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一生ボロアパートでよかった⑲

あらすじ
自慢だった新築の白い家が、ゴミ屋敷に変貌していく。父はアル中になり、母は蒸発し、私は孤独になった。
ーーー1人の女性が過去を振り返っていく。

 足早に来た方向へ戻り、駅が見えてくると縮こまった身体も元のサイズに戻れた気がしました。駅前で軽く深呼吸をしました。2、3回繰り返すと排ガスの匂いが肺から身体の内側に染み渡り、現実世界に帰ってきたと実感できました。

 駅前の人影はまばらになっていました。朝、駅に着いた時はまだサラリーマンや部活にでも行くだろう学生の姿がありましたが、すっかり居なくなっていました。駅周辺に見えるのは高齢者がほとんどでした。通勤や通学のピークは超えていたかと思います。思ったより通行人が少なくて安心しました。私はまた深呼吸をして、まだ少しだけドキドキしていた心臓をなだめました。

 それからの時間の潰し方には苦労しました。駅前のコンビニに入って30分くらい店内をウロチョロしたり雑誌を立ち読みしていましたが、品出しの店員に舌打ちされて居心地が悪くなったので店を出ました。その後商店街の方へもう一度行って、古本屋が開いていたので立ち読みしました。でも1時間もしないうちに店主が急に咳払いをするようになって、またしばらくするとわざわざ私の近くでハタキをかけはじめたので居心地が悪くなって退散しました。私はどこにも居場所がないと感じました。

 そうやって駅周辺を目的もなくウロチョロして時間を潰してるうちにお昼になりました。私はもう一度コンビニへ行って、おにぎりを一つ買いました。海苔がパリパリのツナマヨおにぎりにしました。菓子パンは近頃すっかり食べ飽きていたので、おにぎりが良いと思いました。お米って、しばらく食べないでいると無性に食べたくなるんですよね。財布の中の最後の100円はここで使いました。

 朝この駅に着いた時は全く気が付かなかったのですが、ロータリーの線路側に桜が数本咲いていました。その桜の真下にベンチがあって、私はそこでおにぎりを食べることにしました。散っている花びらもあったけどまだつぼみもあって、桜は見頃だったかと思います。

 桜の花びらがチラチラと何片も私の目の前通り過ぎ、地面に落ちていきました。私は真上で咲き誇る桜を見るより、目線の高さで散って舞う桜の花びらを見る方が心が躍りました。でもさらに、おにぎり越しに視界に入る地面に落ちた花びらの方が私は親近感を持てました。もっと言うならば、風に吹かれて地面を転がっている花びらを見る方が安心感を覚えました。それで、その転がっていく花びらを足で踏んで捕まえてにじって潰すと少しだけ優越感に浸れました。

 さてお昼ご飯にしようとおにぎりの包装を開くと、開け方に失敗して海苔が千切れてヒラリと地面に落ちました。その海苔の一片は桜の花びらと一緒に私の足元を舞い転がって、その場を去ろうとしました。私は逃すまいとすぐさま自分の足でその子を捕まえました。でも、捕まえて足の裏を確認して黒くにじられた海苔らしき痕跡を見たら、捕まえてももう食べられないのに可哀想な事をしたと思いました。私は哀れみをもって手に持っているおにぎりのパリパリの海苔を千切って投げて、桜の花びらが舞う中に混ぜてあげました。海苔はしばらく桜の花びらと一緒に綺麗に舗装されたロータリーの地面の上を舞い転がり、最後に足元から1メートル先のマンホールの窪みに捉えられました。海苔は窪みに溜まっていた雨水にふやけて、少し大きくなりました。

 どのくらいそこに座っていたでしょうか。居場所もないし、お金もないし、そこで桜を鑑賞している体で時間を潰せたのはよかったと思います。外の空気を吸って、外の景色を眺めた時間は決して悪いものではありませんでした。

 それでもその間頭の中にはずっと、今日ちゃんと家に帰れるのかという心配事と、明日から学校に行けるのかという心配事が巡っていました。外の空気が気持ちいいとか、桜の散る姿が風流で美しいとか、そんな感覚にまでは至れなかったのは、その時の私の不安の大きさを物語っていたのではないかと思います。

 父の退勤時間はよくわかりませんでしたから、早めに父の会社の近くまで戻ろうと思いました。駅で待っていても、有象無象の帰宅者達の中から父を探し出す自信はありませんでした。だから会社の前で父を待つことにしました。会社の前で待っていれば、退勤する父に確実に会えると思いました。

 駅から父の会社方面へ歩き始めた時、海苔を捨てた事に罪悪感を覚え、ベンチの方を振り返りました。なけなしの良心が人から見たらゴミを捨てたようなものだから拾った方がいいと一瞬私を責めたのですが、遠くから見たら、ふやけた海苔がゴキブリみたいに見えたので、拾うのをやめました。


つづく



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