ときどき、だれもいない、なにもない、水の底にしずんで。ただぷくぷくと文字を吐き出していたいと思うことがある。 たとえば今がそう。あぶくになった文字はゆらゆらと心もとなく浮上していって、そうして空中にまぎれてしまう。文字を吐いているという事実だけがあり、吐かれた文字はもう消えている。 家のなかでまだだれも起きていない、深夜のつづきの夜明け前がわたしはすきだ。静かな時間と、おだやかな世の中をみとめて、わたしは水の底にしずむ。 そうしてぷくぷくと文字を吐く。 たまに鳥の鳴き声がすれ
むやみやたらに歩き続けていた。息があらくなって勢いがなくなってきた足の運びにいらついて、近くに転がっていたペットボトルを思いっきり蹴り飛ばした。ふいに、見てはいけないものを見たような気がした。くすんだ銀色の和式便器が雨ざらしになっていた。 公園の片すみにあったはずのトイレの建物はあとかたもなく、ただくすんだ銀色の和式便器だけが、あったままの状態で放置されているのだった。見回せば、入り口付近の足元を固めていた石のタイルは中途半端に引っぺがされ、S字型コンクリートに区切られ
☆今村夏子『こちらあみ子』-読んでて面白いけど、ちょっと悲しくて切なくなる。読み手の感情を揺さぶるのがうまい書き手。狙っているとは思わせない、しれっとした天然ボケ的語りの妙。 ☆藤野可織『爪と目』-文學界新人賞受賞作『いやしい鳥』とはまた違ったしっとりとした二人称で、意表をつかれた。 ☆滝口悠生『寝相』-私にとって滝口悠生の小説は癒しだ。人と人とのふれあいが、いつも温かい。 ☆桜井晴也『世界泥棒』-読み終えたあと骨が抜かれたように感じて、しばらく呆然としてしまった衝撃的
今の時点で、結果を待っている応募作が4つになった。一度にそれだけ待つのは初めてだ。1つでも泡になって散るまえに、過去最多数だと言いたくてww、この記事を書いている。 長い短いはあるけれど、どれも全力投球で書きあげた。泡と化しても、何らかの形にして蘇らせたい。noteで公開か、KDPで出版か、未だ参加したことがない(!)文フリ用に製本か。 選考中なので、それぞれの創作過程を詳しく説明することはまだできないが、気持ちに変化があった。純文学への興味が少しだけ薄くなった。 かと
私が悔しいのは、「書きたいように書けない」ことではなく、「いまだに書きたいものを思い切り書けていない」からだ。 何度書いてもうまく書けないと落ち込んでいるのではない。何を書いてもそこそこ巧く書ける。推敲だって5、6回はするから、誤字脱字は絶対にない!と言い切れる。けれど、完璧なテキストに仕上げた時に、これがこんなに身を粉にして描きたかったことか?と自分に問うと、どうしても首を傾げてしまう。目の前にあるのは、面白くない、つまらない文章のつらなりだ。そんな創作がここ数年続いている
足の指のさきが冷たい、そこはつま先と呼ばれる場所、身体の先端部分のひとつ。しびれたみたいになっているのは先端なのに、胃のあたりがずーんと重くなる。冷たい血は身体中をまわりまわっているからだろう。ああ冷たい足の指のさき。つま先と呼ばれる身体の先端部分のひとつが今、わたしの核になる。わたしがそこに集まる。わたしはつま先に生きているといった気概を持ってても、そこは冷たく病んでいる。親指だけひくひくと動かしてみようか。少しだけ熱を帯びできたかも。右だけじゃなく左もひくひく。よく見ると
何とも湿気の多い日だ。気温も40度に届きそうだ。身体の表面だけでなく内臓のそこかしこに潰瘍ができ、溶けていくようだった。 口からひどい臭いがしていた。けれど、自分の臭いだと思えば興味がわき、呼気をいちいち吸い込んで記憶をたどり始めた。臭気の原因になるものでも食べたのかも知れないと思ったのだったが、すぐに面倒くさくなった。 差し込んだカギ穴の奥で、じゃりじゃりというような音がして、見上げたら、今朝出て行ったときよりアパートはひと回りほど大きくなっていた。ああ、6月だからだと思
小説家になりたいなどと言ったら、兼業しないと生活できないと忠告されるだろう。実際のところ、他に仕事を持ちながら小説を書いている作家諸氏は多いに違いない。もっと言えば、純文学作品をメインに書いて生活を成り立たせていらっしゃる「純文学作家」は、ほんのひと握りほどかも知れない。それを承知のうえでなお私は言ってみたい。純文学作家になりたい! もちろん、若くないから断言できる。これからパートナーと家事分担の相談を始める訳でもないし、次世代を育てる役目はすでに終えた。父も母も逝ってしま
