも安全です。税金を使って古くなった道路が舗装されているし、法律によって車検が義務付けられてるから故障車の暴走もほとんどない。
素晴らしいですよね。中世の魑魅魍魎で混沌とした世界の真逆です。でも「安全・快適・便利」の裏側に何があるのか、よく考えてみましょう。ここに問題があります。
システム世界、特に私たちの生活の基盤となっている「市場システム」は、実は血も涙もない競争の世界です。就職も出世も競争。弱肉強食の世界です。競争力が弱ければ、すぐに他の誰かと入れ替えられる。
なぜならシステムにおいて重要なのは、人間関係じゃなくて経済合理性だから。無能な人より有能な人を採用したほうが合理的じゃないですか。売れない商品はすぐに生産中止になり他の新商品に取って代わられますよね。会社の同僚が転職したら他の人材で穴埋めされるんです。
地元の八百屋で知らない人が接客をしていたら、新しいパートさんかな?どんな人だろう?とか思いますよね。でも、私たちはコンビニの店員が変わっても気付くことすらない。つまり、システム世界の特徴は「代替可能性」にあります。
これは「お前の代わりはいくらでもいるからな」という世界観です。あなたの人間性とか過去の思い出とか好きな食べ物とか家族とかはどうでもよくて、競争において役に立つかどうかが重要なのです。あなたが私に利益を与えてくれる存在である限り素晴らしい、つまりは利益を出せなくなった途端に用済みという烙印を押されます。
システム世界は、このような利害関係・損得勘定で繋がる世界で、宮台さんはこれを「バトルフィールド」と表現します。ホームベースとしての生活世界とは真逆の性質を持っており、文字通りの戦闘状態でいることが求められます。そりゃ疲弊しますよね。
8)システム世界化の何が問題なのか?
さて、生活世界とシステム世界の特徴が分かりましたね。次の問いは「何が問題なのか?」ということです。
人間というのは古来、生活世界をホームベースとして、時々システム社会に出かけて戦うことで「獲物」を獲得し、それを持ち帰って生活世界を共有する仲間たちにシェアして暮らしていたのです。つまり近代の遥か以前の古代狩猟生活においても、生活世界の外側にあるバトルフィールドとしてのシステム社会は存在していたわけですね。
つまり、システム世界はそれ単体で悪いものではない。むしろ近代のシステムは適切に動けば、それは社会を「快適・便利・安全」にしてくれるわけです。
しかし、問題なのは2つの世界のバランスが崩れること。私たちがシステム世界に過剰に依存するようになり、生活世界が忘却されることが問題となります。どういうことか?
宮台さんは戦後の日本社会は、以下の三段階のフェーズを経て生活世界の忘却が進んでいると指摘します。つまり地縁と血縁の弱体化ですが、あまり詳細を述べてもあれなので簡潔に書きます。
1)1960年代の団地化
高度成長期に地方から都市への移住が加速。都市郊外に団地が急増。各家庭は自宅でお茶の間でテレビを見て過ごすようになった。実家と離れて暮らす人が増え、また団地では横のつながりも弱く「地域の空洞化」が進みます。
2)1980年代のコンビニ化
コンビニが増加、そしてテレビが安くなり一人一台的に自分の部屋でテレビを見れるようになった。すると、隣人はおろか家族とさえ交流せずとも個人で楽しめるように。これが「家族の空洞化」を本格的に促します。
3)1990年代以降のグローバル化・ネット化
グローバル化により中間層が崩壊する格差社会が進む。それと同時にネットが普及することで「付き合いたいときだけ付き合う」「相手の見たいところだけを見る」というような、都合のよい表面的な人間関係しか形成できなくなる。
一度システム化が進むと、それを逆戻りさせるのは不可能に近い。なぜなら人は一度手に入れた「快適・便利・安全」を手放さないからです。つまり、システム世界に対して生活世界を守るという構えは常に分が悪い。
合理性の追求には明確な効果(=快適・便利・安全の向上)があり、人々はそれを簡単に想像して期待することができるが、生活世界にある連帯感の価値は個人的な性格を持つうえに可視化・言語化しにくいので、それを論理的な議論の主張を通じて守ろうとすることが難しい。
なので生活世界を守ろうとすることは、伝統や地域性や個人的な関係を泥臭く守ることに近づく。伝統や地域性や関係性とは、白黒はっきりと分別できない混沌としたものです。そのようなニュアンスで、これは「保守的な態度」となります。
保守と言うと「vs外国」という文脈で国家主義を想起しがちですが、ここで私が述べているのはそういった政治思想のことではない。だって国家主義者というのは「壁(国家システム)側の人間」ということになるじゃないですか。
そうじゃなくて、合理性という大義名分を使って加速しがちなシステム世界の拡張に対して、生活世界を守るという態度です。態度という言葉が分かりにくければ生き方といってもいいかもしれない。
保守的というのは態度や生き方の次元のことですから、つまり論理の次元じゃないんですね。だから論理的な議論をして、システム主義者を論破するのが難しい。「これが俺の生き方だから」みたいな抵抗の仕方になりがちなわけです。
このような流れを経て今ではシステム世界がメイン、生活世界はその下請けであるように変容しています。その結果、生活世界が持っていた集団が個人を包摂する機能は失われてしまいました。
本書では今の日本社会での暮らしは「個人が剥き出しの状態で、システムに直撃される状態」と表現されています。「剥き出しの個人」って言われると、なんだか卵みたいですね?
もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があるとしたら、私は常に卵の側に立ちます。
ということで、現代の日本社会を生きる私たちは「壁に直撃している卵」なのです。生活世界がやせ細ってしまったために休む場所がなく、システム世界の中で薄い殻一枚を傷つけながら必死で戦っている。これが私たちの感じる生きづらさ、あるいは息苦しさの正体です。
もっと言えば、システムはあなたを常に誘惑してきます。その声はこのように囁きます。それは「もっと合理的になれば人に勝てるよ」という囁きです。つまり、システムに迎合するようにあなたを仕向けるのです。
「人間らしさを捨てて経済合理的になればいい。損得勘定に基づいて効率的に人生をハックすればいい。そうすれば人に勝てるよ。お金を稼いでいい思いができるよ。あなたが有能さを発揮すれば、あなたはもっと価値がある人間になれるよ。」
完全にシステムを無視して生きることは現実的ではないだけでなく目標にすべきでもありません。本質的な問題はバランスの取り方です。だから、私たちはシステム世界というバトルフィールドで逞しく戦えるように努力することは重要です。つまり効率的に働いて成果を上げる能力は生きていくうえで明らかに重要です。その能力はやはりあった方がいい。
しかし、システム世界を過剰重視してはいけない。それは、生活世界の忘却につながります。つまり効率や合理性といったシステム世界の評価軸を、感情的な包摂機能を持つべき生活世界に適用してはいけない。完全な合理主義者になってはいけない。
なぜなら、もし人生のすべての側面において合理的であることを優先するような態度を徹底してしまうと、あなたは損得勘定でしか物事を判断できない人間になってしまいます。システムに取り込まれた機械のような人間です。宮台さん曰く「クズ」です。
いや、クズと呼ばれようが構わない!俺は合理主義を突き詰めシステム世界で勝者になり億万長者になるのだ!という意見もあるかもしれない。
たしかに億万長者になりたいですよね。いや、それはOKなんです。
ただし仕事では合理主義を突き詰め能力を最大限に発揮し億万長者になり、その上で生活世界を守ればいい。別にこれは二者択一じゃないから!
