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一生ボロアパートでよかった⑯

あらすじ
自慢だった新築の白い家が、ゴミ屋敷に変貌していく。父はアル中になり、母は蒸発し、私は孤独になった。
ーーー1人の女性が過去を振り返っていく。


 春休み最終日、父の尾行を決行しました。

 この日私は、朝の4時過ぎには目が覚めていました。でも、目覚めてすぐには起きませんでした。明日から始まる学校の事や家の事、まるで上手くいかない自分の人生の事をずっと考えていました。そして、いつになったら夜が明けるのかと憂いつつ、父の目覚ましが鳴るまで何もしないでただ目を瞑って待っていました。

 父が起床したのは6時半でした。それは昔から大きく変わりません。朝、隣の父の部屋から目覚まし時計の鳴る音が聞こえるので、その音で私も起こされる事がありました。普段はその音を迷惑に感じるのに、この日朝を待ち侘びていた私は、父の目覚まし時計の音が聞こえるとすぐに、待ってましたと言わんばかりに布団から這い出て、外着に着替えました。

 父が目覚まし時計を止めて5分後、ガチャリと隣の部屋の扉が開く音がしました。少しだけ間を空けて私は静かに自分の部屋を出ました。2階の階段は直接リビングにつながっていて、2階からゴミの平野を眺める事ができました。

 でも、2階から父の姿は見えませんでした。代わりに、父の音が聞こえました。ガサガサとリビングをうごめく音。ヒゲを剃っている音。「オエッ」とえずく音。うがいの音。思春期の私には、どれも腹立たしい音でした。

 父は朝ごはんを食べません。朝の一連の行動の最後はうがいで、そのまま家を出ます。うがいの音が聞こえてきた時点で、私はいつでも外に出られる心持ちでいました。唯一、玄関の靴がゴミに埋もれていないかだけは心配でした。

 父が玄関の扉を閉めてすぐに、私は階段を駆け下りました。いつもの私なら玄関前のゴミたちに従順に押し返されるのに、この日はゴミを容易に押しのけることが出来ました。私はガサガサと大きく物音を立てながら玄関まで突き進みました。

 靴は思ったより履きやすい位置に置いてありました。なぜか揃えて玄関の隅に置いてありました。誰かが揃えて置いてくれていたのだと思います。でも、その時私はそんな事さえ気付けずに、履き慣れているはずの、だけど今は懐かしい通学用運動靴の踵を踏み潰しました。それで、玄関の扉を勢いよく開けて、久しぶりの直射日光に目が眩みました。

 すぐに外の匂いがしました。排ガスの現代くさい臭いと春の訪れを植物達が祝っているかのような青い香り。それらは不思議と調和していて、私さえも受け入れてくれる別世界に来たかのような錯覚を覚えました。少なくともゴミの香りがしなかった事は確かです。家の中より圧倒的に澄んだ空気でした。それで私はほんの一瞬だけ、悩みもせずに純真に外遊びを楽しんでいた子ども時代に戻ったような気がしました。

 でも私はもう子どもじゃないので、思春期なので、反抗心があって妙な好奇心を持っていて、悩み事をたくさん抱えていて、それをどうにかしたくて、家にいても落ち着かなくて、憤りを発散したくて、遊びに行く友達がいるわけでもなく、でも1人でいるのも怖くて、躓きながら靴の踵をしっかり履き直して、父の尾行を再開しました。

 目を離した隙に、父との間に距離ができていました。でも方角的に父が駅方面に向かっている事はわかりました。さらに進んでから、父は駅に行くのだと確信しました。少し父と距離をとっても大丈夫そうでした。

 そういえば、ずっと気になる事がありました。私が不登校になった初日の父の格好の事です。あの日、父は灰色の作業着を着て、その上から黄色の蛍光ベストと土埃の匂いを纏っていました。なぜか工事現場のオジサンのような風貌でした。あの時なぜ父はあんな格好をしていたのか、私はずっと知らないままでした。

 父はハウスメーカーで働くサラリーマンのはずでした。家を建てたい人の夢を応援しているんだと、昔語っていました。我が家を買う前に一度だけ、父の職場の住宅展示場に連れて行ってもらった事がありました。そこは我が家のある北埼玉から遠い、南埼玉の大きな住宅展示場でした。住宅と田んぼと山ばかりの北埼玉に比べて、東京に近い南埼玉は都会的で、ビルがたくさんそびえ立っていました。そんな場所で働く父はとても立派でかっこいいんだと、昔の私は思っていました。

 私は父の後を追い電車に乗って、あの立派でかっこいい南埼玉に行くのだと思っていました。でも、父が電車を降りたのは、家から三駅向こうの駅。辺鄙な田舎の、北埼玉でした。

 父が電車を降りた時は、焦りました。つい「えっ」と声が出そうになりました。通勤時間帯より早かったし、乗り込む人がまだ少ない駅だったので、私も父が降りた駅でギリギリ電車の扉が閉まる前にホームに降りる事が出来ました。

 決して栄えているとは言えない、どちらかと言うとさびれている住宅地に近い駅でした。父の務める会社はそれなりに大きいはずだったので、こんな辺鄙なところに会社があるはずはないとわかっていました。でも私はどことなく生まれる嫌な予感を拒んで、父がどこに向かうのかただ一生懸命見つからないようにして追いかけました。

 駅を降りて徒歩10分。父が入っていったのは3階建ての雑居ビルでした。

 B.S.Coと書かれた青い看板が目を惹きました。どうやら父は、この会社に勤めているようでした。

 この会社がいったいどういう仕事をしているのか。私は看板を見上げて、嫌な予感が形になるのを感じました。


つづく


↓1話からまとめたマガジンです☺️


↓1話読切の短編小説もあります😊

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