私には美辞麗句が書けない。でも、しがらみがないから正直には書ける。そんなふうにして吐いた身勝手な感想など、作り手にとってはなはだ迷惑なものかも知れない。芥川賞受賞を予想するだって?ワナビのくせしておこがましいにも程がある……そんな声が聞こえなくもない。腰が引けるのなら書かなければいいのだが、私にも目的がある。この記事を読んでくださる方は、きっと芥川賞に興味があるのだろうから、読んでみたい作品があればぜひ本を買おう。そして読んでなるほど良い作品だと感激したり、読んだら万条が書い
コロナの抗原検査キットを見て、妊娠検査を思う人がいるのではないだろうか。同じ形してるし、ふりかけるものは違うけれど。とはいえ、私が妊娠可能だった若い時分にはまだそんな手頃なキットはなかった。妊娠が疑われれば、あるいは妊娠が期待されればまず産婦人科に行かなくてはならなかった時代。受け入れ難い妊娠をした人にとっては、かなり高いハードルだったと思う。病院に行って確定すれば、産むか産まないかをリミット付きで決断しなければならないし、顔や身体を他人に晒して声を出さずとも「私は妊娠しまし
モカ。すごい酸味。苦味より好きだから選んでるけど、ここまで酸っぱいとなんか違うなあと思いながら、コーヒーをすする。数十年ぶりに服用したパブロンSゴールドWがわずかながら効力を発揮しているのを感じている。 誰かが撮った文フリ会場の写真を見かけた。お目当てのブースに辿り着くばかりか、息を吸うのも大変そうな混み合い。「会いたい」より少し距離がある「会っておきたい人」の顔ともすれ違いで無駄足になり、あれ、と思っていた1冊が手に入らず、残り1冊!と見知らぬ人に声かけられてお金を渡した
純文学とは何かーこの問いに答えを与えるために、私は小説を書いている気がする。新人賞に応募し続けていると、どうしてもそれらしきものを探り、それらしきものに寄せようと試行錯誤するからだ。文体に凝ったり、具象から抽象をねらったり(またその逆もあり)、人称や時制を駆使したり、人間ドラマを書いたり……挑み方は人それぞれ、そのときどきだろう。 セルフ出版した作品の、とくに『赤いドレスをめぐる、あなたと私の狂想曲』を書いているあいだは、その物語が必然的に要する文体はどんなものになるのか考え
精神分析学を創始したS.フロイトは、無意識の精神過程では、客観的現実が無視され、心的現実に置き換えられているとした。心的現実とは、他人が聞いたら嘘に思えるようなことでも、その人の中では実際に起きたと認識され、そう信じていることをいう。 この「心的現実」という言葉は私の中で、カウンセリングの過程を知る上で重要な現象のひとつ、といった程度の知識だった。ところが、ある日それは私自身に体験された。 その日、友人と言うには深過ぎて、知人と言うには浅過ぎるくらいの「大学のスクーリング
まずはじめに、謝罪しなければならない。熱量の配分ができず、書き手が不能なために非常にバランスの悪い、ムラのある記事になってしまった。書かれたテキストの分量は、候補作品に甲乙をつける意図があった訳ではないし、候補作品すべてに対して敬意を表します。今回も楽しませてくれてありがとうございます。そしてごめんなさい。(でも私は書評家でも作家でもないので、どうぞご容赦くださいませ) なお、『東京都同情塔』の「解釈と感想」部分については、ネタばれになる可能性もあるので未読の方や影響されたく
読んだらどの賞に応募したか分かってしまうこと自体、失敗の原因であると思われる落選作です。でも、言葉遊びが好きだし、表現されるイメージが好きだから、自分は小説を書いているんだなと納得する作品でもありました。隙間時間にどうぞお読みください。 『 イチルの希望 』 万条 由衣 白い花、白い大きな花がゆれてるみたいに帽子が上下に動きながらゆっくり離れていく。白いのにはば広いつばがあるからそれは麦わら帽子なのだ。かぶっている娘が、同じような白い色をしたワンピースのすそを
振り返っても特筆すべきことなんて何にも浮かばない。小説で、ひとつも結果を出せなかった。すぐにでも封印してしまいたいこの1年。春に応募した150枚も阿波しらさぎも、予選通過できなかった。昨年春に応募した150枚を50枚に再構成して女による~R18に出したけど、やっぱだめだった。よく考えればたった3日で書き変えただけの小説が予選通過できるはずがない。舐めたことをしてしまい、反省している。ほらやっぱり何にもないやと思ったとき、眼に入ったのは自分の本『赤いドレスをめぐる、あなたと私の