自戒すべきことは、繰り返しますが、合理主義はバトルフィールドだけにすること。非合理的なホームベースに合理主義を持ち込んで、ホームベースをバトルフィールド化してはいけないのです。
それをすると、人を愛せない・愛されない人間になってしまいます。なぜなら人を愛することは、理性や論理だけでは説明できない感情的な行為であり、理性の枠を超えた非合理な側面を持っているからです。愛情や友情は本能的で身体的な生活世界での営みであり、それは経済合理的なシステム世界の営みではありません。
つまり婚活劇場みたいなのでよく見る「理想の結婚相手の条件をリスト化して9割以上に当てはまっていたら結婚を検討する」みたいなアプローチは合理主義的なんです。まさに岡本太郎の言う「就活の様な結婚」です。
いやいや、結婚適齢期に差し掛かっていて何百人もいる候補者の中から贅沢にもデートの相手を早急に絞り込まなければならぬ!みたいな状況なら合理的なプロセスを使うのも全然良いと思いますけど、「この人だ!」という最終的な決め手は、おそらく「なんとなくフィーリングが良いな」っていう非合理的で直感的なことが大切なんですよ。
知らんけど(笑)
すいません、話がそれました。
愛情の話は難しいですね。それこそ人それぞれなので皆さん自由にしたらいいのですが考えるべくは「孤独」です。システム世界に過剰に適用すると、常に損得勘定で動くことになってしまい、それが愛情や友情を遠ざけて人間関係を希薄化し人を孤独にします。
愛はいらない!孤独も平気や!なんぼのもんじゃい!と思う人もいるかもしれません。ですが、宮台さん曰く人間は遺伝子的に孤独に耐えられないそうです。
我々の身体は古代からほとんど変わっていません。つまり太古の昔の集団生活を営むことに、今の私たちの心も体も最適化されているわけです。集団から疎外されることは即死を意味した時代があまりにも長かったので、人間の脳は孤独に社会的苦痛を感じるように進化した。
だから、今の私たちも「孤独はしんどい」のです。私たちは何かに包摂されて安心したいし切実に誰かと一緒になりたい。DNAレベルでそうなっているから、ということのようです。
これが社会システムに過剰適用して生活世界を疎かにすることの問題となります。
9)システムは軍隊の文脈でも成立する
さて『壁と卵』の話の内容がグッと深く分かりましたね。
問題の核心にあるのは「孤独」です。本稿では、主に資本主義経済のシステムが人間関係をズタボロににしている、ということに注目をしました。
「あれ、でも村上春樹がしているのは経済じゃなくて戦争の話なのでは?」という声も聞こえてきます。
もちろんです。
冒頭でも触れましたが「国家システムに蹂躙される個人」という意味も「壁と卵」のスピーチには含まれています。これはガザと戦争状態にある2009年のイスラエルで行われたわけですし、徴兵された父親のことについても語られているわけですから、第一義的には国家システムで捉えた方が話が分かりやすいですよね。
この(壁と卵の)メタファーは何を意味しているのでしょう? 場合によってはあまりに単純かつ明白です。爆撃機、戦車、ロケット弾、白リン弾、それらがこの高い壁です。卵とは、それによって押し潰され、焼かれ、撃ち殺される非戦闘員市民たちのことです。これはこのメタファーの一つの意味です。しかし、それだけではありません。これにはもっと深い意味があります。こんなふうに考えてください。私たちは誰もが、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちのひとりひとりは脆い殻に包まれた、ひとつひとつがユニークで、代替不能の命です。私はそうです。みなさんもそうです。私たちは誰も、程度の差はあれ、高く硬い壁の前に立っています。その壁には名前があります。『システム』です。
国家システムによる個人の蹂躙という意味で象徴的なのは「徴兵」です。徴兵とは、国家システム存続のために個人の人生が破壊されるということです。また軍事システムとしての軍隊からすれば、個人は代替可能な一兵士として扱われるわけです。そこで重視されるのは軍事行動に役立つかどうかだけであり、兵士一人ひとりの個人のことは本質的にどうでもいいと見做されます。
経済も国家も、ともに自律的な近代的システムという観点から見れば同じ構図で捉えることができます。それは「システムは個人を代替可能な存在に貶める」というものです。つまり「システム世界vs生活世界」という構図のシステム部分には、経済システムも国家システムも代入できます。
ということで「壁と卵」というメタファーが意味する1つの文脈である「近代システムvs個人」については概ね理解できたかと思います。
10)私たち卵は、どうすればいいのか?
本稿では、宮台さんに倣って「システム世界vs生活世界」という構図で読み解いてきました。私たちは孤独な社会が加速していくなかで、どのように生きていけばいいのでしょうか?
