見出し画像

私が書きたい小説とは

昨日の記事で私は、書きたいものが見つからないといったようなことを書いたけれど、こういうものが書きたい!と、私が求める理想形みたいなものは確実にある。それは、自分が過去に書いた小説なのだ。
第51回新潮新人賞二次通過作品『赤いドレスをめぐる、あなたと私の狂想曲』―私はこの作品を超えたくて、ここ数年必死にメタフィクションを書いていた。
小説書きが自分が書いた小説に飲み込まれてしまう、あるいは、自分が書いた小説の中の登場人物が、小説書きの日常を脅かしていく、そんな形式に私は見事にはまり、リアリティを失わないよう、そういう状態が起きるにたる小説家の「切迫した状況」を作り出そうと必死になってきた。
アイデンティティの喪失だとか、アイデンティティの確立だとか、何かストレスフルな状況にある小説書きに、幻想は起こりやすいから。

小説を書いていると、ときどき現実と虚構のはざまで息をしていることがある。登場人物があたかも実在するかのように私はふるまい、彼、彼女のために私自身は奮闘する。寝ていても、彼、彼女は夢のなかに現れ、私に小説の行方を指南しようとしてくる始末だ。
でも楽しい。
そうなったら、小説の文字数はどんどん増える。
あのときの、あの感覚をふたたび身体に心に呼び覚ましたい。ここ数年はずっとそれを追い求めてきた。

芥川賞の候補作品を読むため、新潮2024年11月号を手にしたら今や小説家の第一線にいらっしゃるおふたりの対談が掲載されていた。
そして目にした。

小川 そうですね。この前はそこで僕が「メタフィクションは覚醒剤みたいなもので、一度始めるとやめられなくなるから、あんまり乱用しないほうがいい」という問題提起をしました。そしたら町屋さんに「いま書いてるのがメタフィクションで」と明かされた。僕は町屋さんの作品のファンだったから、「あ、町屋さんだけはいいんです」とかフォローして(笑)。たぶん、そのときに書いていたのが『ほんのこども』ですよね。

2024年11月号新潮『これから作家を目指すひとへ』小川哲 町屋良平

ああ、そういうことなんだ、と思った。彼らと私とではもちろん、レベルが違うけれど、私は私なりにメタフィクションの呪縛にかかっているのだと自覚した。
私が小説を書くのをやめるときは、自分なりの理想のメタフィクションを諦めたときだ―そんなふうに思い詰めるのは、まだ薬が効いているからかも知れない。

私は呪縛を逃れ、書きたいものを永遠に探し求めるべきなのか、それとも薬が効いた状態のまま、自作を超えようと足掻くべきなのか、本当にわからない。

万条由衣

いいなと思ったら応援しよう!