『インサイド・ヘッド2』を見たら過去・現在・未来の自分をぜんぶ抱きしめたくなった
【はじめに】
⚠️この記事は『インサイド・ヘッド2』の軽微なネタバレを含みます。なるべく視聴体験を壊さないようにしていますが、「絶対にネタバレは1mmも許せない!」という方はご注意ください。
⚠️記事の中に薬や心理学に関する記述が含まれますが、筆者は医療関係者や専門家ではありません。あくまでも素人目線の記述であることをご了承ください。
先日、『インサイド・ヘッド2』を映画館で鑑賞してきた。評判の高さを裏切らない名作で、迷いなく涙を流せる物語だった。
今回は、私が『インサイド・ヘッド2』を観て感じたことを、大きく2つに分けてお話したい。
結論から言うと、
矛盾こそ個性
「シンパイ」は私の守り神
以上の2つだ。
少々長くなってしまったが、どうかお付き合いいただければ嬉しい。
『インサイド・ヘッド2』あらすじ
まだ未視聴の方、あるいは視聴から時間が経って忘れかけている方のために、『インサイド・ヘッド』および『インサイド・ヘッド2』のあらすじをざっくりと記載しておく。
▼『インサイド・ヘッド』あらすじ
▼『インサイド・ヘッド2』あらすじ
あらすじを一言で表すと、「主人公の少女“ライリー”の中にある“感情”を擬人化した物語」だ。
具体的には、11歳のライリーの頭の中に登場する感情は、
ヨロコビ
カナシミ
イカリ
ビビリ
ムカムカ
そして13歳になったライリーに新たに現れる感情は
シンパイ
ハズカシ
イイナー
ダリィ
以上8つの感情を擬人化したキャラクターがそれぞれ手を取り合い、時にはぶつかり合い、ライリーという多感な年頃の少女が一歩ずつ成長していく物語である。
(後述するが、“喜怒哀楽”といったように過度に単純化がなされていない点も、豊かな自己理解のために必要な要素だなと私は感じた。)
『インサイド・ヘッド』の大きなテーマ
そして第1作と第2作を貫くテーマは「自己受容」、すなわち「ありのままの自分を受け入れる」ことだ。
▼『インサイド・ヘッド2』監督コメント
すこし余談になるが、「自己肯定感」という言葉が流行って久しい。だが私は「自己受容」と表現する方がよりしっくりくると感じている。
そもそも「自己肯定感」がどうのこうのと思考をめぐらせるような人間は(私も含め)、アイデンティティの乾きとも呼べるような「満たされない心」を抱えて生きている。
「私には何が足りないのかな?」
「どうして〇〇さんや△△さんのように上手く生きられないのだろう?」
「どうやったら私もみんなのように“良い人”になれるのかな…」
そんなアイデンティティの渇きに、浅く長く首を締め続けられている。
だが、「満たされない心」を埋められるのもまた自分自身。「自分自身をまるごと受け入れる」ことが、アイデンティティの渇きに与えられるほとんど唯一の水なのではないだろうか。
「私には何が足りないのかな?」→「完璧な人なんていない。私もあの子も何かが足りない。でも、足りなくても、それで十分。」
「どうして〇〇さんや△△さんのように上手く生きられないのだろう?」→「上手く生きる必要なんてない。実はみんな、ちゃんと失敗してるよ。私の失敗にだって意味がある。」
「どうやったら私もみんなのように“良い人”になれるのかな…」→「良い人でいようとしなくていい。常に良い人でいられる人間なんてどこにもいないよ。私はベストを生きようとしている、それで十分。」
こうした具合に。
こうした「自分自身をまるごと受け入れる」ことこそが「自己受容」なのだが、「自己“肯定”感」という言葉を使うとニュアンスが変わってしまうように感じる。
「自己肯定」と聞くと、どことなく「私は私が大好き!」というようなニュアンスに受け取ってしまう…のは私だけだろうか?