この問題に対する宮台さんが提唱する基本的なアプローチは「社会という荒野を仲間と生きよ!」です。
空洞化してしまった地域や家族に代わって、個人的な仲間との小さな共同体を作りなさい、ということですね。シンプルに言ってしまえば「お前の生活世界はお前が守れ」ということです。
ただしそれは地元の友人と復縁せよ、という昔ながらの血縁地縁の復活を目指すのではなく、「システム世界の力を借りて存在する人工的な共同体」でいいから、と述べています。それは「仲間が仲間であり続けるための営み」として大切にせよ、と。
これは生活世界の崩壊という問題の重大さに気づいていない多くの人にとっては、実生活で意識し続けられる短い警句として機能するので有効な呼びかけだと思います。
しかし、それだけでは心許ない。ということで「私たちが目指すべき、仲間を集められる人間とはどんな人間か?」という問いが展開されます。
その答えは超シンプルで「立派な人」であれ、ということです。つまり損得勘定で動くのではなく、利他的で己の倫理観に基づく人間を目指せばいい。
拍子抜けしましたか?あるいは昭和の精神論に聞こえますでしょうか?
この「立派な人」というのも宮台さんはさらにパラフレーズします。それが「ミメーシスを起こす人間」です。
キーワードとなるのは「ミメーシス(感染的模倣)」の概念です。ミメーシスはもともとギリシャ語で、人が他者の振る舞いに対して感動や共感をおぼえ、内側からわき上がる衝動に従って同じ行動を取ろうとすることを意味します。そうしたミメーシスを惹起する力、「この人みたいな人間になりたい」と人々に思わせる力を持つこと
昭和の精神論としての「立派な人物」ではなく、古代ギリシャ哲学に由来する「ミメーシスを起こす人間」と捉えると、少し気になりますよね?
さらに言えばこれはマックス・ヴェーバーのところで少し触れた「カリスマ」です。カリスマって凄腕の美容師だけじゃないんですね。この議論にニーチェの「超人思想」が絡みます。そしてニーチェもヴェーバーも古代ギリシャ由来の力の系譜なる哲学の中にいるようです。ぜひ探求したいですね。
宮台さんはこのテーマについて様々なところで語られていますので、気になる方はぜひ書籍や動画を参照下さい。
11)小説家は、どうやって卵を守る?
残るは「小説家はどのように生活世界を守ることに寄与するのか?」という問いです。
しかし、ここまで来るの長かったな。そしてこれ一番大切なところですよね。(笑)
この仮説について書き始めると、あと2倍くらいの量が必要になりそうです(笑)たぶん古代ギリシャ由来の力の系譜の話が重要なのと、あとはそもそも哲学じゃなくて、物語が生み出すパワーについての考察が必要になるはずです。現代思想などで探求されていそうですけど、まだあまりスラスラ書けるレベルで私の中でも捉えきれておらず…
ということで「小説家がいかに生活世界を守るのか?」ということについては、それに私自身もこの問いについて、まだ深く考えている最中です。なので、ここでは私の仮説は書きません。すみません。
しかし!
実は村上春樹よりも以前に「システム世界vs生活世界」について考え、それを発信している小説家たちがたくさんいます!!!
つまるところ村上春樹の『壁と卵』の話の内容は特にオリジナリティのあるものじゃないんです。哲学者だけでなくて、名だたる小説家の先人たちの議論が受け継がれております。
ゆえに以下の講演や書籍を参照すれば、村上春樹の意味するところもかなり深く分かるようになるかと思われます。
11-1:夏目漱石 『私の個人主義』(1914年)学習院での講演
前半はイギリス留学中に発見した「自己本位」という個人主義的な生き方の本質について。後半は、権力者は金や権力を使って個人を圧迫してはいけないという考えについて。これらを華族専門の宮内庁管轄の学校「学習院」にて、将来国家の中枢を担うと思われる学生たちに話して聞かせました。
現代でも生き方の指針を立てるうえでのヒントとして漱石の「自己本位」という考え方は言及されることがありますが、実は国家主義批判の性格を帯びている講演とも読み取れます。
フッサールの講演より20年前の1914年に行われていますが、日清・日露戦争に勝った後、すっかり列強気分の戦前の日本において国家主義的な空気が強まる1914年。夏目漱石はあえて学習院で正面から国家主義批判と受け取られないよう慎重な講演をした。
彼は単純な「私の個人主義とは何か?」という話をするかに見せかけて「国家主義vs個人主義」つまり「システム世界vs生活世界」の図式を提示したうえで「個人主義(生活世界)」を養護している。
これ「壁と卵(=国家と個人)」の話ですよね?
