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パルプ・フィクション-偶然に宿るもの-

〈観る会(会員2名)〉の開催も6度目を数える。今回の作品は『パルプ・フィクション』である。劇場での鑑賞は初めて。私の大好きな作品のひとつである。1週間の限定公開を逃す訳にはいくまい。

今回の鑑賞までこの映画に対する"好き"は、恐らくであるが、全編を通じて漂うどこか"クール"な空気感によるものだった。身の無いようであるような、それでもやはり薄っぺらい会話劇。作中の出来事に対してどこか無関心を貫いてるような淡々とした構成。それから場面場面を彩る音楽。この作品こそが私の中で"映画"であった。

最初から最後まで文字通り"純粋"にこの映画を観たのは、初めて鑑賞したあの夜以来であっただろう。有無を言わさぬ感激に再び満たされた。とともに、自身の中でまた違った"見方"、いや、本作の"意義"を見い出すことが出来た。

スクリーンの中では序盤にも通ずるレストランでのラストシーンが終わり、エンディングが流れていた。The Lively Onesの『Surf Rider』に身を任せながら、頭の中で渦巻いていたのが"偶然"と"必然"と、それらが作り出す世界。いや、各々の出来事にそれらを割り振り、世界を象る人間というもの。

本作は一見偶然と思える出来事がどうも多い。しかしながらひとつひとつの出来事を顧みると、偶然と呼べないものが殆どであることもまた事実。淡々とした描写や、因果の結び目を緩める時系列の解体によって、それらの境界は曖昧にされているとも感じる。

偶然たる出来事をそのまま偶然として扱う者と、そこに神の介在を見る者。偶然を発端として強迫観念の如き"幸運"を作り出す者。そもそも偶然では無かったのかも知れない。因果律から外れたものなどこの世界にあるのか。因果とは何であるのか。

古来より人間は認識可能な因果関係に当て嵌らない出来事の中に、目に見えない"力"を想定した。それが宗教であったのであろう。宗教と同様に科学でさえこの"偶然"を乗り越えんとするものであったのではないのだろうか。

話の飛躍は慎もう。そう、ひとりひとりの人間が見ている世界は異なる。作中の人物と、神の目をも持つ鑑賞者との関係はその代表たるものだ。そして且つ同じものを眺めたはずである鑑賞者でさえ、その"見方"あるいは"捉え方"は異なる。なんなら同じ人物でさえ二度の鑑賞で寸分の狂いも無き同じ見方など出来まい。

所詮と言ってはなんだが、世界を作るのは認識だ。題名が示すように、所謂ところの"低俗な作り話"でしかないと言えよう。如何に薄っぺらく、安っぽい認識によって作られた世界であろうと、我々は懸命に生きる。あるときは心から笑い、あるときは涙する。鑑賞者が居たとするならば、斯くも滑稽なものはまたとあるまい。

"ラクに"生きようぜ。そんな話。


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