かつての私は「自己肯定感高めなきゃ!自分大好き人間にならなきゃ!」と必死になっていた。必死になった結果、拭い去れない「ネガティブな自分」との解離にさらに悩まされた。
それは「肯定」という言葉に含まれる過剰なパワーのせいでもあるのではないかと、うっすら考えている。
とにかく、そんなこともあって、私は「自己受容」という表現の方が好きだ。
話が脱線してしまったので本筋に戻そう。
「自分自身を受け入れる」ことは、とつもない困難を伴う。自己肯定感について考えを張り巡らせるタイプの人間は、なおさらだ。
どのようにして自分自身を受け入れていくかという道もまた、人によって全く異なるだろう。
だからこそ『インサイド・ヘッド』を観た人の感想は他の映画と比べてもより十人十色になりそうだ。
そこで今回、私なりに『インサイド・ヘッド2』鑑賞後に感じた「自己受容ポイント」を、大きく2つに分けて紹介していく。
感想①矛盾こそ個性
『インサイド・ヘッド2』鑑賞後に感じた「自己受容ポイント」ひとつめは、「矛盾こそ個性」という点だ。
先週、私はとある本を図書館で借りた。
小川洋子と河合隼雄の対談本『生きるとは、自分の物語をつくること』である。
Twitterで見かけたことが読むきっかけになったのだが、今は購入を検討すらしている。それくらい良い本との出会いだった。
わずか151ページの中に、人生のエッセンスが凝縮された名著だ。
そんな名著の中で、私がもっとも心打たれた部分を2ヶ所引用させていただく。
世の中は矛盾に満ちている。そもそも生命が矛盾に満ちている。
しかし、われわれ人間は矛盾を避けたくなる。
人間は納得できるものが安心するようにできているので、矛盾、つまり相容れないものを抱えることそのものが不安だからだ。
1−1.「認知のゆがみ」から考える「矛盾」のストレス
ところで、みなさんは「認知のゆがみ」という言葉をご存知だろうか?
心理学用語のひとつで、「出来事の捉え方(=認知)がアンバランスな状態」を指す言葉だ。
⚠️重ねてになるが、私は医療関係者でも医学の専門家でもないので、そのことを留意した上で読んでいただきたい。
この「認知のゆがみ」には代表的な10パターンが存在する。そのうちのひとつが「白黒思考」で、その名の通り「白黒つけないと気がすまない」完璧主義的ゆがみのことだ。
例えば、「この間のテスト、私はあの子より5点低かった。私は負けた。人生すべて大失敗だ。」と決めつけるなど(冷静に見れば、自分の点数は平均点よりはるかに高いにもかかわらず)。
こうした「白黒思考」に代表される「認知のゆがみ」は、私の経験則からすると、何かしらの原因で心に余裕がない時に生じやすいように思う。思春期はその代表例のひとつだろう。
なぜか。白と黒、はっきり分かれた状態は納得しやすいからだ。
アンパンマンは正義でバイキンマンは悪と決まっているから、まだ言語も持たない子どもでも安心して物語を追うことができる。
敵と味方が毎度入れ替わり立ち替わりする水戸黄門は、確かに考察のしがいはありそうだが、昼下がりに見るにはやや胃もたれしそうではないだろうか。
グレーゾーンを受け入れることは、脳の容量をたっぷりと食われる。だから心に余裕がない時は、それができない。
1−2.矛盾を飲み込むむずかしさ
だがしかし、そもそも世の中に白黒はっきり分けられるものなんて存在しているのだろうか。
ほとんどのもの…というより、全てのものは、グラデーション状にできている。グレーって200色どころじゃない。
完全な悪人や善人はいない。ある人にとっては悪人でも、ある人にとっては最高の親友。わたしは悪い子だけど、いい子でもある。
この「どちらでもない」ことを認知し、受け入れることは、膨大なエネルギーが必要になる。
しかし、だからこそ、「どちらでもない=矛盾」している状況を飲み込んだ時、人はまた一歩成長するのだ。
『インサイド・ヘッド2』終盤で、主人公ライリーの「自分らしさの花」が生まれ変わるシーンがあった。
かつてのライリーを支えていたのは「わたしはいい子」というアイデンティティだった。
しかし、先輩や友人との衝突を経て、ライリーのアイデンティティは「わたいはいい子だし、悪い子」に生まれ変わった。
13歳のライリーは、先輩にとっての「いい子」になろうと努力しすぎるあまり、親友にとっての「悪い子」になってしまった。そんな自分を責めもした。