しかも、わざわざ学習院で話すって、エルサレムでシステム批判する村上春樹と同じじゃないでしょうか?
11-2:フッサール 『ヨーロッパ諸学の危機』(1935年)ウィーン&プラハでの講演
既に本稿で取り上げましたが、彼は科学が技術的・客観的な知識の追求に偏重し、人間の主観的経験や生活世界(Lebenswelt)を軽視していると批判しました。このような状況が人間性の喪失や文化の危機を招いていると指摘し、科学の基盤を再考する必要性を訴えました。この彼の考えが「生活世界の擁護」という欧州の知的議論の系譜を生み出しています。
彼は小説家ではなく哲学者ですが、次に紹介するミラン・クンデラが講演で触れています。
11-3:ミラン・クンデラ 『セルバンテスの不評を買った遺産』(1983年)米国での講演
クンデラは1983年にアメリカで講演をしています。これは代表作の『存在の耐えられない軽さ』が出る1年前で、作家として脂が乗っている時期の講演です。もともとの講演のタイトルは「もし小説が私たちを見捨てたら」。書籍化されるにあたり「セルバンテスの不評を買った遺産」に改名されたようです。日本では1990年に『小説の精神』という書籍で出版されています。
1935年のフッサールの講演に言及して「生活世界と小説の関係」について語っています。つまり、クンデラは村上春樹より35年も前に「壁と卵」について語っているのです。
哲学と文学の知識がある程度ないと読み解くのが難しく、私もまだしっかりと理解しているとは言えませんが、とにかく村上春樹と同じテーマについてより詳細に語っています。これを読めば「壁と卵」の意味がもっと腑に落ちるはずです、というか「小説がどのような方法で生活世界を守るのか?」の答えが書いてあるはずです。
11-4:大江健三郎 『小説の方法』(1978年)書籍
大江さんの小説論が語られている書籍ですがクンデラの上記の講演が引用されています。つまり、大江さんはクンデラの言葉を援用しつつ自説を展開しているわけですが、やはり内容はここで紹介している小説家たちの系譜に連なるものです。
「小説の方法」という、この書籍のタイトルを言い換えれば「小説が生活世界を守る方法」が書いてあるのだと思われます。私は一度熟読したのですが、たぶん半分くらいしか読めていないです。
でもタイトルの抽象性が引っかかるんですよね。おそらく「壁と卵」みたいに、3つくらいの方法が隠されてると思います。そしてそれらが実は三位一体の関係にある、みたいな超複雑な小説理論が展開されているはずです。
1:小説を書く方法
2:小説が生活世界を守る方法
3:なんだろう、きっと小説に関する何かの方法
11-5:村上春樹『壁と卵』(2009年)エルサレムでの講演
そしてこうした伝統の中に村上春樹の『壁と卵』のスピーチがあるわけです。
ということで、私が現状で見つけられる限りの『壁と卵』の系譜を紹介してみました。他にもあると思います!
「小説がどのように生活世界を守るのか?」について興味がある人は、ぜひ上記の書籍や講演録を読んでみて下さい。
そして一緒に考えましょう!
終わりに
ということで終わりますが、冒頭の話に少しだけ戻ります。
繰り返しになりますが、私が考えるに少なくとも「壁と卵」は以下の3つの意味のレイヤーがあります。
1)社会をシステムとして捉える社会学的文脈
2)自我を自己恒常性システムとして捉える心理学的文脈
3)言語システムを問題にする哲学的文脈
本稿では、宮台さんの知見を参考にしたのが1)の社会学的文脈でした。ですが既に文中で軽く紹介していますが、私、1)2)3)それぞれの文脈に関連する小さい考察を既にしております。それらを書いたときには「壁と卵」の解説を全く意識していないので、読み解きという目的意識では書かれていませんが関連はしています。
ということで、ここまで読んでくださってありがとうございます。
あとは宣伝なので興味ない人はスキップして下さい
1)社会をシステムとして捉える社会学的文脈
これは「近代社会の特徴を考えるうえで中世のことを勉強しよう!」というテーマで書かれたものです。今回の話は近代社会の問題について考えたわけですが、その特異性は中世と比較するとより明瞭になるかと思います。こちらの記事では、作田啓一著『個人主義の運命 - 近代小説と社会学 - 』(1981)を参照しています。
もともとその記事を前半、本稿を後半として書くつもりでした。でも結局あまりきれいに前後半になっていないのですが、中世の話なので前半っぽい内容ではあります。ぜひ。
2)自我を自己恒常性システムとして捉える心理学的文脈
これが今までの一番の自信作でして、それがゆえに唯一の有料です!
