「心的現実」と幻想小説ー小砂川チト『猿の戴冠式』に寄せて
精神分析学を創始したS.フロイトは、無意識の精神過程では、客観的現実が無視され、心的現実に置き換えられているとした。心的現実とは、他人が聞いたら嘘に思えるようなことでも、その人の中では実際に起きたと認識され、そう信じていることをいう。
この「心的現実」という言葉は私の中で、カウンセリングの過程を知る上で重要な現象のひとつ、といった程度の知識だった。ところが、ある日それは私自身に体験された。
その日、友人と言うには深過ぎて、知人と言うには浅過ぎるくらいの「大学のスクーリングで知り合った人」と私は会った。渋谷で映画、たぶん『Mission:Impossible』を観たあと、銀座に向かい、喫茶店に落ち着いた。彼女はとても流暢に話をした。同じ年頃の子どもがいた。子らがちょうど次の年に中学3年生になり高校受験に向かうこともあって、主に進路や勉強のことが話題にのぼっていた、と思う。しかしながら、いつのまにか私は完全な聞き手側になっていた。彼女の不平不満や、理想、希望にとどまらず、私の子どもの取るべき進路について意気揚々と語り始めたのだった。もうすぐ夕方になってしまう、子どもが家に帰ってくる前に自分は帰りたい、そう思っても、話は途切れる間もなかった。それはとても苦痛な時間だった。そんなふうに思っていることを知られたくなくて、いっそう興味を持ったふりを自分に強いて、しゃべり続ける彼女の顔をじっと見ていたところ……変化が起きた!
彼女の顔におかしなことが起きている! 目と目が限りなく近づき、鼻が伸び、顔全体が三日月のように湾曲しているのだ! そんなわけはない、しっかりしろ自分! 私は気をしっかり持って、さらに彼女の顔に視線を張り付けていた。目の前にあるのは人間の顔だ。こんなのは絶対におかしい! 私はあせった……
それから、どうやって彼女の話が終わり、私が家に帰ってきたのかまったく覚えていないのだけれど、それ以降、同じような現象が起きることはないから、きっとあの時間が自分にとってはかなり苦痛なもので、追いつめられた無意識が自意識に作用した結果だったのだろう。そう自己分析した。
「心的現実」が自分に起きたのだった。
私は、この現象は「小説に使える」と思った。それから、自分が書く小説の中に、幻想妄想を積極的に取り入れるようになった。だって、実際あり得るから。追いつめられると、人間の精神状態はいかようにも変化する。補填するためでもあり、逃避するためでもあるだろう。心は繊細であるが、柔軟でもあるのだ。
昨年、小砂川チト『家庭用安心坑夫』を読んだとき、ああ来た!と思った。先にやられた、と舌打ちした。自分がやりたいことを、完璧な形で作り上げた作家には完敗だ。私が書く小説は、足元にも及ばない。落胆。
『家庭用安心坑夫』は、惜しくも受賞を逃したけれど、ふたたび今回の芥川賞に『猿の戴冠式』がノミネートされたのを知ったとき、最初、複雑な思いがした。でも、私はこの作品を心底楽しむことができた。妄想幻想だって、多くの人々に受け入れられると確信した。
今後、自分は引き続き「心的現実」を小説に採用するかどうか、自信をなくしてしまった。あんなふうに完璧に形にできる作家がいるなら、もう自分は書く必要もないのではないかとも思うし。
小砂川作品が世の中に受け入れられ、多くの読者に楽しんでもらえることを願うばかりだ。
万条由衣