大人になっていくにつれ複雑化していく人間関係の中、ライリーはライリーだけの方法で矛盾を飲み込んだ。だから、ライリーだけの個性が花開いた。
ラストシーンのライリーの表情が生き生きしていたのは、「いい子のライリーと悪い子のライリー、どちらも自分だ」と実感できたからに他ならないと、私は思う。
感想②「シンパイ」は私の守り神
『インサイド・ヘッド2』鑑賞後に感じた「自己受容ポイント」ふたつめは、「『シンパイ』は私の守り神」という点だ。
『インサイド・ヘッド2』から新たに加わったメインキャラクターに「シンパイ」という子がいる。
「最悪の将来を想像し、あたふたと必要以上に準備してしまう」といった感情を擬人化したキャラクラーだ。
例えば、高校の先輩に「好きなバンド何?」と聞かれたライリーの脳内では、「ヤバい!イケてると思われるバンドを答えなきゃ!」とシンパイがあたふた曲探し回るシーンがあったりする。
本当に好きなバンドは「ダサい」と思われそうで、心の裏に押し込み、周囲に「イケてる」と思われたいがために過剰適応するライリー。
大人なら誰しもが「そうそう、思春期ってこんなふうだったな」と懐かしくなるシーンのひとつだろう。
(私も中学時代、某ジャ◯ーズグループにハマっているフリをするのに必死だった。)
こんなふうに、最悪の状況(=映画の中では「ひとりぼっちになること」)を想定し、それを回避するために工夫する、というのが「シンパイ」の行動原理だ。
2−1.シンパイの暴走
『インサイド・ヘッド2』クライマックスシーンでは、このシンパイが大暴走してしまう。
ライリーが周囲とうまくやろうとしすぎた結果、過呼吸を起こしてしまうあのシーンだ。
ここもまた、誰しもが心当たりある場面のひとつだろう。
試合、テスト、初デート、運動会や修学旅行、受験…などなど。
(ちなみに筆者は吹奏楽部出身なのだが、夏のコンクール当日に腹痛とあぶら汗で倒れかけたことがある。あの時の「シンパイ」ありがとう。と、今なら思える。)
最終的に主人格の「ヨロコビ」に抱きしめられて暴走を止められたのだが、その時のシンパイのセリフが、私の耳から離れないのだ。
──「ごめん…私はただ、ライリーを守りたかっただけなのに…」
このセリフを聞いた私は、自然と涙ぐんでいた。
ああそうか、シンパイも私を守ろうとしてくれる感情の中のひとつだったな、と。
シンパイも邪魔者じゃない。たとえ暴走してしまっても、ぜんぶひっくるめて自己防衛のひとつだったな、と。
忘れかけていた、というよりも、いつの間にかシンパイを邪険に扱おうとしていたことを、意識の俎上に引き戻してくれたセリフだ。
2−2.シンパイをコントロールする手段
現実世界において、シンパイの暴走を対処する手段のひとつに「抗不安薬」が挙げられる。ワイパックス(ロラゼパム)などに代表されるアレだ。
昔、ふと思い立って抗不安薬のメカニズムについて調べたことがある。すると以下のような説明にたどり着いた。
⚠️重ねてになるが、私は医療関係者でも医学の専門家でもないので、そのことを留意した上で読んでいただきたい。
素人のざっくりとした解釈によると、おそらく「脳の活動を落ち着かせる薬」が抗不安薬ということになる。
ここで私は「ん?」と思う。
抑うつ状態の時に飲む薬なのだから、もっとヤル気元気を出してくれるような、テンションをぶち上げてくれるような薬の方がいいんじゃないか?と感じたのだ。
抑うつ状態の時、人は病的にやる気が起きず、食事や入浴もままならなくなる。だから、エネルギーを湧き起こしてくれるようなアクションが必要なのではないか?と思った。
だが、さらに調べていくと納得した。
抑うつ状態は一見やる気がなくダラけてしまっているように思えるが、実はそうでなく、脳が過度に緊張しているのだ。
過度に緊張、つまりシンパイが暴走しているから、次々と不安に襲われ、脳のリソースがごっそり持っていかれる。
その結果、本来生活に欠かせないはずの食事や睡眠に割く気力がなくなる状態こそが「抑うつ状態」なのだろう。
⚠️しつこくてごめんなさい。医療関係者ではないただの一素人の考えですのでご了承ください。
そんな時にテンションをぶち上げるような薬を飲むわけにいかない。
一見ダラけているようにも思えてしまう抑うつ状態においても、とにかく病的に暴走しているシンパイに落ち着いてもらう必要がある。だから、抗不安薬が必要になる。
というところまで調べて、当時、やっとこ腑に落ちたものだ。
2−3.シンパイは邪魔者?