今作と同じくらいかそれ以上に気合が入っています。
今まで買ってくれた人は1人しかいませんが(笑)
しかし、その方は感動して追加で投げ銭を下さいました!!
めっちゃ嬉しかったです(笑)
ということで、もしあなたがこんな長い文章を最後まで読んでくださったのであれば、あなたは確実に私のターゲット読者です(笑)なので、ここで下手くそなセールスさせて下さい(笑)
この有料記事のテーマは「近代的自我と物語」です。
では、この記事を買って読むと何が分かるか?
①近代的自我とは、どういうことなのか?が腑に落ちます。
心理学的な堅い説明は一切していません。ですが、普通に内容を理解しながら読んで頂けると「近代的自我の苦しさ」がグッと理解できます。
近代的自我ってよく文学論で話されるトピックじゃないですか?でもなんとなく「結局は何が自我なんだっ?」て感じでもやもやしません?私はしてました。しかし、特殊な経路を辿ることでくっきり理解できます。
これは保証します。なぜなら自分自身がこのnoteを書きながら「ええ!?まじか、これが近代的自我の辛さなのか!!!!」と自分自身で自分の文章に驚愕したからです。
②夏目漱石のことをあなたはめっちゃ好きになります。
というか、夏目漱石を先生というよりは、先輩として慕うように感じることができるはずです。めっちゃ変な言い方ですね。でもなんというか彼に親近感を感じられるようになります。
なぜなら私自身がこのnoteを書いたことで、夏目漱石を先輩として感じられるようになったからです。理由としておかしいですが本当なのです・・!
③物語に癒やされる、とはどういうことなのか?分かります。
というのもですね、御存知の通り、明治維新後の日本人に西洋的近代自我を無理やり輸入する必要がありました。この前代未聞の歴史に残る国家プロジェクトを担当したのが夏目漱石なんです。
で、それって非常に辛い戦いだったんです。そのときですね、まさにそのとき、近代日本において自我が物語で癒やされる、ということが起きた。この抽象的な私の文章の意味が、このnoteを買っていただくと理解できます。
以上がセールスでした(笑)
といっても他の記事はすべて無料なので、まずはそれらを読んで気にいっていただけたらぜひ!
3)言語システムを問題にする哲学的文脈
こちらもですね、結構似たようなテーマで語っているのですが、これを読むと小説があなたの鏡として機能するメカニックが分かります。この鏡としての物語の仕掛けが、宮台さんのいうミメーシスに関連すると思います。
要するに、言語論的転回の後の時代においては言葉に頼れなくなったので、身体性が重要なんですよ、ということです。そのことについては直接言及していませんが。
でもポストモダンの文脈を理解している人にとってはこれ当たり前のことみたいですね。なんで身体性が重要なんだろう?ってずっと思っていました。
これはタイトルが分かりにくいのと、内容が小難しいのと、読み解きたいことがニッチなのと、近代と脱近代の時代区分を捉えてうまく整理できていないので若干内容がこんがらがっていることもあり、概ね不評です(笑)
ドン・キホーテ論です。ちなみにクンデラの「不評を買ったセルバンテスの遺産」のセルバンテスは、ドン・キホーテの著者なので、近代文学がどのように生活世界を救うのか?という話について、ドン・キホーテはかなり重要です。そういう意味でも少し関連しています。
自分なりに振り返ってみると、物語の解毒作用、みたいなことについて考えることにつながっています。なので古代ギリシャから続く「力の系譜」とは少し異なる視点で、文学の有効性について考えてみた、ということになりますでしょうか。うん、伝わらないかもしれないけど、ミメーシス的な力とは少し違う話です。
ということで、最後にご紹介でした!
長い文章を最後まで読んで頂きありがとうございます😊
フォローしてもしなくてもどっちでもいいです!
勝手にしやがれ!俺も勝手にするから!
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