それから数年。
ある程度大人になり、不安=シンパイとうまく付き合っていけるようになる。
すると、「そもそもシンパイが暴走するから、こんな面倒なことになるんじゃん」という考えがぽつぽつと浮かんでくる。
シンパイが大人しくしてくれたら、常に元気で生産的な自分でいられるのに、と。
そんなことないと、心のどこかでは分かっている。
だけど私は、「やっぱりシンパイの暴走って厄介じゃん。いなくなれよ。」と、いつの間にか感じていたのだ。
不安をいなすことが上手くなっていくにつれ、いつの間にか、じわじわと。
──「ごめん…私はただ、ライリーを守りたかっただけなのに…」
シンパイのセリフは、「私自身を邪魔者扱いしている私」の存在を、そっと光り照らしてくれた。
そうだった、『インサイド・ヘッド』を貫く大きなテーマは「無駄な感情なんてない」だった。
一見無駄に思える「カナシミ」は「他者への優しさの芽」なのだと、第1作、11歳のライリーが教えてくれたじゃないか。
シンパイや不安という感情が人間をどのように守ってくれるかという専門的知見は、私は持ち合わせていない。
シンパイが一生懸命働いてくれたからこそ、私の中にいる、不条理で子どもっぽい私は守られていた。これが私の思い描く物語だ。
「厄介だ、いなくなれ、おとなしくしろ」と呪っていたシンパイの暴走も、私を守る大切な大切な感情なのだということを、「私はただ、ライリーを守りたかっただけなのに」というセリフは思い出させてくれた。
最後に:自分ってダサい。でも…
まとまりのない文章をつらつらと連ねてしまった。論理関係もがちゃがちゃだ。
だけどとにかく、『インサイド・ヘッド2』観賞後の熱が冷めないうちに言葉を残しておきたかった。
そもそもこの冗長な感想文をnoteとして公開するかどうか、迷った。ちょっと前の私なら確実に公開していなかっただろう。
「だって、私より文章上手い人なんてたくさんいるし。」
「私より深い考察してる人の文章読んで凹みたくないし。」
「どうせ誰も読んでくれるわけないし。」
「バズってる人と比べてみじめになりたくないし。」
なんていう考えからだ。
だけど、今の私が持てる力で描く文章にこそ、今しかない価値がある。公開するというモチベーションに背中を押してもらって、「今しかない価値」をここに刻んでおきたい。
そうした「自分の中に根ざす価値」も、『インサイド・ヘッド』は再確認させてくれた。
きっとこの文章も、将来見返したときに恥ずかしくなるんだろうという確信がある。
そんなシンパイも、未来の私も、全部ひっくるめて、その時できる力で受け入れてあげたい。私の頭の中にいる、あまたの感情たちと一緒に。
2024.08.29 七生真緒
追記:その他感じたこと雑記
・主人格に「ヨロコビ」が据えられているのも良いポイントだと感じた。「楽しい」でも「快楽」でもなく、「ヨロコビ」。友愛、親愛、みたいなあらゆる「愛」も包含した「ヨロコビ」。彼女が主人格だからこそ、他者との繋がりにヨロコビを見出して成長できるのかな。
・「ビビリ」と「シンパイ」が別のキャラクターな点も、なるほどなあと感じた。公式サイトによると、「ビビリ」は「いつも怯えているが、迫りくる危険には素早く反応する」、「シンパイ」は「最悪の将来を想像し、あたふたと必要以上に準備してしまう」。より遠くの未来を見据える力も、成長とともにつく(ついてしまう?)のだろうか。
・「イイナー」の身長が飛び抜けて小さいのは、他人の身長を羨ましがるという設定のためだけではなく、羨望をつかさどるインナーチャイルドを表しているのだろうか?なんてぼんやり思った。
・歌手の「こっちのけんと」さんが『耳の穴かっぽじって聞け!』という番組に寄せた手紙が話題になっている。その中の「あの曲たちを生み出すためには『菅田将暉の弟』として弱々しく生きてきたことに意味があったんだなと思えてしまうほどでした。」という一節が印象的だった。彼なりの矛盾を生きた末の言葉だと、重く強く沁みた。